室生犀星の功績
功績1「高い文章能力で多くの作家に影響を与えたこと」
室生犀星はその高い文章表現能力で、多くの小説家に影響を与えました。
文豪・川端康成は室生犀星のことを「言語表現の妖魔」と讃えました。それだけ犀星の文章表現能力は高いもので、友人として付き合っていた芥川龍之介も羨望の眼差しを送っていたほどだったと伝わっています。
「理想主義」という”現実から離れたもの”を主眼に置いた犀星の作品は、現実に根差していない題材を扱っている分、より繊細な言語表現が求められる作品でもあります。一度でも詩や小説を書いたことのある方ならわかると思うのですが、「存在しないものを言語化する」という事には、それこそ生みの苦しみと呼ぶにふさわしい苦心が生じるのです。特に犀星が主題に置くことの多い「愛」なんて題材は、その苦心の最たるものと言っても良いでしょう。
そして犀星がそれらの題材をどのように表現したのかについては、この記事で語るべきところではありません。というより、語れるところではありません。
犀星がそれらをどう表現したのかについては、皆さまがそれぞれ犀星の作品に触れて感じていただき、その中で妖魔とすら称されたその言語表現の巧みさを、それぞれの感性で感じ取ってもらえればと思います。
きっと多くの小説家に影響を与えたことが納得できるはずです。
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功績2「生まれ故郷、金沢の美しさを世の中に知らせた事」
犀星に金沢を宣伝する意図はなかったかもしれませんが、彼が作品を発表する度に金沢の美しさを世間に知らせる結果となりました。
そもそも室生犀星というペンネームは、故郷に流れる犀川に由来しています。そして彼の小説には度々金沢の景色が登場します。良い例が「幼年時代」や「性に目覚める頃」に登場する千日山雨宝院です。
雨宝院は金沢市の古いお寺で養子となった犀星の生活の場でもありました。作品に登場したことで、今でも多くのファンが訪れています。
功績3「自らの複雑な生い立ちを作品に昇華させた事 」
犀星の作品には、多くの人が心を癒やされたはずです。その理由には、彼の作品に流れている大きなコンプレックスがあります。
室生犀星の大きなコンプレックスとは、自分の出生に対するものです。実の両親を知らずに養子に出されたということは、彼を孤独にしたはずです。しかし、そのコンプレックスは吐き出され、美しい作品へと昇華していきました。
そのため犀星の小説には、自伝的な意味を持つものや家族間の葛藤などを描いたものが見られるのでしょう。問題を抱えても生きていく登場人物に読者は自分自身を重ね合わせることができたのです。
室生犀星の名言
ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや
大正7年の詩集「抒情小曲集」に収められている詩の一節です。夢破れて故郷に帰ったものの居場所がなかった犀星の心の内を表しています。
だから犀星はどんなに苦しくても(乞食となっても)故郷には帰らず、遠くから思っている方が良いのだと言っているのです。
夏の日の匹婦の腹に生まれけり
「犀星発句集」に収められた一首です。自らが私生児として生まれたという事実を17文字に詰め込んであります。
匹婦とは身分のいやしい女性のことです。犀星の実母は加賀藩の足軽頭・小畠弥左衛門吉種(犀星の実父)の家に仕える女中だったそうです。自らの母をそのように表すことで、かえって犀星の悲しさと寂しさが伝わってくるような気がします。
他人を正視しない目は卑怯だ。わざとらしい凝視をする奴は、内面に虚偽を持った奴だ。
大正8年の小説「或る少女の死まで」で、主人公の友人で画家のSが言っていることですが、もっともな言葉だと思います。
他人を正視できないのは、やましいところがあるからだし、それを隠そうとして、わざとらしい凝視をしてしまうのかもしれません。犀星は面倒見が良かったと言われていますが、面倒を見るべき人をわかっていたのかもしれません。