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【年表付】カートコバーンとはどんな人?激動の生涯まとめ!性格や音楽性、苦悩も紹介

カートコバーンは、「ニルヴァーナ」というロックバンドのギターボーカルです。1967年にアメリカ合衆国で生まれ、「ネバーマインド」という2枚目のアルバムで爆発的ヒットを記録しました。

歌うカートコバーン

カートコバーンというと「ロックスター」というイメージを持つ方が多いかもしれませんが、実際の彼は気弱で繊細な一面も持っていました。そして、それは彼の暗い少年時代をルーツとしていたのです。

カートの人生をダイジェストにすると、以下のようになります。

  • 8歳の時の両親の離婚がきっかけで、心に深い傷を負う
  • 荒れた生活を送るカートは高校を中退し、1年間のホームレス生活を経験
  • ニルヴァーナというバンドを結成
  • 「ネバーマインド」で空前の大ヒットを記録するも、薬物中毒が深刻に
  • 薬物による昏睡や警察沙汰を繰り返し、27歳という若さで自殺

このように、カートコバーンの人生はまさに波乱万丈に満ちたものでした。しかし、それは彼自身が望んだことではなく、カートはいつも苦悩や孤独感を抱えていました。

この記事では、バンド歴10年、ニルヴァーナのアルバムはCDが擦り切れるほど聴き倒し、カートコバーン関連の本や映画も収集している筆者が知識の限りを尽くして彼の人生をご紹介します。ぜひご一読ください!

目次

カートコバーンとはどんな人物か

名前Kurt Donald Cobain
カート・ドナルド・コバーン
誕生日1967年2月20日
没日1994年4月8日
(遺体の発見日)
生地アメリカ合衆国ワシントン州
アバディーン
没地アメリカ合衆国ワシントン州
シアトル(自宅の駐車場の上にある部屋)
配偶者Courtney Love
コートニー・ラブ

カートコバーンの生い立ち

アバディーンの地図

カートコバーンが生まれたのは、ワシントン州にある林業と製材業の街、アバディーンです。彼が生まれたころ、アメリカは戦後の好景気で物が溢れており、多くの人が豊かな生活を送れるような状況でした。

父であるドナルド・コバーンはガソリンスタンドで働く自動車整備工、母のウェンディ・オコナーは専業主婦。そんな二人の間に生まれたカートコバーンは、ギターと絵が好きな明るい少年でした。当時の状況を物語るホームビデオには、あどけない笑顔で微笑むカートの姿が収められています。

しかし、彼の幼少期の家庭生活は決して順風満帆というわけではありませんでした。一時も休まず動き回っているカートコバーンのことを心配したウェンディは、彼を小児科に連れて行きます。そこでの診断結果は「ADHD」。

母ウェンディは、当時のことを「ドン(注:父ドナルドの愛称)は途方に暮れており、カートをバカにした」と振り返っています。そして、カートはそんな父親の態度に深く傷つけられることになりました。

カートコバーンの家庭環境

幼少期のカートコバーン

カートコバーンの作る音楽は、鬱屈とした個人的感情を吐き出すかのようなサウンドや歌詞が特徴です。そして、それこそがカートが「若い世代のスポークスマン(=代弁者)」として熱狂的な支持を得た要因のひとつでした。というのは、当時のミュージックシーンにそこまで直情的に、そして繊細に個人的な感情を歌ったバンドが他にいなかったからです。そして、そんな彼の音楽性には、少年時代の暗い家庭環境が大きく影響していました。

まず、彼に最も大きな影響を及ぼしたのが両親の離婚です。カートが8歳のとき、父のドナルドと母のウェンディが離婚し、別居することになりました。母のウェンディによると、「当時離婚する夫婦は珍しく、周囲には誰もいなかった」と言います。そのため、両親の離婚はカートにとっては死ぬほど恥ずかしい出来事だったようです。

父、ドナルドコバーンとカート

当初カートは母に引き取られますが、家中の電球を外したり、子守と妹を外に締め出したりするカートの素行に手を焼いた母は、父のドナルドのところに連れて行きます。しかし、父の家でもカートは義母とうまく馴染めず、義理の弟や妹に悪さをするようになります。耐えかねた義母はカートを見限り、カートはまた追い出されることになりました。

その後、カートは祖父母のところで暮らしたり、父母の家で暮らしたりと、親戚の家を転々とするようになります。当時、カートはそのような状況にひどく苦しみ、「家族から拒絶され、自分に価値がない」と感じていたようです。

誰よりも「家族から愛されること」を願っていた彼がそれを撥ねつけられ、結果的に生まれた音楽で大成功を収めたというのは、まさに運命の皮肉としか言いようがありません。

カートコバーンの性格や人格

繊細な一面があった

カートコバーンの性格を一言で表すとすれば、「二面性」という言葉に尽きます。攻撃的なステージングや突飛な言動と裏腹に、いつも心の奥底には「繊細で気弱なカート」がうごめいていました。彼自身はメディアからそう評されることを嫌っていたようですが、客観的事実を追うとやはりそう表現せざるを得ないのです。

たとえば、彼は女性関係において非常に不器用な人間でした。実際、後に妻となるコートニーと出会った時には、「片手で数えられるぐらいしか女性と付き合ったことがなかった」と言います。

その理由について、『カートコバーン/heaven』の作者であるチャールズ・R・クロス氏は、「カートが女性との関係に求めていたものは、子供時代に味わうことが出来なかった家族的な親密感だった」(p222)と述べています。つまり、カートは心のどこかで、「母親の代わりに自分を愛してくれる女性」を求めていたのだと言えるでしょう。その結果、いくつかの恋愛は上手くいかず、カートは自分を狂おしいまでに責め、それを音楽として昇華させていくことになるのです。

また、彼が気弱であったことを示すエピソードとしては、傷害事件を起こした筋骨隆々のメンバーをクビにする時、怖くて直接伝えられなかったという話があります。カートコバーンは当時のドラマーに対して「脱退してほしい」という旨の言い訳がましい手紙を書いたものの、それを投函することすらできませんでした。結局カートは雑誌に「ドラム募集」という広告を掲載することで、当時のドラマーとの関係に終止符を打ったそうです。

このように、彼の繊細さや気弱さを示すエピソードはいくつもあります。しかし、それと同時にグロテスクで破滅的なものを好む傾向もありました。このような二面性を持つきっかけとなった要因は、紛れもなく彼が幼少期に受けたトラウマだったと言えるでしょう。

カートコバーンが影響を受けたバンド

メルヴィンズ

カートコバーンが最も影響を受けたバンドのひとつが、「メルヴィンズ」というバンドです。

10代のカートは、もともと地元のバンドであるメルヴィンズの大ファンでした。メルヴィンズに熱中するがあまり、次第にカートはツアーバスの運転や機材運搬などいわゆる「ローディ」と呼ばれる仕事をこなすようになります。本人曰く「彼らのリハーサルには200回以上立ち会った」というほど、カートは青年期の長い時間をメルヴィンズと過ごしていました。

そんなメルヴィンズのリーダーであるバズ・オズボーンは、カートのかけがえのない友人のひとり。後にニルヴァーナのメンバーとなるクリス・ノヴォセリックやデイヴ・グロールをカートに紹介したのも彼でした。つまり、バズ・オズボーンがいなければカートコバーンは「ニルヴァーナ」というバンドを結成することすらなかったのです。

また、初期のニルヴァーナの重低音寄りのサウンドメイクも、メルヴィンズに少なからず影響を受けています。実際、ファーストアルバムである「ブリーチ」に収録されている曲のうち数曲は、メルヴィンズのデイヴ・クローヴァーという人物とスタジオ入りして製作されたものです。

このように、メルヴィンズはカートコバーンの生涯に大きな影響を及ぼしたバンドのひとつだったと言えるでしょう。

カートコバーンの死因

椅子に座るカートコバーン

カートコバーンの死因は、ショットガンによる自殺です。ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリクスなどの数々の天才ミュージシャンと同じく、カートは27歳という若さでこの世を去りました。そして、そのドラマチックな死や残された遺書が、皮肉にもカートが嫌っていた「ロック・スター」という烙印を永遠に焼き付けることになったのです。

カートの死亡が発見されたのは、1994年の4月8日、午前9時ごろ。第一発見者は、セキュリティ・システムの設置にやってきた電気工のギャリー・スミスという人物でした。カートコバーンはその死体が発見される6日ほどから行方不明になっていました。

ここで脳裏に浮かぶ疑問は、「カートコバーンはどうして自殺したのか」ということです。よく「ヘロインの常用が自殺の引き金になった」と言われますが、それが全ての原因だというのはあまりにも短絡的です。

ギターを弾くカートコバーン

実際、ヘロインは妻であるコートニー・ラブも常用していましたし、バンドメンバーのクリス・ノヴォセリックは「ヘロインはあいつの人生のわずかな一部でしかなかった」と述べています。自殺した本当の原因はカート自身にしかわからないことですが、ここでは彼の遺書に書かれた文章をいくつかご紹介しましょう。

ぼくはここ何年も、音楽を聴くことにも、創ることにも、曲を書くことにも興奮を覚えたことはなかったたまに、タイムカードを押して出勤するようにステージに出ていければいいと思ったことも会った。

『カートコバーン/トリビュート』

ぼくは受けとめようと力の限りをつくした。本当なんだ。すごく頑張ってみたんだ。でもだめだった

『カートコバーン/トリビュート』

遺書の内容を見ればわかるように、晩年のカートコバーンは音楽に無関心になりつつありました。それには、メディアからの過度な賛美や批判が彼を悩ませ続けていたことも決して無関係とは言えません。

みんなバカの一つ覚えのように「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」を聞きたがること、「繊細で気難し屋な性格の自分」が偶像化されること、ロックスターであることを強要されること・・・そんなすべてのことにカートコバーンはうんざりしていたのです。少し強い言い方をすれば、「カートコバーンはメディアに殺された」ということもできるでしょう。

カートコバーンの遺灰の行方

遺灰は1ヶ所にはまとめられなかった

カートコバーンの死後、遺灰は木の下に埋められたり、娘のフランシスによってマクレーン川に撒かれたりしました。そのため、埋葬場所は一箇所というわけではありません。ただ、自宅付近のヴィレッタ・パークにはカートゆかりのベンチがあり、多くのファンはそこを彼の墓跡として訪れているようです。

また、一部の遺灰については、妻のコートニー・ラブが彼の遺髪とともに保管していました。2008年には音楽メディアBARKSにてその遺灰が盗難に遭ったことが報じられていますが、現在どうなっているかは定かではありません。

カートコバーンの功績

功績1「グランジを音楽史の中で不動の地位にまで押し上げた」

grunge is deadというTシャツを着たカートコバーン

カートコバーンが残した功績として、「グランジ」という音楽ジャンルを音楽史の中に位置付けたことが挙げられます。グランジというのは、「汚れた」「薄汚い」という意味で、簡単に言うとパンクやハードロック、メタルなどの影響を受けた音楽です。

では、「なぜグランジを音楽シーンの中に位置付けたのがすごいのか」ということですが、当時そういった音楽性を持つバンドは一部のコアなファン層からしか受け入れられていませんでした。しかし、ニルヴァーナの2枚目のアルバム「Never Mind(ネバーマインド)」は、マイケルジャクソンをポップチャート1位から蹴落とすほどの大人気を博します。そして、それがきっかけとなってパール・ジャムなどの後続バンドが次々に現れ、グランジという音楽ジャンルが世間に知れ渡ることになります。

カートコバーン自身は、「グランジ」という言葉そのものが嫌いで、パールジャムなどの「グランジを商業利用するバンド」も好きではなかったようです。しかし、アンダーグラウンドの音楽であったグランジ全世界に知らしめたのは紛れもなくカートの功績です。もちろん、カートコバーンが日本のアーティストにも大きな影響を及ぼしていることは言うまでもありません(たとえば、日本のトップシンガーである椎名林檎さんはカートの名前を曲中に引用しています)。

功績2「ロックスターになることに反発し続けた」

ライブ中のカートコバーン

音楽で成功を志す人間は、誰しも「スター」になることを夢見るもの。しかし、カートコバーンは、メディアや大衆が作り上げようとする「カートはロックスターだ」という意識に反発し続けた人間でした。

1994年に掲載されたローリングストーン誌のインタビューによると、カートコバーンは自分自身の才能を呪うべきなのか、それとも感謝すべきなのかを決めかねていたと言います。それは、メディアがカートを「ソングライター」としてではなく、「ロックスター」として捉えていることが原因でした。そして、カートは自分がそういう捉え方をされることを死ぬほど嫌がっていました。

その顕著な例は、バンド最大のヒット曲であった「Smells Like Teen Spirit(スメルズ・ライク・ティーン・スピリット)」をあまり演奏したがらなかったこと。当時のMTVやラジオではスメルズ・ライク・ティーン・スピリットがひっきりなしに放送され、誰もがライブでのプレイを切望していました。しかし、カートはその状況を「気分が悪い」と一蹴し、ライブで演奏することをほとんどやめてしまいます。というのは、カートはその曲が「単に脳に刷り込まれているだけ」の大衆に嫌気が指していたからです。つまり、自分の感性に従って曲を聴くのではなく、流行だけを追いかけるような人々にカートは強い反発心を覚えていたと言えます。

普通の人間であれば周囲からの名声に溺れてしまいがちなものですが、カートコバーンは自身のことを生涯「1ミュージシャン」として捉え続けていました。そして、それは彼が今日に至るまで絶対的なカリスマ性を持ち続けている理由のひとつと言えるでしょう。

カートコバーンの名言

色褪せていくぐらいなら、燃えつきた方がましなんだ。
(カートコバーンの遺書より)
(訳:記事作成者)

カートコバーンの遺書に書かれた一文。文自体はニールヤングの歌詞の引用ですが、ここには、自分を食い物にしようとするメディア、商業化されていく音楽、ヒットチャートに踊らされる大衆などに疲れ切ったカートの悲しみのすべて詰まっています。

ロックスターになるのが嫌だったし怖かった。
(カートコバーンのインタビューより)

映画“Montage Of Heck”

「ネバーマインド」発売を機に一気に注目されるようになった、カートコバーンの苦悩にあふれた一節です。ニルヴァーナのバンドメンバーであるクリス・ノヴォセリックは「無名なバンドが一気に有名になると、それに付随して様々なことが変わってしまう」と当時のことを振り返っていますが、カート自身も同じようなことを感じていたのでしょう。

ぼくにとって最大の罪は、ごまかしたり、心から楽しんでいるかのようなふりをして人を食い物にすることだ。
(カートコバーンの遺書より)

『カートコバーン/トリビュート』

こちらもカートコバーンの遺書に書かれた一文です。一見突飛で反社会的な言動をしているかのように見えるカートコバーンですが、性格は非常に繊細でピュアでした。

彼のことを「聖人」のように書き立てるつもりは毛頭ありませんが、レイプ被害者への慈善ライブを行なったり、病気の少年との交流の時間を作ったりしていたことは紛れもない事実です。また、カートは娘のフランシスを溺愛し、幼少期に自分が感じた寂しさを感じさせないように努力していました。

そんな繊細な彼が、メディアの作った「カートコバーン」像が大衆を騙し続けているような感覚に襲われていたことは想像に難くありません。カートの叫び声にも似たこの遺書の一節は、現代に生きる我々の胸にも迫るものがあります。

カートコバーンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「壊したベースの破片で、ファンが前歯を折った」

ギターを壊すカートコバーン

カートコバーンは、パンクの精神を継承した攻撃的なステージングを多数行なっていました。中でも、ベルギーのガン市で行われたライブでは、ギターやアンプ、ベースなどを床やドラムセットに打ちつけ、ばらばらに壊してしまったと言います。

そして、そこで壊したベースの破片がファンの顔面を直撃し、前歯を折ってしまうという惨事に至りました。どこまでが本当なのかは分かりませんが、突然の流血沙汰に走り回る関係者の中、カートコバーンは「おい、何をそんなに浮かない顔をしているんだ?」と平然として聞いていたと言います。

都市伝説・武勇伝2「自殺未遂によって更生を決意する」

孤独感

カートコバーンは両親の離婚を機に非行に走り、悪い仲間と窃盗や破壊行為を繰り返すようになります。そんな中、彼はひょんなことからひとりの女の子と関係を持ち、それが学校中に広まって嘲笑されるようになってしまいました。

カートは嘲笑される毎日に耐えきれず、ひとり線路に向かってそこに座り込み、列車を待ちます。しかし、通り過ぎた列車は彼の隣の線路を通り過ぎ、カートコバーンは一命を取り止めました。そして、それがきっかけで彼は更生を決意したと言います。繊細な性格ながらも大胆な行動を取りがちなカートコバーンならではのエピソードですね。

カートコバーンの簡単年表

1967年 - 0歳
アバディーン郊外に生まれる

カートコバーンはワシントン州のアバディーン郊外で、ドナルド・コバーンとウェンディ・オコナー夫妻の第一子として誕生しました。母のウェンディによると、幼少期のカートは自然とみんなを惹きつけるような子だったそうです。

1975年 - 8歳
両親の離婚

カートが8歳のころ、両親が離婚します。「家族に愛されたい」と願っていたカートにとってこの経験は非常に辛いものであり、活発だったカートは孤独感を感じて徐々に暗い性格になっていきます。

1987年 - 20歳
オリジナル曲のバンドを結成

オリジナル曲のバンドを結成。テド・エド・アンド・フレッドやスキッド・ロウなどと次々にバンド名を変えた結果、最終的にニルヴァーナというバンド名に落ち着きます。

1989年 - 22歳
アルバム「ブリーチ」をリリース

ファーストアルバムである「ブリーチ」がリリースされ、ニルヴァーナはアメリカツアーに出ます。また、ブリーチのレコーディング費用を全額出したギターのエヴァーマンは、ここでバンドをクビになります。

1991年 - 24歳
アルバム「ネバーマインド」をリリース

アルバム「ネバーマインド」がリリースされ、全米中で空前のヒットを記録。MTVでは絶え間なく「スメルズライクティーンスピリット」が流れる毎日が続きます。

1992年 - 25歳
コートニー・ラブとハワイで挙式

コートニーラブとハワイで挙式します。コートニーラブは、ロックバンド「ホール」のシンガーでした。

1993年 - 26歳
アルバム「インユーテロ」をリリース

アルバム「インユーテロ」がリリースされます。「ネバーマインド」はいわゆる売れ線を狙ったロックで大成功を収めましたが、インユーテロはいわばカートの原点回帰とも言える作品。過激なジャケットで、量販店から販売を拒否されるなどの伝説があるアルバムです。

1994年 - 27歳
死去

4月8日、シアトルの自宅にて銃で頭部を撃ち抜いて自殺しているのが発見されます。警察によれば、死亡したのは4月5日ごろのことだったようです。

カートコバーンの年表

1967年 – 0歳「アバディーンに生を受ける」

カートコバーンの自宅付近にあるベンチ

1967年、アバディーンにて誕生

カートコバーンは1967年にワシントン州アバディーンにて、ドナルド・コバーンとウェンディ・オコナー夫妻の第一子として誕生します。実妹はキンバリー・コバーン(キム・コバーン)です。

母のウェンディオコナーは、夫のドナルドと結婚した理由について「友達としての好きと恋人としての好きの区別がついていなかった」と振り返っています。ただ、結婚当初の家庭生活は円満に進んでおり、幼少期のカートの誕生日を仲良く祝うホームビデオなども残っています。

1975年 – 8歳「両親が離婚」

子供のころのカートコバーン

1975年、父のドナルドと母のウェンディが離婚

1975年、父のドナルド・コバーンと母のウェンディ・オコナーが離婚します。母のウェンディが「そのことが彼の人生をダメにしてしまった」と言うように、そこからカートコバーンは内向的で暗い性格になりました。また、様々な悪事を働いて母の手を焼かせるようになったのもこの頃です。当時のカートにとっては、自分の中の鬱屈とした感情を吐き出す術がそれしかなかったのでしょう。

しかし、少年だったカートの苦悩は理解されることなく、彼を見限った母親は父親へとカートを押し付けます。そしてその後、カートは叔父、祖父母、再び母親というように親戚中をたらい回しにされることになるのです。

父の再婚相手はカートについて「彼は一番愛されたいと願っていた」と述べていますが、現実は正反対でした。厄介者扱いされるカートは、徐々に孤独感や怒り、生まれ育ったアバディーンという街への嫌悪感を募らせていきます。そして、少年時代のトラウマとも言えるこの経験が、彼の退廃的な音楽性を養うことになりました。

1985年 – 18歳「高校を中退」

虚無感

卒業間近に高校を中退する

カートコバーンは中学・高校時代に荒れた生活を送っており、窃盗や破壊行為、マリファナなどに手を出していました。不安定な家庭環境に加え、反骨精神あふれるパンクロックを聞いたことも彼の人生を変えた大きな要因だったのかもしれません。

そんなカートは、1985年、卒業を数週間後に控えた状態で高校を中退します。激怒した母ウェンディはカートを家から追い出し、彼は約1年間のホームレス生活を経験することになりました。なお、カートがホームレス時代に寝泊まりしたという逸話のある橋は「カート・コバーン・ブリッジ」とも呼ばれ、現在でも多くのファンが訪れています。

※ただ、「橋の下で寝泊まりしていた」というのはかなり脚色されたストーリーであるようです。実際、ニルヴァーナのベーシスト、クリス・ノヴォセリックは「あいつは橋の下なんかで寝ていなかった」と述べています。

1987年 – 20歳「ニルヴァーナの原型となるバンドを結成」

ニルヴァーナ

クリス・ノヴォセリックらとニルヴァーナの原型となるバンドを結成する

カートコバーンは、メルヴィンズのバズ・オズボーンの紹介で1985年にクリス・ノヴォセリックと知り合います。カートとクリスは、お互い生まれ育った家庭環境が良くなかったという共通点を持っていました。

そんな2人は、1987年にニルヴァーナの原型となるバンドを結成。複数のバンド名変更を経て、ニルヴァーナという名前に落ち着きます。

なお、ニルヴァーナというのは仏教用語で「涅槃」という意味。煩悩を断ち切り、一切の束縛から解放された境地を言います。少年時代から感じていた苦悩を音楽によって断ち切り、自由になりたいというカートの思いが滲み出るようなネーミングですね。

1989年 – 22歳「ファースト・アルバム「ブリーチ」をリリース」

ブリーチのロゴ

1989年、ニルヴァーナはファーストアルバムである「ブリーチ」をリリース。制作費はわずか606ドル17セントで、レコーディング期間は3日間という驚異的な短さでした。なお、レコーディング費用を用立てたのはニルヴァーナが4人体制だったころのギタリスト、ジェイソン・エヴァーソンです。エヴァーソン自身はレコーディングに参加していませんが、カートは敬意を込めて彼の名前をクレジットに記載しています。

「ブリーチ」は大ヒットには至りませんでしたが、理想主義への羨望と反発、暗い歌とポップな歌といった二面性を持つアルバムとして一定の評価を得ます。そして、全米のカレッジ・ラジオ(学生向けラジオ)に欠かせないアルバムとなりました。なお、アルバムジャケットにはカートの恋人であったトレイシーが撮影した写真を用いています。

1991年 – 24歳「DGCレコードと契約、セカンドアルバム「ネバーマインド」をリリース」

ニルヴァーナのセカンドアルバム「ネバーマインド」

サブポップと契約を解除し、メジャーレーベルのDGCレコードと契約

1991年以前、ニルヴァーナはインディーレーベルであったサブ・ポップに在籍していましたが、契約内容に不満を感じたカートコバーンはメジャーレーベルへの移籍を決意。これまで生活費を出していてくれたトレイシーと破局し、金銭的に苦しかったことも移籍を決めたきっかけでした。

結局、バンドは巨大企業であるMCAの傘下にあるDGCと契約。DGCは、ガンズアンドローゼズやシェールらを擁する大手レーベルでした。そして、ニルヴァーナは契約金として28万7,000ドルという大金を受け取ります。

セカンドアルバム、「ネバーマインド」がリリース

1991年9月24日、セカンドアルバム「ネバーマインド」をリリースします。アルバムはビルボードのランキングをすごいスピードで駆け上がり、一気に品切れ状態に。

また、自殺を考えるほど辛い胃痛持ちであったカートは、その症状を和らげるためにヘロイン中毒になることを「このころ意識的に決意した」と語っています。

1992年 – 25歳「コートニーラブと結婚し、長女フランシスが生まれる」

コートニーラブとカートコバーン

コートニーラブとの結婚

カートコバーンは、以前から親密な関係だったコートニーラブとハワイで結婚式を挙げます。そもそも二人が出会ったのは1990年、オレゴン州のナイトクラブでした。そこでカートはコートニーに一目惚れし、急接近。

コートニーは結婚前に彼の子を身ごもり、二人は結婚することになります。

長女フランシスの誕生

同年、最愛の長女であるフランシスが誕生します。妊娠が発覚した当初、カートは自分が「腕のない赤ん坊」の絵を長年描き続けていたこと、そしてフランシスを身ごもった時にヘロインをやっていたことに強い自責の念を抱いていたそうです。しかし、そんな不安をよそに、フランシスは元気に誕生します。

ただ、フランシスの出産は別の意味で大変な事態を巻き起こしました。コートニーやカートがヘロインをやっていたことについて、メディアが「ドラッグ問題を抱えた状態で出産したこと」を非難する記事を次々と書き始めたのです。その結果カートとコートニーは裁判所によってフランシスと引き離され、しばらく会うことができませんでした。

1993年 – 26歳「サードアルバム「インユーテロ」がリリースされる」

サードアルバム「インユーテロ」

事実上のサードアルバム、「インユーテロ」がリリースされる

カートの死の前年、アルバム「インユーテロ」が発売されます。実は既に1992年に3枚目のCDがリリースされていたのですが、それは未発表曲とB面曲を集めたアルバムでした。そのため、「インユーテロ」は事実上の「サードアルバム」として位置付けられています。

元々この作品は、「I hate myself and want to die(死にたいぐらい自分が嫌いだ)」と題される予定でしたが、メンバーの意向などを鑑みて「インユーテロ」に改名。音楽性としては、売れ線に傾倒した2作目「ネバーマインド」から、原点である内省的な音楽性に回帰するような形になっています。

また、裏面に掲載されたプラスチックの胎児のオブジェが原因で量販店での販売を拒否されるなど、様々なトラブルを引き起こした問題作でもあります。

1994年 – 27歳「オーバドーズと自殺」

カートコバーンとフランシス

コートニーの浮気心が原因となり、ローマで昏睡状態に陥る

1994年、ツアー先のローマでカートは昏睡状態に陥ります。原因は、バリウムに似た睡眠導入剤を60錠以上服用したこと。そして、それを飲んだ理由は「コートニーに浮気心があることを見抜いた」ことだったと言います。

コートニーは、「彼はすごく繊細で、一度だけ浮気心が起こった時もすぐ見破られた」と当時のことを回想しています。カートは生死をさまようほどの危うい状態に陥りますが、奇跡的に回復。ただ、メディアにまたそれを書き立てられたことによって、彼自身の精神はまた不安定な状態になってしまいます。

自殺騒ぎを起こし、警察が介入

同年の3月、カートは「自殺をする」と言って寝室に閉じこもります。心配したコートニーは、警察に通報。取り調べを受けたカートは、「自殺願望があったわけではなく、コートニーから少し離れたかった」と供述していたそうです。

しかし、結局警察はピストルとライフルを自宅から押収。さらに、カートが鎮静剤を大量服用していたことが発覚します。彼自身は薬物の禁断症状を和らげるために購入していたようですが、実際には彼の妄想や偏執性をより強くする作用がありました。

病院を脱走後、遺体として発見される

薬物依存の傾向が非常に強くなっていたカートは、周囲からの勧めもあってカリフォルニア州にあるエクソダス・リカバリー・センターに入院。しかし、そのたった2日後、彼は病院の壁をよじのぼって脱走します。

その後1週間ほど行方不明になっていたカートですが、1994年4月8日金曜日、自殺した彼の姿を電気工のギャリー・スミスが発見します。才能に溢れたロックシンガーの早すぎる死でした。死後、遺体からは大量のヘロインが検出されたそうです。

カートコバーンの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

カートコバーン/トリビュート

カートコバーンに関する音楽雑誌の記事を中心にまとめた書籍です。生前のインタビューや彼の所属していたサブポップに関する記事、自殺が発見された時の状況などを生々しく伝える内容になっています。

書籍自体のデザインもすばらしく、カートの写真やアートワークなどもふんだんに盛り込まれた内容なので、カートのファンであれば1冊持っておいても良いでしょう。

カートコバーン/heaven

上述した『カートコバーン/トリビュート』よりも伝記寄りな内容の1冊です。多彩な資料から彼の人生をひとつのストーリーとして仕上げているので、カートコバーンの思想や生まれ育った環境、その根底にあった感情などを知りたい方にはうってつけですよ。

カートコバーン:『JOURNALS』

カート自身の日記を書籍化したものです。個人的な日記を書籍化することについては賛否両論あるものの、彼の生の声に触れたいという方にはオススメです。

ただ、カートの言葉には良くも悪くも「事実と異なる」ものも含まれているため、事実ベースでカートの人生を追いたい人は『カートコバーン/heaevn』などと併せて読むと良いでしょう。

おすすめの動画

【日本語訳】カートコバーン インタビュー(1993)

カートコバーンの感じていた痛みや音楽観、人生観などを聴ける貴重な資料。投稿者の方が日本語訳をつけてくださっているので、英語がわからない人でも大丈夫ですよ。

John Frusciante(Red Hot Chili Peppers)がNIRVANAを語る(和訳)

カートコバーンのみにフォーカスした資料ばかり紹介してきたので、ここで変わり種をひとつ。世界的に有名なミクスチャー・バンド、レッドホットチリペッパーズのギタリストであるジョンフルシアンテがニルヴァーナについて語っています。同業者から見たニルヴァーナの評価が語られているので、ちょっと違った視点からカートのことを知ることができますよ。

なお、ニルヴァーナとチリペッパーズは1991年に一緒に全米ツアーを行なっています。チリペッパーズのベース、フリーはニルヴァーナの「スメルズライクティーンスピリット」のライブにトランペットで参加したこともありますよ。

おすすめの映画

Montage Of Heck

ニルヴァーナのメンバーであったクリスノヴォセリック、妻のコートニーラブ、母のウェンディなど、カートコバーンにまつわる人々へのインタビューを主軸としながら構成されている映画です。

当時のカートコバーンの貴重な映像や彼の肉声も記録されているので、映像からカートコバーンを知りたい方にはオススメです。

カートコバーンについてのまとめ

ここまでカートコバーンの生きた足跡をご紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。

カートは幼少期の孤独感を糧として才能を開花させた、優れたミュージシャンでした。そして、自分の曲やロックが商業利用されることを何よりも嫌っていました。

それなのに、現代においてもカートコバーンはTシャツやステッカー、ポストカードなどの形で消費され続けています。しかも、それらを購入する人の中には「彼のことを全く知らない人」も多く含まれているのです。

確かに、カートは偉大なミュージシャンです。しかし、ステレオタイプな「ロックスター」として捉えられることは、きっと彼の本意ではなかったでしょう。だからこそ、この記事を通じて彼の本当の姿を知ろうとしてくれる人が一人でも多くなれば、こんな嬉しいことはありません。

興味のある方は、ぜひこれを機会に「ロックスター」ではなく「ひとりの人間」としてのカートコバーンを知る時間を作ってみてくださいね!

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