芥川龍之介とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品の特徴や名言、生い立ちも紹介】

芥川龍之介は、大正時代から昭和初期にかけて活躍した小説家です。

短編小説の名手として、現在も広く名が知られ、「日本の文豪と言えば?」という質問があれば、彼の名前が上がらないことはまずないでしょう。

芥川龍之介

古典文学をオマージュした作風と、人間の醜い部分を克明に描く筆力を持ち味としており、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』などのエピソードを、現代的に翻案した作品を数多く残しています。

また、話の筋が分かりやすく、教育的な児童小説も残していて、特に『羅生門』『蜘蛛の糸』あたりは、現在でも教科書などの教育現場で親しまれています。

教育的で芸術至上主義的な作品や、人間が生きていくうえで、必ず付きまとってくる苦悩、あるいは人のエゴイズムや欲望を主題とした作品を、その鋭敏な感性と教養をもって数多く残した芥川。

この記事では、そんな彼の生涯や彼の残した人間的なエピソードについて、迫っていきたいと思います。

※本記事では、文章の読みやすさの観点から、名を「芥川」もしくは「龍之介」で統一させていただきますので、ご留意ください。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

芥川龍之介とはどんな人?

名前芥川龍之介
誕生日1892年3月1日
生地東京府東京市・京橋区入船町8丁目(現在の東京都中央区・明石町)
没日1927年7月24日(享年35歳)
没地東京府・田端(現在の東京都北区・田端)
埋葬場所東京都豊島区巣鴨、慈眼寺
配偶者芥川文(あくたがわふみ)

芥川龍之介の生涯をハイライト

1927年の芥川龍之介

芥川龍之介は現在の東京都中央区明石町で、牛乳製造販売業を営む新原家の長男として誕生しました。しかし生後7ヵ月頃に母親が発狂し、母親の実家に預けられることになります。

幼少期は教育熱心な伯母・フキによって育てられ、頭の良い子として成長。難関で有名な東京帝国大学英文科に進学します。大学では高校時代の同級生、菊池寛や久米正雄と同人誌『新思潮』を刊行し、廃刊になるまで『老年』という作品を連載していました。

1915年10月には『羅生門』を寄稿。同年には松岡譲の紹介で夏目漱石と知り合い、彼の門下生として他の小説家と交流し始めます。1916年に再び刊行を開始した『新思潮』に寄稿した『鼻』は、漱石から高評価を受けました。

これにより、自分の作品に自信を持った芥川は創作活動へ本格的にのめりこみます。大学卒業後は海軍機関学校の嘱託英語教官に就職しました。

芥川の文章構成の方法は英文学的、という声もある

1919年3月になると英語教官を退職し、小説家としての腕を見込まれて大阪毎日新聞社に入社。記者としてではなく、専業作家としてスタートを切りました。また、同じ年に友人の姉の娘と結婚し、充実した人生といっても良い年でした。

ところが1921年、海外視察員として中国へ行き帰国した芥川は腸カタルと神経衰弱を患ってしまいました。体調が完全に回復することはなく、下り坂を転がるように病状は悪化していきます。

さらに1927年の1月には、芥川の義兄が自殺。多額の借金が急遽のしかかります。それだけではなく、義兄が残した家族の面倒も見なければならなくなりました。

この出来事が祟ったのか、はっきりとはわかりませんが同年の7月24日に大量の睡眠薬を飲んで自殺。35歳の若さで帰らぬ人となってしまいました。

芥川龍之介の文学的傾向とは

芥川龍之介全集

先述した通り、芥川の書く作品は短編作品が多いです。あまり時間を掛けずに手軽に読むことができる点も、芥川の作品が現在も愛される理由の一つなのかもしれません。

そんな芥川の描く題材は、割合一貫しており、彼は主に「人間のエゴイズム」「人間の醜さ」を、物語に絡めつつ繊細に描いた作品を数多く残しました。『羅生門』や『蜘蛛の糸』『地獄変』等の作品には、特にその色が濃く出ています。

他にも『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』など、古典作品の一節をモチーフにした作品も多く見られます。その傾向は、特に『羅生門』や『鼻』、『芋粥』など、芥川の初期の作品に強く見られ、芥川の教養とユーモアを窺い知ることができるでしょう。

また、芥川は物語そのものよりも、文学的な技巧や表現技術を重視する作家だったようで、実際、現在の評価として「芥川の作品は、どこを切り取っても(最後まで読まなくとも)美しい」と評価されることがあります。

現実に根差した人間の本質を、繊細な文章と物語によって描いた芥川。そんな彼の作風は、当時の流行であった、理想的かつ個人主義的な「白樺派」と対極に位置する「新現実主義文学」として、人々から親しまれたようです。

芥川龍之介の生い立ちや性格について

芥川龍之介生誕の地、京橋

芥川龍之介は、東京の京橋区入船町8丁目で牛乳の製造と販売業を営む、新原敏三(にいはらとしぞう)と、その妻であるフクの間に生まれました。姉が二人いたようですが、一番上の姉は、龍之介が生まれる1年前に病死。そのため、生後間もなくは家族4人で暮らしていたようです。

しかし、龍之介が生後7か月の頃、一番上の姉の死の悲しみに暮れたままの母が、突如として精神に異常をきたし発狂。幼い龍之介は母の実家、芥川家へ預けられ、伯母であるフキによって育てられることになります。フキは教育熱心な人物であったらしく、そんな彼女に教育を受けた龍之介も、文句のつけようがない程に賢い子供として成長していきました。

そして、龍之介が11歳の頃に、生母であるフクが死去。龍之介は叔父である芥川道章(あくたがわみちあき)に養子として引き取られ、それまでの“新原”姓から、“芥川”姓へと変わりました。

この頃の経験は、賢いが、それ以上に繊細な少年であった龍之介に大きく深い影響を与えたようで、彼は終生「頑張らねば見捨てられてしまう」という強迫観念に突き動かされるように生きることとなってしまいます。

芥川龍之介はどんな性格だった?人柄の分かるエピソードを紹介

容姿にコンプレックスを持っていた

体型は痩せ型だった

芥川は自分の細長い顔にコンプレックスを持っていました。

しかし、写真を見ると目鼻立ちの良い整った顔をしており、イケメンな文豪として名前が上がるほどの顔立ちでした。少なくとも恥ずかしく思うような容姿ではないのですが、本人は「へちまのような長い顔」と嫌がっていたようです。

芥川龍之介の女性関係とは

女性の影が絶えなかった芥川

現在でも作品が広く知られ、それに伴って顔写真も知られている芥川。写真に写る際の独特のポーズが印象的ですが、その容姿も、現代基準で「イケメン」と評価できそうなくらいに整っています。

整った容姿を持つ、押しも押されぬ人気作家。そんな芥川を女性たちが放っておくはずもなく、彼の周りには女性が絶えなかったようです。このあたりは、後に芥川の影響を受ける作家、太宰治と似ていますね。

また、女性に対して高い理想を持っていたことも明らかになっており、結婚前は「頭のいい女性とは幸せになれない」と口にしていましたが、結婚後はその主張が一変。「教養のある女性と知識を共有したい」と浮気をしていたことが伝わっている事など、中々面倒なタイプの男性であったことが記録から読み取れます。

芥川龍之介の死因は自殺説が有名

睡眠薬の大量服薬による自殺

芥川の死が、睡眠薬を大量に服薬したことによる自殺だという事は有名ですが、その自殺の直接的な原因については、現在も様々な説が囁かれています。

芥川の遺書には「将来に対する、ただ漠然とした不安」が自殺の原因であると書き記されていますが、この頃の芥川の周辺では、「漠然とした不安」の原因と成り得る出来事が数多く起こっていたため、正確な原因の特定は出来ないようです。

原因として有力だと言われているものとしては、患っていた神経衰弱、腸カタル、不眠症の悪化による肉体的、精神的な苦痛の悪化。放火と保険金詐欺の嫌疑を掛けられた義兄が自殺したことにより、義兄の家族の面倒や、義兄の残した借金を背負わなければならなくなっていたことによるプレッシャーがあげられます。

また、芥川は自殺の直前に、家族や友人たちに対して自殺することをほのめかしていたとされており、実際は早期に発見してもらうつもりの狂言自殺だったが、発見が遅れたために本当に死ぬ結果となってしまった、と言う説も存在しています。

新潮文庫『河童・或阿呆の一生』

しかし、芥川の晩年の作品『河童』には、晩年の芥川の厭世的な気質が色濃く映し出されているほか、親友である久米正雄にあてた遺書には、自殺の場所や手段が具体的に書かれたうえで「2年ほどの間、死について考え続けた」「死ぬための薬品を手に入れる手段を考え、実行した」という趣旨の文言が書かれているため、芥川の自殺は計画的なことだったと考える方が自然です。

ともかく、そうして35年という若さで突に世を去り、その生涯を終えた芥川。彼の命日は、彼の晩年の作品にちなんで「河童忌」と呼ばれ、現在でも各地で芥川関連のイベントが開かれています。

芥川龍之介の死因は自殺?その理由や最期の様子、周りに与えた影響を解説

芥川龍之介の墓は巣鴨にある

芥川が眠っている慈眼寺

芥川の墓は巣鴨の慈眼寺に存在しており、今も多くの人がお参りに訪れています。

JR山手線、都営三田線「巣鴨駅」から15分歩いた場所にあり、慈眼寺と染井霊園の間の墓地から入って少しのところにある立て看板の左手にあるのが芥川の墓です。その隣には芥川家の墓があり、そこには芥川の息子・芥川比呂志が眠っています。

墓石はまるでサイコロのような、珍しい形をしています。これはなぜかと言うと、芥川の遺言により彼が愛用していた座布団と同じ形・寸法で作ったからだそうです。墓石の上部には、芥川家の家紋である五七の桐紋が刻まれています。

また、芥川の墓がある慈眼寺には他の偉人や有名人の墓も点在しています。訪れたさいには、彼らの墓を巡ってみるのもいいかもしれません。

芥川龍之介の命日は「河童忌」と呼ばれる

田端文士村記念館。東京都北区田端にある

芥川が亡くなった7月24日は「河童忌」と呼ばれ、田端文士村記念館にてイベントが開催されています。

3回忌までは遺族と生前交流のあった文学者が集まる法会でしたが、4回忌からは「河童忌記念帖」として文藝春秋誌で紹介され、「河童忌」という名前が定着しました。17回忌まで毎年法会が開催されていましたが、戦争により中断。

戦後、無事再開されましたが、詳しい時期はわかっていません。以降は場所を変えて行われており、2017年からは田端文士記念館にて、毎年イベントが行われています。

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