室生犀星(むろうさいせい)は、大正~昭和期にかけて活躍した詩人であり小説家です。文豪としての知名度は、太宰治や芥川龍之介に劣ると言わざるを得ない人物ではありますが、長命であったことから遺した作品の数はかなり多く、校歌の作詞なども数多く手がけている人物です。
残されているエピソードの数や、彼にゆかりのある物品もかなり多く、そういう意味では太宰や芥川らよりも、ある意味身近に存在する文豪だと言えるかもしれません。
とはいえ、室生犀星の作品の知名度は率直に言ってしまうとそこまで高くはありません。インパクトの強い名前故、「名前を聞いたことがある」という方は多いですが、「彼の作品は何か」と訊かれると、答えに窮する方も多いかと思われます(実際、筆者もそのうちの一人です)。
ですがその一方、犀星にはその人格面における面白エピソードが多く、現在の彼の人気は作品に対してというよりも、彼のキャラクター性による部分が大きかったりもします。そのキャラクター性は、太宰や芥川、梶井基次郎らと比較して”良い意味で”個性的であり、いわゆる「萌えキャラ」的なエピソードを数多く残しているのです。
この記事では、犀星の作風的な魅力ではなく、むしろ彼の人格的な魅力に惹かれた筆者が、数多く残る犀星の可愛いエピソードを交えて、彼の生涯を紹介していきたいと思います。
この記事を書いた人
室生犀星とはどんな人?
名前 | 室生犀星 (むろうさいせい) |
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本名 | 室生照道 (むろうてるみち) |
誕生日 | 1889年8月1日 |
没日 | 1962年3月26日 (享年72歳) |
生地 | 石川県金沢市 |
没地 | 東京都港区虎ノ門 |
配偶者 | 室生とみ子 |
埋葬場所 | 石川県金沢市・野田山墓地 |
文学ジャンル | 理想主義文学 |
代表作 | 『蜜のあわれ』『杏っ子』『あにいもうと』 ほか多数 |
室生犀星の生涯をハイライト
1889年に現在の石川県金沢市に生まれた室生犀星。生まれてすぐに養子に出されたため、実の両親の顔を見ることもありませんでした。
養子に出された先でも生活は苦しく、犀星は高等小学校を中退して、裁判所の給仕として働くことを余儀なくされます。しかし、その裁判所での出会いで彼は俳句の楽しさを知り、のめり込んで行きます。
その後、1910年に犀星は初めて上京、文学で身を立てようと努力しますが、生活は苦しく、度々故郷に戻ってきたそうです。
1919年に最初の詩集を自費出版した後、犀星は1920年代には小説も執筆するようになり、売れっ子の小説家になっていきます。1930年代に入っての作品「あにいもうと」は後に映画化もされるほどの人気がありました。
戦後も小説家としての活躍は続き、1957年の自伝的小説「杏っ子」は好評で、犀星は読売文学賞を受賞しました。「杏っ子」も映画化され、多くの人の心を動かしました。
1959年にはかねてから闘病中だった、妻・とみ子を見送り、その3年後の1962年には犀星自らが肺がんに倒れ、72歳でこの世を去りました。遺体は犀星がこよなく愛した故郷・金沢に葬られたのです。
室生犀星の文学を作った故郷とは
自らの生まれに大きなコンプレックスを持っていた犀星ですが、故郷・金沢のことは大変愛していたようです。作品に度々登場させ、その美しい姿を描いていることからも、犀星の故郷への愛情がよくわかります。
犀星が生まれたのは金沢市裏千日町。千日とは神社や寺に千日間籠もって祈願をする千日参籠のことです。伊勢神宮で千日参籠を行った後に建てられたのが千日山雨宝院という寺で、地名の由来にもなっています。
そして、生後すぐに犀星が養子に出された先こそが、千日山雨宝院だったのです。
文学に目覚めたきっかけは裁判所での出会い
犀星が活躍したころの文壇は、刹那的な生き様の中で、短期間で多くの名作を生み出して早逝する「太宰・芥川タイプ」の作家か、きちんとした社会的基盤の中で、コンスタントに多くの名作を生み出す「鴎外・漱石タイプ」の作家で二分されていたと言えます。
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犀星は後者の「鴎外・漱石タイプ」の長命な作家ではありましたが、きちんとした社会的基盤があったかと言えばそうではなく、生活苦の中で高等小学校を中退し、裁判所の給仕として働くことを強いられるなど、辛く苦しい赤貧生活も経験しています。
しかし犀星は、その裁判所での職務の中で、裁判所の上司でもあった河越風骨や赤倉錦風といった俳人たちから俳句の手ほどきを受け、その経験から文学者として名を上げていくことになるのです。「人間万事塞翁が馬」と言いますが、犀星の人生も、正にその言葉に当てはまると感じられます。
室生犀星の文学ジャンルの特徴とは?
犀星の文学ジャンルは、「理想主義文学」と区分されることが多いです。犀星が文壇で名を上げるより少し前には、理想主義文学の代表のように扱われる同人誌『白樺』が刊行されていたため、もしかすると犀星も、その同人誌に影響を受けていたのかもしれません。
現実に起こる様々な現象を写実的に描くのではなく、「こうであればいいのに」「こうなってほしい」という理想像を強く描く理想主義文学の特徴は、犀星の作品には年代を問わずに強く表れており、それ故に彼の作品は、どこか不思議でファンタジックな世界観の印象を受けるものが多くなっています。
そのため、社会派小説を好む方からすると受け入れにくい作家ではありますが、反対にファンタジーやライトノベル、あるいは児童文学的なハッピーエンドを好む方からすると、とても受け入れやすい作品群になっていると言えそうです。
友人・萩原朔太郎との関係は?
室生犀星の友人と言って真っ先に名が挙がるのは、同時期に活躍した詩人・萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)ではないでしょうか。
犀星と朔太郎は、北原白秋主催の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿していたという縁があり、朔太郎は犀星の繊細な文章表現に強く憧れていたというエピソードが残されています。また、憧れが高じすぎて「こんな詩を書く人は、線の細い美少年に違いない」という勝手なイメージを抱き、実際に出会った時に勝手に幻滅したという、朔太郎の思い込みの激しさを示すエピソードも残されているようです。
上記のエピソードのように、実際に知り合った当初は、朔太郎は犀星に「貧乏くさい痩せ犬」、犀星から朔太郎へは「鼻持ちならない気障な奴」という印象を抱き、決して良好ではない関係でした。
しかし交流を深めていくと、彼らは互いに気が合っていったらしく、結局彼らの友情は生涯にわたって続いたと記録されています。彼らの友情を示すエピソードは枚挙に暇がなく、その全てを紹介するのは非常に難しいのですが、それらの面白エピソードは以降のトピックスで、いくつか紹介していきたいと思います。
羊羹が大好きだった犀星
様々な面白エピソードが残っている室生犀星は、その分好んでいたものに関する情報も多数残されています。
中でも犀星は「羊羹」を非常に好んでいたようで、現存するだけでも「羊羹を買ってきてくれ」という手紙が4つ、「羊羹を買って来てくれてありがとう」というお礼状が2つと、羊羹に関するものだけで6つもの手紙が残っています。
中でも地元の和菓子店「森八」の羊羹を好んでいたらしく、晩年には自宅でトマトに砂糖を付けて食べながら「森八の羊羹の味がするな……」と呟いていたという、面白さと同時に哀愁も感じるエピソードを残しています。
犀星が好んだ羊羹を作った和菓子屋「森八」は現在も営業しているため、犀星が何より好んだ羊羹の味を、我々も味わうことができます。犀星に興味がある方は、是非お買い求めください。
動物好きで特に猫を溺愛していた
「森八の羊羹」と同じくらい、犀星は動物を好んでいたとも伝わっています。特に猫を溺愛していたらしく、晩年の彼は生活がさほど豊かではなかったにもかかわらず、ミュン子、ジィノ、ツマロと名付けた猫を3匹飼っていたそうです。上の写真に写っているのは、犀星とジィノ。写真に写るジィノと犀星の仲睦まじい様子に、犀星ファンになった猫好きも多いとかそうでないとか。
さらに犀星は「犬は好きじゃない」と公言しながらも、何故か鉄とゴリという2匹の犬も飼っていたと記録されています。飼い猫に対しても「火鉢が曇りやすくなって困る」と口では言いながらも、火鉢が曇るたびに嬉しそうに火鉢を拭いていたというエピソードが残っており、彼の動物好きを示すエピソードは枚挙に暇がありません。
その動物好き振りは、犀星ファンの間では有名であるらしく、犀星の記念館には「室生家の犬猫年譜表」なるものが存在するとのこと。犀星ファンのみならず、可愛い猫の写真が見たい方にもお勧めの施設ですので、石川県を訪れた際には訪れてみるのも良いのではないでしょうか?
室生犀星の代表的な作品
詩集
- 『愛の詩集 第一詩集』1918年
- 『抒情小曲集 第2詩集』1918年
- 『十返花 詩歌集』 1936年
- 『泥雀の歌』1942年
- 『室生犀星全詩集』1962年
小説
- 『或る少女の死まで』1919年
- 『性に眼覚める頃』1920年
- 『あにいもうと・山吹』1953年
- 『杏っ子』1957年
- 『蜜のあはれ』新潮社、1959年
評論・随筆
- 『新らしい詩とその作り方』1918年
- 『魚眠洞随筆』1925年
- 『天馬の脚』1929年
- 『四角い卵』(随筆)新潮社、1962年
- 『好色』筑摩書房、1962年
校歌作詞
- 金石町小学校
- 金沢市立野町小学校
- 金沢大学附属高校
- 金沢大学
- 金沢美術工芸大学