源頼朝の生涯年表
1147年 – 0歳「源頼朝が誕生」
源義朝と由良御前との間に誕生した頼朝
5月9日に父源義朝と母由良御前との間に三男として尾張国(現在の愛知県名古屋市)で誕生しました。
兄弟構成は以下のようになっています。
長男:義平(母:三浦義明の娘または遊女)
次男:朝長(母:波多野義通の妹)
三男:頼朝(母:由良御前)
四男:義門(母:由良御前とされているが詳しいことは不明)
五男:希義(母:由良御前)
六男:範頼(母:遠江国の遊女)
七男:全成(母:常盤御前)
八男:義円(母:常盤御前)
九男:義経(母:常盤御前)
このように源頼朝は多くの異母兄弟がいました。また詳しい資料は残っていませんがこの他女子もいたとされているため頼朝は10人兄弟以上であったともされています。
母由良御前は源義朝の正室であったため頼朝は幼い頃から周囲から期待される人物であったと考えられています。
1156年 – 9歳「保元の乱が起きる」
保元の乱では平清盛と父義朝は協力
そもそも保元の乱が起こる要因となった事柄は2つあったとされます。
1つは崇徳天皇と後白河天皇の皇位継承の問題、もう1つは藤原頼長と藤原忠通の異母兄弟の跡継ぎ問題です。
これらの問題が重なったため戦に発展したとされ、武士だった頼朝の父源義朝や平清盛も参戦しました。
当時源義朝と平清盛は後白河天皇側の味方についており仲も悪くなかったとされます。
また戦の結果は後白河天皇側が勝利をしました。
源義朝は父を殺害した
保元の乱では平清盛とタッグを組んでいた源義朝ですが実は彼の父親である源為義は崇徳天皇側の味方についていました。戦に敗れた父親を助けたいと申し出ましたが許されず、その上なんと源義朝自らが父の首を切ったとされています。
父と子の関係でありながらも戦では敵として戦い、最期は父の首を切るという悲劇的な物語が保元の乱にはあったのですね。
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1159年 – 12歳「平治の乱が起きる」
平清盛に対して報酬が少なかった源義朝
保元の乱で勝利した後鳥羽天皇側の1人に信西という人物がいました。
彼の妻は後鳥羽天皇が幼い頃に母親代わりをしていたため信西は天皇ではないものの政治の実権を握れるほど権力があったといいます。そして信西は平清盛をもともと同じ北面武士(警備をするような武士)として知っていました。
信西は治安維持のために武力のあった平清盛のことを特別に扱うようになり平清盛は役職をもらったり貿易に関わったりと報酬をたくさん与えました。
一方の源義朝は実の父親を殺してまでも勝利に貢献したのにも関わらず思ったほどの報酬はもらえず平清盛との差に不満を抱きました。
後白河天皇の上皇化に反対する動きが
1159年後白河天皇は息子の二条天皇に譲位しました。しかし上皇となった後白河上皇は上から政治の指示をするいわゆる院政を行おうとしていました。
ただ院政に反対する者も現れます。それが後白河上皇の側近だった藤原信頼です。彼は院政で政治の実権を握り続けている後白河上皇に不満を持ち反後白河上皇・信西派として動き出します。
そこで声がかかったのが源義朝です。源義朝も報酬の少なさから信西に不満を抱いておりこの機会に戦おうじゃないかと立ち上がりました。そして1159年12月9日、後白河上皇と信西を襲撃し後白河上皇を捕まえました。(信西に関してはこの時は逃げられましたが後に自害しました。)
この時見事作戦を成功させた源義朝にはかなりの報酬が与えられたとされます。
次は平清盛を狙おうと動いた源氏
後白河上皇と信西を排除した源氏は次に平清盛を狙いました。この時も藤原信頼と源氏はタッグを組み戦いましたが結果は敗れることとなりました。そして源義朝は殺害され長男の義平は斬首刑に処され次男の朝長は逃亡中に負傷し命を落としました。
しかし三男の頼朝と四男の希義は平清盛の継母により死を免れ、頼朝は伊豆へ希義は土佐へ流させました。一方平清盛はというとますます力をつけていき1167年太政大臣に任命され平家の政治が行われ始めました。
1177年 – 30歳「八重姫と北条政子]
北条政子より先に出会った八重姫
伊豆に流された頼朝はずっと監視されていました。その監視をしていた人物の1人が伊東祐親という伊豆の豪族です。
しかしある時、伊東祐親は京の警備のためにしばらくの間伊豆から離れていました。その間に頼朝はなんと伊東祐親の娘、八重姫と恋仲になり子供まで授かったのです。
伊豆へ戻ってきた伊東祐親はこのことに激怒しさらに平家にばれるとまずいと子供を殺害しました。さらには頼朝も殺害しようとしましたがそのことを聞いた頼朝は命からがら逃げたとされます。
結局、頼朝と八重姫はこれで別れることとなり八重姫は入水自殺を図ったとも言われています。
北条政子と結ばれた頼朝
頼朝を監視していたのは伊東祐親だけではありません。北条時政という豪族も監視役でした。
そしてまたも頼朝は伊東祐親の時と同様、北条時政が伊豆にいない間に彼の長女である北条政子と恋仲になりました。
もちろん北条時政も平家を恐れ交際には大反対、政子を別の男性と結婚させようとしましたがそれを知った政子は夜に逃げ出し、頼朝の元へと向かったという話があります。
最終的には2人の熱意に負け結婚を許し翌年には大姫という子供が誕生しました。
1180年 – 33歳「6年にも及ぶ戦いが始まる」
平家を倒すことを目標に
平治の乱以降勢力を強めた平氏は後白河上皇や二条天皇とうまく関係を築き政治に介入するようになっていました。
しかし徐々に後白河上皇の指示を聞かないなど反発し始めた平氏。それどころか突然後白河上皇に対して反乱を起こし後白河法皇を拘束するような状態になりさらに平清盛の娘、徳子の子供である安徳天皇をわずか1歳で即位させました。
ちなみに天皇には代々受け継ぐ「三種の神器」という八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)という3つの宝物がありますがこれらを後白河法皇の許しなく無理やり安徳天皇に所持させました。
※この三種の神器の所持には多くの人々が納得していなかったとされており後の壇ノ浦の戦いでも奪い返すことが目標となっています。
また安徳天皇が即位したことにより皇位を継承できなかった人物がいます。それが後白河上皇の子供以仁王(もちひとおう)です。
以仁王はわがままな平氏を倒す決意をし「以仁王の挙兵」として全国の源氏に命令しました。以仁王は戦いの中で残念ながら亡くなってしまいましたがこの時点では頼朝は未だ動いていません。
しかし打倒平氏を掲げていた源氏たちのことを平氏は早く撲滅しようと動いておりそれを知った頼朝は全国の源氏と共に平氏と戦うことを決めました。そして頼朝は鎌倉を目指し動き出したのです。
いくつもの戦いが起きる
平氏が完全に滅びるまでにはおよそ6年ほどかかりました。その長い期間にはいくつもの戦いが起きています。
源氏は長い時間をかけながらもじわじわと平氏を攻めていき京から追い出し西へ追い詰めていきました。(しかし1181年に平清盛は発熱で亡くなりました。)
1183年 – 36歳「寿永二年十月宣旨が発表される」
平氏打倒を目指した源義仲だが
源頼朝や義経らのいとこに源義仲という人物がいました。彼は平氏をどんどん倒していき1183年の7月には平家を京から追い出すことに成功したほどの功績を残しています。
ただ彼は頼朝と敵対していた叔父をかばうなどしていたため頼朝との関係は悪かったようです。
そんな義仲ですが平氏を都から追い出した後は自らが京に入っていました。
しかし彼が率いてきた武士たちは大勢いたため、ただでさえ食糧難に落ち追っていた京はより食糧難になり飢餓に苦しむ人も増えたそうです。また寄せ集めてできたような軍だったため統制が取れずとても京を立て直せるような力は無かったとされます。
次第に朝廷や京に暮らす人々は義仲に不満を持ち始め、頼朝に京へ来てもらうよう要請しました。そして朝廷との関係が上手くいかないと思った義仲は平氏を滅ぼすため再び平氏を追いかけるように京から出ていきました。
朝廷に京へ来るよう要請された頼朝は断った
朝廷から京へ来るよう要請を受けた頼朝ですが頼朝自身が京へ行ってしまうと鎌倉を狙われる可能性があること、さらに義仲同様で多くの武士を連れて京に入ってしまうとさらに飢餓に苦しむと考え要請を断ったとされています。
一方要請を断られた朝廷は困りました。そのため朝廷は朝廷にとっても頼朝にとってもメリットになるような条件をつけて頼朝に頼ります。
その条件とは、
- 荘園をもともと持っていた支配人に返すこと。
- 東海道と東山道の人々が年貢を払うように命令し、従わなければ源頼朝が処罰を下す。
という2つです。この契約をしたことで(寿永二年十月宣旨)頼朝の権力はさらに強くなり朝廷からも認められるほどの勢力になりました。
義仲vs頼朝の勝負
義仲と頼朝は仲が悪かったため京でも権力を強めていた頼朝のことを知ると平氏との戦いに敗れていた義仲は急いで京へ戻りました。
しかし時すでに遅し、朝廷にとって頼朝は京を立て直してくれている功労者である上東の国はほとんど頼朝が支配しており、義仲の味方はいませんでした。
反対の西の国では平氏がいたため義仲は東へも西へも逃げることは出来ず、最後のあがきのように頼朝に戦いを挑んでいきましたが結果はあえなく敗北しこの戦いで義仲は命を落としました。
1185年 – 38歳「壇ノ浦の戦いで平氏が滅びる」
平氏を滅ぼすために動き出す
義仲を倒し京での立て直しも落ち着いた頼朝はいよいよ平氏を倒すことに動き出します。そのために頼朝は異母兄弟である義経と範頼を代官として平氏を倒す命令を下しました。
命令を受けた義経と範頼は摂津国(現在の兵庫県神戸市)での戦いで平氏に勝利します。さらに四国に逃げる平氏を追いかけ讃岐国(現在の香川県)で戦い、平氏は長門国(現在の山口県)に逃げていきました。
そして長門国へ逃げた平氏と追いかけた源氏は海上での戦いとなりました。(壇ノ浦の戦い)
海上での戦いでは潮の流れが重要になってくるのですが平氏はそれを熟知、平氏優勢の戦いだろうとされていました。海上の戦いに慣れていない源氏を見て勢いに乗ろうと考えていた平氏ですが徐々に潮の流れが変化し、今度は源氏優勢になりました。
この瞬間、源氏は猛攻撃し結果平氏はみな海に身を投げたとされます。ついにこの戦いで平氏は滅亡、頼朝にとっては父親のかたきを討った戦いになりました。
三種の神器は守れなかった
平清盛が生前行ったことの1つに安徳天皇の即位があります。平氏の血が入った安徳天皇を即位させることで政治の実権を握っていた平氏ですが多くの人々はこのことには賛成していません。
そのため朝廷をはじめ人々は天皇の即位に必要な三種の神器を取り返し新たな天皇を即位させたいと考えていました。そこで頼朝は義経らに三種の神器をなんとしてでも守って持って帰って来いという指示を出しています。
しかし壇ノ浦の戦いでは海上戦です。負けを感じた平氏たちは次々と海へ身を投げており安徳天皇も入水し平清盛の妻であった平時子も三種の神器を持ったまま身を投げたのです。
海に投げられた三種の神器をなんとか源氏たちは探しましたが最終的には、草薙剣だけは見つかりませんでした。
これには頼朝もショック、後白河法皇との政治的交渉の1つとして三種の神器奪還はとんでもなく有利に働くと思っていただけにそれを遂行できなかった義経らに不満を持ちました。
義経との仲は悪くなり鎌倉から追放
さて壇ノ浦の戦いの戦いで最大の功労者ともいわれる義経はヒーローとなりました。そして義経を称え、さらに有能で使えると考えた人物がいました。それが後白河法皇です。
もともと後白河法皇は頼朝に京の立て直しを要請したり平氏を倒すために寿永二年十月宣旨を発表するなど協力しているようにしていましたがそれはあくまでも朝廷や自らの立場を守るためです。
壇ノ浦の戦いで平氏が滅びた以上今度は源氏が力をつけてくることは分かっていました。そのため義経に後白河法皇は褒美として役職を与え近づいたのです。
これを知った頼朝は激怒、自分の手下だと思っていた弟が法皇から勝手に褒美をもらっており義経自身が力をつけてきていたからです。
これにより頼朝は義経が鎌倉に入ることを禁止にした上自害を求めました。これには1度は許してもらおうとした義経ですが頑なに許してくれない兄、頼朝の態度を見て頼朝を倒そうと計画しています。
しかし義経には思ったよりも武士が集まらず、頼朝に命を狙われていることを知った義経は行方をくらましました。
1186年 – 39歳「力をつける頼朝」
守護・地頭を設置する
頼朝は常に自分へ反発してくる人間がいないか敏感でした。その対策の1つとして作られたのが守護・地頭という制度です。
また治安をよくするため守護を置き、安定的に収入を得るために地頭を置くだけでなく義経の居場所を知るという意味でも大きな役割を果たしたとされます。実際に義経が京都あたりにいるようだとの噂が流れ始め、頼朝は朝廷側がかくまっているのではないかと感じ朝廷側に抗議を入れています。
それと同時に義経の行方について関与しているであろう人物を次々と拘束し、時には処刑しています。
見つかった義経とかくまった藤原秀衡
京都にいるという噂が流れ次々と身近にいた人が処刑されていった義経は奥州(東北の方)へ逃げました。
そして義経をかばったのが藤原秀衡です。なぜ義経をかばったかというと奥州では藤原秀衡が力をつけていました。もちろん頼朝が全国支配のために奥州に来るのも時間の問題です。そのため義経を味方につけ頼朝と戦おうとしていたとされるのです。
しかし藤原秀衡は作戦半ばで病死、跡継ぎとなったのは秀衡の次男である藤原泰衡です。
頼朝は後を継いだ泰衡に義経を出せとひたすら圧力をかけたのです。当初は父からの遺言である義経と共に頼朝を倒すという意思を持っていた泰衡ですが、最終的には圧力に耐えきれず義経を追い込み自害させました。
泰衡的には頼朝の言うことを聞いたためにこれで平和が訪れると考えていました。しかし頼朝は義経をかくまった罪は大きいと考え奥州の支配に入りました。
そして当時1番勢力が強かった頼朝に勝てるわけは無く結局泰衡も死亡、このとき奥州も頼朝の支配下となったとされます。
1192年 – 45歳「征夷大将軍になった頼朝」
朝廷も恐れた源頼朝
これまで敵対していた朝廷と頼朝ですが、奥州を支配したことでほぼ全ての国を支配した頼朝に朝廷はとても恐れていました。そのため後白河法皇は頼朝と何度も会談を行い、頼朝の意見を聞いていたとされます。
そんな中後白河法皇が3月に崩御してしまいました。その後朝廷は頼朝との関係を良くするために征夷大将軍というポジションを頼朝に与えました。これが鎌倉幕府ができた瞬間です。(近年では壇ノ浦の戦いがあった1185年に鎌倉幕府が出来たともされます。)
朝廷との関係も良くなった頼朝にとって怖いものは何もなくここから武士を中心とする時代を築いていくこととなりました。
最後までもめた源家
全国を支配し生活をしていた頃、源頼朝が討たれたという誤報が広まったことがありました。
その際妻の北条政子はひどく落ち込んでいたのですが、その姿を見た頼朝の異母弟、範頼は「後には私がいますから大丈夫ですよ」と声をかけたとされています。
範頼にとっては政子を励ます言葉だったのかもしれませんがそれを知った頼朝は自身が死んだ後の立場を狙っていると考え、範頼は伊豆へ流されました。頼朝はトップになっても人を疑い続け、冷酷に処罰を下していたことが分かりますね。
1199年 – 51歳「源頼朝死去」
原因不明の死去
1199年2月9日に51歳で亡くなりました。
しかしこれだけ多くの戦いの指揮を取り幕府を開いた偉人でもある源頼朝ですが最期の詳しいことは分かっていません。
ただ鎌倉幕府以降の室町幕府や江戸幕府まで続いた武士政権のきっかけを作った源頼朝は日本史の中でもトップレベルの功労者でしょう。
源頼朝の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
源頼朝-武家政治の創始者
源頼朝の人生が分かる本となっています。源頼朝だけでなく当時の周りのいざこざや政治の状態が分かるためややこしくなりがちな日本歴史を楽しく知ることができますよ。
源平武将伝 源頼朝 (コミック版 日本の歴史)
源頼朝の生涯を漫画で知ることができる本です。漫画なので登場人物も分かりやすく話の流れがより掴みやすいと思いますよ。文字ばっかりだと飽きてしまう方にはおススメです。
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源頼朝についてのまとめ
本記事では源頼朝について取り上げてみましたがいかがだったでしょうか?
教科書でも必ず習うほど有名な源頼朝ですが平氏や弟の義経も有名であるせいか意外にも詳しい内容を知っている人はいません。
ですが彼の人生には父の死があったり、禁断の恋があったり、兄弟間でのもめ事があったりと知れば知るほど気になる生涯だと個人的には思っています。
日本史はいくつもの戦があり登場人物も多いためなかなか分かりずらい部分もありますが現代の日本ができるまでの歴史を知ることは大変面白いです。
ぜひみなさんも日本の歴史に触れてみてくださいね。