「幸福」を語る名言
人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はずはない。
人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はずはない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものもたちまち不完全に感ぜられてしまう。
「何故ユートピアは存在しないのか」という問いに対する、芥川なりの回答です。
筆者はこの言葉を見たとき、とある漫画で読んだ「”完全な人間”という存在からは、”不完全”という要素が欠けている」「要素が欠けている以上、それは”完全”ではあり得ない」という台詞を思い出しました。
「争いのない完全な理想郷」というのは、古くから多くの人が求め、神話や小説、戯曲などの創作の中に表現してきました。
しかしそれらに表現されるものは同時に、「一面的な理想郷」にすぎないものばかり。では、「それらは何故”一面的”でしかないのか」という命題に、一応の答えを出す言葉こそが、芥川のこの言葉であるように感じられます。
物質的欲望を減ずることは必ずしも平和をもたらさない。
物質的欲望を減ずることは必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得るためには精神的欲望も減じなければならぬ。
「譲り合い」「気遣い」を求める社会を、真っ向から皮肉るような言葉です。
「譲り合う」「気を遣う」というのは、その本質を考えていくと「自分の欲するものを我慢して、それを他人に与えること」、つまりは「自分の感情を抑圧すること」に他なりません(少し言い方はきついですが)。
しかしそんな抑圧は、大抵さほど長続きはしないもの。抑圧がはじけた後に人間関係がどうなるかは、大抵の方は一度は経験しているかと思います。
そんな「人間関係の難しさ」と「平和」というものの難しさを同時に語った芥川のこの言葉。残酷さと同時に、ある種の面白さも感じる言葉です。
人生を幸福にするためには、日常の些事を愛さなければならぬ。
人生を幸福にするためには、日常の些事を愛さなければならぬ。
「幸福」というものに対する考えが率直に語られている、芥川にしては珍しいタイプの言葉です。
この記事では代表としてこの言葉を紹介していますが、芥川の語る「幸福」は、大抵「日常生活の中のささいな幸福」を語っているものがほとんど。
かなり厭世的でネガティブな気質の芥川ですが、その分広い世界よりも、自分の回りの狭い世界に降伏を見出し、なんとか生きようとしていたのかもしれません。
好人物は何よりも先に、天上の神に似たものである。
好人物は何よりも先に、天上の神に似たものである。第一に、歓喜を語るに良い。第二に、不平を訴えるのに良い。第三に、いてもいなくても良い。
「好人物」というものを語る、ある意味で身も蓋もない言葉です。
これもまた『進撃の巨人』で語られていた「”いい人”というのは、”自分にとって都合がいい人”を指しているように感じる」という言葉に酷似しているように筆者には感じました。
この芥川の言葉に語られる「好人物」は、ハッキリ言ってそういう類の「都合のいい人」でしかありません。ですので、ここに語られる好人物を目指すよりは、「自分は他者に、こういう「都合の良さ」「好ましさ」を求めない」という形で心に留め置く名言だと言えるでしょう。
幸福とは、幸福を問題にしない時をいう。
幸福とは、幸福を問題にしない時をいう。
最後に「幸福とは?」という問いに対する芥川の回答を。
結局、小難しく”幸福”について考えるよりは、この数文字の言葉で語られた状態こそが、人にとっては最上の幸福なのかもしれません。
芥川龍之介の名言についてのまとめ
厭世的でネガティブ。人間の本質を鋭く突き、常に自分の視点を大衆の外側に置いていたように窺える芥川龍之介という人物。
彼の名言は、確かに我々の心を揺さぶり、考えさせられるものがほとんどですが、同時に「手放しで頷けるものか」と言われると、首を縦には振り難いものがほとんどでしょう。
しかし、それこそが”名言”というものの本質。
ただ「誰々が言っていたから」と思考停止するよりは、「果たして本当にそうなのか」という風に、リスペクトと共に疑いを持って考え続ける事こそが、言葉を託された我々が真に行うべき事なのではないでしょうか?
皆さんも、この記事で学んだ言葉を鵜呑みにすることなく、芥川のように「常に本質について考え続けて」ほしいと思います。
それでは、この記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました。