崇徳天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【怨霊伝説や和歌も紹介】

崇徳天皇は平安時代末期の75代天皇です。あまりにも悲惨な人生を送って、「日本三大怨霊の一人」となったといわれる人です。本人のせいではないのに、父の鳥羽天皇からは虐げられ、天皇とは名ばかりの日々を過ごしていました。

崇徳天皇

実権のない天皇であった崇徳天皇ですが、非常に和歌を愛し、在位中はよく歌会を催していたという文化人でした。その崇徳天皇が後年「帝は怨霊になった」といわれるようになったのはどうしてなのか。

崇徳天皇の歌のファンである筆者が、解説していきたいと思います。一般的に「崇徳天皇」と「崇徳上皇」とどちらの呼び方もあるのですが、この記事では天皇時代を「崇徳天皇」で、退位後は「崇徳上皇」という呼び方で記していきたいと思います。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

崇徳天皇とはどんな人物か

名前崇徳天皇(崇徳上皇)
誕生日1119年7月7日
没日1164年9月14日
生地京(京都)
没地讃岐国(香川県)
配偶者藤原聖子
埋葬場所白峰陵

崇徳天皇の生涯をハイライト

崇徳天皇は今日まで在位した天皇の中でも、とても「悲しい」人生を送った方です。崇徳天皇が「日本三大怨霊の一人」になってしまうような人生を簡単に説明したいと思います。

日本史上類を見ない特殊な身の上でした

崇徳天皇は1119年に鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。母は中宮の藤原璋子です。中宮所生の第一皇子ということで、生まれながらに天皇になることが決まっているような立場でした。しかし崇徳天皇の場合は事情があり、父帝の鳥羽天皇は快く思っていませんでした。理由は後述します。

1123年に皇太子になり同日わずか3歳7か月で即位しました。1129年に崇徳天皇の最も強い後見人だった、曾祖父の白河上皇が崩御しています。そして、鳥羽上皇の院政が開始しました。1141年に院政を敷いていた鳥羽上皇は崇徳天皇の譲位を迫り、自身が寵愛する美福門院(藤原得子)が生んだ体仁天皇を即位させています。

崇徳天皇は和歌を愛し、情熱を傾けていきました

譲位後は「新院」と名乗り、和歌の世界に没頭していったといわれています。在位中もよく歌会を開き、退位後は「久安百首」や「詞花和歌集」を選出しました。そして鳥羽上皇も表向きは鷹揚な態度を示していて、第一皇子重仁親王を美福門院の養子にしています。

1155年病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、跡継ぎを決めることになりました。この時崇徳天皇の第一皇子重仁親王が最有力候補でしたが、帝位を譲られたのは重仁親王ではなく、崇徳天皇の弟の雅仁親王(後白河天皇)でした。

藤原頼長は気性の激しさから「悪左府」といわれていたといいます

1156年の鳥羽上皇の崩御により、状況が急変します。2か月余りで親崇徳派だった藤原忠実・頼長親子が、屋敷に乗り込まれ没官されるという事件が起きたのです。これにより自身にも手が回るのではないかと案じた崇徳上皇は鳥羽田中殿を脱出して、妹の邸宅に身を押し入りました。

この出来事は保元の乱といわれ、藤原頼長が武士を終結させます。結局この乱は後白河側が勝利し、崇徳上皇は後白河側に監視される立場となりました。そして10日後には武士に囲まれて網代車に乗り、讃岐へと配流されたといいます。

網代車に乗せられて讃岐の地に流されました

天皇・上皇の配流は淳仁天皇以来およそ400年ぶりぐらいの出来事でした。その後二度と京に戻ることは叶わず、配流先の讃岐で崩御しました。一説によると京からの刺客により暗殺されたといわれています。享年46歳でした。

崇徳天皇は不幸な身の上だった

自分にとっての祖父の子なので「叔父子」と鳥羽天皇はいっていたといいます

「古事談」によると、鳥羽天皇と中宮璋子の間の第一皇子になっていますが、実は崇徳天皇は鳥羽天皇の祖父である白河上皇と璋子の密通の子であり、鳥羽天皇は「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという話が残っています。

母の中宮璋子は、7歳の時に実父の藤原公実が他界したため、白河上皇を養父として育てられました。その後摂関家の藤原忠長との縁談が持ち上がりましたが、「璋子の素行に噂」があったために辞退されています。その後、白河上皇は代父として孫の鳥羽天皇に璋子を入内させました。翌年に誕生したのが崇徳天皇だったのです。

讃岐での崇徳天皇の生活

一説によると自らの「血」で写経したともいわれています

讃岐に流された崇徳上皇は、仏教に深く傾倒し極楽往生を願い、五部大乗経の写本づくりに専念し、戦没者の供養と反省の証として京の寺に納めてほしいと送りました。しかし後白河天皇は「呪詛がかけられている」ことを疑ってこれを拒否し送り返してきたといいます。

これに激怒した崇徳上皇は舌をかみ切って写本に、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と写経に血で書き込んだといわれています。

崇徳上皇は自ら「魔縁(天狗)」になると恨みを抱き続けました

崇徳上皇は崩御の時までに髪も爪も伸ばし続け、夜叉のような姿になったと伝わっています。その様子はまるで天狗の様で崩御の時まで続いたそうです。そして恨み続けたまま、1164年に46歳で崩御しました。

崩御後、後白河天皇は「太上皇無服仮乃儀(崇徳上皇の服喪の儀はしない)」と声明し、「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰(国司を付けてかの(崇徳上皇)の葬礼を行い、公家よりその沙汰なし)」と記されており、国司によって葬礼が行われただけで朝廷による措置はなかったといいます。

怨霊伝説が生まれる

安元の大火の時は京の3分の1が消失したといいます

崇徳上皇崩御後、十年程して怨霊の噂が囁かれるようになります。発端は1176年に、建春門院・高松院・六条院・九条院など後白河上皇に、近い人物が相次いで死去しました。そして1177年に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、長く動乱へと続いていったのです。

「愚管抄」には、「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、この頃には崇徳院の怨霊の噂が立っていたことが分かります。そして1184年には、崇徳上皇と藤原頼長の悪霊を神霊として祭るべきだという意見が出されるようになりました。

香川県の白峯寺も官の保護が与えられたといいます

精神的に追い詰められた後白河上皇は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、頼長には正一位太政大臣が追贈しています。そして保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」を設けました。また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても保護が与えられたとされています。

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