フローレンス・ナイチンゲールとは、19世紀に活躍した看護師であり、看護師という職業の地位を飛躍的に高め、公衆衛生という概念を世界にもたらした偉大な女性です。
クリミア戦争という地獄を経験した彼女は、そこで学んだ「看護」という行為の重要性を世界に訴え続け、60年にも及ぶ長い戦いの末に、世界の医療体制をがらりと変革させた、まさに「世界を相手に戦った女性」と言っても過言ではありません。
この記事では、そんなナイチンゲールの名言について、時代背景や発した意図なども含めたうえで解説していきたいと思います。「人命」「看護」「人の愛」「行動」といったような分野に対しての名言が多く、彼女の「人間愛」が感じられる非常に前向きな言葉ばかりなので、励まされる人も多いでしょう。
もっとも、文書こそ大量に残していながら、あまり自身の事を語らなかった彼女ですので、その大半の意図は想像するしかありません。その点に留意しつつ、ご覧になっていただければと思います。
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ナイチンゲールの名言と意図、背景
フローレンス・ナイチンゲールとは何した人?生涯・功績まとめ【年表付き簡単解説】
若い時分より看護の道を志し、90歳でこの世を去るまでの間、一貫して「看護」の重要性を世界に向けて説き続けたナイチンゲール。そんな彼女の名言をいくつか紹介していきましょう。
「精神」の名言
天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である。
「クリミアの天使」と称され、看護師の代名詞である「白衣の天使」という異名の元ともなったナイチンゲール。しかし彼女自身は、「天使」という呼ばれ方を好んではいなかったようです。
史実を少し調べればわかりますが、ナイチンゲールの本質は「戦う女性」。清楚可憐な「天使」のイメージを押し付けられることは、彼女としてはあまり快くはなかったのかもしれませんね。
私は地獄を見た。私は決してクリミアを忘れない。
フローレンス・ナイチンゲールという偉大な看護師の原風景。クリミア戦争の最前線の光景を表した言葉です。
下水の上に建てられた野戦病院。蔓延する感染症。不衛生なベッド。そして、そんな惨状を見てみぬふりで済ませる軍医長官……。
まさに「地獄」と形容するに相応しいその光景を経験したことが、ナイチンゲールが看護と公衆衛生の普及と発展に力を尽くす原動力になったのかもしれません。
子を失う親のような気持ちで、患者に接することのできない、そのような共感性のない人がいるとしたら、今すぐこの場から去りなさい。
クリミア戦争後、長年の夢であった看護学校を設立したナイチンゲールが、入学生たちに告げた言葉です。非常に厳しい言葉ですが、「看護」という行為の重要性を文字通り体現した彼女が口にすると、説得力と重みが違います。
「病人を”看”て、”護”る」とはどういうことか。その厳しさと求められる覚悟を問う、ナイチンゲールという強い女性を象徴する言葉だと言えるでしょう。
自分の命より大切なものが多くなると、人間、気苦労が多くなる。
ナイチンゲールにしては珍しい、弱音のようにも受け取れる言葉です。
とはいえ、語っている内容の大きさは一般人とは桁違い。きっと彼女の「命より大切なもの」は、「患者たち」や「医療の発展」という、世界規模の大きさのものだったに違いありません。
立派な男性が求婚すれば、女性がそれを受諾しない理由はない、という考えにはまったく賛成できない。
当時としては異質としか言いようのない、ナイチンゲールの結婚観です。現在では当たり前のことを言っているだけのようにも見えますが、この言葉は実は非常に広い範囲に当てはまる言葉です。
「○○だから当たり前」「××してくれるのが当然」なんて事柄は、実はこの世には存在しません。そういった行為は全て、根本的には誰かの善意によって成り立っているのです。
過剰なサービスを「当然」と認識する”お客様”や”視聴者様”がはびこる現代。今一度この言葉を見つめ直して、様々な事柄の裏にある善意を再認識してみてはいかがでしょうか?
命を奪われた男たちの前に立って思う。生きている限り、彼らを死に追いやった相手と戦い続けると。
ナイチンゲールの鋼の意思の、まさに原型だと思われる言葉です。
命尽きるまで看護や衛生の発展に力を尽くし続けた彼女は、言葉通りにこの宣言を全うしたと言っても過言ではないでしょう。
価値ある事業は、ささやかな、人知れぬ出発、地道な労苦、地道な苦闘のうちで、真に発展し、開花する。
クリミア戦争の野戦病院へ派遣された当初、ナイチンゲール達看護師団の仕事は、トイレ掃除だけでした。そんな地道な部分からナイチンゲールは院内で勢力を拡大していき、兵士たちから「天使」「母親」と称されるまでになったのです。
人は”良い結果”ばかりをすぐに望み、地道な努力を敬遠する傾向があります。しかし、それで本当にいいのだろうか?ナイチンゲールのこの言葉は、そんな人の弱さに真っ向から問いかけてくるようです。