三島由紀夫とはどんな人?生涯&年表まとめ【代表作品や死因、功績も紹介】

三島由紀夫は、戦後活躍した小説家です。三島は世界的に評価される小説家でしたが、映画俳優をしたり、ボディビルで体を鍛えたり、いわゆる小説家という枠から大きくはみ出た存在でした。そして何より彼をセンセーショナルな存在にしたのが、「切腹」という死に様です。

三島由紀夫

三島は、自らが組織した政治的思想結社「楯の会」のメンバーと共に、昭和45年11月25日、自衛隊の市ケ谷駐屯地に立てこもり、戦後の平和憲法と自衛隊の存在の矛盾をなくし、自衛隊を「名誉ある国軍」にしようと訴えたのち、切腹します。戦後の価値観を真っ向から否定するかのような衝撃的な行動をなぜ起こしたのか、今も謎を多く残します。

三島由紀夫が書いた「仮面の告白」「金閣寺」「鏡子の時代」「豊饒の海」「近代能楽集」などの作品群は、日本国内だけでなく世界的にも高く評価されました。三島が手がけた脚本は世界で上演されノーベル文学賞の有力候補にもなりました。

文学者としての名声を得ながら、政治的行動を起こして切腹という死に様を演じた三島由紀夫という存在を追うことは、昭和の歴史を振り返り、戦後日本のあり方をもう一度見つめ直すことにも繋がります。

そんな三島由紀夫の魅力を、文学オタクにしてボディビルダー、三島由紀夫のボディビルコーチとも実際にお話ししたことがある私が語り尽くします。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

三島由紀夫とはどんな人物か?

名前三島由紀夫
(本名:平岡公威)
誕生日1925年1月14日
生地東京市四谷区永住町2番地
(現・東京都新宿区四谷4-22)
没日1970年11月25日
没地東京都新宿区市谷本村町1番地
(現・市谷本村町5-1)
の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地
東部方面総監部総監室
配偶者三島瑶子
(日本画家杉山寧の長女)
子供平岡紀子(演出家)
平岡威一郎(映画助監督、作詞家など)
埋葬場所府中市多磨霊園

三島由紀夫の生涯をハイライト

31歳の三島由紀夫・凛々しい顔つきはボディビルの効果?
出典:Wikipedia

小説家・三島由紀夫は1925年の1月に東京市四谷区に誕生しました。成長した三島は学習院初等科に学び、文学への興味と才能を成長させましたが、卒業する前には二・二六事件が勃発、大きな影響があったことと思われます。

中等科5年のときには作品が国文学雑誌に掲載され、本格的に小説家としての活動が始まります。1944年には学習院高等科を首席で卒業、徴兵検査に合格しながらも、東京大学に進学、一度も出撃すること無く終戦を迎えました。

戦後は小説家として活躍しながら、ボディビルでの肉体改造や映画出演などで常に注目を浴び続けます。

日本の防衛に関心が高かった三島は、自衛隊への体験入隊を経て、民兵組織を結成して国を守ろうとします。そしてできたのが「楯の会」でした。

結局1970年、この楯の会のメンバーとともに三島は「三島事件」を起こします。自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れた三島たちは人質を取り、クーデターを促す演説を行いました。そしてその後、三島は割腹自殺により45歳でこの世を去ったのです。

幼少期、祖母の支配は大きな影響だった

学習院に入学した頃の三島由紀夫
出典:Wikipedia

生後49日で祖母・夏子に育てられるようになった三島由紀夫。厳しく気難しい祖母のもとでは男の子らしい遊びはご法度でした。遊び相手は年長の女の子に限られ、外での遊びも禁じられた三島は大きなストレスを感じていたようです。

5歳のときに自家中毒を起こし、生死の境を彷徨ったほどでした。しかし、夏子が好んだ歌舞伎や文学作品は三島に大きな影響を与え、小説家としての基礎を作りました。また、当時平民は入学が難しかった学習院に入学できたのは、夏子の人脈によるものでした。

学習院に入学したことで、三島はさらに文学に親しみ、自らの才能を開花させていくのです。

昭和の暗い出来事が影響を与えた?

二・二六事件は陸軍青年将校たちが起こしたクーデター
出典:Wikipedia

1925年生まれの三島由紀夫は、その年齢と昭和何年であるかが一致しています。幼いときから、折々に時代の転換点となるような事件が三島の身近に起こっていました。

初等科6年生のときには二・二六事件が起き、その後日本国旗についての作文を書いています。日本が第二次世界大戦へ進む中で三島は成長していきますが、文学への情熱は抑えることができませんでした。父の梓に原稿用紙を破かれたこともあったと言います。

日本が戦争に進む様子をつぶさに見ていた三島が、終戦後日本の防衛に関心を抱いたのは当然のことだったのでしょう。

身体の弱さがコンプレックスだった

ボディビルを始めたばかりの三島・30歳だった
出典:Wikipedia

1945年に入隊した三島由紀夫は、母からうつされた気管支炎を肺湿潤という病気だと誤診され、家に帰されました。三島と同じ部隊だった兵士たちは、フィリピンに派遣され、ほとんどが亡くなっています。家族は三島の帰宅を喜びましたが、彼自身は素直に自分の生還を喜べなかったようです。

身体が弱いばかりに、自分だけが生き残ってしまったという感情が三島に残り、それが後に自分が人生から拒まれているという感覚へとつながっていきました。

身体の弱さは強いコンプレックスとなって三島に残り、彼を複雑な人間に作り上げていったようです。ボディビルで肉体改造に挑んだのも、そんなコンプレックスの裏返しだったと思われます。

三島由紀夫と美輪明宏は深く結ばれていた

三島由紀夫と美輪明宏

三島は26歳の頃から、銀座5丁目の喫茶店兼酒場の「ブランズウィック」に出かけるようになりました。この店は美少年が客を接待していましたが、その中の一人に丸山明宏(美輪明宏)がいました。三島と美輪の関係はこの頃から始まります。ちなみに、この店は三島の小説「禁色」の舞台になり、当時バーテンダー見習いをしていた野坂昭如が三島の姿を見かけています。

のちにシャンソン歌手や俳優として活躍することになる美輪は、15歳の時に歌手を目指して長崎から上京、国立音楽高等学校に入学しましたが、実家の家業が倒産したため学業が続けられず、進駐軍のキャンプなどで歌手をしていました。

1952年、銀座7丁目にあるシャンソン喫茶「銀巴里」との専属契約を交わして歌手デビューを飾ると、国籍・年齢・性別不詳の美しさが人気を呼び、三島をはじめ多くの文化人が美輪のファンになりました。

美輪は、天井棧敷の旗揚げ作品「青森県のせむし男」「毛皮のマリー」で主演、その舞台を観て感動した三島由紀夫は、舞台『黒蜥蜴』の主演を美輪に依頼しました。美輪主演版の「黒蜥蜴」は大成功を収め、1968年には深作欣二監督で映画化も実現します。

映画「黒蜥蜴」では、三島は美輪とのキスシーンがあるという理由で端役を引き受けるほど、美輪に心を奪われていました。しかし二人の結びつきは「恋愛」というより美的・芸術的な結びつきという方が正しいでしょう。

三島の死により果たせなかった舞台「近代能楽集」を、美輪は1996年に演出・主演で初演、2017年まで上演を重ねています。

ギリシャへの憧れがボディビルへ!

鍛え上げられた三島の肉体

三島は1949年に発表した「仮面の告白」の中で、男性的な肉体への憧れを告白します。三島の肉体に対するこだわりは、1951年に訪れたヴァチカンでアンティノウス像の男性的な美しさに衝撃を受たことで一層強まります。

これ以降、三島は肉体と精神が調和するという古代ギリシアの身体観に傾倒して、ギリシア的な身体を男性の理想と考えるようになり、それを自分の身体の上に実現しようとボディビルを始めます。

30歳の年の夏、私に突然福音が訪れた。これがのちのち人々の笑いの種子になり、かずかずの漫画の材料になったボディビルというものである(「実感的スポーツ論」)

1995年9月、三島はのちに日本ボディビル連盟の会長になる早稲田大学のボディビル部の玉利にコーチしてもらい、自宅でトレーニングを始めました。

三島由紀夫の死因となった「三島事件」とは

演説をする三島由紀夫
出典:Wikipedia

三島由紀夫は、戦後憲法下における自衛隊のあり方に疑問を抱いていました。自衛隊が正規の「国軍」となることを切望し、三島と共に蹶起しクーデターを起こす有志を募るため、三島が組織した「楯の会」のメンバー4人と共に、自衛隊市ケ谷駐屯地の総監室を占拠、集まった自衛官800人余に2階バルコニーから演説を行いました。

自衛隊員からは激しいヤジが飛び、これ以上の演説に意味はないと見限った三島は「天皇陛下万歳」と三唱、切腹を果たしました。

三島の右腕だった森田必勝(まさかつ)が三島の介錯を行いました。その森田もまた、三島のあとを追って切腹しました。 残った3人のメンバーは遺体を仰向けにして制服をかけ、首を並べて合掌後、総監室を出て刀を自衛官に渡し、警察官に逮捕されました。三島の自衛隊占拠事件はテレビの中継も行われ、各方面に大きな衝撃を与えました。

詳しくは下記の記事で紹介しています。

三島由紀夫の死因は?三島事件とは?経緯や背景にある思想も解説

市ケ谷駐屯地での最後の演説とは

現在の市ヶ谷駐屯地 
出典:Wikipedia

三島が市ケ谷駐屯地において、自衛官を集め行った演説、および2階バルコニーからばら撒いた檄文の要旨は、次のようなものでした。

われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、自衛隊はいわばわれわれの父である。われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かして国の大本を忘れ、国民精神を失い、魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見たが、自衛隊にのみ、真の日本、真の武士の魂が残されていると考えてきた。

しかし、自衛隊は現在の憲法では「違憲」であり、「欺瞞の下に放置」されている。その状態から脱却し、「名誉ある国軍」となることを切望する。ただし、そのための憲法改正は議会制度下では難しく、治安出動が唯一の好機と考えたが、その好機も国際反戦デー、10月21日のデモも警察が制圧することで失われた。

こうなった以上自衛隊は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はない。「憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇ることを切望するあまり、この挙に出たのである」

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