白洲次郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や子孫、ファッションなども紹介】

白洲次郎の生涯年表

1902〜1928年 – 1〜26歳「青年期の次郎」

幼少期の家族写真

貿易商白洲文平の次男

次郎は1902年、白洲文平と芳子の次男として生まれました。文平は綿の貿易で莫大な富を築いており、次郎は裕福な家庭環境で育ちます。

次郎は8歳から15歳ごろまで多くの病と闘いました。筋炎にかかった時には手術も受けています。何度も生死を彷徨いましたが、母の献身的な看病で命を取り留めました。それもあり次郎は終生母を一番大事に思っていたそうです。

神戸中学校時代

1914年、秀才が集まる学校として知られていた兵庫県立第一神戸中学校に入学します。評論家として後年知られるようになる河上徹太郎は同級生でした。家に英語教師が寄宿していてネイティヴな英語を身につけていたようで、授業中洋書を読み耽っては先生に叱られていたといいます。

オイリー・ボーイというあだ名があるほど車好きな次郎ですが、この頃からアメリカ車を乗り回していました。また、宝塚少女歌劇団の年上の女性と恋人関係にあったとも言われています。父である文平の羽振りが良かったこともあり、法外な小遣いを与えられ、傲慢にならざるを得ない環境でした。

“白洲次郎” を形作ったイギリス留学

ケンブリッジ大学クレアカレッジ

1919年、神戸一中を卒業後、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学し中世史を専攻します。レーシングカーを所有してレースに夢中になったほか、ラグビーにも親しみます。生涯の友となる七世ストラットフォード伯爵ロバート・セシル・ビング(愛称ロビン)に出会ったのもこの頃です。

このイギリスでの生活で、次郎はプリンシプルやノブレス・オブリージュといった精神を学び、自分の信条とするようになります。ここで “白洲次郎” という人間が出来上がったと言って過言ではないでしょう。

次郎は大学院にも進みました。ケンブリッジで先生になり、一生を過ごすつもりだったのです。しかし1928年、日本で金融恐慌が起こり、父の経営していた白洲商店が倒産し、次郎は帰国せざるを得ませんでした。

1929〜1940年 – 27〜38歳「次郎の人生を彩った人々との出会い」

白洲次郎・正子夫妻

次郎の “究極の理想” であった正子

1928年、次郎と同様、金融恐慌の煽りを受けて不本意にも海外の生活を断念していた正子と出会います。互いに一目で気に入り、活動写真を見に行くなどのデートを重ね、英文のラブレターを毎日のようにやりとりしていたそうです。

婚約に際し、次郎は正子に「君こそ僕の発想の源、究極の理想だ」というメッセージを贈りました。出会った翌年に結婚します。父から結婚祝いでランチア・ラムダを贈られ、京都で挙げた結婚式後にはそれに乗って東京へ戻ったことが新婚旅行となりました。

ビジネスマンとして働く

当時、次郎はジャパン・アドヴァタイザーという英字新聞社に勤めていました。しかしその稼ぎだけでは家族を養えないため、セール商会という貿易会社、その後は日本食糧工業(日本水産の前身)の取締役に就任します。日本にいるのは一年のうち四ヶ月ほどで、海外を飛び回る生活でした。

政治家との繋がり

正子の祖父・樺山資紀

正子が薩摩藩軍人樺山資紀と川村純義の孫であったことから、大久保利通の息子、牧野伸顕との交流が始まりました。牧野伸顕の娘を妻に迎えていた吉田茂とは、1936年、吉田が駐英大使になった頃から親密になります。

幼馴染の牛場友彦が近衛文麿の秘書官を務めていた関係で、次郎は近衛文麿の政策ブレーンにもなりました。

アメリカとの戦争を予言

1938年ごろから次郎は日米戦争は起きるであろうと予言していました。そして、東京は焼け野原になり、日本は負けるだろうと周囲の人々に話していました。

次郎はそのための対処として、吉田茂を中心とする反戦グループ「ヨハンセングループ」の一員として活動を始めるほか、東京郊外に田や畑のある農家を探すようになります。戦争が拡大したら東京は空襲を受けるだろうことや、食糧難になることを予想したのです。

1941〜1945年 – 39〜43歳「カントリー・ジェントルマン」

武相荘

開戦

1941年12月8日に太平洋戦争が始まると水産統制令が発令され、次郎の日本水産株式会社が分割されることになります。それに伴って次郎は辞職、南多摩郡鶴川村能ヶ谷に茅葺屋根の家を買いました。武蔵国と相模国の国境で、”無愛想”という意味をもじって「武相荘」と名付けます。

イギリスでは、地方に住みながらも政治に目を光らせ、何かあれば中央へ出て行き、彼らの政治を正す人間をカントリー・ジェントルマンと呼びます。武相荘は疎開のために必要だったとはいえ、次郎はここでカントリー・ジェントルマンを目指したのです。

武相荘での生活

1943年に東京で空襲があり、それを機に次郎は家族で鶴川村に疎開しました。ここで地元の人に農業を一から教えてもらい、次郎は畑仕事に勤しむようになりました。自給自足はおろか、供出するほど多くの作物を育てるまでになります。

また、ありあわせの板や竹で調理道具や家具を作ることもありました。以後、大工仕事は次郎の道楽の一つになります。1945年には河上徹太郎夫妻が疎開してきます。納屋にグランドピアノが持ち込まれ、連弾を楽しむこともありました。

そんな生活をしている次郎でしたが、不思議と中央の情報は入ってきていたようで、一般には報道されなかったミッドウエー海戦の敗北も知っていました。極め付けはポツダム宣言の受諾です。大っぴらには話しませんでしたが、当時の様子から次郎は事前に知っていただろうと息子は述懐しています。

1945年 – 43歳「次郎の戦いが始まる」

GHQのマッカーサーと昭和天皇

ノブレス・オブリージュ

次郎の生き方を語る上で欠かせない精神の一つが “ノブレス・オブリージュ” です。イギリスで次郎は「恵まれて生まれた人間は心して生きよ」というこの精神を学び、実践に努めていました。

1945年8月15日、日本は敗戦を迎えます。進駐軍は多くの建物を接収、日本人の立ち入りを禁じます。

戦争には負けたものの、奴隷になったわけではないと思っていた次郎は、今こそ自分が日本に必要とされている時と感じ、当時外務大臣を務めていた吉田茂の元に通うようになります。”ノブレス・オブリージュ” の精神ゆえの行動でした。

そして終戦連絡中央事務局という、政府とGHQの間の折衝を行うために新設された役所の参与に任命されます。占領期間中、次郎はGHQ当局との交渉に当たることになるのです。

ビルマの首相バー・モウ

以後、政府内で次郎が仕事をしやすくなったきっかけは、バー・モウ事件の幕引きを行ったことでした。バー・モウとは日本軍政下にあったビルマの首相で、終戦とともに日本への亡命を希望していました。当初、亡命を受け入れて潜伏させていましたが、GHQが嗅ぎつけ、出頭を命じられます。

バー・モウは自分の出国を長引かせようと、日本国内には反連合国運動をしている巨大な地下組織があるとGHQに嘘の告白をしたのです。慌てたGHQは関係者を厳しい尋問にかけるだけでなく、これが事実なら、吉田外相の辞任のみならず、天皇制も存続できなくなるかもしれないと脅しました。

次郎はGHQとの連携を重視していたため、GHQの外務省への捜索がいつ行われるのかも事前に知ることができ、その情報を外務省に入れたことで事件はこと無きを得ることになりました。もとより事実無根の話であったので、GHQも冷静になればことの真相は明らかでした。

近衛文麿の自殺

近衛文麿

10月、近衛文麿はマッカーサーから、憲法改正に取り組むよう指示されます。しかし日本の戦犯問題の処理についてアメリカの方針が固まったことから、話が変わりました。11月1日、近衛の憲法改正はGHQと関わりないという発表がなされるのです。背景にあったのは近衛の戦争責任問題でした。

次郎はアメリカの世論を把握し、近衛の戦犯指名を予期していました。そこでその前に憲法の改正草案を奏上するべきだと急かし、開戦へ至った教訓を盛り込んだ憲法案を作成します。しかしGHQはその案を一蹴、12月6日、近衛文麿の戦犯指名が宣告されます。近衛は12月15日、服毒自殺しました。

次郎は、公卿らしい弱気な一面もありつつも、ずば抜けた頭脳明晰さを持つ近衛を認めていました。また、戦勝国たる連合軍が行う戦争裁判についても、勝者が敗者に対する復讐心でやっているもので不正義だと考えていました。次郎は、近衛を見殺しにしたマッカーサーに怒りを覚えていたことでしょう。

マッカーサーに激怒

クリスマスに次郎は、天皇から預かったプレゼントをマッカーサーに届けます。するとマッカーサーはプレゼントをその辺りに置いておけと答えたため、次郎は激怒して言い放ちました。

「これは天皇陛下から足下への贈り物である。天皇陛下はこの国を統べてこられた。たとえ敗戦国の統治者からの贈り物とはいえ、それなりの礼を尽くして受け取られるのが原則というものではないか。にもかかわらず、その辺に置けとは何事であろう!」

相手がどんな身分の人であろうと、筋を通すという次郎らしいエピソードとして有名です。

1946年 – 44歳「日本国憲法誕生」

憲法草案がスクープされた新聞記事

次郎の危惧が的中

憲法草案については、商法学者として知られる松本烝治が国務大臣として幣原喜重郎内閣に入閣し、作成にあたっていました。松本は、天皇大権を残さないと国民に殺されると言って保守的な憲法草案を作ろうとしていました。しかし次郎は、これではGHQが納得するはずがないと危惧します。

2月1日、試案の一部がスクープされて新聞に掲載されてしまいます。民主化憲法とはかけ離れた内容のものであったことにGHQは驚き、これでは日本に任せておけないと、改正案を自ら作成するのです。

ジープ・ウェイ・レター

「ジープ・ウェイ・レター」

2月13日、GHQ作成の憲法草案が日本政府に手渡されます。天皇制の存続、戦争放棄の条項など、評価する内容も盛り込まれていました。しかし次郎は不満でした。憲法改正の作業は全てGHQのペースで進み、異議もほとんど聞き入れられなかったからです。

2月15日、次郎はGHQ宛に私信を送りました。松本案もGHQ案も、目指す目的地は同じであるものの、その道筋は日本とアメリカでは「陸路(ジープウェイ)」と「空路」のごとく違うと比喩で説明したため、”ジープ・ウェイ・レター” と呼ばれています。松本案の再考を求めたのです。

しかし受け入れられず、GHQ草案を採るように説得されてしまいます。結局3月6日、日本政府の憲法改正案として公表され、枢密院での諮詢を経て8月24日、帝国議会で採択されました。

憲法草案の後日談

3月7日の次郎の手記にはこう書かれています。「『今に見てゐろ』ト云フ気持抑ヘ切レズ。ヒソカニ涙ス。」次郎は死を悟った晩年、手持ちの資料はほとんど焼却していしまいましたが、唯一憲法草案だけは金庫に残されていました。これだけを残しているあたりに、次郎の無念さが伝わってきます。

ちなみに、日本国憲法では天皇を日本国の “象徴” としていますが、この “象徴” という言葉は、GHQの憲法草案にあった “symbol” を訳す際に次郎達が辞書で引いて見つけた言葉でした。

「後日学識高き人々がそもそも象徴とは何ぞやと大論戦を展開しておられるたびごとに、私は苦笑を禁じ得なかったことを付け加えておく。」次郎はこう書き残しています。

1948年 – 46歳「貿易庁長官」

第2次吉田内閣

商工省の改組

1947年5月、吉田茂が総辞職するに伴って次郎も終戦連絡事務局から身を引いていましたが、1948年10月に第二次吉田内閣が成立すると、マッカーサーの指名で次郎は貿易庁長官に任命されます。

占領下の日本は、海外への輸出には政府のライセンスが必要でした。このライセンスを巡って貿易庁には贈収賄が後を絶ちませんでした。

次郎は、汚職根絶と共に、輸出産業を推し進めて外貨を獲得し、経済成長につなげることを考え、商工省で切れ者と評判だった永山時雄を貿易課長に据え、活動し始めます。

1949年 – 47歳「通商産業省の誕生」

毎日新聞の記者だった安部晋太郎

アメリカの先手を打つ

貿易庁の汚職は根絶するまでに至らず、次郎は貿易庁の廃止を決めます。1949年2月8日、通商産業省設置法案が閣議決定されました。

この頃の新聞記者は、ネタを得ようと、こぞって次郎を追いかけました。のちに政財界で活躍する人物たちが集まり、当時毎日新聞の記者だった安倍晋三首相の父、安倍晋太郎もその一人です。

注目すべきは、商工省の改組が、ドッジ・ラインと呼ばれる財政金融政策の前に行われたことです。次郎はアメリカが日本経済の自立を求めてくることや、単一為替レートの設定を迫ってくることを予期し、その対策として通商産業省を設置したと考えられます。次郎の先見性がわかる一件です。

1950年 – 48歳「平和条約交渉」

池田勇人

池田ミッション

吉田茂は早期講和を望んでいたので、交渉のため次郎を特使に任命し、蔵相池田勇人と秘書官であった宮沢喜一と共に渡米させます。吉田は池田を通じて、米軍基地存続を認めてでも早期独立を希望していることをアメリカに伝えました。

結局この案が通り、日米安保条約が結ばれる一方でサンフランシスコ講和条約が締結されます。

ただ、次郎は別の案を持っていました。講和条約は結ばず、アメリカだけの宣言において国家主権を日本に戻し、沖縄も基地も返還してもらうという案です。しかしアメリカ以外の国がこれに納得するのかという問題があり、次郎の案は採用されませんでした。

「なぜもっと具体的に数字で、というより、自分で防備をやったらいくら税金が増えると国民に説明しないのか。税金が増えて、我々の生活が今よりぐっと苦しくなっても、なお外国の軍隊を国内に駐留させるよりもいいというのが国民の総意なら、安保など解消すべし。」

後年、安保をめぐる議論が起こると、次郎はこのように述べています。講和条約締結の際、もしかしたら米軍基地抜きの日本の独立が実現していたかもしれないということは、知っておいてもいいでしょう。

警察予備隊

警察予備隊

1950年、朝鮮戦争が勃発します。アメリカにとって日本は、地理的に重要な軍事拠点でした。そのため、米軍基地の存続は当然とされます。さらには日本から軍事力を補おうと、アメリカは警察予備隊の創設を要請したのです。

吉田は再軍備には反対でした。しかし、占領の長期化を避けるためには仕方がないと苦渋の決断であったようです。

1951年 – 49歳「プリンシプルを通した講和条約」

吉田茂(右)と白洲次郎

ダレスとの会談

次郎は再度渡米します。警察予備隊の増強を求めたアメリカに対し、憲法で戦力放棄を謳っておいて、軍備増強とは何事かと詰め寄ります。さらに、沖縄と小笠原諸島の返還は絶対で、これが成されなければ日本人は皆アメリカを敵視する、日本が共産主義化しても知らないぞと脅したのです。

サンフランシスコ講和条約

吉田茂が首席全権委員、次郎は講和会議首席全権顧問として講和会議に出席し、サンフランシスコ講和条約は締結されました。次郎は吉田茂の講和条約受諾演説に大きくかかわります。

当初は英語で書かれていた原稿ですが、講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できると考えた次郎の指示で、内容には沖縄の施政権の早期返還などが盛り込こまれ、和紙に日本語で毛筆を使って書かれました。

後に “吉田のトイレットペーパー” と報道されたこの原稿のおかげで、日本は尊厳を失わずに済んだのです。

1951〜1959年 – 49〜57歳「東北電力会長」

現在の東北電力本店ビル

電気事業の再編成

日本の復興に安定的な電力供給は必須でした。戦時中は国策会社が行っていた電力発電と供給を、戦後は九つの電力会社に担わせます。1951年、次郎はそのうちの一つである東北電力の会長に就任し、日本最大の水力資源と言われた只見川水系の開発に取り組むことになります。

逸話だらけの会長時代

東北電力の会長職に就いていても、次郎はプリンプルを貫きます。過酷な作業をする人たちのことを常に第一に考えました。

作業員の服は、目立つように上下真っ赤のつなぎ服を着せ、ダムの建設が始まれば、ヘルメットにサングラス、長靴姿で自ら運転して見回りをしました。慰労会があれば顔を出し、現場の人たちに感謝の気持ちを込めて酌をして回り、その子供達にはチョコレートやキャンディなどの土産を渡しました。

東北電力の東京事務所でも次郎流でした。喫煙所を設けて仕事中は禁煙にし、女子社員のお茶配りを禁止させます。株主総会では株主の意見を聴く役員が壇上に上がるのはおかしいと壇を撤去させ、株主総会ではあくまで “株主の会社” について話すという心づもりをさせました。

只見川の電源開発も一段落し、電力の供給も安定し始めたところで、次郎は東北電力会長職を退任します。1959年4月10日のことでした。これ以後、次郎は戦時中の “カントリー・ジェントルマン” の姿に戻ります。日中は農作業、夕方になるとベランダで好きなお酒を嗜みました。

1976年 – 74歳「軽井沢ゴルフ倶楽部」

軽井沢ゴルフ倶楽部

イギリス風の倶楽部を作る

次郎が老年期に熱心に取り組んだのが「軽井沢ゴルフ倶楽部」の運営でした。1976年2月に常務理事に就任、1982年には理事長になります。マナーを厳守させ、イギリス風の倶楽部にしようと様々な改革を行いました。

“Play fast” が信条で、人に迷惑をかけないのがエチケットだと公言していました。会員の行儀に対しては口うるさく言い、総理大臣であろうと規則は守らせました。キャディーなど従業員にはとても優しく、彼らに文句を言ったり指図をする人間を次郎は決して許しませんでした。

1984年 – 82歳「親友との別れ」

白州次郎とロビン

ロビンの死去

次郎のケンブリッジ時代の親友であるロビンとは、戦争を挟んで後も変わらずに交誼を続けていました。次郎が家で飲むスコッチは、ロビンから贈られてきているものでした。1980年に次郎は最後のイギリス旅行をしていますが、二人が直接言葉を交わしたのはこれが最後となります。

1984年、ロビンは他界します。次郎の意気消沈している姿を、家族は心配しながら見守りました。

1985年 – 83歳「珍しく夫婦で旅行」

白洲次郎・正子夫妻

秋の旅

11月、次郎は珍しく正子を旅行に誘います。目的地へまっすぐ向かい、終わればまっすぐ帰宅する次郎と、気の向くまま彷徨うように旅をする正子では旅のスタイルが違うため、今までは旅行へ行ってもお互いに不満ばかり言っていたようですが、この旅だけは二人とも楽しかったと繰り返します。

そして今度は京都へ行こうと言い出しました。これまた楽しい日々だったようで、娘に土産話を聞かせています。

次郎の千秋楽

京都から帰って間もなく、次郎は吐血します。テレビで相撲を見ながら、「相撲も千秋楽、おれも千秋楽」と呟きました。診察の結果、腎臓が悪く、胃潰瘍に心臓肥大とすでに手のつくしようがない状態でした。

看護師さんに、「白洲さんは右利きですか?」と問われ、「右利きです。でも夜は左・・・( “左利き” とは酒飲みのこと)」と答えたのが最後の言葉でした。

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