源頼朝の功績
功績1「日本史上初の武士の組織「幕府」を作る」
源頼朝の最大の功績は、日本で初めて幕府を開いたことです。何事も、前例のないことをするのは難しいものです。頼朝の場合、先例として日本初の武家政権を築いた平清盛の栄枯盛衰を目の当たりにしたので、それとは違う形の政治体系「幕府」を開こうと考えました。清盛と同じ轍は踏まず、幕府は京都から離れた鎌倉に置きました。
徳川家康は、源頼朝を手本にしようと鎌倉時代の史書「吾妻鏡」を読み込んでいたと言われています。家康は室町幕府の末期をリアルタイムで見ているので、鎌倉幕府と室町幕府の違いも意識して考えたことでしょう。その結果、江戸幕府は長期にわたって政権を維持することができたわけです。
つまり、頼朝が鎌倉幕府を開かなければ、のちの江戸幕府もなかったかもしれません。そういう意味で、頼朝が鎌倉幕府を成立したことは、日本にとって大きな歴史の一ページと言えるでしょう。
功績2.「封建制度を開始した」
鎌倉幕府が開かれるまで貴族や寺社以外には自分の土地というものがありませんでした。「どんなに土地を耕してもどんなにいい作物が出来たとしてもその土地は国のもの」という風になれば当然、武士たちの不満は出てきますよね。
そのため源頼朝は封建制度なるものを作り御恩と奉公という関係性を作ったのです。簡単に言えば幕府のために活躍してくれた家来(御家人という)には土地を与えたり敵から身を守ってあげたりします。(これを御恩といいます。)
その御恩をしてもらうために家来たちは必然的に幕府に貢献しようと勤勉に働くのです。(これを奉公といいます。)
幕府と家来たちが互いにメリットになるように作られた封建制度はまさに武士中心となる政治になった制度です。
功績3.「守護・地頭を置き治安を良くした」
源頼朝が作った制度として有名なのが守護・地頭です。
守護は現在でいう警察のような役割を果たし、反乱を行おうとするものを捕まえたり殺人を犯した者を逮捕していました。
一方の地頭は年貢の取り立てや土地の管理をしており幕府は安定的にお金を調達することが出来ました。
守護・地頭を設置することで幕府に反抗してくる人間を素早く見つけれると共にお金を継続的に管理できることから鎌倉幕府だけでなく室町幕府でも利用された制度となっています。
源頼朝と深い関係のある人物は?
平清盛
源頼朝を語る上で外せないのが平清盛との関係性です。源頼朝は清和天皇の子孫・平清盛は桓武天皇の子孫と実は2人とも天皇一家の血を引いています。
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そのため1156年に起こった後白河天皇と崇徳上皇との戦いである保元の乱では共に仲間として戦っています。そんな平氏と源氏が対立してしまったのは保元の乱で共に戦ったのに平氏のほうがいい報酬をもらったことがきっかけでした。
それに怒った源義朝は1159年に平治の乱で平氏と対立しますが戦では負けてしまいます。その結果源義朝は殺害されました。一方子供だった源頼朝は平清盛の継母(血の繋がっていない母)により死を逃れ伊豆へ流されました。
しかしそこで頼朝を助けてしまったのが平清盛の失態だったのでしょう。最終的に源頼朝は父のかたきを取り、新たな政治を行うために平氏を滅ぼしたのです。
源義経
源頼朝の異母兄弟である源義経は1159年平治の乱が起こった年に生まれました。
頼朝同様、平治の乱で負けたことにより身柄を捕らわれてしまいましたが生まれたばかりということでお寺に預けられ生活しており、後に成長した義経は兄の頼朝が平氏を倒しに行くことを知り協力したとされています。
義経は戦でとても活躍しヒーローのような存在でしたが頼朝から褒められることはありませんでした。
その理由として何としてでも平氏から奪いたかった三種の神器が奪えなかったことが挙げられます。せっかく戦で活躍したのに褒めてもくれない頼朝に腹だった義経はなんと後白河法皇に身分を上げてもらおうとしたのです。
それを知った頼朝は激怒、鎌倉に入ることを禁止した上義経に自害を求めました。最初は逃亡した義経でしたが、助けを周りに求めても頼朝が怖く誰も味方になってくれなかったことから最終的には自害をしました。
北条政子
伊豆に流された源頼朝は北条政子という女性と出会いました。2人は愛を育んでいましたがこれを知った政子の父、北条時政はとても反対しました。
しかし2人の熱意により結婚を許されることとなり北条政子は源頼朝の正室となりました。その後4人の子宝に恵まれた2人ですが北条政子が有名になったのはなんといっても承久の乱が起こった時に言ったとされる言葉です。
すでに頼朝は亡くなってしまい2人の子供であり3代目将軍だった実朝も殺され先行きが不安な中、武士たちに向かって、
皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。
故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも 高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ浅からんや。
而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代将 軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。
と発言したとされています。
要するに源頼朝がどれほどあなたたち(家来)が生活しやすい政治をしていたか分かりますか?源頼朝に恩を感じているのなら怖がらず戦いなさい。ということになります。
この発言を聞いた家来たちは一気に結束し、承久の乱でも勝利しました。源頼朝が亡くなった後でも幕府を守り続け武士たちをまとめていたことから尼将軍とも言われていたそうです。
このことから源頼朝と同じで北条政子も仕事ができる人間だったのでしょうね。
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源頼朝にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「源頼朝は顔が大きく背が低かった」
源頼朝の容姿についての記載がいくつかあるのですが「源平盛衰記」という軍記物語では顔が大きいと記されており、「平家物語」では顔が大きく背が低いと書かれています。
身長については甲冑などの大きさから推定で155センチ程度だったのではないか、とも考えられています。
一見顔も大きくて背も低いとなるとモテなさそうですが容貌は美しく、源頼朝は幕府を開いたほどの実力者です。権力も持っていたため女性からはモテてたとされていますよ。
都市伝説・武勇伝2「4度の浮気で北条政子を怒らせた」
当時の時代からいえば一夫多妻制はよくあることではありました。しかし北条政子の嫉妬は凄く浮気がある度に怒られていたとされます。
そして恐ろしいことに北条政子は家来に浮気をした女性の家を破壊せよと命令したこともあったようです。
源頼朝はこれに激怒したとされますが、懲りずに以降も女性と会っていたそうで現代でいえば浮気性となりますね。
源頼朝の簡易年表
父 源義朝と母 由良御前との間に三男として誕生しました。
平治の乱で敗れ伊豆へ流されました。
伊豆で出会った北条政子と周囲に反対されながらも結婚をしました。
朝廷より源頼朝に対して東国の支配を公認する文書を発表しました。
平氏が滅亡した戦いです。この戦いをきっかけに源氏の勢力は勢いづく形になっています。
後鳥羽天皇によって源頼朝は鎌倉幕府初代の征夷大将軍になりました。
死因は落馬や病気など所説ありますがはっきりとしたことは判明しておらず51歳で亡くなりました。