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【厳選】芥川龍之介の名言15選!発言の意図や背景も紹介

突然ですが、皆さんは「日本の文豪」という言葉から、どの人物を連想するでしょうか?

太宰治夏目漱石などの近代文学者はもとより、紫式部や清少納言、あるいは村上春樹なんかを連想する方もいらっしゃるかもしれません。

しかし「日本の文豪」というくくりで人物を選出するのだとしたら、まず間違いなく「芥川龍之介」を外すことはできないでしょう。

『羅生門』『鼻』『河童』などの、現在でも読み継がれる多くの名作短編を世に送り出し、そしてあまりにも短い生涯を薬物による自殺で終えた芥川。その儚い人生や、残した作品の秀逸さから、現在では作品のみならず、本人をモチーフにしたキャラクターが数多く存在するような文学界の”偉人”こそが、芥川龍之介という人物です。

そして偉人であるということは、その分「名言」と呼ばれる類の言葉も数多く残しているもの。

ということでこの記事では、そんな芥川が残した言葉について解説していきたいと思います。

芥川龍之介の名言と意図、背景

若き日の芥川龍之介

古典文学から題材を取り、「人間の本質」や「生きるとはどういうことか」という、様々な事柄の奥にある「本質」を作中世界に描き続けた芥川。

そんな彼の創作スタイルを表すように、彼の遺した言葉の数々も、人の本質を鋭く抉り出すような痛烈かつ痛快なものがほとんどです。

この記事では、そんな痛烈な芥川の言葉の中から「現在の我々にとっても心にとどめておくべき言葉」にテーマを限定して紹介していきたいと思います。

「人生」を語る名言

阿呆はいつも、彼以外のものを阿呆であると信じている。

最近のテレビ番組やSNSなどを見てみると、どうにも「他者批判」に対する考えの浅さが目立つような気がします。

「自分と意見が違うから」と叩き、「悪いことをした奴だから」と無関係な人間が集まって一人の人間を叩く。その画面の向こうに”見知らぬ他人”がいることなど理解していないように振る舞い、あろうことか「自分のストレス解消のため」に心無いコメントをぶつける始末。

人間である以上、「自分以下の存在を見て安心したい」と思うのも当然ではあります。

しかし、だからといって無根拠に「自分が正しい!」を喧伝するのも困りもの。誰かを「阿呆」と批判したくなった時は、ひとまず落ち着いてこの言葉を思い出してみてはいかがでしょうか。

人間は時として、満たされるか満たされないかわからない欲望のために一生を捧げてしまう。 その愚を笑う人は、つまるところ、人生に対する路傍(ろぼう)の人に過ぎない。

満たされるか満たされないかわからない欲望――つまりは夢を追う人は、時として愚かに見えることもあります。「夢を諦めて就職する」なんてことは、実際生きていれば珍しい事でもなんでもありませんし、それもまた一つの人生として尊重されるべき選択です。

しかし同時に、夢を追う人を「愚か者だ」と笑うことも、誰にもできません。傍から見て愚かな選択に見えようとも、それもまた尊重されるべき人生の選択なのです。

この名言には、そんな「夢追い人」を励ますような、文学的かつ温かな思いが込められています。自分は果たして「誰かの人生に対する路傍の人」となってはいないか。少し考えたくなる名言だと思いませんか?

人生の競技場に踏みとどまりたいと思ふものは、創痍を恐れずに闘はなければならぬ。

いわゆる「生き残りたいのなら戦え」という意味の名言です。

現在では『進撃の巨人』などの作品で語られるタイプの名言ですが、芥川は当時においてもそんな価値観を有していたようです。

元々、偉人や軍などの「偉そうな人物」を嫌っていた芥川らしい、実力主義というか個人主義というか、ともかく”芥川らしい”名言だと言えるでしょう。

人生は地獄よりも地獄的である。

これもまた、どうにもネガティブな芥川らしい名言だと言えるでしょう。筆者はこの言葉を見たときに、まず真っ先に伊藤計劃の『虐殺器官』を思い出しました。

芥川のこの言葉を考えるには、この記事で長々と筆者のコメントを読むよりも、彼自身の著作である『地獄変』を読むのがもっとも手っ取り早いかと思われます。

「焼け死ぬ女」の絵を描くために、非情な絵師・良秀がとる手段とは何か。読み終えた後にこの言葉を思い出すと、「芥川龍之介は、はたしてどんな人生観を描いていたのか」という思いを考えざるを得なくなります。

自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者にはたえることはできない。

人生を語るには、まず間違いなく考えねばならない「自由」という事柄。芥川はこれを「弱い者には耐えられないもの」と解釈していたようです。

軍が強権を振りかざしていた芥川の時代には、現在の我々が言う「自由」が無かったことは明白です。しかし、ならば現在の我々の生き方は、本当に自由なのでしょうか?

芥川らしい文学センスを発揮しながら、言葉を投げかけられた我々に深く思考することを求める、とても芥川らしい名言であるように思えます。

「創作」を語る名言

文を作るのに欠くべからざるものは、何よりも創作的情熱である。

「創作」を行うにあたって、一番大事なものを語る名言です。結局のところ「生み出そう!」と思い至らなければ、どんな創作物だってこの世に生まれ出ることはありません。

どんな創作物であれ、それが「創作」として世に出されるためには、生みの苦しみとも呼ぶべき過程がいくつも経られていることは間違いないのです。

ですので、”創作者”である方々はもとより、そんな創作を楽しむ方々にも、この名言は心に留め置いてほしい言葉だと思います。

創作は常に冒険である。所詮は人力を尽した後、 天命にまかせるより仕方はない。

一般的にはあまりピンとこない名言かもしれませんが、いわゆるクリエイターである方々には「わかるわかる」となるタイプの名言だと思います。

浮世絵が当初は包装紙代わりに使われていたこと。あるいはピカソが生前は評価を受けなかったことなどからわかるように、以下に秀逸な作品を作り出そうとも、それは結局「評価を受けるきっかけ」が無ければ正しい評価を受けられないものなのです。

一見すると残酷なようにも思える言葉ですが、逆に考えれば「評価尺度は変化するのだから、現在の評価にこだわる必要はない」といっているようにも受け取れます。

ともかく確実に言えるのは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるように、「全力を尽くすこと」と「待つこと」というのが、何かを成し遂げるには不可欠であるということでしょう。

芸術は民衆の中に必ず種子を残している

「吾輩は猫である」のような、広く長く語られる一説でもない限りは、文章というのは大抵忘れられるものです。おそらくは、丸1日記憶の中に残っていればいい方でしょう。

しかしそれと同時に、文章は我々の中に「語彙」として残ることがほとんどです。何処かで読んだ文章に使われていた表現が、いつのまにか口に馴染んでいく。創作のキャラクターの口調が少し自分に移ったように感じる、というのは、きっと読書家であれば大体一度は通るところでしょう。

そんな風に、芸術作品というのは全貌を覚えていられなくとも、必ず我々の中に何かしらの”種子”を残しているものなのです。

僕は芸術的良心を始め、どういう良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである。

『羅生門』で描かれる「芥川なりの人間の本質」を読み解いていくとわかるように、芥川は人間の良心というものに否定的な感覚を持っていたように窺えます。

彼はおそらく、「どこまでも自分の目で」人間という存在や心という存在の本質を見極め、それを文章として書き残すことに執心したのではないでしょうか。

この言葉は、そんな芥川の創作のスタイルを、かなり直接的にあらわした言葉のように感じられます。

芸術のための芸術は、一歩を転ずれば芸術遊戯説に墜ちる。人生のための芸術は、一歩を転ずれば芸術功利説に堕ちる。

芥川の遺した言葉の中でも、かなり解説の難しい言葉です。

しかし「解説が難しい」ということは、それは同時に我々が「芸術遊戯説」と「芸術功利説」のどちらかに偏っていることを何より雄弁に語っている証なのではないでしょうか。

「芸術は遊戯であり、”あってもなくてもよいもの”」なのか「芸術は経済的なものであり、作品に付けられる値打ちこそが”価値”」なのか。

それは未だに答えの出ない、永遠に考え続ける必要がある問いの一つなのかもしれません。

「幸福」を語る名言

人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はずはない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものもたちまち不完全に感ぜられてしまう。

「何故ユートピアは存在しないのか」という問いに対する、芥川なりの回答です。

筆者はこの言葉を見たとき、とある漫画で読んだ「”完全な人間”という存在からは、”不完全”という要素が欠けている」「要素が欠けている以上、それは”完全”ではあり得ない」という台詞を思い出しました。

「争いのない完全な理想郷」というのは、古くから多くの人が求め、神話や小説、戯曲などの創作の中に表現してきました。

しかしそれらに表現されるものは同時に、「一面的な理想郷」にすぎないものばかり。では、「それらは何故”一面的”でしかないのか」という命題に、一応の答えを出す言葉こそが、芥川のこの言葉であるように感じられます。

物質的欲望を減ずることは必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得るためには精神的欲望も減じなければならぬ。

「譲り合い」「気遣い」を求める社会を、真っ向から皮肉るような言葉です。

「譲り合う」「気を遣う」というのは、その本質を考えていくと「自分の欲するものを我慢して、それを他人に与えること」、つまりは「自分の感情を抑圧すること」に他なりません(少し言い方はきついですが)。

しかしそんな抑圧は、大抵さほど長続きはしないもの。抑圧がはじけた後に人間関係がどうなるかは、大抵の方は一度は経験しているかと思います。

そんな「人間関係の難しさ」と「平和」というものの難しさを同時に語った芥川のこの言葉。残酷さと同時に、ある種の面白さも感じる言葉です。

人生を幸福にするためには、日常の些事を愛さなければならぬ。

「幸福」というものに対する考えが率直に語られている、芥川にしては珍しいタイプの言葉です。

この記事では代表としてこの言葉を紹介していますが、芥川の語る「幸福」は、大抵「日常生活の中のささいな幸福」を語っているものがほとんど。

かなり厭世的でネガティブな気質の芥川ですが、その分広い世界よりも、自分の回りの狭い世界に降伏を見出し、なんとか生きようとしていたのかもしれません。

好人物は何よりも先に、天上の神に似たものである。第一に、歓喜を語るに良い。第二に、不平を訴えるのに良い。第三に、いてもいなくても良い。

「好人物」というものを語る、ある意味で身も蓋もない言葉です。

これもまた『進撃の巨人』で語られていた「”いい人”というのは、”自分にとって都合がいい人”を指しているように感じる」という言葉に酷似しているように筆者には感じました。

この芥川の言葉に語られる「好人物」は、ハッキリ言ってそういう類の「都合のいい人」でしかありません。ですので、ここに語られる好人物を目指すよりは、「自分は他者に、こういう「都合の良さ」「好ましさ」を求めない」という形で心に留め置く名言だと言えるでしょう。

幸福とは、幸福を問題にしない時をいう。

最後に「幸福とは?」という問いに対する芥川の回答を。

結局、小難しく”幸福”について考えるよりは、この数文字の言葉で語られた状態こそが、人にとっては最上の幸福なのかもしれません。

芥川龍之介の名言についてのまとめ

厭世的でネガティブ。人間の本質を鋭く突き、常に自分の視点を大衆の外側に置いていたように窺える芥川龍之介という人物。

彼の名言は、確かに我々の心を揺さぶり、考えさせられるものがほとんどですが、同時に「手放しで頷けるものか」と言われると、首を縦には振り難いものがほとんどでしょう。

しかし、それこそが”名言”というものの本質。

ただ「誰々が言っていたから」と思考停止するよりは、「果たして本当にそうなのか」という風に、リスペクトと共に疑いを持って考え続ける事こそが、言葉を託された我々が真に行うべき事なのではないでしょうか?

皆さんも、この記事で学んだ言葉を鵜呑みにすることなく、芥川のように「常に本質について考え続けて」ほしいと思います。

それでは、この記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました。

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