「創作」を語る名言
文を作るのに欠くべからざるものは、何よりも創作的情熱である。
文を作るのに欠くべからざるものは、何よりも創作的情熱である。
「創作」を行うにあたって、一番大事なものを語る名言です。結局のところ「生み出そう!」と思い至らなければ、どんな創作物だってこの世に生まれ出ることはありません。
どんな創作物であれ、それが「創作」として世に出されるためには、生みの苦しみとも呼ぶべき過程がいくつも経られていることは間違いないのです。
ですので、”創作者”である方々はもとより、そんな創作を楽しむ方々にも、この名言は心に留め置いてほしい言葉だと思います。
創作は常に冒険である。
創作は常に冒険である。所詮は人力を尽した後、 天命にまかせるより仕方はない。
一般的にはあまりピンとこない名言かもしれませんが、いわゆるクリエイターである方々には「わかるわかる」となるタイプの名言だと思います。
浮世絵が当初は包装紙代わりに使われていたこと。あるいはピカソが生前は評価を受けなかったことなどからわかるように、以下に秀逸な作品を作り出そうとも、それは結局「評価を受けるきっかけ」が無ければ正しい評価を受けられないものなのです。
一見すると残酷なようにも思える言葉ですが、逆に考えれば「評価尺度は変化するのだから、現在の評価にこだわる必要はない」といっているようにも受け取れます。
ともかく確実に言えるのは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるように、「全力を尽くすこと」と「待つこと」というのが、何かを成し遂げるには不可欠であるということでしょう。
芸術は民衆の中に必ず種子を残している
芸術は民衆の中に必ず種子を残している
「吾輩は猫である」のような、広く長く語られる一説でもない限りは、文章というのは大抵忘れられるものです。おそらくは、丸1日記憶の中に残っていればいい方でしょう。
しかしそれと同時に、文章は我々の中に「語彙」として残ることがほとんどです。何処かで読んだ文章に使われていた表現が、いつのまにか口に馴染んでいく。創作のキャラクターの口調が少し自分に移ったように感じる、というのは、きっと読書家であれば大体一度は通るところでしょう。
そんな風に、芸術作品というのは全貌を覚えていられなくとも、必ず我々の中に何かしらの”種子”を残しているものなのです。
僕は芸術的良心を始め、どういう良心も持っていない。
僕は芸術的良心を始め、どういう良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである。
『羅生門』で描かれる「芥川なりの人間の本質」を読み解いていくとわかるように、芥川は人間の良心というものに否定的な感覚を持っていたように窺えます。
彼はおそらく、「どこまでも自分の目で」人間という存在や心という存在の本質を見極め、それを文章として書き残すことに執心したのではないでしょうか。
この言葉は、そんな芥川の創作のスタイルを、かなり直接的にあらわした言葉のように感じられます。
芸術のための芸術は、一歩を転ずれば芸術遊戯説に墜ちる。
芸術のための芸術は、一歩を転ずれば芸術遊戯説に墜ちる。人生のための芸術は、一歩を転ずれば芸術功利説に堕ちる。
芥川の遺した言葉の中でも、かなり解説の難しい言葉です。
しかし「解説が難しい」ということは、それは同時に我々が「芸術遊戯説」と「芸術功利説」のどちらかに偏っていることを何より雄弁に語っている証なのではないでしょうか。
「芸術は遊戯であり、”あってもなくてもよいもの”」なのか「芸術は経済的なものであり、作品に付けられる値打ちこそが”価値”」なのか。
それは未だに答えの出ない、永遠に考え続ける必要がある問いの一つなのかもしれません。