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【年表付】南方熊楠とはどんな人?破天荒な生涯や名言・功績まとめ

南方熊楠(みなかた くまぐす)は明治・大正時代に活躍した博物学者です。「博物学」とは自然のものを集め、分類する学問のことで、熊楠は「粘菌」という生き物を数多く発見したことで知られています。特に「ミナカテラ・ロンギフィラ」という粘菌の発見は大きな業績で、世界中の生物学者たちに熊楠の名が知れ渡った出来事でした。

とはいえ、今でも新聞などでニュースを見れば「新種発見!」という記事はよく見かけますよね。では、なぜ南方熊楠は生まれて150年以上経った今でも多くの人に知られ、尊敬を集めているのでしょうか?

南方熊楠

それは、熊楠が多種多様な分野での活躍を見せた「知の巨人」であったからです。熊楠は生物学者でもあり、キノコやコケ、藻類などの研究にも多くの業績を残しました。また、民俗学者としては『十二支考』や『南方随筆』で日本に伝わる伝説・説話について古今東西のさまざまな書籍に基づいた自由な考察を巡らせています。

現代でいう「理系科目」と「文系科目」の両方に大きな功績を残した南方熊楠は、その生涯も破天荒です。名誉や権力にとらわれず「自由に研究をする」ことを第一に、明治時代のまだ海外渡航の難しかった時代に14年間をアメリカ・イギリスで過ごしています。また、大変ユニークな人物だったようで奇想天外なエピソードも豊富に残っています。

この記事では、民俗学者としての南方熊楠の功績に惹かれ、人物について調べるにつれどんどん彼にはまっていった筆者が、その魅力をあますことなくご紹介します。

南方熊楠とはどんな人か

名前南方熊楠
誕生日1867年5月18日
没日1941年12月29日
生地和歌山県和歌山市
没地和歌山県和歌山市
配偶者マツエ・ミナカタ
(1906年から)
埋葬場所高山寺
(和歌山県田辺市)

南方熊楠の生まれは?

南方熊楠記念館

南方熊楠は1867年5月18日(旧暦の4月15日)に現在の和歌山県和歌山市に生まれました。和歌山城の城下町・現在の寄合町で金物商を営む家の次男です。父の弥兵衛は39歳、母のスミは30歳のときの子供でした。

熊楠には兄弟が3人、妹が2人いました。南方家は1884年に金物屋から「世界一統」という清酒醸造所となり、弟の1人・常楠が後を継いでいます。現在は6代目の南方康治が社長を務めています。

南方熊楠の性格は?

かんしゃくもちだった熊楠

南方熊楠は相当なかんしゃくもちだったようで、怒り始めると手をつけられなくなるタイプだったといわれています。自分でもそういった性質をどうにかしようと思っていたのか、民俗学者・柳田国男宛の手紙に「自分は学問に打ち込むのは、熱中することで気性の荒さを落ち着かせるためだ」と残していました。

多汗症だったため、いつも薄着か裸で過ごしていました。採集のため野山をふんどしだけで駆け回ることもあり、農村の娘たちから「てんぎゃん(紀州の方言で「天狗」のこと)」と呼ばれたというのは有名なエピソードです。また、「自由自在に吐ける」という特技をもっていて、小学生時代に喧嘩になったときなどは突然吐いて勝っていたといわれています。

南方熊楠の生物学者としての業績は?

熊楠が発見した「ミナカテラ・ロンギフィラ」の彩色絵

南方熊楠は粘菌の研究でよく知られています。特に「ミナカテラ・ロンギフィラ」は、分類学上の新しい「属」を発見したとして菌類を研究する世界中の学者たちに大きな衝撃を与えました。発見当時、熊楠はどこの研究機関にも所属していなかったのだからなおさらです。

植物全般の研究も多く、たくさんの標本を作製しました。また、キノコについては専門的な説明のついた3500枚もの彩色図を作っています。標本や彩色図の数を見ても、熊楠の研究に対するエネルギーの強さが分かります。

南方熊楠の民俗学者としての業績は?

岩波文庫『十二支考』

南方熊楠は生物学だけではなく、民俗学の分野にも著書を残しています。英語に達者で、フランス語やラテン語の書物も読めたことから、著書の『十二支考』では干支の動物について世界各国のあらゆる伝説や説話などを紹介しています。

『南方随筆』『南方閑話』でも博覧強記ぶりは発揮されています。自由な語り口で書かれたこれらの著作は、現在の私たちが読んでも面白いです。

南方熊楠が影響を受けた人は?

土宜法龍

南方熊楠は1892年、25歳のときにアメリカからイギリスに渡っています。そこで出会ったのが土宜法龍と孫文です。

土宜法龍は仏教学者で真言宗の僧侶だった人物です。熊楠は法龍と仏教論や哲学について語り合い、出会ってから30年にわたってたくさんの手紙をやりとりしています。

熊楠が31歳のときに、孫文はロンドンに亡命してきていました。ロンドンで出会った2人は、熊楠が和歌山に帰った後も孫文が訪ねてくるなど親交を深めています。

南方熊楠の女性関係は?

熊楠と妻・マツエ

1906年の7月に、南方熊楠は40歳で結婚しています。妻の松枝は、熊楠はこの後に移り住むことになる和歌山県田辺市の闘鶏神社の宮司の四女です。結婚したとき、松枝は28歳でした。

熊楠は猫好きとしても知られているのですが、まだ結婚する前に松枝に会いに行く口実として汚れた野良猫を松枝のもとに連れて行き、洗ってもらっていたというエピソードが残っています。なんとも可愛らしいエピソードです。

南方熊楠の功績

功績1.「ネイチャー誌に史上最多51本もの論文を発表」

ネイチャー誌

「ネイチャー」は1869年にイギリスで創刊された総合学術雑誌です。南方熊楠はこの雑誌に51本もの論文を発表しています。この記録はいまだに誰にも破られていません。

現在は自然科学の分野が強い「ネイチャー」ですが、熊楠が寄稿していた当時は民俗学や文化人類学など幅広い分野の論文が掲載されていました。熊楠の論文が最初に掲載されたのは1893年、「東洋の星座」という論文です。熊楠初めての論文で、この論文で熊楠はロンドンの学術界で一躍有名になりました。

功績2「時代を先取りして『エコロジー』の視点をもっていた」

南方熊楠裸図

1906年ごろから、政府は神社合祀の政策を進めるようになりました。小さな集落ごとにあった神社を統廃合し、特に和歌山県と三重県では多くの神社の合祀が進められています。この政策に猛反対したのが南方熊楠です。

熊楠は庶民の生活と結びついていた神社が消えることで民俗文化が途絶え、神社林によって保たれていた生態系が崩れることを危惧しました。熊楠は神社合祀政策に反対する2通の手紙を書き、柳田国男を通じて東京帝国大学の教授に送っています。この手紙は柳田によって「南方二通」と名付けられ、有識者に配布されました。

神社合祀反対運動を進めるなかで、熊楠は「エコロジー(エコロギー)」という言葉を使っています。2000年代になって進められてきた印象の強いエコロジーですが、南方熊楠は明治時代から提唱していたのです。

功績3.「1つの分野に関連のあるすべての学問について知ろうとした」

南方マンダラ

南方熊楠が「知の巨人」と呼ばれるのは、その興味の幅広さにあります。植物学から民俗学、考古学や文化人類学、さらには男色についても論考しています。1つの分野を極めようとするとたくさんの分野について知らなければならなくなるのはよくあることですが、熊楠はそれを実行しました。

土宜法龍との手紙にはさまざまな分野に対する論考が書かれています。そのなかで登場したのが「南方マンダラ」です。熊楠の仏教的世界観を示しているとされるこの図は、熊楠の見ていた世界を知る手がかりとして多くの研究がなされています。

南方熊楠の名言

世界に、不要のものなし。

粘菌をはじめ微小の生き物たちを徹底して観察し、研究しぬいた熊楠がいうとかなり説得力をもつ言葉です。熊楠がいち早く提唱していた「エコロジー」の視点とも繋がっているように感じます。

肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない。

熊楠が求めたのは名誉や肩書きではなく、「自由に研究できること」でした。現代社会では1つの肩書きにこだわらずにいくつももつ人が増えてきましたが、熊楠はその感覚で明治・大正の世を生きていたのです。

権威に媚び明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従する者など日本には居ない。

ロンドン大学の事務総長で『竹取物語』を翻訳したディキンズに言い放った言葉です。「阿諛追従(あゆついしょう)」とは「相手に気に入られるために媚びること」。自分の訳した『竹取物語』の間違いを次々に指摘していく熊楠にディキンズは思わず「目上の人に対して敬意すら払えない日本の野蛮人が!」と怒鳴ったのですが、熊楠にこう切り返され2人は喧嘩別れをしてしまいます。

しかしディキンズはしばらくして熊楠の言い分に納得し、生涯熊楠を友人として扱うようになりました。

学問は生き物で書籍は糟粕だ。

「糟粕(そうはく)」とは残りかすのことです。熊楠は書籍を書き写すことで勉強していたのですが、書き写していくなかで熊楠自身の頭の中に出来上がるのが「学問」であり、書籍や筆写したものはその搾りかすにすぎない、ということでしょうか。

宇宙万有は無尽なり。ただし人すでに心あり。心ある以上は心の能うだけの楽しみを宇宙より取る。宇宙の幾分を化しておのれの心の楽しみとす。これを智と称することかと思う。

宇宙は無限に広がっていますが、人の心はその無限を思うことで軽々と宇宙と通じることができます。それを人間は「智慧」と呼ぶのではないのでしょうか。熊楠は、粘菌を観察する顕微鏡から宇宙をも覗いていたのかもしれません。

小生思うに、わが国特有の天然風景はわが国の曼陀羅ならん。

「曼荼羅(まんだら)」とは仏教で悟りの世界を網羅的に描いた図のことです。熊楠は日本の自然をその曼荼羅にたとえています。「自然のままで完璧」という信念があったからこそ、自然保護運動を先陣を切って推進していたのでしょう。

南方熊楠にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「十数ヶ国語を操った?」

語学に堪能だった熊楠

南方熊楠は英語をはじめ語学に堪能で、「十数カ国もの言語を巧みに操ったらしい」という伝説があります。実際に話したり書いたりしていたと認められるのは英語のみなのですが、たとえばフランス語やドイツ語、ラテン語などは専門書を読み込めるほどの力があったようです。英語で論文を書きながら、他の言語で書かれた書籍も参照していくイメージでしょうか。

ギリシャ語やロシア語、サンスクリット語なども勉強したようです。熊楠の語学学習法のポイントは「対訳本を読む」「酒場に出向いて周りの会話を聞き、繰り返し出てくる単語を覚える」の2つでした。お酒の大好きな熊楠らしい学習法ですが、生の会話を聞くのが大事というのは現在の英会話などの学習法でも言われることですね。

都市伝説・武勇伝2「南方熊楠の脳はホルマリン漬けにされている?」

大阪大学医学部

南方熊楠はよく幽体離脱を起こしたり幻覚を見たりしていたそうで、自分の死後に脳がどうなっていたのか調べてほしいと要望していました。そのため、熊楠の脳は死後に取り出され、大阪大学医学部でホルマリン漬けにして保管されています。MRI検査を行ったところ右側の海馬に萎縮が見られ、それが幻覚のもととなっていたのではないかといわれています。

南方熊楠の略歴年表

1867年
誕生

南方熊楠は旧暦の4月15日、和歌山県和歌山市で金物商を営んでいた南方弥兵衛・すみ夫妻の次男として誕生しました。幼少期から学問に興味があり、学校に入学する前から大抵の漢字が読めたそうです。その様子を見た父・弥兵衛は「この子にだけは絶対に学問をさせよう」と思い、熊楠は就学前に寺子屋や漢学塾・心学塾に通っています。

1873年
小学校に入学

和歌山市立雄湊小学校(現在は閉校)の前身・雄(おの)小学校に入学しました。8歳のときに同級生の家で『和漢三才図会』を見て感銘を受け、記憶をもとに筆写を始めます。このころから書籍を書き写すことで記憶していく熊楠の勉強法が確立していったようです。

1879年、12歳で和歌山中学(現在の和歌山県立桐蔭高校)に入学します。このときに出会った教師・鳥山啓から「博物学」を勧められました。

1883年
上京

和歌山中学を卒業後、東京・神田の共立学校(現在の開成高校)に入学します。1884年には無事に大学予備門(東京大学)に合格するのですが、熊楠は授業そっちのけで菌類の採集などに明け暮れていました。翌年の12月末、期末試験の単位を落としてしまい落第、予備門を中退することになります。

1887年
アメリカへ留学

1886年2月に和歌山に戻ってきた熊楠は、自由に研究ができる環境を求めアメリカに留学することを決意します。この年の12月に横浜港を出発、1887年1月にサンフランシスコに到着しました。

ミシガン州農業大学(現在のミシガン州立大学)に入学し、弟・常楠からの仕送りを受けながら勉強するのですが、やはりここでも学校には行かず本を読み自然の中で標本を採集する生活を送ります。1888年に寮でお酒を飲んで自主退学した後もこの生活は変わらず、もっぱら自分自身の研究をしていました。1891年の9月にはキューバに採集旅行にも出かけています。

1892年
イギリスへ渡る

1892年の9月、熊楠はイギリスへと渡ります。大英博物館に出入りし、人類学や宗教学の文献を読み漁りました。10月には熊楠にとって重要な人物となる土宜法龍と出会い、宗教論や哲学論を戦わせます。

1894年、ネイチャー誌に論文を2つ寄稿します。日本をはじめとする「東洋の叡智」をもってヨーロッパの学術界に切り込んだ熊楠は、イギリスの学者たちの間に知られるようになりました。孫文と知り合ったのもこのころです。

しかし1897年11月に大英博物館で人種差別を受けた熊楠は暴行事件を起こして一時立ち入り禁止になってしまいます。12月には入れるようになったのですが、翌年1898年の12月に再び揉め事を起こし、とうとう博物館から追放されてしまいました。

1900年
帰国

大英博物館を追われた後も2年ほどイギリスに滞在していたのですが、1900年10月に熊楠は14年ぶりに帰国します。和歌山県・那智の原始林に感動し、隠花植物の研究を始めました。1904年には生涯暮らすことになる田辺市に引っ越しています。

1906年
結婚

田辺市にある闘鶏神社の宮司の娘・松枝と結婚します。1907年には長男・熊弥が、1911年には長女・文枝が生まれました。

結婚した年の6月にはタブノキから採集した粘菌が新種と認められました。熊楠が生涯で発見した新種の粘菌のうち最初のものです。

1916年
自宅の柿の木に「新属粘菌」を見つける

田辺市に弟・常楠の名義で家を買った熊楠は、庭の柿の木に粘菌を発見します。後にこれは新属であることが分かり、「ミナカテラ・ロンギフィラ」と名付けられました。

1929年
昭和天皇に御進講

1929年、紀南地方に昭和天皇が行幸され、熊楠は田辺湾神島沖の戦艦長門で粘菌について御進講を行いました。生物学者でもあった陛下は大変喜ばれ、25分を予定していた御進講を5分延長しています。このとき熊楠が献上した粘菌標本は、現在筑波実験植物園に保管されています。

1941年
自宅にて74歳で死去

1941年12月29日、熊楠は74歳で亡くなりました。墓所は田辺市稲成町の高山寺にあります。

南方熊楠の具体年表

1867年 – 0歳「和歌山県和歌山市に生まれる」

和歌山市にある熊楠生誕の碑

金物商の次男として誕生

1867年旧暦の4月15日、南方熊楠は金物商を営む父・弥兵衛、母・すみの次男として生まれました。南方家の子供たちは和歌山県海南市にある籐白神社に名前を授けてもらうのが慣わしでした。藤白神社の「藤」、熊野神の「熊」、そして境内にある大楠の「楠」の字から名前をとると健康で長生きする子供になる、という言い伝えがあり、熊楠は身体の弱い子供だったため2文字をもらって「熊楠」と名付けられました。

熊楠は6人兄弟で、兄・姉・妹が1人ずつ、弟が2人います。それぞれの名前にやはり「藤」「熊」「楠」の字や音が使われているので、南方家は割と信心深い家だったようです。

幼少期にして既に頭角を現す

金物商だったため、商品を包むための書き損じの紙がたくさんありました。熊楠は反故紙の文字や絵、さらに父・弥兵衛の前妻の兄から受け継いだ書籍をむさぼるように読んで育ちました。学校に入る前に大抵の漢字は読めたというから驚きです。

熊楠のその様子を見た父は「この子にだけは絶対に学問をさせよう」と思う、小学校に入る前に寺子屋や漢学塾、心学塾に通わせています。

1873年 – 6歳「小学校に入学」

『和漢三才図会』

雄小学校に入学、『和漢三才図絵』と初めて出会う

1873年、和歌山市に雄(おの)小学校(現在は閉校となった雄湊小学校)が創設され、熊楠は6歳で入学します。翌年、近所の産婦人科で出会ったのが『和漢三才図会』です。『和漢三才図会』とは江戸時代中期に編纂された現在の百科辞典で、熊楠は一目で心を奪われたといいます。

1876年には小学校を卒業、希望者のみが通う鍾秀学校に入学しました。ここで同級生から『和漢三才図会』を借り、筆写を始めます。このころに学問を筆写で行うスタイルが培われたようです。

和歌山中学に入学

現在の和歌山県立桐蔭高校

1879年に和歌山中学校(現在の桐蔭高校)に入学した熊楠は、鳥山啓という教師と出会います。この先生が熊楠に「博物学」というものを教え、薫陶を施しました。熊楠も独自の勉強を続けていて、1880年には洋書を参考にして「動物学」という教科書を自分で作っています。

1883年 – 16歳「上京」

現在の開成高校

共立学校に入学

和歌山中学校を卒業した熊楠は、上京し神田にあった共立学校(現在の開成高校)に入学します。当時、共立学校は大学予備門(現在の東京大学)に合格するための予備校のような学校でした。このころに熊楠はイギリスの植物学者・バークレイが6000点もの菌類を集めたということを知り、それ以上の標本を作ろうと奮起します。

大学予備門に入学

1884年の9月に熊楠は大学予備門に入学しました。同級生は夏目漱石、正岡子規、山田美妙、本多光太郎などそうそうたる顔ぶれです。しかし熊楠はあまり授業には出ず、もっぱら採集や遺跡の発掘に取り組んでいました。このころ、父・弥右衛門(弥兵衛から改名)が南方酒造という酒屋を創業しました。現在は「世界一統」という酒造会社になっています。

大学予備門を中退

大森貝塚で土器などを発掘したり、日光を訪れ動植物や化石などを採集したりしていた熊楠ですが、2年生のときの期末試験で単位を落としてしまいます。落第してしまった熊楠は予備門を中退、1886年の2月に和歌山に帰りました。

1887年 -20歳「アメリカに留学」

現在のミシガン州立大学

ミシガン州農業大学に入学

和歌山に帰った熊楠は、自由に研究に没頭できる環境を求めてアメリカに留学することを決意します。当時、海外留学には莫大なお金が必要だったのですが、南方家は事業で成功を収めていて財力が豊富にありました。

熊楠は1886年12月に横浜港を出発、翌年1月にサンフランシスコに到着しています。 8月にはミシガン州農業大学に入学しました。当初は商業を学ぶ予定だったのですが興味が薄れ、ここでも書籍を読んで勉強したり野山で採集したりしています。しかし、1888年に寮でお酒を飲んでしまい熊楠は自主退学してしまいました。

ミシガン州アナーバー市に移る

大学を辞めた熊楠は、アナーバー市に移って地衣類学者のカルキンズに師事するようになりました。カルキンズのもとで標本作成を学びながら、採集と読書で研究を続けます。この「採集」「整理・分類」「標本を作る」という研究のステップは生涯変わりませんでした。

新発見の緑藻を「ネイチャー」に発表

1891年、フロリダに移った熊楠は新しく発見した緑藻を「ネイチャー」誌に発表しました。反響は大きく、ワシントンD.C.の国立博物館から標本を譲ってほしいと頼まれたそうです。また、この年にはキューバに採集旅行にも出かけています。

1892年 -25歳「イギリスに渡る」

大英博物館

大英博物館で研究を始める

1892年の9月、南方熊楠は新天地・イギリスに渡ります。「ネイチャー」誌に論文「東洋の星座」を寄稿したことから、大英博物館の学芸員を務めていたオーガスタス・ウォラストン・フランクスと知り合い、博物館に出入りするようになります。1895年には、同館で東洋図書目録編纂係の職に就きました。

土宜法龍、孫文と出会う

イギリスに着いた年の10月、熊楠は土宜法龍と出会います。真言宗の僧侶であった法龍と、熊楠は仏教をはじめとした宗教論、哲学論を熱く語り合いました。この年の暮れから始まった手紙のやり取りは、法龍が亡くなるまで30年にわたって続きました。

1897年には、ロンドンに亡命していた孫文と知り合いました。孫文が革命家として世界的に有名になる少し前のことです。熊楠が和歌山に帰った後も孫文が訪ねてくるなど、2人の交流がありました。

大英博物館から追放される

1897年11月、大英博物館で日本人差別を受けた熊楠は暴力事件を起こし、一時立ち入り禁止になります。1月ほどで再度入館できるようになったのですが、1898年の12月、閲覧室で女性に静かにするよう注意したことから監督官と揉め、また追い出されてしまいます。今度は追放されてしまいました。

さらに翌年の1月、長年熊楠に仕送りをしていた弟・常楠から仕送りを止めるとの手紙が届きます。これには熊楠も参ったようで、この夜は眠れなかったと日記に残されています。

1900年 -33歳「帰国」

円珠院

和歌山市・円珠院に暮らし始める

仕送りを止められてからも熊楠は2年ほどイギリスに滞在していたのですが、1900年10月、14年ぶりに帰国します。大阪に少し暮らした後、故郷・和歌山市の円珠院に住み始めました。翌年には孫文が訪れ、再会を喜び合っています。

田辺に引っ越す

1902年に和歌山県田辺市を訪れた熊楠は、ここに生涯暮らし続けることを決めています。転居したのはその2年後のことです。熊野信仰のお膝元である田辺市は、神社に保全されている自然も豊かだったことから熊楠はこの土地に惹かれたのでしょう。

1906年 -40歳「結婚」

南方熊楠一家と女中

12歳年下の松枝と結婚

1906年、南方熊楠は40歳のときに結婚しました。妻の松枝は12歳年下の28歳です。1907年には長男が、1911年には長女が生まれました。

神社合祀反対運動を起こす

1906年ごろから政府の神社合祀政策が始まり、南方熊楠は反対運動を始めました。民俗学者・柳田国男と手紙を交換し始めたのもこの頃です。熊楠が神社合祀反対運動に際して柳田に送った手紙は『南方二書』として出版されました。

その甲斐あって、1912年に田辺湾にある神島は保安林に指定されています。1913年にはそれまで手紙だけの付き合いだった柳田と面会しました。このとき熊楠は8歳年下の柳田にとても緊張し、ほぐすためにお酒を飲みすぎて酩酊状態で対面したそうです。

1916年 -49歳「新属粘菌を発見」

南方熊楠邸

自宅の柿の木に粘菌を発見

1916年に、熊楠は弟・常楠の名義で田辺に家を買いました。その家にあった柿の木で発見されたのが後に「ミナカテラ・ロンギフィラ」と名付けられる新属粘菌です。命名したのはロンドン自然史博物館の粘菌学者で、「長い糸の南方の粘菌」という意味があります。

研究所設立のための資金を集める

1921年から熊楠の名を冠した研究所を設立しようという動きが始まりました。発起人として原敬など総勢28名の名前が当時の新聞に掲載されています。1922年には、資金を集めるために熊楠自ら上京しています。

11月に研究所設立のための資金は集まったのですが、常楠からもらい続けていた仕送りを止められてしまいました。常楠は、定職につかずに研究ばかりしている熊楠を心よく思っていなかったのです。2人はこのとき絶縁し、顔を合わせることはありませんでした。

1929年 -62歳「昭和天皇に御進講」

昭和天皇が詠まれた熊楠を偲ぶ歌の碑

紀南行幸をしていた昭和天皇に御進講

1929年6月、南方熊楠は和歌山に行幸していた昭和天皇に田辺湾・神島沖に停めた戦艦長門の船上で御進講をしています。このとき粘菌の標本の110種類献上したのですが、従来献上品は最高級の桐の箱などに収められるところを熊楠はダンボール製のキャラメル箱に入れて献上しました。標本を取り出しやすいように、という配慮のもとだったと考えられています。

昭和天皇は皇太子時代から生物学に関心が強く、この御進講も25分間のところを天皇の希望で5分延長されています。熊楠が献上した標本は現在筑波実験植物園に保管されています。昭和天皇は1962年にも和歌山を訪れていて、白浜で神島を見て熊楠に思いを馳せ、「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」という歌を残しました。

1941年 -74歳「自宅にて死去」

晩年の熊楠

萎縮腎で死去

1941年12月29日、南方熊楠は74歳のときに自宅で亡くなりました。死因は萎縮腎という腎臓の病気です。亡くなるとき、医者を呼ぶかと聞かれた熊楠は「医者は呼ぶな。天井に見える紫の花が消えてしまうから」と断ったといいます。

南方熊楠の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

南方熊楠 (小学館版学習まんが人物館)

「小学館版学習まんが」シリーズの1冊です。小中学校の図書室などによく置かれているシリーズですが、この漫画で南方熊楠のことを知ったという人も多いのではないでしょうか?今でも多くの子ども達に衝撃を与え続けている本です。

南方マンダラ

「南方熊楠コレクション」の第一弾のこの書籍は、熊楠の中心思想である「南方マンダラ」を解き明かすものです。編集した中沢新一は宗教史学者で、熊楠についての研究も多数あります。熊楠が土宜法龍にだけ伝えた思想を、詳細に解説している本です。

怪人熊楠、妖怪を語る

熊楠は民俗学の一分野として、「妖怪学」も研究しました。この書籍は、熊楠の人物像と彼が見出した「妖怪」「怪奇現象」について紹介している本です。熊楠の研究した分野は幅広いので、まずは誰もが興味を持ちやすい妖怪から取り掛かってみるのはいかがでしょうか。

猫楠 南方熊楠の生涯

『ゲゲゲの鬼太郎』でおなじみ、水木しげるが熊楠の生涯を描いた漫画です。人間の言葉を理解する熊楠の飼い猫・猫楠を語り部に、水木しげるならではの幻想的なシーンも取り入れながら熊楠の伝記を描き出しています。

おすすめの動画

学ぶ「孫文と南方熊楠(前編)」jiotv

ジーオインターネット放送局が制作した、孫文と南方熊楠の友情に関する動画です。どのような状況で2人が出会ったか、どういう関係であったかなどを分かりやすい言葉で解説してくれます。記念館や顕彰館に保管されている熊楠のノートなどの史料も豊富に見られるので、短い動画ですしできたら後編まで見てみるのがおすすめです。

顕微鏡の彼方に “Tanabe, Kii, Japan”

南方熊楠顕彰館が制作した、熊楠の田辺での自然保護活動や世界各国の学者との交流についての動画です。淡々とした動画ですが、自然保護活動家としての熊楠の一端を知ることができます。

おすすめの映画

熊楠 ―KUMAGUSU-

1991年に撮影が始まったのですが、資金が足りなくなってしまって未完に終わってしまった熊楠の伝記的映画です。今でも映画祭などでたまに見ることができます。30分に満たない短い映像ですが、町田町蔵(町田康)演じる熊楠を見ていると「熊楠はこんな人だっただろうなぁ…」と感じられます。

熊野の森の圧倒的な緑の中をヒラヒラと駆ける町田町蔵の熊楠っぷりが見事すぎて、それだけで泣きそうになる。キツい関西弁でまくし立てるのは町蔵のキャラそのものなんだけど、と同時に熊楠そのものでもあるという。

https://filmarks.com/movies/60837/reviews/4481824

関連外部リンク

南方熊楠についてのまとめ

南方熊楠について、その人物像や生涯、功績をご紹介してきました。いかがでしたでしょうか?

この記事を書くにあたって筆者は改めて熊楠について調べたのですが、細かなエピソードを知れば知るほど身近に感じ、また惹かれていきました。大きな功績をなした偉い学者さんというよりも、実は凄いらしい近所の変わったおじさんのような雰囲気を感じます。

この記事を読んだみなさんに、南方熊楠に親しみをもってもらえたらとても嬉しいです。

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