三島由紀夫の功績
功績1「日本文学の魅力を広く知らせた事」
三島由紀夫の作品は世界に日本文学の魅力を知らせました。そのきっかけとなったのが伊勢湾に浮かぶ神島が舞台だと言われる作品・「潮騒」です。
この作品は1954年には日本でも映画化をされるほど大ヒットしました。その2年後にはアメリカで英訳が出版され、やはり大ヒットしています。「潮騒」は古代ギリシャの作品から着想を得ているだけあって、外国でも受け入れやすかったのではないでしょうか。
潮騒の後には「仮面の告白」や「金閣寺」も英訳されたため、知名度はさらに高まり、三島の作品は国際文学賞を受賞するなど、高い評価も受けました。
1963年度から65年度にかけては、ノーベル文学賞の有力候補となったことも明らかになっています。三島由紀夫は日本文学が世界でも通用することを証明したのです。
功績2「政治への関心を呼び起こした事」
三島由紀夫の功績として、忘れてはならないのが国民の政治への関心を呼び起こしたことです。
三島は日本国民自身の手で国内の平和を守るべきだと、「楯の会」を結成しました。民兵組織「楯の会」はおもちゃの兵隊と揶揄されることもありましたが、それは多くの人に注目されたからです。
三島は「楯の会」を結成する以外にも、講演や対談など様々な場面で政治的な考えを発信しました。それは憲法改正から自衛隊のあり方、日米安保、核武装から天皇制にまで及びました。
世界的にも有名な小説家が発信した政治的な考えは、人々に影響を与え、考えるきっかけになったのです。
三島由紀夫の作品一覧と代表作品
- 花ざかりの森- (1944年)
- 煙草 – (1946年)
- 岬にての物語- (1947年 )
- 盗賊-(1948年)
- 仮面の告白- (1949年)
- 愛の渇き- (1950年)
- 青の時代- (1950年)
- 禁色- (1951年)
- 卒塔婆小町- (1952年)
- 真夏の死- (1953年)
- 葵上- (1954年)
- 潮騒- (1954年)
- 班- (1955年)
- 沈める滝- (1955年)
- 金閣寺- (1956年)
- 鹿鳴館- (1957年)
- 美徳のよろめき- (1957年)
- 橋づくし- (1958年)
- 鏡子の家- (1959年)
- 弱法師- (1960年)
- 宴のあと- (1960年)
- 獣の戯れ- (1961年)
- 美しい星- (1962年)
- 午後の曳航- (1963年)
- 剣- (1963年)
- 絹と明察- (1964年)
- 三熊野詣- (1965年)
- サド侯爵夫人- (1965年)
- 英霊の声- (1966年)
- 太陽と鉄- (1968年)
- 春の雪- (1969年)
- 奔馬- (1969年)
- 文化防衛論- (1969年)
- 椿説弓張月- (1969年)
- 暁の寺- (1970年)
- 天人五衰- (1971年)
「仮面の告白」
女性に興味がなく、逞しい男に魅力を感じてきた主人公「私」の特異な「性」を告白した自叙伝スタイルの作品です。三島はこの作品を「死の領域へ遺さうとする遺書」であり「裏返しの自殺」つまり、生を回復するためのものと述べています。
「潮騒」
三重県の神島を舞台に、古代ギリシア的な健全で美しい身体を持つ青年と少女の初恋の物語。清らかな恋を誓う二人を邪魔する様々な障害が起こり、2人の仲は裂かれますが、新治の英雄的な活躍が初江の父を動かし、ハッピーエンドを迎えます。映画化され人気を博した作品です。
「金閣寺」
金閣寺の美に憑りつかれた学僧「私」が金閣寺に放火するまでの経緯を告白するという体裁の小説です。実際に起きた金閣寺放火事件に取材し、三島特有の美のフィルターを通して描かれています。世界的にも三島を有名にした代表作です。
「鏡子の家」
名門資産家の令嬢で、夫と別居して8歳の娘と洋館で自由気ままに暮らす30歳の鏡子のサロンに集まる4人の青年と鏡子が、戦後訪れた新たな時代に対して抱く虚無的な感覚を描いた長編小説です。5人の若者のニヒリズムをテーマに、三島自身が戦後への総決算とした小説です。
「英霊の声」
2・26事件に蹶起し銃殺刑に処せられた青年将校と、大東亜戦争で神風になろうと命を落とした特攻隊員の霊が、霊媒師の青年・川崎重男に憑依し、天皇の人間宣言に憤り、呪詛する様を描いた短編小説で、後の自衛隊における三島の行動を示唆する重要な作品です。
「天人五衰」
「天人五衰」は、全4巻からなる「豊饒の海」(ほうじょうのうみ)の最終巻です。「浜松中納言物語」を典拠に、1巻で死んだ主人公が、次の巻の主人公に輪廻転生して行く壮大なスケールの小説です。シリーズの完結編「天人五衰」を書き上げた直後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で切腹を果たしました。
三島由紀夫の名言
「強み」とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである(葉隠入門)
三島にとっては、知恵や分別があってもそれは強みではありません。三島によれば、遊んでいる子どもには、酒など呑まなくても楽しめる強みがあります。それに引き換え、大人は知恵や分別があっても、大切なものを見失ってしまいます。知恵や分別に頼らない強みが、私たちには必要です。
やたらと人に弱味をさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。(不道徳教育講座 告白するなかれ)
三島によれば人は自分の弱さを認めるのが嫌なのだそうです。それなのにわざわざ弱みを見せて、人には弱さがあると相手に知らせる行為は確かに無礼です。この言葉にハッとさせられる人は多いのではないでしょうか。
軽蔑とは、女の男に対する永遠の批評である。(反貞女大学)
「反貞女大学」は三島が1965年に産経新聞日曜版に連載した、随筆・評論集です。当時、三島には古い観念に縛られていた女性たちの考えを解き放ち、自由にするという目的があったようです。しかし、三島ほどの人も女の軽蔑を感じたことがあったのでしょうか。
三島由紀夫にまつわる逸話
逸話1「太宰治に面と向かって僕は太宰さんの文学はきらいなんです、と言った。」
22歳の時に三島は、太宰治と亀井勝一郎を囲む集まりに参加しました。そのとき太宰に面と向かって「僕は太宰さんの文学はきらいなんです。」と三島が言ったところ、太宰は「そんなこと言ったって、こうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよなあ。」と呟いていたということです。
しかし、三島の太宰嫌いは激しかったようで、
私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ。第一私はこの人の顔がきらいだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらいだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらいだ(「小説家の休暇」)
と述べています。
逸話2「新人官僚なのに大蔵大臣のハゲ頭を揶揄する文章を書いた」
東京大学法学部を卒業した三島は、高等文官試験行政科に合格して大蔵省事務官に任官しました。この頃すでにプロの文筆家として活躍していたため、「筆の立つ男が入ってきた」という評判から、大蔵大臣の国民貯蓄振興大会の演説の原稿を任されました。
その大蔵大臣演説の原稿を三島は次のように書いたということです。「傘置シズ子さんの華やかなアトラクションの前に、私のようなハゲ頭が演説をして誠に艶消しでありますが・・・」。もちろんこの部分は上司に赤鉛筆で消されたという証言が残っています。