「白洲次郎って誰?どんな人?」
「名前は聞いたことあるけど何した人なの?」
このような疑問を抱いている方もいるでしょう。白洲次郎は太平洋戦争後、アメリカの占領下にあった日本を立て直すために力を尽くした人です。日本国憲法を作りあげることにも関わりましたし、占領を終わらせて講和条約を結び、日本が独立国家になるために地道に交渉を続けました。
そのため、白洲次郎の人生は近年になっても人々の注目を集め、何度もドラマや映画に登場しています。確かに彼の日本人離れした容姿と立ち居振る舞いは、ドラマや映画の登場人物にふさわしいものです。しかし、彼の本当の価値はその華やかな外見ではありません。
白洲次郎には、戦後の日本を復興させ、諸外国と同等の立場に押し上げたという大きな功績があります。
今回は次郎の生き方のみならず、個性的な文字も、ファッションセンスも大好きで、長年憧れて続けている私が、白洲次郎の本当の価値を皆さんにお届けします。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
白洲次郎とはどんな人?
名前 | 白洲次郎 |
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誕生日 | 1902年2月17日 |
没日 | 1985年11月28日 |
生地 | 兵庫県武庫郡精道村 (現在の芦屋市) |
没地 | 前田外科病院 (東京都港区赤坂) |
配偶者 | 白洲正子 |
埋葬場所 | 清涼山心月院 (兵庫県三田市西山2-4-1) |
身長 | 175cm |
子供 | 春正(1931年生) 兼正(1938年生) 桂子(1940年生) |
あだ名 | オイリー・ボーイ 風の男 昭和のラスプーチン |
白洲次郎の生涯をハイライト
白洲次郎は1902年、現在の兵庫県芦屋市に生まれました。白洲家はもともと三田藩の士族でしたが、次郎が生まれたときには貿易商を生業としていました。
1919年には英国のケンブリッジ大学に留学、1928年に日本に一時帰国をしたときに、妻の正子と知り合い、結婚へと発展します。
第二次世界大戦後、次郎は政治家として活躍、日本の復興の後押しをします。政治家を引退した後は、実業家として活躍しますが、それもまた日本の復興のためでした。
1985年、次郎は妻との旅行の後に体調を崩し入院しますが、そのときは手のつけられない有様だったようです。入院してから1カ月も経たないうちにあっけなくこの世を去りました。享年83歳でした。
やるべきことを心得て、名誉は求めなかった次郎
次郎の信条として有名なのが「ノブレス・オブリージュ」です。これは「高貴な者の義務」と訳される言葉ですが、次郎風に言えば、「恵まれて生まれた人間は心して生きよ」ということです。ともすると上から目線のように聞こえますがそうではなく、各々その立場の人がやるべきことをやらなければならないと次郎は考えていました。
戦後、アメリカに占領されていた日本のために奔走した次郎を支えたのは、ノブレス・オブリージュの精神で、自分がやるべきことと考えて復興の後押しをしたのでしょう。
それだけの働きをしたのにもかかわらず、次郎は一切名誉や地位を求めませんでした。晩年は手元の資料をほぼ焼き捨て、自分については「葬式無用 戒名不用」と遺言を残していたそうです。
先を見越せる目を持っていた次郎
次郎は常に時代の先を読んでいたと言われます。太平洋戦争開戦前から、戦争は避けられず、東京は空襲に見舞われ、アメリカに負けるだろうと予言していました。またGHQの方針も、巧みな情報収集と欧米流の思考パターンの習得で予想がつけられたため、事前に効果的な方策を検討できました。
次郎は常日頃、自分で考えることが大切だと述べていました。先を見越せたのは、自分であらゆる状況を考え、必要な情報を手に入れ、それを元に考え抜く癖があったからこそ出来たことだったのでしょう。
白洲次郎が愛した女性
次郎は樺山正子という伯爵家の娘を妻に迎えました。出自はお嬢様ですが、自分の意志を明確に持って生きているところなど次郎との共通点が多くあり、似た者夫婦と言われます。
正子は出産後、文筆家として名を馳せました。次郎はそんな正子の活躍が嬉しかったようで、友人たちにさりげなく自慢していたようです。
夫婦円満の秘訣は「一緒にいないこと」と公言していましたが、次郎は常に正子のことを気にかけ、取材費用を負担したり、時間があれば送り迎えをしてあげたり、正子が付き合いでお酒を飲みすぎないよう店に秘書を遣わすこともありました。
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次郎の子どもや孫はこんな人
次郎は妻・正子との間に、二男一女をもうけました。
長男の春正は元東宝東和株式会社の二代目社長を務めた人物です。次男の兼正は小林秀雄の長女・明子と結婚し、長男をもうけました。
この長男(次郎にとっての孫)が白洲信哉で、細川護熙元総理の公設秘書を務めました。現在はアートプロデューサー、エッセイストとして活躍しています。
末っ子の長女・桂子は町田市の武相荘の館長を務めています。かつて次郎と正子が暮らした邸宅「武相荘」は、現在記念館・資料館として一般公開されています。
白洲次郎が夫婦で暮らした「武相荘」とは
武相荘は1942年に次郎と正子が、現在の東京都町田市に購入した古い農家のことです。次郎と正子は、戦況の悪化で空襲や食糧難が起こることを予測しており、農地がついた農家を探していたそうです。
自宅に武相荘と名付けたのは次郎でした。新しい自宅が武州と相模の間にあったことと無愛想をかけた、彼流のユーモアだったと思われます。
武相荘の敷地面積は2千坪と言われており、次郎と正子は終戦まで自給自足の農民生活を送ったと言います。2人はそれぞれ亡くなるまで、武相荘を住まいとしました。
生き様を表した白洲次郎のファッション
お洒落はカスタムあっての着崩しであり、生き様を投影すると次郎は考えていました。正子は結婚当時、食事の時に次郎から「ネクタイを締めないで失礼」と言われたと書き残しています。着ているもので相手の印象も変わるというのが信条で、常に一流品を身につけていました。
ロンドンの老舗テーラー “ヘンリー・プール” を贔屓にしてスーツを誂え、世界最古の帽子店と言われるロックの帽子や、ロレックスの腕時計、ダンヒルのライターとシガレットケース、エルメスのアタッシュケース、ルイ・ヴィトンのトランクを愛用しました。
次郎といえば、ジーンズにTシャツ姿の写真が有名です。普段着としてジーンズは便利なため、渡米する際に機内で次郎はジーンズを履いていたという話もあります。ジーンズを日本人で初めて履いたのが次郎であったかはさておき、見事な着こなしっぷりだったというのは写真を見る限り納得です。
白洲次郎と似た者同士だった?「吉田茂」
次郎は吉田茂と24歳もの年齢差がありますが、気のおけない関係であったといいます。友達に忠実で、純情で涙もろく、頑固で、自分の命に対する恐怖感がないというのが次郎の “吉田茂” 評ですが、どれも次郎の性格にそっくりで、どうやら二人は似た者同士だったからこそウマが合ったようです。
白洲次郎が愛したものたち
家では大音量で時代劇を見ていました。水戸黄門などの勧善懲悪ものは、次郎の信条と合致していたからこそ好きだったのでしょう。イギリスのシングルモルトを愛飲していましたが、酒に呑まれるのはジェントルマンではないとして、人前で乱れることはなかったようです。
紀ノ国屋のイタリアン・ローストのコーヒーが好きで、いつも買い求めていました。また、80歳ごろまでハンドルを握り続けるほど車が大好きで、最後に乗っていたのはポルシェ911Sです。
白洲次郎の病・直接の死因は?
1985年に妻の正子と旅行をした後、次郎は体調を崩して入院しました。その時の病名は胃潰瘍でしたが、それ以外にも様々な内臓疾患があり、手の施しようがないほどひどい状態だったようです。
胃潰瘍は胃液で自分の胃が傷つき、腹痛などが起きる病気です。比較的よくある病気ですが、放置して悪化してしまうと、傷は深くなり、胃を貫いてしまうこともあります。そうなると腹膜炎などの原因になります。
次郎の場合、胃潰瘍はかなり悪化していたと思われます。11月に入院した次郎はその月のうちに亡くなっていますが、直接の死因は急性肺炎だったと言うことです。
急性肺炎は普通の肺炎よりも進行が早いと言われており、すでに病で免疫力が落ちていた次郎がかかっても不思議ではありませんでした。