白洲次郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や子孫、ファッションなども紹介】

白洲次郎の功績

功績1「貿易庁長官として汚職根絶のために辣腕を振るった」

現在の経済産業省庁舎
出典:Wikipedia

第二次世界大戦後、貿易庁では賄賂が横行し、汚職の温床になっていました。これを一掃したのが白洲次郎です。

1945年、貿易庁は商工省の外局として設立され、白洲次郎は貿易庁の4代目長官に就任しました。当時日本は占領国であり、貿易は最低限度しか認められていなかったため、日本の貿易をまとめて取り扱うために設置されたのが貿易庁でした。

このため、何とか貿易をしたかった日本企業から、貿易庁には多くの賄賂が届けられたのです。

1950年に民間の企業が輸出をすることに制限がなくなると、貿易を効率的に行うために、商工省は通商産業省に改編されました。貿易庁の業務も通産省に組み込まれたために、貿易庁は廃止になりました。この通商産業省のシステムを考えたのが白洲次郎で、現在も経済産業省と名前を変えて継続しています。

次郎は汚職を一掃しただけでなく、貿易をすることで日本の国の経済的自立を目指しました。彼の働きがなければ、この後の日本の経済的な発展もなかったかもしれません。

功績2「サンフランシスコ講和会議で日本の誇りを守った」

サンフランシスコ平和条約に署名しているところ
出典:Wikipedia

白洲次郎は日本の戦争にけりをつけ、その尊厳を守りました。

1951年、サンフランシスコ講和会議で講和条約が交わされたことで、国際法上日本と連合国の戦争状態が終わりを告げたのです。この講和会議に全権団顧問として随行したのが白洲次郎でした。

当時総理大臣だった吉田茂が当初は英語でスピーチする予定でしたが、これを聞いて激怒したのが白洲次郎でした。たとえ敗戦国であっても尊厳があり、戦勝国と同等の立場であるというのが次郎の考えでした。

スピーチは日本語で書き直され、奄美群島、沖縄、小笠原諸島の返還も盛り込まれました。敗戦国にも尊厳がある、これを忘れなかったからこそ、その後の日本は復興したのです。

功績3「政治家引退後、日本の復興のために実業家として活躍した」

次郎は奥只見ダムの建設を推進した
出典:Wikipedia

白洲次郎は政界引退後は実業家として、日本の復興を後押ししました。具体的には電力を確保するために、東北電力の初代会長として、奥只見ダムの建設を推進しました。

奥只見ダムは、福島県と新潟県にまたがる只見川のもっとも上流に建設された発電用ダムの名称です。

只見川は豪雪地帯の山間部を流れているため、1年を通して水量が豊富でした。このため水力発電に適していることはわかっていましたが、戦後日本の国力は弱っていた上にGHQの指示で日本の電力事業を請け負っていた日本発送電は9つに解体されてしまい(東北電力はそのうちの1つでした)、ダム建設ができるはずはなかったのです。

国が本格的に電力確保に乗り出し、奥只見ダムの建設が決定するまでの間を、東北電力の会長として次郎がつないだと言えます。

白洲次郎の名言

異色の会長だった次郎(東北電力時代)
出典:旧白洲邸 武相荘

人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人間に積極的に嫌われるように努力しないと、ちゃんとした仕事はできねえぞ。

この言葉からは次郎の覚悟が伝わってきます。次郎の仕事は、敗戦国という地位にある日本のプライドを守り、毅然とした態度で世界の舞台へ復活させることでした。もし、彼が人に好かれることだけを考えて、自分の仕事をしなかったら、今の日本はなかったでしょう。

すみませんというのは駄目だ。Say Thank You !

これは現代の私たちにも耳が痛い言葉です。日本人はありがとうと言うべきときにも、「すみません」が出てしまいます。戦後の日本人はもっとそうだったことでしょう。次郎はすべての日本人にプライドを持って欲しかったのかもしれません。

私は「戦後」というものは、一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて「戦後」は終わったと自己満足してもよかろう。

1950年代、もはや戦後ではないと盛んに言われるようになりました。もしかすると次郎はその風潮に危機感を抱いたのかもしれません。戦後70年以上経った現在でも、憲法とデモクラシーは私たちのものになったのか、危ういところがあります。次郎が今の世の中を見たら、何と言うでしょうか。

外国なんていう意識がなくなれば戦争もなくなるかも知れぬ。そのかわり、あった時にはバタン、キューと一挙に全滅に突進するのかも知れぬ。世界各国がお互いのことをなるたけ早く、よく、知り合わないと科学の進歩に間に合わないかも知れぬ。もっともっと外国のことを知ろうという意欲を起すことだ。殊にその外国人の立場に立ってその外国を知ることだ。

新型コロナウイルスが世界を駆け巡っている現在、次郎のこの言葉がやけに現実味を帯びています。もはや滅びるときはすべての国が一緒だと思っても良いでしょう。次郎には確かに先見性があり、それ故に危機感も抱いたのでしょう。私たちはもっと次郎の言葉から学んでも良いのではないでしょうか。

白洲次郎の人物相関図は?

白洲次郎にまつわる逸話

逸話1「白洲次郎はイケメンだった?」

白須次郎・正子夫妻

白洲次郎イケメン説はあちこちで聞かれますが、「特に美男子ではない」と正子は言っています。ドラマで演じた伊勢谷友介も、「お世辞にもかっこいいとは言えない」と。しかしながら二人とも、ただし、と注釈がつきます。彼の生き方や芯の部分はとてもカッコ良いと。

180cm近い長身とファッションセンスも、モテた理由だったとは思います。また、啖呵を切るような場面があったかと思えば、繊細な一面を持つギャップも女性を虜にしたことでしょう。正子への英文の手紙には必ず “Love” と添えていますが、今でもこんなことが出来る日本人男性は少ないと思います。

実際、次郎は多くの女性にモテたようです。次郎の言う “モテるための心得” があります。「席に着いた女性には万遍なく話しかけ、一人と話し込むな」「金払いは綺麗に」「言い寄られたら即座に断れ」見事なものですね。

逸話2「白洲次郎はハーフだったのか?」

イギリスとのハーフ説があった?

残されている次郎の写真があまりにカッコよすぎるため、次郎はハーフなのではないかという噂もありますが、両親は日本人です。

次郎ハーフ説の理由は、次郎が高身長で日本人離れした体格であること、英語が流暢であること、ケンブリッジを卒業していること、イギリス留学時代に一時学費を肩代わりしていた人がいて、次郎はその息子ではないかと思われているといった事情からきているようです。

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