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芥川龍之介とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や友人関係、死因について紹介】

芥川龍之介は、主に大正時代から昭和初期にかけて、多くの作品を残した小説家です。

短編小説の名手として、現在も広く名が知られ、「日本の文豪と言えば?」という質問があれば、彼の名前が上がらないことはまずないでしょう。

芥川龍之介

古典文学をオマージュした作風と、人間の醜い部分を克明に描く筆力を持ち味としており、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』などのエピソードを、現代的に翻案した作品を数多く残しています。また、話の筋が分かりやすく、教育的な児童小説も残していて、特に『羅生門』『蜘蛛の糸』あたりは、現在でも教科書などの教育現場で親しまれています。

教育的で芸術至上主義的な作品や、人間が生きていくうえで、必ず付きまとってくる苦悩、あるいは人のエゴイズムや欲望を主題とした作品を、その鋭敏な感性と教養をもって数多く残した芥川。

繊細な性格だった芥川龍之介

そんな作風に違わず、一人の人間としての芥川は、とても繊細な人物であったらしく、ともすれば繊細すぎてメンドクサイ人物でもあったようです。その心根の繊細さが祟った故に、最後には自殺によってこの世を去ってしまうのですから、本当に細やかな感性を持った人物だったのでしょう。

そんな繊細な心に伴う視点から、「人の本質とは何か?」「生きるとは何か?」という、現在にも通じる普遍的な命題を問う作品を残し、若くしてこの世を去っていった文豪、芥川龍之介。

この記事では、そんな彼の生涯や、彼の残した人間的なエピソードについて、迫っていきたいと思います。

※本記事では、文章の読みやすさの観点から、名を「芥川」もしくは「龍之介」で統一させていただきますので、ご留意ください。

目次

芥川龍之介とはどんな人?

名前芥川龍之介
誕生日1892年3月1日
生地東京府東京市・京橋区入船町8丁目(現在の東京都中央区・明石町)
没日1927年7月24日(享年35歳)
没地東京府・田端(現在の東京都北区・田端)
埋葬場所東京都豊島区巣鴨、慈眼寺
配偶者芥川文(あくたがわふみ)

芥川龍之介の生まれや性格は?

芥川龍之介生誕の地、京橋

芥川龍之介は、東京の京橋区入船町8丁目で牛乳の製造と販売業を営む、新原敏三(にいはらとしぞう)と、その妻であるフクの間に生まれました。姉が二人いたようですが、一番上の姉は、龍之介が生まれる1年前に病死。そのため、生後間もなくは家族4人で暮らしていたようです。

しかし、龍之介が生後7か月の頃、一番上の姉の死の悲しみに暮れたままの母が、突如として精神に異常をきたし発狂。幼い龍之介は母の実家、芥川家へ預けられ、伯母であるフキによって育てられることになります。フキは教育熱心な人物であったらしく、そんな彼女に教育を受けた龍之介も、文句のつけようがない程に賢い子供として成長していきました。

そして、龍之介が11歳の頃に、生母であるフクが死去。龍之介は叔父である芥川道章(あくたがわみちあき)に養子として引き取られ、それまでの“新原”姓から、“芥川”姓へと変わりました。

この頃の経験は、賢いが、それ以上に繊細な少年であった龍之介に大きく深い影響を与えたようで、彼は終生「頑張らねば見捨てられてしまう」という強迫観念に突き動かされるように生きることとなってしまいます。

芥川龍之介はどんな性格だった?人柄の分かるエピソードを紹介

芥川龍之介の文学的傾向は?

芥川龍之介全集

先述した通り、芥川の書く作品は短編作品が多いです。あまり時間を掛けずに手軽に読むことができる点も、芥川の作品が現在も愛される理由の一つなのかもしれません。

そんな芥川の描く題材は、割合一貫しており、彼は主に「人間のエゴイズム」「人間の醜さ」を、物語に絡めつつ繊細に描いた作品を数多く残しました。『羅生門』や『蜘蛛の糸』『地獄変』等の作品には、特にその色が濃く出ています。

他にも『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』など、古典作品の一節をモチーフにした作品も多く見られます。その傾向は、特に『羅生門』や『鼻』、『芋粥』など、芥川の初期の作品に強く見られ、芥川の教養とユーモアを窺い知ることができるでしょう。

また、芥川は物語そのものよりも、文学的な技巧や表現技術を重視する作家だったようで、実際、現在の評価として「芥川の作品は、どこを切り取っても(最後まで読まなくとも)美しい」と評価されることがあります。

現実に根差した人間の本質を、繊細な文章と物語によって描いた芥川。そんな彼の作風は、当時の流行であった、理想的かつ個人主義的な「白樺派」と対極に位置する「新現実主義文学」として、人々から親しまれたようです。

芥川龍之介の友人関係は?

久米正雄らと写る芥川(右から2番目。久米は1番左)

繊細過ぎるほど繊細な人物であった芥川ですが、一方で友人は多かったようです。

中でも、高校時代の同期だった面々とは、晩年まで交流する親友関係だったと記録されています。とりわけ、同期生である作家の久米正雄(くめまさお)や菊池寛(きくちかん)らと共に取材旅行に出かけるなど、親しく交流していた様子が伝わっています。

また、画家の小穴隆一(おあなりゅういち)とも、親友とも呼べるほど仲のいい間柄であったようです。

さほどのエピソードが残っているわけではないのですが、芥川は自身の遺書で子供たちに対し「小穴くんを父親だと思いなさい」と、妻である文には「小穴くんには心配を掛けたくないから、僕が絶命した後に僕の死を知らせるように」と書き残しています。死に際しての友人への思いと、小穴に対する芥川からの信頼が読み取れる文章となっていますので、皆さまも是非一度お読みになってみてください(青空文庫にて無料で読めます)。

また、同期生ではない作家仲間としては、『痴人の愛』などに代表される、エロティシズムに満ちた作品の名手、谷崎潤一郎と親交があったことが伝わっています。

芥川と谷崎夫妻、それから佐藤春夫(さとうはるお)夫妻の5人で芝居を見に行ったという話が残っていますが、そのエピソードと同じ時期に、いわゆる「文学論争」と呼ばれる、芥川と谷崎の論争も記録されています。そのため、単純な友人関係と言うよりは、お互いを高め合うライバルのような関係性だったのかもしれません。

上記の「文学論争」については、年表で詳しく取り上げさせていただきます。

芥川龍之介の女性関係は?

女性の影が絶えなかった芥川

現在でも作品が広く知られ、それに伴って顔写真も知られている芥川。写真に写る際の独特のポーズが印象的ですが、その容姿も、現代基準で「イケメン」と評価できそうなくらいに整っています。

整った容姿を持つ、押しも押されぬ人気作家。そんな芥川を女性たちが放っておくはずもなく、彼の周りには女性が絶えなかったようです。このあたりは、後に芥川の影響を受ける作家、太宰治と似ていますね。

また、女性に対して高い理想を持っていたことも明らかになっており、結婚前は「頭のいい女性とは幸せになれない」と口にしていましたが、結婚後はその主張が一変。「教養のある女性と知識を共有したい」と浮気をしていたことが伝わっている事など、中々面倒なタイプの男性であったことが記録から読み取れます。

芥川龍之介が影響を受けた・与えた人物は?

夏目漱石

芥川が影響を受けた人物としては、やはり夏目漱石が有名でしょう。芥川は漱石のことを「先生」と呼び慕っていたようで、作品の中にもたびたび漱石の名前や、漱石と思しき人物を登場させています。

そのエピソードからだけでもわかるように、芥川からの漱石へのリスペクトは中々に凄まじかったようで、芥川が若手作家だった当時、漱石が開いていた「木曜会」と呼ばれる作家仲間の会合では、万が一にも漱石の機嫌を損ねることが無いように、ずっと漱石の顔色伺いをしていたというエピソードが残っています。

また、芥川が作家としてデビューしたてで、自分の作品に自信を持てていなかったころ、漱石に作品『鼻』を絶賛されたことで一転、自分の作品に自信を持ったというエピソードも残っています。尊敬する人から褒められるのは嬉しい事ですが、ちょっと単純すぎるような気も……。

また、「話の筋より文章技巧を優先する」という彼の文学論に基づいては、ジュール・ルナールと志賀直哉(しがなおや)を「話らしい話のない、もっとも純粋な小説の名手」として絶賛しています。また、志賀直哉に対しては、単純に「好きな作家」として名前を挙げています。

太宰

反対に、芥川が多大な影響を与えた人物としては、やはり太宰治が有名です。

熱狂的な芥川フリークだった太宰は、学生時代のノートに芥川の名前や似顔絵を何度も書き、更に自分のペンネームを、芥川の名前と並べる形で考案していたことが明らかになっています。

また、芥川の自殺報道に関しても、太宰は「作家はこのように死ぬのが本当だ」と口にしたとされています。後の破滅的な大作家、太宰治の骨子は、もしかすると芥川が意図せずに作り上げてしまったものなのかもしれません。

もっとも、芥川の自殺に影響を受けたのは太宰だけでは無いようで、芥川の自殺報道の後、後追いで自殺をする「芥川宗」と呼ばれる若者たちが大きな社会問題になったことも記録に残っています。

芥川龍之介と太宰治の関係がよくわかる3つの逸話・エピソード

芥川龍之介の死因は?

睡眠薬の大量服薬による自殺

芥川の死が、睡眠薬を大量に服薬したことによる自殺だという事は有名ですが、その自殺の直接的な原因については、現在も様々な説が囁かれています。

芥川の遺書には「将来に対する、ただ漠然とした不安」が自殺の原因であると書き記されていますが、この頃の芥川の周辺では、「漠然とした不安」の原因と成り得る出来事が数多く起こっていたため、正確な原因の特定は出来ないようです。

原因として有力だと言われているものとしては、患っていた神経衰弱、腸カタル、不眠症の悪化による肉体的、精神的な苦痛の悪化。放火と保険金詐欺の嫌疑を掛けられた義兄が自殺したことにより、義兄の家族の面倒や、義兄の残した借金を背負わなければならなくなっていたことによるプレッシャーがあげられます。

また、芥川は自殺の直前に、家族や友人たちに対して自殺することをほのめかしていたとされており、実際は早期に発見してもらうつもりの狂言自殺だったが、発見が遅れたために本当に死ぬ結果となってしまった、と言う説も存在しています。

新潮文庫『河童・或阿呆の一生』

しかし、芥川の晩年の作品『河童』には、晩年の芥川の厭世的な気質が色濃く映し出されているほか、親友である久米正雄にあてた遺書には、自殺の場所や手段が具体的に書かれたうえで「2年ほどの間、死について考え続けた」「死ぬための薬品を手に入れる手段を考え、実行した」という趣旨の文言が書かれているため、芥川の自殺は計画的なことだったと考える方が自然です。

ともかく、そうして35年という若さで唐突に世を去り、その生涯を終えた芥川。彼の命日は、彼の晩年の作品にちなんで「河童忌」と呼ばれ、現在でも各地で芥川関連のイベントが開かれています。

芥川龍之介の死因は?その真実や理由、周りに与えた影響も解明

芥川龍之介の名言は?

「幸福とは、幸福を問題にしない時をいう。」

芥川の幸福論。この言葉を受けてから「幸福ってなんだ?」と考えてみると、確かにこれ以上の幸福はないような気がします。

「自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。」

芥川の自由論。自由と言うものの本質を見事に言い表し、「山嶺の空気」という文学的な修飾を加えた、お見事な言葉です。現代を生きる我々は果たして本当に自由なのか?少し考えてみたくなりますね。

「人間は時として、満たされるか満たされないかわからない欲望のために一生を捧げてしまう。その愚を笑う人は、つまるところ、人生に対する路傍の人に過ぎない。」

芥川の人生論その1。満たされるか満たされないかわからない欲望――つまりは夢を追う人は、時として愚かに見えることもあります。しかしそれを笑う人は、夢追い人にとってはただの路傍の誰かさんに過ぎないのです。

「人生の競技場に踏みとどまりたいと思ふものは、創痍を恐れずに闘はなければならぬ。」

芥川の人生論その2。生きるためには戦うしかないという、現代にも通じる一言。現代では『進撃の巨人』等で語られる人生論ですが、この時代では芥川がそのような考えを持っていたようです。

「正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理屈さえつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。」

芥川の正義論。正義の反対は悪ではなく、また別の正義だというお話です。軍が強権を振りかざし、「正義と悪」という二元論が横行した時代においての、芥川の鋭い知見が見える一言です。

芥川龍之介にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「スーパーヘビースモーカー、芥川龍之介」

酒乱で有名な中原中也(なかはらちゅうや)や、薬物中毒で苦しんだ太宰治など、この時代、不健康な嗜好品に溺れる作家は数多くいましたが、芥川も例外ではありませんでした。

芥川が好んだのはタバコ。太宰の薬物中毒に比べると平和なように聞こえますが、問題なのはその本数。芥川は、なんと1日に180本ものタバコを吸っていた、超ド級のヘビースモーカーだったと言う逸話が残っているのです。

芥川が好きだった敷島

芥川は、タバコの銘柄の中でも「敷島」と言う銘柄を特に好んでいたようで、その「敷島」銘柄のタバコは、芥川作品の中にも度々登場しています。

「敷島」は、芥川の死後、1943年に販売停止。現在の私たちが芥川と同じタバコを味わうことは、残念なことにほとんど不可能なようです。

都市伝説・武勇伝2「芥川龍之介と『歯車』の恐怖」

『歯車』初版

晩年、芥川が自殺の間際に書き上げた作品『歯車』。

レインコートを着た幽霊の幻覚に怯える男を描いた、ホラータッチの不気味な作品なのですが、実はこの作品には、あるエピソードを知ることによってわかる、ある恐怖が眠っているのです。

そのエピソードと言うのは、芥川が自殺する半年前のエピソード。芥川が自殺する半年前、実は芥川の義兄、西川豊(にしかわゆたか)も自殺していることはご存じでしょうか?

西川は弁護士でしたが、偽証教唆の罪で失権。その失権と時を同じくして住宅まで全焼するという災難に見舞われます。しかも追い打ちをかけるように、その火事は西川の手による、保険金目当ての放火ではないかという疑いまで浮上。追い詰められた西川は身の潔白を示すために、鉄道自殺を遂げてしまいます。

翻って『歯車』について。『歯車』の登場人物の中に、”N”という人物がいます。”N”は主人公の義兄であり、偽証罪の執行猶予中に列車自殺を遂げた人物です。

列車自殺を遂げた主人公の義兄

ここまで書けば、もうお分かりでしょう。『歯車』の内容と、芥川の身に降りかかった事件が、まさにそのまま一致しているのです。更に、作品と現実の一致点はその部分だけではなく、主人公の死を暗示する不吉な予言によって終わるクライマックスのやり取りも、文夫人によれば「実際にあったやり取り」なのだと言います。

普通であれば「経験に着想を得た自伝的小説」と取るべきなのですが、その自伝的な内容が内容であり、その執筆からほとんど間を置かずに、芥川が自死を選んでいるだけに、どうにも不気味な感覚が拭えない作品です。

そんな不気味さを示す様に、「『歯車』の執筆の際に、芥川はドッペルゲンガー(見た者と同じ姿をした怪異。見てしまうと死ぬとされている)を見てしまった」というトンデモ説まで囁かれています。与太話に過ぎない説ではありますが、『歯車』の内容を知ってしまうと、否定しきれない話のようにも感じられる説です。

はてさて、『歯車』に描かれた物語は、どこまでが物語で、どこまでが現実だったのか。真相は正に藪の中となっています。

芥川龍之介の簡単年表

1892年
芥川龍之介、誕生
芥川龍之介は、東京で牛乳の製造販売業を営む、新原敏三と新原フクの間に生まれました。しかし、生まれて間もなく母であるフクが発狂。母の実家である芥川家で、伯母のフキによって養育されます。
1898年
江東尋常小学校に入学
6歳になった龍之介は、江東尋常小学校(現在の墨田区立両国小学校)に入学。育ての親である伯母、フキが教育熱心な人物だったこともあってか、当時から頭のいい子供であったという記録が残っています。
1903年
母の死
この年、発狂したままだった母が死去。実父である敏三は、龍之介を引き取ろうとしますが、敏三と芥川家の関係が険悪なものとなっていたことから交渉はなかなか進まず、龍之介の親権は宙ぶらりんなものとなってしまいます。
1904年
叔父の養子として、“芥川”姓に
芥川家と敏三の、龍之介を巡る真剣争いの裁判が決着。龍之介は新原家から除籍のうえで、叔父である芥川道章に養子として引き取られ、“芥川”の姓を名乗ることとなります。

これによって、実父とも実母とも別れることとなった龍之介少年。彼はこの頃から「頑張らなければ見捨てられてしまう」という強い強迫観念を抱くようになったらしく、ますます勉学に励むようになります。

1910年
第一高等学校第一部乙類に無試験合格
突き動かされるように勉学に励み、優秀な成績で中学校を卒業した芥川は、第一高等学校の第一部乙類に入学。

同期生の中には、菊池寛や久米正雄、松岡譲と言った、後に名を残す作家などの、名だたるメンバーが揃っています。この学校での出会いによる縁は芥川の晩年まで続き、繊細な芥川にとっての様々な助けとなるのです。

1914年
同人雑誌『新思潮』を刊行

東京帝国大学英文科に進学した芥川は、2月、高校時代の同期である菊池寛、久米正雄らと共に『新思潮』という同人誌を刊行。

「柳川隆之介」のペンネームを用いて、アナトール・フランスの『バルタザアル』と、ウィリアム・バトラー・イエーツの『春の心臓』の和訳を寄稿した後、10月の廃刊までの間、『老年』と言う作品を連載。作家活動を始めます。

また、この時期には吉田弥生と言う女性と親しくなり、結婚を考えたようですが、芥川家からの反対によってそれは実現しなかったようです。

1915年
『羅生門』を発表し、漱石門下へ
『帝国文学』に、「芥川龍之介」のペンネームを用いて、後の代表作となる『羅生門』を寄稿。一説では、前年の失恋によって着想を得た作品だとも言われています。

また、この年に松岡譲(一説では鈴木三重吉)の紹介で、夏目漱石と出会い、彼の門下として、他の小説家たちと交流を始めます。

1916年
『新思潮』を再び刊行し、『鼻』を寄稿。漱石から絶賛を受ける
この年、芥川は菊池寛らとともに、再び『新思潮』を刊行。その創刊号に『鼻』を寄稿し、漱石から絶賛されることとなります。

また、この年には東京帝国大学英文科を卒業し、海軍機関学校の嘱託英語教員として就職。教員としての業務の傍らにも創作活動を継続し、翌年には短編集である『羅生門』と『煙草と悪魔』を発刊し、世間から高い評価を得ています。

1919年
専業作家としてデビュー。そして結婚
この年の3月、芥川は海軍機関学校の教員職を辞め、大阪毎日新聞社に入社。記者としてではなく、連載小説の執筆のための入社であり、これによって芥川は専業作家となります。

そして、それと時を同じくして結婚。相手は友人の姉の娘である、塚本文でした。

1920年
長男が誕生。
3月、長男である芥川比呂志(あくたがわひろし)が誕生。彼は後に俳優となり、テレビや映画、舞台演劇などで活躍しました。
1921年
海外視察員として中国へ
海外視察員として中国へ赴き、現地の学者と検閲について議論を行いました。7月に帰国した際は、中国での出来事を描いた、『上海遊記』と題した紀行文を記しています。

また、この年から神経衰弱や腸カタルを患い始め、作品の方向性が変化。『河童』や『歯車』に代表される、晩年的な私小説の傾向が強く見られるようになっていきます。

1922年
次男が誕生
この年の11月、次男である芥川多加志(あくたがわたかし)が誕生。彼は最も芥川に似て、文学的な素養も高い子供でしたが、後の第二次世界大戦で徴兵を受け、ビルマで戦死を遂げてしまいます。
1923年
療養と震災
この年の9月には、関東大震災が発生。各地で自警団が起こったこともあり、世間体を気にした芥川も、病身をおして自警団に参加。芥川はこの時のことを、随筆『大震雑記』とアフォリズム『或自警団員の言葉』に記しています。

また、この年には患っていた病気の状態が悪化。湯河原町へ湯治に赴いています。

1925年
文化学院の講師に就任。そして三男の誕生
文化学院の講師に就任した芥川でしたが、患っている病状は悪化の一途をたどります。この頃、芥川が発表する作品数は明らかに減少し、翌年には再び、湯河原町に湯治に向かっています。

また、7月には三男の芥川也寸志(あくたがわやすし)が誕生。彼は後に作曲家となり、映画音楽『八甲田山』と『八つ墓村』で、それぞれ第1回日本アカデミー賞最優秀音楽賞と、優秀音楽賞を受賞する快挙を成し遂げることになります。

1927年
文学論争。そして突然の死
この年の4月、芥川の義兄である西川豊が鉄道自殺。西川の家族や借金の面倒は、芥川が見なくてはならないことになります。

また、4月には谷崎潤一郎と、紙面上で文学に関する論争を展開。「物語」を重視する谷崎と、「表現技術」を重視する芥川の論争は、現在でも決着のつかない問題となっています。また、論争の最中、芥川は秘書である平松素麻子(ひらまつすまこ)と共に心中未遂を起こしています。

そして7月、『続西方の人』を書き上げた芥川は、致死量の睡眠薬を服薬して自殺。享年は35歳。遺書には「将来に対する漠然とした不安」が自殺の原因であると記されています。

人気作家であった彼の死は、世間にも大きな衝撃を与えたらしく、芥川の後追い自殺をする「芥川宗」と呼ばれる若者たちが社会問題にもなったようです。

1935年
芥川龍之介賞が設立
友人である菊池寛によって、芥川の業績を記念した文学賞、芥川龍之介賞が設立。現在まで、権威ある文学賞として知られ続けています。

芥川龍之介の有名作品年表

1914年
『老年』

『老年』

芥川龍之介の処女作と語られる作品です。芥川の生前に単行本化されることはありませんでしたが、処女作とは思えない老獪な文章構成と表現は、やはり後の文豪たる素質を客観的に表しています。

1915年
『羅生門』

『羅生門』

もはや説明不要の、芥川龍之介の代表作です。寂れた京都の羅生門を舞台に、下人と老婆の掛け合いから「人間のエゴイズム」を克明に描いています。

初期の芥川らしさが最もみられる作品のため、芥川文学の入門には、まずこの作品に触れることをお勧めします。

1916年
『芋粥』『鼻』

『芋粥』

うだつの上がらない役人と、彼が抱く“ある夢”を描いたお話です。抱き続けてきた夢が唐突に叶った時、人は一体何を思うのか?ユーモアのある作品ですが、同時に万人の心に突き刺さる作品にもなっています。

『鼻』

長く滑稽な鼻を持つが故に、周囲から馬鹿にされる僧侶を主人公に据えた作品。コンプレックスに対する人間の心理や、「自分よりも下の誰かを求める」という人間の醜さを、ユーモラス故に残酷さすら感じる文体で描いています。

1918年
『蜘蛛の糸』『地獄変』

『蜘蛛の糸』

言わずと知れた名作児童文学。地獄に落ちた大泥棒のカンダタと、そんな彼に落とされた唯一の救いの結末を描いた作品です。教育的でありながら、その分直接的に人間の醜い部分を描いた、芥川らしさ全開の作品となっています。

『地獄変』

醜悪な性格ながら、優れた腕を持った絵師の良秀と、「地獄変」の屏風絵をめぐる物語です。絵のためなら弟子すら躊躇なく犠牲にする良秀が、唯一描けない「焼け死ぬ女」の絵。果たして、その絵を完成させる方法とは……。

人のエゴイズムの醜さを直接的に描きながら、どこか危うい芸術性すら感じる名作です。

1920年
『杜子春』

『杜子春』

遊び人のダメ人間、杜子春と仙人を描いた作品です。仙術を得るために「何をされても声を出すな」と命ぜられる杜子春。はたして彼は、仙術を身に着けることができるのか……。

「人間の醜さ」を描くことが多い芥川作品の中では、少しばかり異色の結末を迎える作品となっています。

1922年
『藪の中』

『藪の中』

「真相は正に藪の中」という慣用句のもとになった作品です。藪の中で見つかった男の死体に関師、尋問を受けるそれぞれの人物の支点から構成される物語となっています。

全てが明らかになった時に、狐につままれたような気持ちになること請け合い。好みの分かれる作品ですが、芥川らしいユーモアに満ちた作品でもあります。

1923年
『あばばばば』
煙草屋の女性の成長を、その客の一人称視点から描いた私小説です。

芥川の「理想の女性」像が詰め込まれ、ユーモラスながら、芥川に少しだけ同調してしまいそうになる作品となっています。

1927年
『河童』『歯車』『文芸的な、余りに文芸的な』『或阿呆の一生』

『河童』

河童の世界を舞台に、人間の社会を痛烈に風刺した作品です。晩年の芥川の心境が、河童の世界を通じて克明に描かれています。

『歯車』

レインコートの男の幻覚に怯える主人公が見る、数多の幻視や幻聴を描いたホラー風味の作品です。

晩年の芥川の生活と酷似する点が多く見られ、それ故に研究資料としても使われている作品となっています。

『文芸的な、余りに文芸的な』

先述した、谷崎潤一郎との文藝論争に関わる文学評論です。

芥川の文学に対する信念について、ストーリー性を交えない、直接的な言葉で読むことができます。

『或阿呆の一生』

芥川の自殺後に見つかった作品です。芥川の人生を書き記したものと見られ、谷崎潤一郎や夏目漱石なども登場しています。

芥川龍之介の生涯年表

1892年 – 0歳「芥川龍之介、誕生」

芥川の生誕地に立つ看板

東京の牛乳店に生まれる

芥川龍之介は、現在の東京都中央区明石町である、東京市京橋区入船町8丁目に生まれました。父は牛乳の製造販売業を営む新原敏三(にいはらとしぞう)、母は芥川家から嫁いだ、新原フクです。龍之介を生んだ時点で、敏三は42歳、フクは33歳と、当時からすると高齢での出産だったと言われています。

姉が二人いたとの記録が残っていますが、一番上の姉は、龍之介が生まれる1年前に病によって他界していたため、生後間もない芥川は、家族4人で暮らしていたようです。

「龍之介」と言う名は、彼が辰年、辰月、辰日、辰の刻に生まれたことに由来すると言われていますが、出生時刻については記録が残っていないため、龍之介が本当に辰の刻生まれなのかは分かっていません。

また、度々「芥川龍之“助”」と表記されることがありますが、彼自身はその表記を嫌い、あくまで戸籍上の名義でもある「龍之介」名義を使っていたそう。細かな違いではありますが、芥川龍之介のファンを名乗るのであれば、必ず気を付けておきたいところです。

生後7か月、母の発狂により芥川家へ

龍之介が生まれてから7カ月が経ったころ、突如として母のフクが発狂。発狂の原因としては、龍之介が生まれる1年前の、長姉の死への嘆きが有力であるとされています。

母が発狂したことにより、龍之介は母の実家である芥川家に預けられることに。こうして母の実家に預けられた龍之介は、伯母である芥川フキによって養育されることになります。

芥川は晩年、養母であるフキに対して、深い感謝の念を感じていると共に、監視されているような息苦しさも感じていたことを書き残しています。しかし、感謝の念を抱いていることは本当だったらしく、芥川家への帰省の際には必ず土産を持参するなど、フキに対してよく尽くしていたようです。

1898年 – 6歳「江東尋常小学校に入学」

墨田区立両国小学校

江東尋常小学校に入学

6歳になった龍之介は、現在の墨田区立両国小学校である、江東尋常小学校(こうとうじんじょうしょうがっこう)に入学します。

伯母であり養母でもあるフキが教育熱心な人物であったこともあり、龍之介はとても頭のいい子供であったようです。

また、龍之介が引き取られた芥川家は、江戸時代より続く文人の家系であったこともあり、幼い龍之介も文学や江戸的な文化に親しんでいたそうです。小学校に入学する前から、草双紙を読むことができたと言う話も残っており、幼い龍之介の賢さを物語っています。

1903年 – 11歳「母の死を知る」

実母が死去

母の死

この年、発狂した実母、フクが死去。

フクは発狂して記憶を失ってから死ぬまで、一度も記憶を取り戻したことはなかったようで、「一室にこもり切り、ただぼんやりと座ったまま、時折思い出したように狐の絵を描いていた」と記録されています。

芥川は晩年、実母であるフクに対し「母としての親しみを覚えたことは、一度とてなかった」と記しているほか、自身も精神が不安定になった際には「母から受け継がれた遺伝的な形質なのではないか」と極度に恐れていたようです。

1904年 – 12歳「養子として、正式に“芥川”姓を名乗る」

芥川生育の地を示す看板

親権争いの決着

フクが死去したことで、龍之介の実父である新原敏三は、龍之介を新原家に呼び戻そうとします。しかしこの頃、芥川家と敏三の仲は険悪になっており、龍之介の親権は裁判によって争われることとなりました。

親権を争う裁判の結果、龍之介は新原家から正式に除籍されたうえで、叔父である芥川道章(あくたがわみちあき、“どうしょう”と言う説あり)に養子として引き取られることに。

これによって、実父とも実母とも別れることになった芥川は、「頑張らなければ見捨てられてしまう」という、晩年まで続く強い強迫観念にかられるようになってしまったようです。

1910年 – 18歳「第一高等学校第一部乙類に、無試験入学」

後年長崎を訪れたときの写真(一番左が菊池寛、その隣が芥川)

第一高等学校第一部乙類に入学

府立第三中学校を卒業した芥川は、多年成績優秀者として賞状を受け、そのまま第一高等学校第一部乙類に入学。その年、第一高等学校は、中学時代の成績優秀者に対して無試験での合格を許す制度を取っており、芥川はその制度に基づいて無試験入学を許されたようです。

芥川の同期に当たる第一高等学校には、後世に名だたる功績を残すメンバーが揃っていました。

作家の菊池寛、久米正雄、松岡譲。アララギ派の指導者である土屋文明(つちやぶんめい)。法哲学者の井川(恒藤)恭(いがわ(つねとう)きょう)。共産党指導者の佐野文夫(さのふみお)等は特に有名です。

特に菊池や久米は、同人誌の発刊や取材旅行を共にするなど、芥川にとって終生の友となりました。また、井川についても、文学と法学と、専門とする分野こそ違いましたが、終生の親友であったと記録されています。

1914年 – 22歳「同人誌『新思潮』を発刊」

「新思潮」創刊号

『新思潮』を発刊、創作活動を開始

前年に、難関である東京帝国大学英文科に進学した芥川は、高校時代の同期、菊池寛、久米正雄とともに、同人誌『新思潮』を刊行。

芥川は「柳川隆之介」のペンネームを用いて、アナトール・フランスの『バルタザアル』と、ウィリアム・バトラー・イエーツの『春の心臓』の和訳を寄稿。その後は10月の廃刊までの間、『老年』と言う作品を連載し、創作活動を始めます。

芥川の恋

またこの頃、芥川には思いを寄せる女性がいたようです。女性の名前は吉田弥生(よしだやよい)。青山女学院英文科を卒業した、当時としては博学で聡明な女性でした。弥生の父が勤める病院に、芥川の生家である新原家が牛乳を卸していたことから、二人は以前から知り合いであったと言われています。

しかし、芥川が弥生に思いを寄せるのと時を同じくして、弥生に縁談が持ち上がります。その焦りもあってか、芥川は彼女に求婚をしようと思い立ちますが、芥川家から強烈な反対を受け、結局その恋は叶わぬものとなってしまったようです。

芥川家からの反対理由については、弥生が非嫡出子であったことや、弥生の縁談が進行中であったことがあげられます。また、俗説に過ぎない説ではありますが、芥川家と吉田家の仲の悪さが影響したとも言われているようです。

ともかく、この失恋によって「愛とエゴイズム」についてを真剣に考えるようになったとされる芥川。この失恋が芥川の文学に影響を与えたと思うと、本人にとっては苦い思い出だったでしょうが、読者である我々にとってはありがたい経験だったと言えそうです。

1915年 – 23歳「ペンネーム「芥川龍之介」の誕生」

『羅生門』

「芥川龍之介」名義で、『羅生門』を発表

この年の10月、彼は「芥川龍之介」のペンネームで、『帝国文学』に後の代表作、『羅生門』を寄稿しました。

教科書にも載るような、人間のエゴイズムを描いた名作である『羅生門』ですが、一説ではこの作品は、前年の失恋によって得た感情を書き記したものであるとも言われています。

人間の弱さや道徳心の脆さ、醜いエゴイズムを描いた名作であることは疑いようがありませんが、そのようなエピソードを知ってから読み返すと、また違った感想を抱くかもしれません。

級友からの紹介で、夏目漱石の門下へ

松岡譲(一説では鈴木三重吉)の紹介で夏目漱石と出会い、彼の門下として、他の小説家たちと交流を始めます。

芥川は漱石のことをとてもリスペクトしていたようで、ともすれば病的なほどに、漱石から見放されることを恐れていた事が知られています。

特に有名な話としては、漱石が開いていた「木曜会」と言う会合で、万が一にも漱石の機嫌を損ねることが無いように、自身の一挙一動に至るまでに注意を払い、病的に漱石に尽くしていた事が、記録によって明らかにされています。

また、芥川の作品からも漱石へのリスペクトは読み取れ、多くの作品に「先生」として、漱石と見られる人物が登場しているほか、『歯車』『或阿呆の一生』では、漱石への尊敬の念について、名指しで言及がなされています。

1916年 – 24歳「『新思潮』を再び刊行。漱石から作品を絶賛される」

「鼻」が掲載された『新思潮』

『新思潮』を再び刊行し、『鼻』を寄稿

芥川はこの年、菊池寛、久米正雄らと共に、再び同人誌『新思潮』を刊行します。この年の刊行には、高校の同期である松岡譲と、フランス文学者の成瀬正一もかかわっていたようです。

芥川はこの創刊号に、後に代表作の一つとして称されることになる『鼻』を寄稿。コンプレックスに踊らされる人間と、その本質、そして主人公の周囲の人物たちを通して、人間の心根の醜さを、ユーモラスかつ痛烈に描いた作品は、師匠である夏目漱石から絶賛されることになります。

この経験によって、自分の作品に自信を持った芥川は、本格的に創作活動へとのめり込んでいくこととなるのです。

海軍機関学校の嘱託英語教官として就職

帝国大学を卒業した芥川は、多数の英文学者たちから推薦を受けて、海軍機関学校の嘱託英語教官の職に就きます。

忙しい日々の中でも芥川は旺盛に創作活動を続け、翌年の5月には短編集である『羅生門』を。11月には短編集『煙草と悪魔』を刊行し、好評を得ています。

1919年 – 27歳「結婚と、専業作家としての船出」

『地獄変』

専業作家としての船出

この年の3月、海軍機関学校の嘱託英語教官の職を辞した芥川は、大阪毎日新聞社に入社。

芥川の入社は、新聞記者としての入社ではなく、新聞に連載小説を寄稿するための入社でした。そのため、芥川に出社の義務はなく、これにより芥川は専業作家としての第一歩を踏み出すことになります。

余談ですが、芥川が大阪毎日新聞社に入社する12年前には、師匠である夏目漱石も同様に朝日新聞社に入社。かれもまた、新聞への寄稿から専業作家への第一歩を踏み出していました。

奇しくも師である漱石と同じような形で、専業作家への道を歩み出した芥川。この頃の芥川の作品には、芸術至上主義的な側面が多く見られ、中でも1918年に執筆された『地獄変』は、この頃の芥川作品を代表する名作として、現在も読み継がれています。

塚本文との結婚

芥川一家

芥川は、専業作家としての第一歩を踏み出したのと、ほとんど時を同じくして結婚。相手は友人の姉の娘である塚本文でした。

文は聡明かつ、常に夫である芥川を立てる「良妻賢母」であったと伝わっています。また、芥川も彼女に対して「僕が文ちゃんを嫁にもらいたい理由は一つだけです。その理由は、僕が文ちゃんを好きだという事です」と、見ているこっちが恥ずかしくなるようなラブレターを彼女に送っています。

また、結婚後の5月には菊池寛と共に長崎へ取材旅行を敢行。この時の旅行で、劇作家である永見徳太郎(ながみとくたろう)と知り合っています。

1920年 – 28歳「長男が誕生」

芥川比呂志

長男、芥川比呂志が誕生

この年の3月30日に、芥川と文の間には、長男である芥川比呂志が誕生します。比呂志と言う名前の由来は、親友である菊池寛の名前である「寛」の別読みからとられているそうです。

比呂志は後年、俳優や演出家として才能を発揮。劇団文学座の看板俳優として『ハムレット』の主演などを務め、今でも語り継がれる伝説的な絶賛を得た他、『スカパンの悪だくみ』『海神別荘』の演出で賞をとるなど、芸能分野で華々しい活躍を上げました。

1921年 – 29歳「海外視察員として中国を訪問。そして晩年へ……」

『上海遊記 江南遊記』

海外視察員として中国を訪問

海外視察員として中国を訪れた芥川は、北京で学者であり外交官でもある胡適(こてき、中国語読みで“こせき”とも)と会談を行っています。

胡適と検閲の問題について語り合った芥川は、7月に帰国。彼は中国視察の模様について、『上海遊記』という紀行文に記しています。

心身の衰え

帰国した芥川の心身には、徐々に衰えの兆しが見え始め、腸カタルと神経衰弱を患ってしまいます。翌年には次男が生まれ、代表作の一つでもある『藪の中』の刊行も行いますが、次第に作品数は減少していき、作品の主題も、自身の今までの人生などを扱った私小説的な傾向が強くなっていきます。

1922年 – 30歳「次男が誕生」

次男の名前の由来となった小穴隆一(右)

次男、芥川多加志が誕生

この年の11月8日に、次男である芥川多加志が誕生します。多加志と言う名前の由来は、親友である画家、小穴隆一の「隆」の字の別の読み方からとられているそうです。

多加志は、兄弟の中では最も芥川に似て、文学志向が強い子供であったようですが、残念ながら第2次世界大戦中、1945年にビルマにて戦死。芥川の志向と才能を受け継いだ子供が文壇に上がることは、残念なことにありませんでした。

1923年 – 31歳「関東大震災と、病状の悪化」

関東大震災当時の東京・日本橋

関東大震災

9月1日に発生した関東大震災の影響で、各地に自警団が勃興。芥川も世間体を気にして、病身をおして自警団に参加しました。

彼はこの時の様子について、随筆である『大震雑記』や、アフォリズム『或自警団員の言葉』に詳しく残しています。

また、その頃の芥川の様子について、一緒に吉原付近の見物に出かけた川端康成は「芥川は死体と瓦礫が転がる惨状の中を、軽やかに飛ぶように歩いていた」と書き記しています。

病状の悪化。湯河原町に湯治へ赴く

この頃になると、患っていた病気の症状が悪化。芥川は湯河原町へ、湯治に赴きます。

この頃になると、作品数は全盛期と比べると明らかに減少。内容も私小説的な色が濃くなるなど、作風が晩年的に変化していきます。

1925年 – 33歳「病状のさらなる悪化と、三男の誕生」

芥川也寸志

文化学院の講師に就任

この年、文化学院文学部の講師に就任した芥川でしたが、翌年には再び病状が悪化。更に悪いことに胃潰瘍や不眠症を患ってしまい、再び湯河原で療養を行うことになってしまいます。

また、芥川の療養と時を同じくして、妻である文の弟も病気をし、文は弟の看病のために鵠沼(くげぬま)の実家別荘へ移住。芥川も鵠沼の旅館へ移り住み、そこで部屋を借りてしばらくの間滞在しました。

鵠沼での生活の最中、芥川は『鵠沼雑記』『悠々荘』など、鵠沼を舞台とした私小説的な作品を脱稿。また、この頃の芥川のもとへは、多くの友人が訪れていたようで、芥川の晩年の中で最も充実した期間であったともされています。

三男の誕生

この年の7月11日には、三男である芥川也寸志が誕生。也寸志の名前の由来も、上の兄二人と同様、芥川の親友である法学者、恒藤恭の「恭」の字の別読みからとられています。

也寸志は、父である芥川の遺品だったストラヴィンスキーのレコードを好んでいたらしく、後に音楽方面にその才能を発揮。成長して作曲家となった彼は、『八甲田山』『八つ墓村』の映画音楽を担当し、第1回日本アカデミー賞の最優秀音楽賞と優秀音楽賞の二冠を達成するという快挙を成し遂げることになります。

1927年 – 35歳「死に至るまでの半年間」

論争した谷崎潤一郎

1月、義兄の自殺

この年の1月、芥川の義兄である西川豊が突如として線路に飛び込んで自殺。「保険金目当てに家に火を放ったのではないか」という、警察からの疑いを苦にして、自身の無罪を証明するための自殺であったとされています。

自殺した西川には多額の借金があったらしく、その借金の責任は芥川に。更に、西川が残した家族の面倒も見なくてはならなくなるなど、病身の芥川には、ここにきて重いプレッシャーがのしかかることになってしまいます。

4月、谷崎潤一郎との文芸論争

4月には、谷崎潤一郎を相手取って「文学における芸術性や美しさ」の観点で論戦を展開。

「物語を折り重ねた、ストーリーとしての芸術こそが文学の美しさである」と主張する谷崎に対して、芥川は「物語そのものは文学にとってさほど重要ではなく、表現技術や言葉の選び方など、一文の表現の妙こそが文学を芸術とする」と持論を展開して議論を戦わせました。

「ストーリー重視」と「表現重視」。どちらが文学としての芸術かという問題については、現在でも決着がつかず、また、未来永劫決着がつかないであろう問題でもあります。

この議論については、谷崎側の主張は『饒舌録』に、芥川側の主張は『文芸的な、余りに文芸的な』に記されていますので、両名の文学に関する信念を知りたい方は、ぜひともご一読することをお勧めします。

また、この論争と時を同じくして、芥川は心中未遂事件を起こしています。心中相手は、妻である文の幼馴染であり、芥川の秘書を務めていた平松素麻子。素麻子が心中直前にその企てを他言したため、自殺は未遂に終わったようですが、一説では素麻子が芥川の自殺を阻止するために動いていたとも考えられています。

突如としてこの世を去る

芥川龍之介の墓

7月24日、『続西方の人』を書き上げた芥川は、そのまま致死量の睡眠薬を服薬し、突如として帰らぬ人となりました。享年は35歳。雨が降りしきる中、文豪は自室でひっそりと、その短い生涯を追えたのです。

芥川の自殺の原因は、遺書にある「ただ漠然とした将来への不安」という言葉が有名ですが、それ以上の直接的な理由については、何もわかっていないようです。

しかし晩年の芥川は、肉体の不調だけでなく、神経衰弱に伴ううつ症状や倦怠感と言った精神的な不調を患っており、それについて「母からの遺伝ではないのか」と極度に恐れていたことが伝わっています。さらに生活面においても、前述の義兄の自殺に伴う責任の増大や、患っていた病状の悪化等が重なっており、それらが複合的な要因となって自殺に踏み切ったという説が、現在では通説となっています。

また、同じ漱石門下の内田百閒(うちだひゃっけん)は、自殺直前の芥川について、「大量の睡眠薬でべろべろになっており、起きたと思ったらまた眠っている状態だった」と証言しているほか、死後に発見された遺書に「2年ほどの間、死ぬことばかり考えていた」と記されていることから、自殺がかなり以前より計画されていたものだったと見ることもできます。

ともかく、こうして短い生涯を自殺によって終えた芥川。そんな彼の自殺は社会にも大きな影響を与え、「芥川宗」と呼ばれる、芥川の後追い自殺をする若者が社会問題になった他、後の文豪である太宰治にも、良くも悪くも多大な影響を与えました。

芥川龍之介の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

文芸的な、余りに文芸的な/饒舌録 ほか 芥川vs.谷崎論争 (講談社文芸文庫)

先述させていただいた、芥川と谷崎の文学論争をまとめた一冊です。

その時代の一般的な文学の価値観や、その時代の大まかな文学史は知っていることが前提となっているので、かなり難易度の高い本ですが、その分読みごたえは抜群。

芥川龍之介、谷崎潤一郎の文学に関する信念を知ることができる、骨太の一冊となっています。

河童・或阿呆の一生(新潮文庫)

『羅生門』や『鼻』、『地獄変』など、芥川の前期から中期にかけての作品は、教科書などにも良く取り上げられ、知っている方々も多いと思います。

こちらは教科書には取り上げられることが少ない、芥川晩年の名作がまとめられた一冊です。

遺書に残された「2年ほど死について考え続けた」と言う言葉の、その2年ほどの間に書かれた作品集なだけに、死についての芥川なりの考えが見える、暗く陰鬱で、けれどそこはかとないユーモアや知見が見える、怪作揃いの短編集となっています。

芥川龍之介に関するおすすめ映画

羅生門 デジタル完全版

言わずと知れた日本映画の名作です。主演は往年の名優、三船敏郎。監督はこれも説明不要の名監督、黒澤明という豪華な布陣の作品です。

作品としてはとんでもなく古い作品のため、映像もモノクロで、編集なども、今見ると粗さが目立ちますが、俳優陣の演技や脚本の冴えはやはり必見。芥川が作品に込めた「人間のエゴイズムと、生きることへの問い」を、映像として見事に表現しています。

完全に『羅生門』同様のストーリー展開ではなく、『藪の中』の要素も多分に混ぜた作品ですので、『藪の中』のファンにもお勧めしたい作品です。

関連外部リンク

芥川龍之介についてのまとめ

現代に至るまで詠み継がれる多くの短編小説の名作を遺しながら、35年と言う短い生涯を自らの手で絶って旅立った文豪、芥川龍之介。

彼の作品には、自分自身を見つめ直したくなる、そんな魔力のような何かが込められているように感じます。

この記事で芥川に興味を持った方には、まずは『羅生門』、次に『鼻』と『杜子春』、最後に『河童』と読み進めていってほしいと思います。どれも主題が「人間」であると同時に、執筆当時の芥川の心境がよくわかる作品です。ぜひともこの記事と突き合わせつつ読んでいただけると幸いに思います。

それでは、長時間にわたってこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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