小林一茶は、江戸時代後期に活躍した俳人です。一茶の俳諧は、雪深い柏原の自然や、生き物とくに虫や小動物といったちいさな命をテーマにしたことで有名です。また、生涯に2万句を詠んだと言われるほど、たくさんの句を遺しています。
小さく力の弱い生き物に愛情を注ぐ一茶の句は、松尾芭蕉にも与謝蕪村にも見られなかった特徴から「一茶調」と呼ばれています。身近でわかりやすい言葉づかいも、一茶の魅力を伝える役に立っています。
しかし、一茶の人生は、一茶によって詠まれた俳句とは裏腹に、苦労の多いものでした。母や祖母、父といった身近な親族が相次いで亡くなり、義弟との間で遺産相続争いを繰り広げ、最愛の妻子まで亡くし、死の直前にも火事で家を失いました。
そんな一茶が、力弱くとも懸命に生きる動物たちに眼差しを向けて詠んだ俳句は、読むものに深い感動を与えてくれます。今回は、そんな一茶の苦難の人生とその中で詠まれた俳句についてご紹介します。
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小林一茶とはどんな人?
名前 | 小林弥太郎 |
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俳号 | 小林一茶(他にい橋、菊明、亜堂など) |
誕生日 | 1763年(宝暦13年)5月5日 |
没日 | 1828年(文政10年)1月5日 |
生地 | 信濃国柏原 |
没地 | 信濃国柏原 |
父親 | 小林弥五兵衛 |
母親 | くに、はつ(継母) |
配偶者 | 菊(1814年─1823年) 雪(1824年─1824年) やを(1826年─1828年) |
兄弟 | 仙六(義弟) |
埋葬場所 | 俳諧寺(上水内郡信濃町柏原) |
小林一茶の生涯をハイライト
有名な俳人、小林一茶はどのような人生を送ったのでしょうか。簡単に紹介します。
一茶は1763年5月5日に現在の長野県信濃町の柏原で生まれました。地元の中でも有力な農民の家系でしたが、3歳のころに母が、14歳のころに祖母が亡くなり一茶は江戸へ奉公に出ます。
一茶が江戸に渡って10年間、どのような生活を送っていたのかはわかりませんが、一茶は生涯の共となる「俳諧」に出会います。そして1787年、一茶の最初期の作品が発表。本格的に俳諧の道を進み始めました。
1790年に一茶の師匠・二六庵竹阿が亡くなると、一茶は修行のために西国行脚の旅へ出ました。京阪、四国、九州と7年かけて周り、1800年には旅の成果が認められたのか師匠の庵号「二六庵」を名乗ることが許可されます。
俳人として順調な人生を歩む一茶でしたが、その翌年に父がなくなります。また、人間関係がうまくいかず「二六庵」を名乗ることもできなくなりました。それからは俳人として生計を安定させるために句会を開くのですが、うまくいきませんでした。
1809年、北信濃で俳諧ブームがおき、一茶はこの波に乗るため活発に活動。「一茶社中」を築き、経済基盤を整えます。1813年には父が死んでから続いていた遺産相続問題に決着がつきました。
1814年になると一茶の生活は一変。51歳で親子ほど年の離れた女性と結婚。2年後には長男が生まれます。ところが長男は虚弱体質で発育が悪く、生後28日で亡くなってしまいました。
その後も不幸が続き、続く長女・次男・三男は病気や不幸でみな亡くなってしまいます。さらに妻もこの世を去ってしまいました。そのため、1824年に再婚。しかし、すぐに離婚してしまい、その2年後に再び再婚します。
3度目の結婚相手には子供がいたため、一茶にようやく自分の跡継ぎができました。心配事もなくなり、平穏な生活が訪れるかと思いきや翌年に柏原で大火災が起き、一茶の屋敷は土蔵を残して焼失します。
以降は土蔵で生活し、1827年1月5日に息を引き取りました。
松尾芭蕉との関係とは
小林一茶は、文化文政期(1804年-1830年)に活躍をしており、元禄文化(1688年-1704年)に活躍した松尾芭蕉とは、活動時期が大きく異なっています。しかし、まったく無関係というわけではなく、一茶が属した葛飾派は山口素堂を祖としていました。
素堂は、芭蕉の友人であり、蕉風俳諧の成立に大きく貢献したことで知られています。つまり一茶は、少なくとも形式的には、蕉門俳諧を学んだのでした。
一茶の時代、芭蕉はすでに「俳聖」として俳人から尊崇をあつめる存在であり、寛政5年(1793年)には芭蕉百回忌にあたっていたことから、全国的な俳諧ブームが起こっていました。
一茶も若いころには芭蕉の作風を意識した句を詠んでいます。しかし、そこに安住することなく、あらたに「一茶調」へと作風の飛躍に挑みました。
一茶が今日、芭蕉や蕪村と比肩する俳人として名を遺したのは、芭蕉を「超えるべき壁」と見て新境地を切り開いたためと考えられます。
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小林一茶の故郷はどんなところか
故郷は北信濃の柏原という北国街道沿いの宿場町です。北国街道は、江戸幕府によって整備された街道で、五街道(東海道、中山道、奥州街道、日光街道、甲州街道)につぐ街道であることから、脇街道と呼ばれています。北国街道の役割は大きく二つあり、一つが善光寺参詣、もう一つが佐渡ヶ島から産出する金の輸送でした。
江戸方面から向かう場合、追分駅(現在の長野県北佐久郡軽井沢町)まで中山道をたどり、そこから小諸城下、上田城下、善光寺などを経て柏原へ入ることになります。北国街道という名からもイメージされるとおり、冬季は降雪が多く、一茶の句にも
雪とけて村いっぱいの子どもかな
の句のように、たびたびその光景が詠まれています。
性格は執念深い一面もあった
よく言えば機転が効き、まめで一途な性格ですが、反面独善的で執念深い一面もあわせ持っていたようです。そのことを如実に物語るのは、やはり義弟との遺産相続争いでしょう。
ながく故郷・柏原を離れていた一茶にとって、もとよりこの争いは分が悪いものでした。一茶自身そのことはよく心得ていて、だからこそ味方が必要であることを感じていました。
故郷・柏原の宿場機能問題で江戸における訴訟があった際、当時江戸住みだった一茶は労を厭わず協力しています。これは柏原の有力者と懇意になる絶好の機会でした。
一茶の目論見どおり、遺産相続争いでは一茶に追風が吹いたと思しき展開があります。地元有力者の介入もあり、主張どおり均分相続となった上、満額でないにせよ金子まで勝ち取っています。
一茶の体格は小柄で足が大きかった
一茶は、現代まで残っている彼の肖像画と、ほぼ同じ姿をしていたそうです。
一茶の容姿については、明治32年に一茶の研究をしていた束松露香が、彼をよく知る人物へインタビューした記録が残っています。一茶の死後70年以上が経過している情報のため、真実かどうかはわかりません。
それによると身長は高い方ではなく、やや横に太った体型。低めの身長に対して、頭や手足は大きかったそうです。特に足は、既製品の藁ぐつでは足りずオーダーメイドのものを頼んでいたほどです。
当時の日本人と比べて、相当大きな足だったことがうかがえますね。
現代まで残った一茶の子孫とは
不幸続きで子供に恵まれず、一家存続を果たせぬまま亡くなった一茶ですが、実は彼の死後に生まれた次女が、血を現代までつないでくれていました。
一茶の死後に生まれた「やた」という少女は何事もなく無事に成長し、越後で農業をしていた丸山仙次郎の8男、宇吉を婿にとります。彼女たちは4人の子供に恵まれ、小林家は無事に存続。
現在、小林家の家督は重弥さんが継いでいます。小林一茶の子孫ということで俳句に関わっているのだろうと思いきや、重弥さんは「まったく俳句には興味がないんです」とコメントしています。
豆腐屋を経営したり、勤めに出たりと自由に暮らしています。
死因は中風発作とされている
1828年、一茶は65歳の生涯を閉じました。この死因については中風の発作であるとされています。中風とは、現代でいう脳血管障害つまり「脳卒中とその後遺症」の総称です。一茶は1820年に雪道で転んで中風を発症して以降、何度もこの中風発作を繰り返しています。
その結果、手足の痺れや麻痺が残り、最晩年には言語障害もあったと言われています。
また、病気によるものか、後遺症のもどかしさゆえか、晩年の一茶に対して「言葉が聞き取りにくく、怒りっぽい」との門人の不満が記録に残されています。それでも一茶は、俳諧師として北信濃の門人宅を周り指導を続けていました。一茶の、俳諧に懸ける執念を感じます。
一茶の命日「一茶忌」とは
一茶の命日11月19日は「一茶忌」と呼ばれ、さまざまな行事が一茶記念館で執り行われています。
とはいえ、一茶は知名度はあったのですが俳句界での影響力は弱く、彼の評価が見直されるまで時間がかかりました。そのため、「一茶忌」にイベントが行われるようになるのはずいぶん後になってからです。
一茶の句が評価され始めたのは、明治に入ってからでした。江戸時代の俳人たちの後を継いだものたちによって評価され始め、正岡子規が出版した「俳人一茶」により、江戸時代を代表する俳人として数えられるようになります。
そして、1907年に菩提寺や明専寺で「一茶忌」のイベントのきっかけとなる、一茶翁追悼八十年法要が行われました。終戦後に一茶記念館が建設されると、昭和21年に「一茶忌」のイベントが正式に行われるようになります。
以降は地元の行事として定着し、今では多くの人に親しまれるイベントとなりました。