三島由紀夫とはどんな人?生涯&年表まとめ【代表作品や死因、功績も紹介】

三島由紀夫の年表

1925年 – 0歳「大正末年東京に生まれる」

大正15年頃の東京・銀座
出典:MAG2NEWS

平岡家の長男として生まれる

三島由紀夫(本名:平岡公威)は、農商務省に勤務する父平岡梓(あずさ)と母・倭文重(しずえ)の長男として生まれました。幼少期の公威は、独特な環境で育ちました。

公威は祖母の夏子によって、母から引き離されるように育てられたのです。公威の曽祖父つまり夏子の父は大審院判事、曽祖母つまり夏子の母は水戸支藩主松平頼位の三女でした。夏子は母の縁故で有栖川宮熾仁親王の屋敷に行儀見習いに上がったこともあり、気位が高く専制的な存在として家族から恐れられていました。

公威が生まれた当時、夏子は49歳でした。家の中で絶対的な存在だった夏子が、まだ乳飲み子の公威を母から取り上げ、自分の部屋に囲い込んだため、公威と両親の結びつきは遠くなったのでした。

女の子のような幼年時代

学校に上がる前の公威は、常に夏子の部屋で過ごし、夏子が選んだ年上の女の子を相手にままごとや折り紙をするような生活を送っていました。そのため女言葉を使うようになっていたということです。

また祖母は歌舞伎・小説を好み、その影響で公威は早くから巌谷小波、鈴木三重吉、小川未明の童話に親しみました。

公威が5歳のとき弟の千之(ちゆき)が生まれますが、公威とは異なり千之は母の元で普通に育てられます。このころ母の倭文重は「この環境では普通の人間として育つ筈がない・・・」とノートに書き記すほど、祖母に囲い込まれた異常な環境で公威は育ったのでした。

1931年 – 6歳「学習院初等科に入学する」

現在の学習院初等科
出典:Wikipedia

学習院初等科に入学し祖母の拘束から逃れる

公威は学習院初等科に入学しました。当時の学習院は華族中心の学校だったため、平民は紹介者がなくては入学できませんでした。平岡家は平民だったため、大名華族の系譜にある祖母の意向と縁故で学習院入学が決まったと思われます。

学習院への通学が始まり、登校には母が付き添うようになりました。そのおかげでようやく祖母に気兼ねせず、母子二人の時間を持つことができるようになりました。三島は後にこう振り返っています。

母親は、私にとって、こっそり逢引きする相手のようなもの、ひそかな、人知れぬ恋人のようなものであった。

2・26事件

1936年、公威11歳の2月、2.26事件が起こりました。授業は1時間めで休講となり、「学校からの帰り道でいかなることに会おうとも学習院学生たる誇りを忘れてはなりません」という訓示を受けてから、雪の道を帰ったということです。

学習院初等科卒業

1937年3月、公威は学習院初等科卒業し、4月学習院中等科に進学しました。このころから歌舞伎を観劇し、記録ノートをとって舞台の様子をスケッチしたり、批評を書きつけていました。

またこの年、学習院の「輔仁会雑誌」に詩「秋二篇」を投稿しました。これ以前にも「輔仁会雑誌」に投稿したことがありましたが、上手すぎるために剽窃作の疑いをかけられて、採用が保留されていたのです。

1939年 – 14歳「作家三島由紀夫の誕生」

清水文雄

清水文雄との出会い

和泉式部の研究などで知られ、戦後は広島大学教授になった清水文雄が学習院に赴任し、公威の才能に注目しました。公威のクラスの作文と文法を清水文雄が担当したことをきっかけに、公威との子弟関係が始まり、この関係は終生続きました。

公威の文学熱はいよいよ高まる中、1939年10月、第二次世界大戦が始まり、国際情勢の緊迫化していきました。

自分一個の終末観と、時代と社会全部の終末観とが、完全に適合一致(「私の遍歴時代」)

そんな時代状況でしたが、公威は川路柳虹に詩の指導を受け、習作詩集「公威詩集」を作りました。


若干15歳の公威は、ラディケを聖書として崇め、詩人になろうと思うようになりました。しかし父親は、公威が文学に傾倒するのを快く思いませんでした。原稿を破り捨てるなどの直接行動に出ますが、母が公威の執筆活動を応援し、原稿用紙やインキを息子に買い与えるなど献身的にサポートしました。

三島由紀夫というペンネームを使うようになる

16歳の公威は「花ざかりの森」を書き上げ、恩師の清水文雄に見てもらいました。作品に感銘を受けた清水は雑誌「文芸文化」編集会議に作品を提出し、掲載が決定しました。

公威は、「花ざかりの森」を「文藝文化」に連載するにあたり、「三島由紀夫」というペンネームを使うようになりました。これは恩師清水をはじめ「文藝文化」同人の意向による命名でした。こうして作家三島由紀夫が誕生しました。

1942年 – 17歳「戦時下の青春と執筆活動」

『花ざかりの森』初版
出典:日本の古本屋

戦時下の文筆活動

1941年12月に太平洋戦争が勃発しました。1942年10月には神宮外苑競技場で、学徒出陣壮行会が行われました。戦時による学業年限の短縮のために、入隊が近づいたことを三島は恐れました。学習院高等科乙類の学生である三島の身にも戦争の影は足音を立てて近づいてきたのです。

そうした情勢の中、三島は仲間とともに同人誌「赤絵」を創刊しました。また1943年1月には学習院図書館懸賞論文に三島の「王朝心理文学小史」が入賞、 1944年19歳の4月には処女作「花ざかりの森」の書籍としての刊行が決定し、若き三島は文学者としての歩みを進めていました。

学習院卒業

1944年9月、三島は学習院高等科を首席で卒業し、恩賜の銀時計を受けました。卒業式の後、学習院院長に伴われ、母と共に宮中に参内しました。10月に三島は東京帝国大学法学部法律学科に入学しましたが、20歳になったばかりの三島の元についに入営通知が届きました。

三島は遺書を書き、入隊のための検査に臨みました。しかし当日風邪をひいていた三島は高熱を発したため、軍医は胸膜炎と誤診し即日帰郷することになりました。実家に戻った三島は、空襲に見舞われる東京で執筆活動を続けました。

敗戦

三島は結局、出兵しないまま終戦を迎えました。三島はのちに終戦の日の思い出をこう語っています。

20歳の私は、何となくぼやぼやした心境で終戦を迎えたのであって、悲憤慷慨もしなければ、欣喜雀曜もしなかった。(「八月二十一日のアリバイ」)

三島は、ちょうど「岬にての物語」執筆中に終戦を迎えました。戦況が悪化する中、勤労奉仕に行った海軍工廠の寮でも三島は執筆を続けており、こうした体験から自分は書かずにはいられない人間なのだと自覚したと言います。

1947年 – 22歳「「仮面の告白」の時代」

『仮面の告白』初版
出典:Sumally

官吏と小説家の二足のわらじ

天皇の人間宣言と新憲法発布の翌年、三島は東京大学法学部を卒業して、高等文官試験行政科に合格、大蔵省事務官に任官しました。しかし、大蔵省入省後も盛んな執筆活動を行い、職業作家の道を進むか、官吏の職を続けるか三島は悩みました。

翌年9月、三島は創作活動に専念することを決め、大蔵省を依願退職しました。当初、三島の父は、作家活動を快く思っていませんでした。しかし官吏と小説家の二足のわらじのために睡眠不足が続いた三島は、渋谷駅のホームでふらついて線路に落下してしまいました。この一件もあり、父は三島の退官を受け入れざるを得なくなりました。

「仮面の告白」により作家としての地位を得る

1949年、三島は「仮面の告白」を刊行しました。

この本は私が今までそこに住んでいた死の領域へ遺そうとする遺書だ。この本を書くことは私にとって裏返しの遺書だ。(月報「『仮面の告白』ノート)

三島自身がこう解説をした「仮面の告白」は、自伝的要素が強く三島を語る上で欠かせない作品です。

感受性鋭い幼少期を送った主人公が、野卑で男性的なものに強く惹かれ、男性を愛するようになっていくというストーリーのこの作品は、多くの人に戸惑いを生じさせましたが、小説として高評価を得ました。このセンセーショナルな作品により、三島は作家としての地位を確立しました。

1954年 – 29歳「肉体と文体の改造」

「潮騒」の舞台・神島
出典:伊勢志摩観光ナビ

「潮騒」がベストセラーになる

書き下ろし中編小説の「潮騒」がベストセラーになり、第1回「新潮社文学賞」受賞しました。三島が文学作品で賞を受けたのはこれが初めてでした。

「潮騒」は知多半島と渥美半島の間、伊勢湾の一角にある神島を舞台に、若い漁師照吉と島で屈指の金持ちの末娘初江の恋を描きました。濡れた体を乾かすために、焚き火を挟んで若い二人が裸で対峙する美しい場面が有名な作品で、映画化もされています。

主人公の青年は、肉体的な美しさを持つ健全で英雄的存在として描かれています。三島は「仮面の告白」の中でも男性的な肉体への憧れを表現していましたが、三島の肉体に対するこだわりは、1951年に訪れたヴァチカンで、アンティノウス像の男性的な美しさに衝撃を受たことで一層強まりました。

三島は、肉体と精神の調和を理想とするギリシア的な身体観に共鳴し、それを自身で実現するためにボディビルに目覚めました。

ボディビルでの肉体改造

30歳になった三島は、早稲田大学ボディビル部の玉利斎にコーチをしてもらい、自宅でトレーニングを始めました。のちに自由が丘のジムにも通うようになります。

自分の力が日増しに増すのを知るほど面白いものはない 私の若き日の信念では、自意識と筋肉とは絶対の反対概念であったのに、今、極度の自意識が筋肉を育ててゆくこの奇跡に目を見張った(「実感的スポーツ論」)

このように、三島は自分の肉体を鍛え筋肉を育て上げることに、強い自意識をもって臨んで行ったのです。

文体改造を意識する

1956年31歳の三島は、「金閣寺」を雑誌「新潮」に連載しました。その連載の最中、雑誌「文学界」に発表した文章の中で、三島は文学的な方向性の変化に言及しています。

鴎外の清澄な知的文体は、私への救いとして現れた。(中略)そこで私は鴎外の文体模写によって自分を改造しようと試み 感性的な物から知的なものへ、女性的なものから男性的なものへ

このように三島は、創作活動においても自己改造を試み、鴎外の硬質な文体に象徴される、強靭で男性的なものへの傾倒を強めて行きました。

1958年 – 33歳「映画俳優やモデルとして活動の幅を広げる」

「からっ風野郎」の三島由紀夫と若尾文子
出典:映画の感想文日記

結婚と新居

33歳になった三島は、日本画家杉山寧・元子の長女瑶子(当時21歳)とお見合い結婚しました。瑶子は文学には興味を持たず、素直で女らしく、かつハイヒールをはいても自分より背が低く、好みの丸顔だった点で三島は瑶子を気にいったということです。

また三島は大田区馬込東1丁目1333番地(現・南馬込4−32−8)に新居を建築しました。
清水建設の設計者に設計をオーダーし、ビクトリア朝風のコロニアル様式の「キンキラキン」の家を希望したと言います。

三島の作品が海外で注目されるようになる

この頃から、三島の作品が海外で評価されるようになって行きます。英訳の「仮面の告白」が刊行され、「近代能楽集(「邯鄲」)」のハワイ上演、 ドイツ語訳「近代能楽集」刊行、ドイツの各都市での「近代能楽集」上演、スウェーデンのストックホルム王立劇場における「卒塔婆小町」と「邯鄲」の上演などが相次ぎました。

こうした評価を受け、三島は世界を意識して書いた小説家として、当時の日本では類のない作家でした。

映画俳優デビュー

大映映画の永田雅一大映社長から映画主演の話が持ちこまれ、三島は俳優として大映と専属契約をします。作家としては異例と言えるでしょう。

35歳の三島は、大映映画「からっ風野郎」に主演し、落ち目の名門ヤクザの二代目役を演じました。共演は若尾文子、川崎敬三などでした。監督は東京大学で三島と同期の増村保造でした。

「憂国」執筆

映画俳優としての華やかな表舞台での活動に精力を注ぐ一方で、三島は小説「憂国」を発表しました。「憂国」は2・26事件に取材した小説です。主人公の青年中尉は、新婚だったために仲間から2・26の蜂起に誘われませんでした。そのため、叛乱軍となった仲間を討伐する立場に立たされたことに苦悩し、妻と共に心中するというストーリーの作品です。

「憂国」は1961年1月「小説中央公論」に発表されましたが、2月1日に嶋中事件が起こり、三島家にも脅迫状が届いたため、警察は三島に護衛をつけました。嶋中事件とは深沢七郎の小説「風流夢譚」を掲載した中央公論社の社長嶋中社長邸に右翼少年が侵入し、家人を殺傷したという事件です。「風流夢譚」が皇族惨殺の夢想を描く作品だったために、宮内庁からの抗議も出ていました。

プライバシー侵害で提訴される

日本初のプライバシー侵害裁判を起こした
有田八郎 
出典:Wikipedia

同年、三島は新潮社とともに、元外相の有田八郎から告訴されました。三島の小説「宴のあと」は、有田と前夫人をモデルにしたと言われており、有田はこれを人権侵害として以前から抗議を続けていたのですが、ついに三島はプライバシー侵害で提訴されました。

この裁判は「プライバシー」という観念が争われた点で、社会的な関心を集めました。また表現の自由に関わる問題にも関わるため、文壇の関心も高まりました。プライバシー侵害が認められるという判決がくだり、三島は80万円の慰謝料を命じられ、最高裁に控訴しましたが、有田氏の死去により結局、翌年和解が成立しました。

写真集のモデルになる

三島の評論集「美の襲撃」の表紙カバーに三島自身の写真を採用することが決まり、その撮影を細江英公が行いました。細江は三島を撮影することで創作欲を引き出され、写真集のモデルを三島に依頼しました。

1963年、三島由紀夫を被写体とした写真集「薔薇刑」が完成しました。「薔薇刑」は全5章で構成され、計96枚の写真が収められています。極めて耽美的あるいは幻想的に筋肉で武装した三島の体が表現され、マゾヒスティックな構図も相まって海外でも大きな話題を呼びました。

東京オリンピックの取材員になる

1964年8月、三島は東京オリンピック取材員となり、上旬から取材を始めました。8月10日に開催された開会式を取材し、「東洋と西洋を結ぶ火」を「毎日新聞」に発表しました。閉会式まで、各種の競技を取材し、「読売」「朝日」「毎日」「報知」各新聞に記事を発表しています。

1965年 – 40歳「カタストロフィへ」

映画『憂国』 
出典:ネイビーブルーに恋をして

「憂国」の映画化

三島は「憂国」の映画化を企てますが、映画会社での映画化が困難だったため、個人での映画化を決定します。費用を抑えるために、舞台装置を一切排除して能の形式での撮影を企てます。大映のプロデューサー藤井浩明に相談すると、外国映画祭の出展を射程に入れて35ミリで撮影するようにとアドバイスを受け、映画化が決定しました。

三島は「憂国」のシナリオを一気に脱稿し、原作・制作・監督・脚色・主演三島由紀夫、演出堂本正樹、撮影渡辺公生で4月15日クランクイン、4月30日クランクアップしました。

上映時間は28分の短編映画ですが、作品を観た大映社長永田雅一と東和映画の川喜田かしこは絶賛し、パリのシネマテックでの試写を手配してくれました。このパリでの試写会は大成功し、翌年にはフランス・ツール国際短編映画祭に出展しました。惜しくも受賞は逃しましたが、高い評価を受けました。

「英霊の声」を「文芸」に発表

三島は、母に向かって2・26事件の頃の農村の疲弊ぶりを熱く語っていました。娘を売って生活せざるを得ない貧困の中、兵役につかなければいけなかった苦境などを熱心に説いたと言います。その2、3日後に一気に書き上げたのが「英霊の声」でした。

三島の母は、「英霊の声」を脱稿直後に手渡された作品を読み

「公威に何かが憑いてているような気がして、寒気を覚えた」(「暴流のごとく」)

と語っています。三島自身もペンが勝手に紙の上をすべるように書いたとか、2・26事件で死んだ兵隊たちの言葉が聞こえたというほど、熱中して執筆した作品でした。

「論争ジャーナル」に集う青年との出会い

「論争ジャーナル」1969年夏季特別号 
出典:オークファン

林房雄の紹介状を持って政論誌「論争ジャーナル」を編集する万代潔が三島を訪ねてきました。「論争ジャーナル」は、戦前に皇国史観を推進した元東京大学教授平泉澄の門下生だった中辻和彦と万代潔が、健全な保守の雑誌を意図して発行していました。三島は万代と話した感想を次のように語っています。

「いかなる党派にも属さず、純粋な意気で、日本の歪みを正そうと思い立って、固く団結を誓い、苦労を重ねてきた物語をきくうちに、(中略)いつの間にか感動していたのである」(「青年について」)

彼らとの出会いがのちの「楯の会」結成に繋がって行くことになりました。

自衛隊に体験入隊する

1967年42歳になった三島は、平岡公威の本名で自衛隊に体験入隊しました。久留米陸上自衛隊幹部候補生学校の隊付きとなったのちは、富士学校教導連隊で戦車の操縦や完全武装で行軍など経験しました。

この頃三島は、軍人に対する敬愛の念を

「国や民族のためには、いさぎよく命を捨てる、というのは美しい生き方であり死に方である(中略)武人が人に尊敬されたのは、(中略)いさぎよい美しい死に方が可能だと考えられたからである。」(「美しい死に方」)

と述べています。

「葉隠入門」を刊行

三島は、鍋島藩士山本常朝の談話を筆録した「葉隠」を論じた評論を発表しました。享保元年1716年成立した「葉隠」は、武士道について論じた書物で、「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」というフレーズが有名です。

三島は、この「死ぬことと見つけたり」というフレーズに「逆説的」な意味を読み取り、この書物は自由と情熱を説いたものであるという解釈を示しています。

祖国防衛隊構想

三島は、「論争ジャーナル」を中心にした学生のグループと急速に親しくなり、自衛隊入隊体験を踏まえた「祖国防衛隊構想」を作り上げました。この中で三島は、現在の日本は侵略の危機にあるという認識を示し、事あれば剣を執って国の歴史と伝統を守るための、自衛隊を補完する民兵組織を提案しました。

三島は財界人に協力を仰ぎましたが十分な協力を期待することができなかったため、この構想は早々に断念しました。しかし、自分たちの力だけで推進しようという決意を持って、三島と青年たちは、自衛隊への体験入隊を繰り返し行います。

楯の会発足

楯の会

三島は、学生を連れて陸上自衛隊に体験入隊するにあたり、揃いの制服を仕立てました。この体験入隊メンバーにはのちに三島とともに切腹を果たす早稲田大学のの森田必勝(まさかつ)がいました。

1968年10月5日、三島は民兵組織祖国防衛隊を断念した代わりに、祖国防衛隊構想に共感する青年たちと「楯の会」を発足しました。虎ノ門教育会館には40名を越すメンバーが制服を着用して集まりました。折しも時代は安保闘争を経て、全共闘運動・大学紛争が盛り上がりを見せる中のことでした。

1969年5月には、三島は東大全共闘主催の討論集会に招かれ、駒場教養学部900番教室に集まった約1000人の学生と2時間半にわたる討論を繰り広げました。警察は警備を申し出、楯の会のメンバーは護衛を申し出ましたが三島はそれを退けて、単身で赴きました。

楯の会の活動にのめり込む

1969年44歳の三島は、五社英雄監督の依頼で映画「人斬り」に田中新兵衛役で出演しました。共演には勝新太郎、仲代達矢、石原裕次郎などそうそうたる俳優が居並んでいました。

こうした華やかな活動を盛んに繰り広げる一方で、三島は楯の会のメンバーとともに、最後の行動への歩みを進めて行くのでした。11月には国立劇場の屋上で、楯の会結成1周年パレードを行い、観閲台には元陸軍自衛隊富士学校長の碇井準三が立ち、富士学校の音楽隊が演奏、作家や芸能人、報道関係者を多数招待しました。この日に配布したパンフレットに三島は次のように書いています。

私は日本の戦後の偽善にあきあきしていた。(中略)日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になった国はないと信じている(中略)日本に消えかけている武士の魂の炎を、かき立てるためにこれをやっているのだ。

最終行動の準備を進める

1970年に入ると、三島は楯の会学生部長森田必勝と共に最終行動計画を立てました。三島は、憲法改正による自衛隊の国軍・正規軍化を望んでいました。しかし自衛隊そのものがが内発的に行動することは期待はできないから、自分たちで蹶起し憲法改正を訴えるという意図していました。

戦後25年の終戦記念日を前に三島は「私の中の25年」という文章の中で、戦後民主主義とそこから生ずる偽善を絶望的に語っています。全共闘の学生たちとは異なるベクトルで、三島は戦後の日本への挑戦状を突き付けようとしていたのでした。

写真集「男の死」

この頃、篠山紀信の写真集「男の死」のモデルとして撮影を行いました。宗教画「聖セバスチャンの殉教」の構図で篠山が三島を撮った写真を気に入り、三島自身が篠山紀信に持ちかけた企画でした。三島が演じる様々な死の姿を写したこの写真集は、薔薇十字社から刊行予定でしたが、三島の本当の死により、非公開となりました。

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