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三島由紀夫の生涯・年表まとめ【三島事件や名言、死因、作品について紹介】

三島由紀夫は、戦後活躍した小説家です。三島は世界的に評価される小説家でしたが、映画俳優をしたり、ボディビルで体を鍛えたり、いわゆる小説家という枠から大きくはみ出た存在でした。そして何より彼をセンセーショナルな存在にしたのが、「切腹」という死に様です。

三島由紀夫

三島は、自らが組織した政治的思想結社「楯の会」のメンバーと共に、昭和45年11月25日、自衛隊の市ケ谷駐屯地に立てこもり、戦後の平和憲法と自衛隊の存在の矛盾をなくし、自衛隊を「名誉ある国軍」にしようと訴えたのち、切腹します。戦後の価値観を真っ向から否定するかのような衝撃的な行動をなぜ起こしたのか、今も謎を多く残します。

三島由紀夫が書いた「仮面の告白」「金閣寺」「鏡子の時代」「豊饒の海」「近代能楽集」などの作品群は、日本国内だけでなく世界的にも高く評価されました。三島が手がけた脚本は世界で上演されノーベル文学賞の有力候補にもなりました。文学者としての名声を得ながら、政治的行動を起こして切腹という死に様を演じた三島由紀夫という存在を追うことは、昭和の歴史を振り返り、戦後日本のあり方をもう一度見つめ直すことにも繋がります。

そんな三島由紀夫の魅力を、文学オタクにしてボディビルダー、三島由紀夫のボディビルコーチとも実際にお話ししたことがある私が語り尽くします。

三島由紀夫とはどんな人物か?

名前三島由紀夫
(本名:平岡公威)
誕生日1925年1月14日
生地東京市四谷区永住町2番地
(現・東京都新宿区四谷4-22)
没日1970年11月25日
没地東京都新宿区市谷本村町1番地
(現・市谷本村町5-1)
の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地
東部方面総監部総監室
配偶者三島瑶子
(日本画家杉山寧の長女)
子供平岡紀子(演出家)
平岡威一郎(映画助監督、作詞家など)
埋葬場所府中市多磨霊園

三島由紀夫の死因って何?「三島事件」とは?

演説をする三島由紀夫

三島由紀夫は、戦後憲法下における自衛隊のあり方に疑問を抱いていました。自衛隊が正規の「国軍」となることを切望し、三島と共に蹶起しクーデターを起こす有志を募るため、三島が組織した「楯の会」のメンバー4人と共に、自衛隊市ケ谷駐屯地の総監室を占拠、集まった自衛官800人余に2階バルコニーから演説を行いました。

自衛隊員からは激しいヤジが飛び、これ以上の演説に意味はないと見限った三島は「天皇陛下万歳」と三唱、切腹を果たしました。

三島の右腕だった森田必勝(まさかつ)が三島の介錯を行いました。その森田もまた、三島のあとを追って切腹しました。 残った3人のメンバーは遺体を仰向けにして制服をかけ、首を並べて合掌後、総監室を出て刀を自衛官に渡し、警察官に逮捕されました。三島の自衛隊占拠事件はテレビの中継も行われ、各方面に大きな衝撃を与えました。

詳しくは下記の記事で紹介しています。

三島由紀夫の死因は?三島事件の経緯・背景にある思想を解説!

三島由紀夫の市ケ谷駐屯地での演説は?

現在の市ヶ谷駐屯地

三島が市ケ谷駐屯地において、自衛官を集め行った演説、および2階バルコニーからばら撒いた檄文の要旨は、次のようなものでした。

われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、自衛隊はいわばわれわれの父である。われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かして国の大本を忘れ、国民精神を失い、魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見たが、自衛隊にのみ、真の日本、真の武士の魂が残されていると考えてきた。

しかし、自衛隊は現在の憲法では「違憲」であり、「欺瞞の下に放置」されている。その状態から脱却し、「名誉ある国軍」となることを切望する。ただし、そのための憲法改正は議会制度下では難しく、治安出動が唯一の好機と考えたが、その好機も国際反戦デー10月21日のデモも警察が制圧することで失われた。

こうなった以上自衛隊は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はない。「憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇ることを切望するあまり、この挙に出たのである」

三島由紀夫と美輪明宏の関係は?

三島由紀夫と美輪明宏

三島は26歳の頃から、銀座5丁目の喫茶店兼酒場の「ブランズウィック」に出かけるようになりました。この店は美少年が客を接待していましたが、その中の一人に丸山明宏(美輪明宏)がいました。三島と美輪の関係はこの頃から始まります。ちなみに、この店は三島の小説「禁色」の舞台になり、当時バーテンダー見習いをしていた野坂昭如が三島の姿を見かけています。

のちにシャンソン歌手や俳優として活躍することになる美輪は、15歳の時に歌手を目指して長崎から上京、国立音楽高等学校に入学しましたが、実家の家業が倒産したため学業が続けられず、進駐軍のキャンプなどで歌手をしていました。1952年、銀座7丁目にあるシャンソン喫茶「銀巴里」との専属契約を交わして歌手デビューを飾ると、国籍・年齢・性別不詳の美しさが人気を呼び、三島をはじめ多くの文化人が美輪のファンになりました。

美輪は、天井棧敷の旗揚げ作品「青森県のせむし男」「毛皮のマリー」で主演、その舞台を観て感動した三島由紀夫は、舞台『黒蜥蜴』の主演を美輪に依頼しました。美輪主演版の「黒蜥蜴」は大成功を収め、1968年には深作欣二監督で映画化も実現します。映画「黒蜥蜴」では、三島は美輪とのキスシーンがあるという理由で端役を引き受けるほど、美輪に心を奪われていました。しかし二人の結びつきは「恋愛」というより美的・芸術的な結びつきという方が正しいでしょう。三島の死により果たせなかった舞台「近代能楽集」を、美輪は1996年に演出・主演で初演、2017年まで上演を重ねています。

三島由紀夫のボディビルとナルチシズムは?

鍛え上げられた三島の肉体

三島は1949年に発表した「仮面の告白」の中で、男性的な肉体への憧れを告白します。三島の肉体に対するこだわりは、1951年に訪れたヴァチカンでアンティノウス像の男性的な美しさに衝撃を受たことで一層強まります。これ以降、三島は肉体と精神が調和するという古代ギリシアの身体観に傾倒して、ギリシア的な身体を男性の理想と考えるようになり、それを自分の身体の上に実現しようとボディビルを始めます。

30歳の年の夏、私に突然福音が訪れた。これがのちのち人々の笑いの種子になり、かずかずの漫画の材料になったボディビルというものである(「実感的スポーツ論」)

1995年9月、三島はのちに日本ボディビル連盟の会長になる早稲田大学のボディビル部の玉利にコーチしてもらい、自宅でトレーニングを始めました。

三島由紀夫の名言は?

「強み」とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである(葉隠入門)

やたらと人に弱味をさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。(不道徳教育講座 告白するなかれ)

軽蔑とは、女の男に対する永遠の批評である。(反貞女大学)

三島由紀夫の名言9選!発言の背景や意図も解説

三島由紀夫の作品一覧と代表作品

  • 花ざかりの森- (1944年)
  • 煙草 – (1946年)
  • 岬にての物語- (1947年 )
  • 盗賊-(1948年)
  • 仮面の告白- (1949年)
  • 愛の渇き- (1950年)
  • 青の時代- (1950年)
  • 禁色- (1951年)
  • 卒塔婆小町- (1952年)
  • 真夏の死- (1953年)
  • 葵上- (1954年)
  • 潮騒- (1954年) 
  • 班- (1955年)
  • 沈める滝- (1955年)
  • 金閣寺- (1956年)
  • 鹿鳴館- (1957年)
  • 美徳のよろめき- (1957年)
  • 橋づくし- (1958年)
  • 鏡子の家- (1959年) 
  • 弱法師- (1960年) 
  • 宴のあと- (1960年)
  • 獣の戯れ- (1961年)
  • 美しい星- (1962年)
  • 午後の曳航- (1963年)
  • 剣- (1963年)
  • 絹と明察- (1964年)
  • 三熊野詣- (1965年)
  • サド侯爵夫人- (1965年)
  • 英霊の声- (1966年)
  • 太陽と鉄- (1968年)
  • 春の雪- (1969年)
  • 奔馬- (1969年)
  • 文化防衛論- (1969年)
  • 椿説弓張月- (1969年)
  • 暁の寺- (1970年)
  • 天人五衰- (1971年)

「仮面の告白」

女性に興味がなく、逞しい男に魅力を感じてきた主人公「私」の特異な「性」を告白した自叙伝スタイルの作品です。三島はこの作品を「死の領域へ遺さうとする遺書」であり「裏返しの自殺」つまり、生を回復するためのものと述べています。

「潮騒」

三重県の神島を舞台に、古代ギリシア的な健全で美しい身体を持つ青年と少女の初恋の物語。清らかな恋を誓う二人を邪魔する様々な障害が起こり、2人の仲は裂かれますが、新治の英雄的な活躍が初江の父を動かし、ハッピーエンドを迎えます。映画化され人気を博した作品です。

「金閣寺」

金閣寺の美に憑りつかれた学僧「私」が金閣寺に放火するまでの経緯を告白するという体裁の小説です。実際に起きた金閣寺放火事件に取材し、三島特有の美のフィルターを通して描かれています。世界的にも三島を有名にした代表作です。

「鏡子の家」

名門資産家の令嬢で、夫と別居して8歳の娘と洋館で自由気ままに暮らす30歳の鏡子のサロンに集まる4人の青年と鏡子が、戦後訪れた新たな時代に対して抱く虚無的な感覚を描いた長編小説です。5人の若者のニヒリズムをテーマに、三島自身が戦後への総決算とした小説です。

「英霊の声」

2・26事件に蹶起し銃殺刑に処せられた青年将校と、大東亜戦争で神風になろうと命を落とした特攻隊員の霊が、霊媒師の青年・川崎重男に憑依し、天皇の人間宣言に憤り、呪詛する様を描いた短編小説で、後の自衛隊における三島の行動を示唆する重要な作品です。

「天人五衰」

「天人五衰」は、全4巻からなる「豊饒の海」(ほうじょうのうみ)の最終巻です。「浜松中納言物語」を典拠に、1巻で死んだ主人公が、次の巻の主人公に輪廻転生して行く壮大なスケールの小説です。シリーズの完結編「天人五衰」を書き上げた直後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で切腹を果たしました。

三島由紀夫にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「太宰治に面と向かって僕は太宰さんの文学はきらいなんです、と言った。」

太宰治

22歳の時に三島は、太宰治と亀井勝一郎を囲む集まりに参加しました。そのとき太宰に面と向かって「僕は太宰さんの文学はきらいなんです。」と三島が言ったところ、太宰は「そんなこと言ったって、こうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよなあ。」と呟いていたということです。

しかし、三島の太宰嫌いは激しかったようで、

私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ。第一私はこの人の顔がきらいだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらいだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらいだ(「小説家の休暇」)

と述べています。

都市伝説・武勇伝2「新人官僚なのに大蔵大臣のハゲ頭を揶揄する文章を書いた」

新人官僚なのに…?

東京大学法学部を卒業した三島は、高等文官試験行政科に合格して大蔵省事務官に任官しました。この頃すでにプロの文筆家として活躍していたため、「筆の立つ男が入ってきた」という評判から、大蔵大臣の国民貯蓄振興大会の演説の原稿を任されました。

その大蔵大臣演説の原稿を三島は次のように書いたということです。「傘置シズ子さんの華やかなアトラクションの前に、私のようなハゲ頭が演説をして誠に艶消しでありますが・・・」。もちろんこの部分は上司に赤鉛筆で消されたという証言が残っています。

三島由紀夫の略歴年表

1925年
誕生
1925年=大正14年1月に生まれ、昭和元年1月が満年齢1歳の三島の人生は、まさに昭和という時代とともにあったと言えるでしょう。昭和と同じ歳を重ねて行った三島は、昭和という時代を象徴する小説家・思想家としての人生を歩むことになります。
1937年
学習院初等科卒業
日中戦争が始まるこの年、学習院初等科を卒業し、4月学習院中等科に進学しました。この頃、学習院の「輔仁会雑誌」に詩「秋二篇」を投稿し、その文才を見せています。
1944年
学習院高等科を首席で卒業
5月に本籍地の兵庫県で徴兵検査を受け、第二乙種合格。戦況が悪化する中、9月には学業短縮措置により、学習院高等科を首席で卒業し、恩賜の銀時計を受けました。卒業式の後、学習院院長に伴われ、母と共にお礼のため宮中に参内しています。10月、東京大学に入学し、翌年ついに出征することなく20歳の三島は終戦を迎えます。
1947年
東京大学法学部を卒業
東京大学法学部を卒業した三島は、高等文官試験行政科に合格して大蔵省事務官に任官しますが、文筆家としての執筆活動が多忙で、翌年には依願退職しました。
1955年
肉体改造をはじめる
30歳の三島は、早稲田大学ボディビル部の玉利斎にコーチしてもらい、自宅でトレーニングを始めました。コンプレックス解消のための肉体改造を通じ、三島の活動は文学に止まらず多方面に広がって行くことになりました。
1957年
結婚
32歳になった三島は、日本画家杉山寧・元子の長女瑶子(当時21歳)と結婚しました。2年後に
新宅を立てて転居し、子宝にも恵まれます。
1959年
映画俳優になる
大映映画の永田雅一社長から映画主演の話が持ち込まれ、俳優として専属契約をしました。翌年には 大映映画「からっ風野郎」で主演し、若尾文子、川崎敬三らと共演しました。
1965年
「憂国」の映画化
2・26事件に取材した「憂国」を自主映画化し、フランスの映画祭で高く評価されました。またこの頃、ノーベル文学賞の有力候補者として三島の名前が上がりました。
1967年
自衛隊に体験入隊
平岡公威の本名で、自衛隊に体験入隊し、当時の防衛庁事務次官の特別な計らいにより、久留米陸上自衛隊幹部候補生学校の隊付きとなりました。この後、三島は度々自衛隊に体験入隊を行っています。
1968年
楯の会発足
戦後憲法下における自衛隊のあり方を問題視していた三島は、民兵組織による祖国防衛隊を作ろうと計画しました。その計画は断念しますが、代わりに「楯の会」を発足しました。三島は楯の会メンバーを連れて、度々自衛隊の体験入隊を行いました。
1970年
楯の会による蜂起と死
45歳の三島は、楯の会メンバーとともに自衛隊東部方面総監を人質にして、総監室のバルコニーから演説を行いました。国会を占拠して憲法改正を発議するという趣旨の演説の後、三島は総監室で自決しました。

三島由紀夫の具体年表

1925年 – 0歳「大正末年東京に生まれる」

1925年の東京

平岡家の長男として生まれる

三島由紀夫(本名:平岡公威)は、農商務省に勤務する父平岡梓(あずさ)と母・倭文重(しずえ)の長男として生まれました。幼少期の公威は、独特な環境で育ちました。

公威は祖母の夏子によって、母から引き離されるように育てられたのです。公威の曽祖父つまり夏子の父は大審院判事、曽祖母つまり夏子の母は水戸支藩主松平頼位の三女でした。夏子は母の縁故で有栖川宮熾仁親王の屋敷に行儀見習いに上がったこともあり、気位が高く専制的な存在として家族から恐れられていました。

公威が生まれた当時、夏子は49歳でした。家の中で絶対的な存在だった夏子が、まだ乳飲み子の公威を母から取り上げ、自分の部屋に囲い込んだため、公威と両親の結びつきは遠くなったのでした。

女の子のような幼年時代

学校に上がる前の公威は、常に夏子の部屋で過ごし、夏子が選んだ年上の女の子を相手にままごとや折り紙をするような生活を送っていました。そのため女言葉を使うようになっていたということです。また祖母は歌舞伎・小説を好み、その影響で公威は早くから巌谷小波、鈴木三重吉、小川未明の童話に親しみました。

公威が5歳のとき弟の千之(ちゆき)が生まれますが、公威とは異なり千之は母の元で普通に育てられます。このころ母の倭文重は「この環境では普通の人間として育つ筈がない・・・」とノートに書き記すほど、祖母に囲い込まれた異常な環境で公威は育ったのでした。

1931年 – 6歳「学習院初等科に入学する」

現在の学習院初等科

学習院初等科に入学し祖母の拘束から逃れる

公威は学習院初等科に入学しました。当時の学習院は華族中心の学校だったため、平民は紹介者がなくては入学できませんでした。平岡家は平民だったため、大名華族の系譜にある祖母の意向と縁故で学習院入学が決まったと思われます。

学習院への通学が始まり、登校には母が付き添うようになりました。そのおかげでようやく祖母に気兼ねせず、母子二人の時間を持つことができるようになりました。三島は後にこう振り返っています。

母親は、私にとって、こっそり逢引きする相手のようなもの、ひそかな、人知れぬ恋人のようなものであった。

2・26事件

1936年、公威11歳の2月、2.26事件が起こりました。授業は1時間めで休講となり、「学校からの帰り道でいかなることに会おうとも学習院学生たる誇りを忘れてはなりません」という訓示を受けてから、雪の道を帰ったということです。

学習院初等科卒業

1937年3月、公威は学習院初等科卒業し、4月学習院中等科に進学しました。このころから歌舞伎を観劇し、記録ノートをとって舞台の様子をスケッチしたり、批評を書きつけていました。

またこの年、学習院の「輔仁会雑誌」に詩「秋二篇」を投稿しました。これ以前にも「輔仁会雑誌」に投稿したことがありましたが、上手すぎるために剽窃作の疑いをかけられて、採用が保留されていたのです。

1939年 – 14歳「作家三島由紀夫の誕生」

清水文雄

清水文雄との出会い

和泉式部の研究などで知られ、戦後は広島大学教授になった清水文雄が学習院に赴任し、公威の才能に注目しました。公威のクラスの作文と文法を清水文雄が担当したことをきっかけに、公威との子弟関係が始まり、この関係は終生続きました。

公威の文学熱はいよいよ高まる中、1939年10月、第二次世界大戦が始まり、国際情勢の緊迫化していきました。

自分一個の終末観と、時代と社会全部の終末観とが、完全に適合一致(「私の遍歴時代」)

そんな時代状況でしたが、公威は川路柳虹に詩の指導を受け、習作詩集「公威詩集」を作りました。
若干15歳の公威は、ラディケを聖書として崇め、詩人になろうと思うようになりました。しかし父親は、公威が文学に傾倒するのを快く思いませんでした。原稿を破り捨てるなどの直接行動に出ますが、母が公威の執筆活動を応援し、原稿用紙やインキを息子に買い与えるなど献身的にサポートしました。

三島由紀夫というペンネームを使うようになる

16歳の公威は「花ざかりの森」を書き上げ、恩師の清水文雄に見てもらいました。作品に感銘を受けた清水は雑誌「文芸文化」編集会議に作品を提出し、掲載が決定しました。

公威は、「花ざかりの森」を「文藝文化」に連載するにあたり、「三島由紀夫」というペンネームを使うようになりました。これは恩師清水をはじめ「文藝文化」同人の意向による命名でした。こうして作家三島由紀夫が誕生しました。

1942年 – 17歳「戦時下の青春と執筆活動」

『花ざかりの森』初版

戦時下の文筆活動

1941年12月に太平洋戦争が勃発しました。1942年10月には神宮外苑競技場で、学徒出陣壮行会が行われました。戦時による学業年限の短縮のために、入隊が近づいたことを三島は恐れました。学習院高等科乙類の学生である三島の身にも戦争の影は足音を立てて近づいてきたのです。

そうした情勢の中、三島は仲間とともに同人誌「赤絵」を創刊しました。また1943年1月には学習院図書館懸賞論文に三島の「王朝心理文学小史」が入賞、 1944年19歳の4月には処女作「花ざかりの森」の書籍としての刊行が決定し、若き三島は文学者としての歩みを進めていました。

学習院卒業

1944年9月、三島は学習院高等科を首席で卒業し、恩賜の銀時計を受けました。卒業式の後、学習院院長に伴われ、母と共に宮中に参内しました。10月に三島は東京帝国大学法学部法律学科に入学しましたが、20歳になったばかりの三島の元についに入営通知が届きました。

三島は遺書を書き、入隊のための検査に臨みました。しかし当日風邪をひいていた三島は高熱を発したため、軍医は胸膜炎と誤診し即日帰郷することになりました。実家に戻った三島は、空襲に見舞われる東京で執筆活動を続けました。

敗戦

三島は結局、出兵しないまま終戦を迎えました。三島はのちに終戦の日の思い出をこう語っています。

20歳の私は、何となくぼやぼやした心境で終戦を迎えたのであって、悲憤慷慨もしなければ、欣喜雀曜もしなかった。(「八月二十一日のアリバイ」)

三島は、ちょうど「岬にての物語」執筆中に終戦を迎えました。戦況が悪化する中、勤労奉仕に行った海軍工廠の寮でも三島は執筆を続けており、こうした体験から自分は書かずにはいられない人間なのだと自覚したと言います。

1947年 – 22歳「「仮面の告白」の時代」

『仮面の告白』初版

官吏と小説家の二足のわらじ

天皇の人間宣言と新憲法発布の翌年、三島は東京大学法学部を卒業して、高等文官試験行政科に合格、大蔵省事務官に任官しました。しかし、大蔵省入省後も盛んな執筆活動を行い、職業作家の道を進むか、官吏の職を続けるか三島は悩みました。

翌年9月、三島は創作活動に専念することを決め、大蔵省を依願退職しました。当初、三島の父は、作家活動を快く思っていませんでした。しかし官吏と小説家の二足のわらじのために睡眠不足が続いた三島は、渋谷駅のホームでふらついて線路に落下してしまいました。この一件もあり、父は三島の退官を受け入れざるを得なくなりました。

「仮面の告白」により作家としての地位を得る

1949年、三島は「仮面の告白」を刊行しました。

この本は私が今までそこに住んでいた死の領域へ遺そうとする遺書だ。この本を書くことは私にとって裏返しの遺書だ。(月報「『仮面の告白』ノート)

三島自身がこう解説をした「仮面の告白」は、自伝的要素が強く三島を語る上で欠かせない作品です。

感受性鋭い幼少期を送った主人公が、野卑で男性的なものに強く惹かれ、男性を愛するようになっていくというストーリーのこの作品は、多くの人に戸惑いを生じさせましたが、小説として高評価を得ました。このセンセーショナルな作品により、三島は作家としての地位を確立しました。

1954年 – 29歳「肉体と文体の改造」

「潮騒」の舞台・神島

「潮騒」がベストセラーになる

書き下ろし中編小説の「潮騒」がベストセラーになり、第1回「新潮社文学賞」受賞しました。三島が文学作品で賞を受けたのはこれが初めてでした。「潮騒」は知多半島と渥美半島の間、伊勢湾の一角にある神島を舞台に、若い漁師照吉と島で屈指の金持ちの末娘初江の恋を描きました。濡れた体を乾かすために、焚き火を挟んで若い二人が裸で対峙する美しい場面が有名な作品で、映画化もされています。

主人公の青年は、肉体的な美しさを持つ健全で英雄的存在として描かれています。三島は「仮面の告白」の中でも男性的な肉体への憧れを表現していましたが、三島の肉体に対するこだわりは、1951年に訪れたヴァチカンで、アンティノウス像の男性的な美しさに衝撃を受たことで一層強まりました。三島は、肉体と精神の調和を理想とするギリシア的な身体観に共鳴し、それを自身で実現するためにボディビルに目覚めました。

ボディビルでの肉体改造

30歳になった三島は、早稲田大学ボディビル部の玉利斎にコーチをしてもらい、自宅でトレーニングを始めました。のちに自由が丘のジムにも通うようになります。

自分の力が日増しに増すのを知るほど面白いものはない 私の若き日の信念では、自意識と筋肉とは絶対の反対概念であったのに、今、極度の自意識が筋肉を育ててゆくこの奇跡に目を見張った(「実感的スポーツ論」)

このように、三島は自分の肉体を鍛え筋肉を育て上げることに、強い自意識をもって臨んで行ったのです。

文体改造を意識する

1956年31歳の三島は、「金閣寺」を雑誌「新潮」に連載しました。その連載の最中、雑誌「文学界」に発表した文章の中で、三島は文学的な方向性の変化に言及しています。

鴎外の清澄な知的文体は、私への救いとして現れた。(中略)そこで私は鴎外の文体模写によって自分を改造しようと試み 感性的な物から知的なものへ、女性的なものから男性的なものへ

このように三島は、創作活動においても自己改造を試み、鴎外の硬質な文体に象徴される、強靭で男性的なものへの傾倒を強めて行きました。

1958年 – 33歳「映画俳優やモデルとして活動の幅を広げる」

「からっ風野郎」の三島由紀夫と若尾文子

結婚と新居

33歳になった三島は、日本画家杉山寧・元子の長女瑶子(当時21歳)とお見合い結婚しました。瑶子は文学には興味を持たず、素直で女らしく、かつハイヒールをはいても自分より背が低く、好みの丸顔だった点で三島は瑶子を気にいったということです。

また三島は大田区馬込東1丁目1333番地(現・南馬込4−32−8)に新居を建築しました。
清水建設の設計者に設計をオーダーし、ビクトリア朝風のコロニアル様式の「キンキラキン」の家を希望したと言います。

三島の作品が海外で注目されるようになる

この頃から、三島の作品が海外で評価されるようになって行きます。英訳の「仮面の告白」が刊行され、「近代能楽集(「邯鄲」)」のハワイ上演、 ドイツ語訳「近代能楽集」刊行、ドイツの各都市での「近代能楽集」上演、スウェーデンのストックホルム王立劇場における「卒塔婆小町」と「邯鄲」の上演などが相次ぎました。

こうした評価を受け、三島は世界を意識して書いた小説家として、当時の日本では類のない作家でした。

映画俳優デビュー

大映映画の永田雅一大映社長から映画主演の話が持ちこまれ、三島は俳優として大映と専属契約をします。作家としては異例と言えるでしょう。

35歳の三島は、大映映画「からっ風野郎」に主演し、落ち目の名門ヤクザの二代目役を演じました。共演は若尾文子、川崎敬三などでした。監督は東京大学で三島と同期の増村保造でした。

「憂国」執筆

映画俳優としての華やかな表舞台での活動に精力を注ぐ一方で、三島は小説「憂国」を発表しました。「憂国」は2・26事件に取材した小説です。主人公の青年中尉は、新婚だったために仲間から2・26の蜂起に誘われませんでした。そのため、叛乱軍となった仲間を討伐する立場に立たされたことに苦悩し、妻と共に心中するというストーリーの作品です。

「憂国」は1961年1月「小説中央公論」に発表されましたが、2月1日に嶋中事件が起こり、三島家にも脅迫状が届いたため、警察は三島に護衛をつけました。嶋中事件とは深沢七郎の小説「風流夢譚」を掲載した中央公論社の社長嶋中社長邸に右翼少年が侵入し、家人を殺傷したという事件です。「風流夢譚」が皇族惨殺の夢想を描く作品だったために、宮内庁からの抗議も出ていました。

プライバシー侵害で提訴される

有田八郎

同年、三島は新潮社とともに、元外相の有田八郎から告訴されました。三島の小説「宴のあと」は、有田と前夫人をモデルにしたと言われており、有田はこれを人権侵害として以前から抗議を続けていたのですが、ついに三島はプライバシー侵害で提訴されました。

この裁判は「プライバシー」という観念が争われた点で、社会的な関心を集めました。また表現の自由に関わる問題にも関わるため、文壇の関心も高まりました。プライバシー侵害が認められるという判決がくだり、三島は80万円の慰謝料を命じられ、最高裁に控訴しましたが、有田氏の死去により結局、翌年和解が成立しました。

写真集のモデルになる

三島の評論集「美の襲撃」の表紙カバーに三島自身の写真を採用することが決まり、その撮影を細江英公が行いました。細江は三島を撮影することで創作欲を引き出され、写真集のモデルを三島に依頼しました。

1963年、三島由紀夫を被写体とした写真集「薔薇刑」が完成しました。「薔薇刑」は全5章で構成され、計96枚の写真が収められています。極めて耽美的あるいは幻想的に筋肉で武装した三島の体が表現され、マゾヒスティックな構図も相まって海外でも大きな話題を呼びました。

東京オリンピックの取材員になる

1964年8月、三島は東京オリンピック取材員となり、上旬から取材を始めました。8月10日に開催された開会式を取材し、「東洋と西洋を結ぶ火」を「毎日新聞」に発表しました。閉会式まで、各種の競技を取材し、「読売」「朝日」「毎日」「報知」各新聞に記事を発表しています。

1965年 – 40歳「カタストロフィへ」

映画『憂国』

「憂国」の映画化

三島は「憂国」の映画化を企てますが、映画会社での映画化が困難だったため、個人での映画化を決定します。費用を抑えるために、舞台装置を一切排除して能の形式での撮影を企てます。大映のプロデューサー藤井浩明に相談すると、外国映画祭の出展を射程に入れて35ミリで撮影するようにとアドバイスを受け、映画化が決定しました。

三島は「憂国」のシナリオを一気に脱稿し、原作・制作・監督・脚色・主演三島由紀夫、演出堂本正樹、撮影渡辺公生で4月15日クランクイン、4月30日クランクアップしました。上映時間は28分の短編映画ですが、作品を観た大映社長永田雅一と東和映画の川喜田かしこは絶賛し、パリのシネマテックでの試写を手配してくれました。このパリでの試写会は大成功し、翌年にはフランス・ツール国際短編映画祭に出展しました。惜しくも受賞は逃しましたが、高い評価を受けました。

「英霊の声」を「文芸」に発表

三島は、母に向かって2・26事件の頃の農村の疲弊ぶりを熱く語っていました。娘を売って生活せざるを得ない貧困の中、兵役につかなければいけなかった苦境などを熱心に説いたと言います。その2、3日後に一気に書き上げたのが「英霊の声」でした。

三島の母は、「英霊の声」を脱稿直後に手渡された作品を読み

「公威に何かが憑いてているような気がして、寒気を覚えた」(「暴流のごとく」)

と語っています。三島自身もペンが勝手に紙の上をすべるように書いたとか、2・26事件で死んだ兵隊たちの言葉が聞こえたというほど、熱中して執筆した作品でした。

「論争ジャーナル」に集う青年との出会い

「論争ジャーナル」

林房雄の紹介状を持って政論誌「論争ジャーナル」を編集する万代潔が三島を訪ねてきました。「論争ジャーナル」は、戦前に皇国史観を推進した元東京大学教授平泉澄の門下生だった中辻和彦と万代潔が、健全な保守の雑誌を意図して発行していました。三島は万代と話した感想を次のように語っています。

「いかなる党派にも属さず、純粋な意気で、日本の歪みを正そうと思い立って、固く団結を誓い、苦労を重ねてきた物語をきくうちに、(中略)いつの間にか感動していたのである」(「青年について」)

彼らとの出会いがのちの「楯の会」結成に繋がって行くことになりました。

自衛隊に体験入隊する

1967年42歳になった三島は、平岡公威の本名で自衛隊に体験入隊しました。久留米陸上自衛隊幹部候補生学校の隊付きとなったのちは、富士学校教導連隊で戦車の操縦や完全武装で行軍など経験しました。

この頃三島は、軍人に対する敬愛の念を

「国や民族のためには、いさぎよく命を捨てる、というのは美しい生き方であり死に方である(中略)武人が人に尊敬されたのは、(中略)いさぎよい美しい死に方が可能だと考えられたからである。」(「美しい死に方」)

と述べています。

「葉隠入門」を刊行

三島は、鍋島藩士山本常朝の談話を筆録した「葉隠」を論じた評論を発表しました。享保元年1716年成立した「葉隠」は、武士道について論じた書物で、「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」というフレーズが有名です。

三島は、この「死ぬことと見つけたり」というフレーズに「逆説的」な意味を読み取り、この書物は自由と情熱を説いたものであるという解釈を示しています。

祖国防衛隊構想

三島は、「論争ジャーナル」を中心にした学生のグループと急速に親しくなり、自衛隊入隊体験を踏まえた「祖国防衛隊構想」を作り上げました。この中で三島は、現在の日本は侵略の危機にあるという認識を示し、事あれば剣を執って国の歴史と伝統を守るための、自衛隊を補完する民兵組織を提案しました。

三島は財界人に協力を仰ぎましたが十分な協力を期待することができなかったため、この構想は早々に断念しました。しかし、自分たちの力だけで推進しようという決意を持って、三島と青年たちは、自衛隊への体験入隊を繰り返し行います。

楯の会発足

楯の会

三島は、学生を連れて陸上自衛隊に体験入隊するにあたり、揃いの制服を仕立てました。この体験入隊メンバーにはのちに三島とともに切腹を果たす早稲田大学のの森田必勝(まさかつ)がいました。

1968年10月5日、三島は民兵組織祖国防衛隊を断念した代わりに、祖国防衛隊構想に共感する青年たちと「楯の会」を発足しました。虎ノ門教育会館には40名を越すメンバーが制服を着用して集まりました。折しも時代は安保闘争を経て、全共闘運動・大学紛争が盛り上がりを見せる中のことでした。

1969年5月には、三島は東大全共闘主催の討論集会に招かれ、駒場教養学部900番教室に集まった約1000人の学生と2時間半にわたる討論を繰り広げました。警察は警備を申し出、楯の会のメンバーは護衛を申し出ましたが三島はそれを退けて、単身で赴きました。

楯の会の活動にのめり込む

1969年44歳の三島は、五社英雄監督の依頼で映画「人斬り」に田中新兵衛役で出演しました。共演には勝新太郎、仲代達矢、石原裕次郎などそうそうたる俳優が居並んでいました。

こうした華やかな活動を盛んに繰り広げる一方で、三島は楯の会のメンバーとともに、最後の行動への歩みを進めて行くのでした。11月には国立劇場の屋上で、楯の会結成1周年パレードを行い、観閲台には元陸軍自衛隊富士学校長の碇井準三が立ち、富士学校の音楽隊が演奏、作家や芸能人、報道関係者を多数招待しました。この日に配布したパンフレットに三島は次のように書いています。

私は日本の戦後の偽善にあきあきしていた。(中略)日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になった国はないと信じている(中略)日本に消えかけている武士の魂の炎を、かき立てるためにこれをやっているのだ。

最終行動の準備を進める

1970年に入ると、三島は楯の会学生部長森田必勝と共に最終行動計画を立てました。三島は、憲法改正による自衛隊の国軍・正規軍化を望んでいました。しかし自衛隊そのものがが内発的に行動することは期待はできないから、自分たちで蹶起し憲法改正を訴えるという意図していました。

戦後25年の終戦記念日を前に三島は「私の中の25年」という文章の中で、戦後民主主義とそこから生ずる偽善を絶望的に語っています。全共闘の学生たちとは異なるベクトルで、三島は戦後の日本への挑戦状を突き付けようとしていたのでした。

写真集「男の死」

この頃、篠山紀信の写真集「男の死」のモデルとして撮影を行いました。宗教画「聖セバスチャンの殉教」の構図で篠山が三島を撮った写真を気に入り、三島自身が篠山紀信に持ちかけた企画でした。三島が演じる様々な死の姿を写したこの写真集は、薔薇十字社から刊行予定でしたが、三島の本当の死により、非公開となりました。

決行前夜

自衛隊市ケ谷駐屯地での衝撃的な事件の1週間前、三島は楯の会の森田・小賀・小川・古賀と共に半蔵門の東条会館で記念撮影をしました。

そして三島を含むメンバー5人は、11月23日、24日にパレスチナホテルの一室で蹶起のための行動訓練を行い、辞世の句を書きました。その後、新橋の料亭で最後の宴を行っています。また24日には、三島は旧知のマスコミ関係者に連絡を取り、明日10時頃、自分が希望する場所に来てほしいと連絡をしました。

決行の日

バルコニーにいる三島

11月25日、午前8時に起床した三島は、「天人五衰」最終回の原稿を「新潮」の編集者に渡すように手伝いの女性に託して出かけました。楯の会の制服を着用し、軍刀のように拵え直した日本刀とアタッシュケースを手にしていました。三島は、決行メンバーの小賀・古賀・小川に向けて、3人は決行後も生きながらえて法廷で楯の会の精神を陳述するよう命じた文書と現金を渡しました。

10時58分に 陸上自衛隊市ケ谷駐屯地の正門を通過しました。予てから訓練参加などを通じて自衛隊幹部と深い関わりを持っていた三島は、怪しまれることもなく総監室に案内されました。益田兼利総監が三島と談話するその隙を狙って、小賀らが総監を拘束、総監を人質にとって「要求を呑めば総監の命は助ける」と要求書を出しました。

自衛隊の説得に三島らが応じなかったため、自衛隊側は協議の結果、要求の1つにあった、自衛隊員に向けた三島の演説を認め、全隊員を本館前に集めました。総監室前のバルコニーに立った楯の会のメンバーは、6項目の要求を書いた垂れ幕を下げ、檄文を撒きました。12時、三島がバルコニーに現れ、檄文と同じ内容の演説を行いました。

三島由紀夫の自決

三島は戦後憲法の改正の必要性を訴えました。自衛隊を国軍とするためには憲法改正が必要で、そのための行動を共に起こそうと訴えかけますが、異変を聞きつけたマスコミのヘリコプターの爆音や自衛隊員から発せられる野次や怒号に遮られ、12時10分に演説を打ち切りました。三島は森田とともに皇居に向かって「天皇陛下万歳」と三唱後、総監室に戻り切腹して自決を果たしました。

切腹の前に三島は、人質に取った総監に向かって「恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです」と言ったそうです。

切腹した三島の介錯は森田が行いましたが、何度か刀を下ろすものの果たせず、結局古賀が果たしました。その後、森田も切腹、古賀が一太刀で介錯を果たしました。

残った3人は、2人の遺体を仰向けにして制服をかけ、首を並べて合掌の後、総監室を出て刀を自衛官に渡し警察官に逮捕されました。

三島由紀夫の死因は?三島事件の経緯・背景にある思想を解説!

三島事件後

11月26日慶應大学法医学教室で解剖を終えた三島の遺体が自宅に帰り、自宅で密葬が行われました。
遺言により遺体には楯の会の制服を着せ、刀が添えられました。その日のうちに東京桐ケ谷の火葬場で荼毘に付されました。戒名は「彰武院文鑑公威居士」。

12月11日有志により、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が池袋豊島公会堂で開かれました。また1971年1月
24日には、葬儀委員長を川端康成がつとめ、築地本願寺で葬儀が執り行われました。警視庁の調べでは一般参列者は8200人にものぼったということです。

1月26日三島由紀夫研究会が発足し以後、「憂国忌」の開催など行っています。

三島由紀夫の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

仮面の告白

作家としての三島が評価を確立した作品です。自己の性欲の目覚めを告白的に語るというスタイルは、森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」を思い起こしますが、鴎外があくまでも自己の制欲を分析的に乾いた視点で対象化したのに対し、三島の「仮面の告白」は自意識の底を抉り出すような作品になっています。

若きサムライのために

三島は「若者よ、高貴なる野蛮人たれ! 」と平和ボケや現状肯定を批判します。挑発的に語る三島の声に今こそ耳を傾ける時かもしれません。三島作品の中では、わかりやすい文体なので、おすすめです。

福田赳夫、福田恒存との対談は、非常に興味深いです。全共闘・反安保闘争が繰り広げられていた時代に書かれたものなので、その時代を知る材料になるのはもちろんですが、三島のメッセージの核は現代でも色褪せません。

三島由紀夫と最後に会った青年将校

三島に関する評論は文学サイドのものが圧倒的に多いのですが、この作品は自衛隊関係者による証言であり、三島の最後の行動を知る上で、非常に興味深いものです。著者は防衛大教授としての経歴もあり、その立場から三島の防衛論や日米安保体制への認識を相対化しています。最後の行動に向け、何が三島を突き動かしたのかその疑問にかられたなら一読したい作品です。

おすすめの動画

【HD映像】三島由紀夫 – “三島事件”最後の演説

三島の市ケ谷駐屯地での歴史的な演説です。決死の覚悟で演説を行う三島の声がヤジや怒号でかき消されてしまうことに、悲しさを感じます。幸いなことに映像として残た三島のメッセージは、戦後をまるで知らない今の若者にどう響くでしょうか。

三島由紀夫・伝説の討論会1/5 50年ぶり秘蔵映像発掘「VS東大全共闘」#1

三島は、東大全共闘を相手にした討論会に大変な気概を持って臨んだようです。護衛を拒否しましたが、その実、平穏に終わるとは思っていなかった言います。幸い身の安全が脅かされるようなことはありませんでしたが、表面的には対局にある全共闘との討論は、歴史的にも貴重な資料で、1960~70年代のまさに政治の季節の熱さを感じます。

おすすめの映画

「憂国」

三島が自主制作した短編映画です。忠誠と死とエロスというテーマを、幽玄な能の形式を用いて表現しています。海外でも高い評価を受けた作品で、三島の美意識の結晶を観ることができるでしょう。しかし、痛みや流血に弱い人は視聴要注意です。

「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」

この映画は2020年3月20日(金)に全国公開されます。1969年5月に東京大学駒場キャンパスで行われた作家・三島由紀夫と東大全共闘との討論会を軸にしたドキュメンタリーで、当時の関係者や現代の識者たちの証言とともに、三島の人物像が検証されます。ナビゲーターは東出昌大、監督は豊島圭介です。

おすすめドラマ

「命売ります」

三島の小説「命売ります」は1968年に発表されました。原作はユーモラスで娯楽要素の強いエンターテインメント小説です。「週間プレイボーイ」に連載されていたということで男性うけのよい内容です。

関連外部リンク

三島由紀夫についてのまとめ

三島由紀夫と同時代を生きた人たちに、私はなんとなく嫉妬を覚えます。ノーベル文学賞の候補に上がるほどの小説家でありながら、ボディビルダー・映画俳優・写真モデル、そして国の進路を悲憤慷慨する思想家で行動家。そのどれもが特有の美意識で貫かれており、自分の人生そのものを作品として完結させた、そんな存在は他にちょっと思い浮かびません。

私は美輪明宏さんの舞台「近代能楽集」を観に行ったことがあります。三島由紀夫がその美しさに惚れこんだ美輪さんによる演技と美しい世界観に鳥肌が立ちました。

三島の死から50年たつ今こそ、自分が理想とする究極の美意識に殉じた三島由紀夫の文学・映画・舞台・思想がより活発に再評価されることを期待します!