カート・コバーンとはどんな人?激動の生涯まとめ【死因や性格、音楽性も紹介】

カートコバーンの功績

功績1「グランジを音楽史の中で不動の地位にまで押し上げた」

grunge is deadというTシャツを着たカートコバーン

カートコバーンが残した功績として、「グランジ」という音楽ジャンルを音楽史の中に位置付けたことが挙げられます。グランジというのは、「汚れた」「薄汚い」という意味で、簡単に言うとパンクやハードロック、メタルなどの影響を受けた音楽です。

では、「なぜグランジを音楽シーンの中に位置付けたのがすごいのか」ということですが、当時そういった音楽性を持つバンドは一部のコアなファン層からしか受け入れられていませんでした。しかし、ニルヴァーナの2枚目のアルバム「Never Mind(ネバーマインド)」は、マイケルジャクソンをポップチャート1位から蹴落とすほどの大人気を博します。そして、それがきっかけとなってパール・ジャムなどの後続バンドが次々に現れ、グランジという音楽ジャンルが世間に知れ渡ることになります。

カートコバーン自身は、「グランジ」という言葉そのものが嫌いで、パールジャムなどの「グランジを商業利用するバンド」も好きではなかったようです。しかし、アンダーグラウンドの音楽であったグランジ全世界に知らしめたのは紛れもなくカートの功績です。もちろん、カートコバーンが日本のアーティストにも大きな影響を及ぼしていることは言うまでもありません(たとえば、日本のトップシンガーである椎名林檎さんはカートの名前を曲中に引用しています)。

功績2「グランジ・ファッションを作り上げた」

グランジ・ファッションに身を包むカートコバーン

彼は同時にファッションも作り上げています。カートコバーンが身にまとっていたのは着古されたネルシャツや、穴の開いたニットやデニムなどの古着でした。そのスタイルがファッションのひとつの形として受け入れられ、グランジ・ファッションと呼ばれるようになりました。

汚く貧乏の象徴とされていた古着を格好よく着こなすカートコバーンを見て、マネする人が続出するほどの社会現象にもなっています。ステージ衣装としてではなくありのままの普段着としてロックを演奏するという彼のこだわりが、若者たちに大きな影響を与えました。

功績3「ロックスターになることに反発し続けた」

ライブ中のカートコバーン

音楽で成功を志す人間は、誰しも「スター」になることを夢見るもの。しかし、カートコバーンは、メディアや大衆が作り上げようとする「カートはロックスターだ」という意識に反発し続けた人間でした。

1994年に掲載されたローリングストーン誌のインタビューによると、カートコバーンは自分自身の才能を呪うべきなのか、それとも感謝すべきなのかを決めかねていたと言います。それは、メディアがカートを「ソングライター」としてではなく、「ロックスター」として捉えていることが原因でした。そして、カートは自分がそういう捉え方をされることを死ぬほど嫌がっていました。

その顕著な例は、バンド最大のヒット曲であった「Smells Like Teen Spirit(スメルズ・ライク・ティーン・スピリット)」をあまり演奏したがらなかったこと。当時のMTVやラジオではスメルズ・ライク・ティーン・スピリットがひっきりなしに放送され、誰もがライブでのプレイを切望していました。しかし、カートはその状況を「気分が悪い」と一蹴し、ライブで演奏することをほとんどやめてしまいます。というのは、カートはその曲が「単に脳に刷り込まれているだけ」の大衆に嫌気が指していたからです。つまり、自分の感性に従って曲を聴くのではなく、流行だけを追いかけるような人々にカートは強い反発心を覚えていたと言えます。

普通の人間であれば周囲からの名声に溺れてしまいがちなものですが、カートコバーンは自身のことを生涯「1ミュージシャン」として捉え続けていました。そして、それは彼が今日に至るまで絶対的なカリスマ性を持ち続けている理由のひとつと言えるでしょう。

カートコバーンの名言

色褪せていくぐらいなら、燃えつきた方がましなんだ。
(カートコバーンの遺書より)
(訳:記事作成者)

カートコバーンの遺書に書かれた一文。文自体はニールヤングの歌詞の引用ですが、ここには、自分を食い物にしようとするメディア、商業化されていく音楽、ヒットチャートに踊らされる大衆などに疲れ切ったカートの悲しみのすべて詰まっています。

ロックスターになるのが嫌だったし怖かった。
(カートコバーンのインタビューより)

映画“Montage Of Heck”

「ネバーマインド」発売を機に一気に注目されるようになった、カートコバーンの苦悩にあふれた一節です。ニルヴァーナのバンドメンバーであるクリス・ノヴォセリックは「無名なバンドが一気に有名になると、それに付随して様々なことが変わってしまう」と当時のことを振り返っていますが、カート自身も同じようなことを感じていたのでしょう。

ぼくにとって最大の罪は、ごまかしたり、心から楽しんでいるかのようなふりをして人を食い物にすることだ。
(カートコバーンの遺書より)

『カートコバーン/トリビュート』

こちらもカートコバーンの遺書に書かれた一文です。一見突飛で反社会的な言動をしているかのように見えるカートコバーンですが、性格は非常に繊細でピュアでした。

彼のことを「聖人」のように書き立てるつもりは毛頭ありませんが、レイプ被害者への慈善ライブを行なったり、病気の少年との交流の時間を作ったりしていたことは紛れもない事実です。また、カートは娘のフランシスを溺愛し、幼少期に自分が感じた寂しさを感じさせないように努力していました。

そんな繊細な彼が、メディアの作った「カートコバーン」像が大衆を騙し続けているような感覚に襲われていたことは想像に難くありません。カートの叫び声にも似たこの遺書の一節は、現代に生きる我々の胸にも迫るものがあります。

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カートコバーンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「壊したベースの破片で、ファンが前歯を折った」

ギターを壊すカートコバーン

カートコバーンは、パンクの精神を継承した攻撃的なステージングを多数行なっていました。中でも、ベルギーのガン市で行われたライブでは、ギターやアンプ、ベースなどを床やドラムセットに打ちつけ、ばらばらに壊してしまったと言います。

そして、そこで壊したベースの破片がファンの顔面を直撃し、前歯を折ってしまうという惨事に至りました。どこまでが本当なのかは分かりませんが、突然の流血沙汰に走り回る関係者の中、カートコバーンは「おい、何をそんなに浮かない顔をしているんだ?」と平然として聞いていたと言います。

都市伝説・武勇伝2「自殺未遂によって更生を決意する」

孤独感

カートコバーンは両親の離婚を機に非行に走り、悪い仲間と窃盗や破壊行為を繰り返すようになります。そんな中、彼はひょんなことからひとりの女の子と関係を持ち、それが学校中に広まって嘲笑されるようになってしまいました。

カートは嘲笑される毎日に耐えきれず、ひとり線路に向かってそこに座り込み、列車を待ちます。しかし、通り過ぎた列車は彼の隣の線路を通り過ぎ、カートコバーンは一命を取り止めました。そして、それがきっかけで彼は更生を決意したと言います。繊細な性格ながらも大胆な行動を取りがちなカートコバーンならではのエピソードですね。

都市伝説・武勇伝3「アクセル・ローズとの確執?」

アクセル・ローズ

ガンズ・アンド・ローゼスのボーカルのアクセル・ローズは元々ニルヴァーナのファンでした。アクセル・ローズは自分たちのツアーにニルヴァーナを同行させようとしたこともあります。

しかしカート・コバーンは「俺たちは、みんながよく知ってるガンズ・アンド・ローゼズみたいな、何のメッセージも持たないバンドとは違う」とインタビューに答え、アクセル・ローズたちをこき下ろしました。

その後、ことあるごとにガンズ・アンド・ローゼスを批判するようになり、アクセル・ローズとの確執は深まっていきました。

カートコバーンの簡単年表

1967年 – 0歳
アバディーン郊外に生まれる

カートコバーンはワシントン州のアバディーン郊外で、ドナルド・コバーンとウェンディ・オコナー夫妻の第一子として誕生しました。母のウェンディによると、幼少期のカートは自然とみんなを惹きつけるような子だったそうです。

1975年 – 8歳
両親の離婚

カートが8歳のころ、両親が離婚します。「家族に愛されたい」と願っていたカートにとってこの経験は非常に辛いものであり、活発だったカートは孤独感を感じて徐々に暗い性格になっていきます。

1987年 – 20歳
オリジナル曲のバンドを結成

オリジナル曲のバンドを結成。テド・エド・アンド・フレッドやスキッド・ロウなどと次々にバンド名を変えた結果、最終的にニルヴァーナというバンド名に落ち着きます。

1989年 – 22歳
アルバム「ブリーチ」をリリース

ファーストアルバムである「ブリーチ」がリリースされ、ニルヴァーナはアメリカツアーに出ます。また、ブリーチのレコーディング費用を全額出したギターのエヴァーマンは、ここでバンドをクビになります。

1991年 – 24歳
アルバム「ネバーマインド」をリリース

アルバム「ネバーマインド」がリリースされ、全米中で空前のヒットを記録。MTVでは絶え間なく「スメルズライクティーンスピリット」が流れる毎日が続きます。

1992年 – 25歳
コートニー・ラブとハワイで挙式

コートニーラブとハワイで挙式します。コートニーラブは、ロックバンド「ホール」のシンガーでした。

1993年 – 26歳
アルバム「インユーテロ」をリリース

アルバム「インユーテロ」がリリースされます。「ネバーマインド」はいわゆる売れ線を狙ったロックで大成功を収めましたが、インユーテロはいわばカートの原点回帰とも言える作品。過激なジャケットで、量販店から販売を拒否されるなどの伝説があるアルバムです。

1994年 – 27歳
死去

4月8日、シアトルの自宅にて銃で頭部を撃ち抜いて自殺しているのが発見されます。警察によれば、死亡したのは4月5日ごろのことだったようです。

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