南方熊楠の名言
世界に、不要のものなし。
粘菌をはじめ微小の生き物たちを徹底して観察し、研究しぬいた熊楠がいうとかなり説得力をもつ言葉です。熊楠がいち早く提唱していた「エコロジー」の視点とも繋がっているように感じます。
肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない。
熊楠が求めたのは名誉や肩書きではなく、「自由に研究できること」でした。現代社会では1つの肩書きにこだわらずにいくつももつ人が増えてきましたが、熊楠はその感覚で明治・大正の世を生きていたのです。
権威に媚び明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従する者など日本には居ない。
ロンドン大学の事務総長で『竹取物語』を翻訳したディキンズに言い放った言葉です。「阿諛追従(あゆついしょう)」とは「相手に気に入られるために媚びること」。自分の訳した『竹取物語』の間違いを次々に指摘していく熊楠にディキンズは思わず「目上の人に対して敬意すら払えない日本の野蛮人が!」と怒鳴ったのですが、熊楠にこう切り返され2人は喧嘩別れをしてしまいます。
しかしディキンズはしばらくして熊楠の言い分に納得し、生涯熊楠を友人として扱うようになりました。
学問は生き物で書籍は糟粕だ。
「糟粕(そうはく)」とは残りかすのことです。熊楠は書籍を書き写すことで勉強していたのですが、書き写していくなかで熊楠自身の頭の中に出来上がるのが「学問」であり、書籍や筆写したものはその搾りかすにすぎない、ということでしょうか。
宇宙万有は無尽なり。ただし人すでに心あり。心ある以上は心の能うだけの楽しみを宇宙より取る。宇宙の幾分を化しておのれの心の楽しみとす。これを智と称することかと思う。
宇宙は無限に広がっていますが、人の心はその無限を思うことで軽々と宇宙と通じることができます。それを人間は「智慧」と呼ぶのではないのでしょうか。熊楠は、粘菌を観察する顕微鏡から宇宙をも覗いていたのかもしれません。
小生思うに、わが国特有の天然風景はわが国の曼陀羅ならん。
「曼荼羅(まんだら)」とは仏教で悟りの世界を網羅的に描いた図のことです。熊楠は日本の自然をその曼荼羅にたとえています。「自然のままで完璧」という信念があったからこそ、自然保護運動を先陣を切って推進していたのでしょう。
南方熊楠にまつわる逸話
逸話1「十数ヶ国語を操った?」
南方熊楠は英語をはじめ語学に堪能で、「十数カ国もの言語を巧みに操ったらしい」という伝説があります。実際に話したり書いたりしていたと認められるのは英語のみなのですが、たとえばフランス語やドイツ語、ラテン語などは専門書を読み込めるほどの力があったようです。英語で論文を書きながら、他の言語で書かれた書籍も参照していくイメージでしょうか。
ギリシャ語やロシア語、サンスクリット語なども勉強したようです。熊楠の語学学習法のポイントは「対訳本を読む」「酒場に出向いて周りの会話を聞き、繰り返し出てくる単語を覚える」の2つでした。お酒の大好きな熊楠らしい学習法ですが、生の会話を聞くのが大事というのは現在の英会話などの学習法でも言われることですね。
逸話2「南方熊楠の脳はホルマリン漬けにされている?」
南方熊楠はよく幽体離脱を起こしたり幻覚を見たりしていたそうで、自分の死後に脳がどうなっていたのか調べてほしいと要望していました。そのため、熊楠の脳は死後に取り出され、大阪大学医学部でホルマリン漬けにして保管されています。MRI検査を行ったところ右側の海馬に萎縮が見られ、それが幻覚のもととなっていたのではないかといわれています。
南方熊楠の略歴年表
南方熊楠は旧暦の4月15日、和歌山県和歌山市で金物商を営んでいた南方弥兵衛・すみ夫妻の次男として誕生しました。幼少期から学問に興味があり、学校に入学する前から大抵の漢字が読めたそうです。その様子を見た父・弥兵衛は「この子にだけは絶対に学問をさせよう」と思い、熊楠は就学前に寺子屋や漢学塾・心学塾に通っています。
和歌山市立雄湊小学校(現在は閉校)の前身・雄(おの)小学校に入学しました。8歳のときに同級生の家で『和漢三才図会』を見て感銘を受け、記憶をもとに筆写を始めます。このころから書籍を書き写すことで記憶していく熊楠の勉強法が確立していったようです。
1879年、12歳で和歌山中学(現在の和歌山県立桐蔭高校)に入学します。このときに出会った教師・鳥山啓から「博物学」を勧められました。
和歌山中学を卒業後、東京・神田の共立学校(現在の開成高校)に入学します。1884年には無事に大学予備門(東京大学)に合格するのですが、熊楠は授業そっちのけで菌類の採集などに明け暮れていました。翌年の12月末、期末試験の単位を落としてしまい落第、予備門を中退することになります。
1886年2月に和歌山に戻ってきた熊楠は、自由に研究ができる環境を求めアメリカに留学することを決意します。この年の12月に横浜港を出発、1887年1月にサンフランシスコに到着しました。
ミシガン州農業大学(現在のミシガン州立大学)に入学し、弟・常楠からの仕送りを受けながら勉強するのですが、やはりここでも学校には行かず本を読み自然の中で標本を採集する生活を送ります。1888年に寮でお酒を飲んで自主退学した後もこの生活は変わらず、もっぱら自分自身の研究をしていました。1891年の9月にはキューバに採集旅行にも出かけています。
1892年の9月、熊楠はイギリスへと渡ります。大英博物館に出入りし、人類学や宗教学の文献を読み漁りました。10月には熊楠にとって重要な人物となる土宜法龍と出会い、宗教論や哲学論を戦わせます。
1894年、ネイチャー誌に論文を2つ寄稿します。日本をはじめとする「東洋の叡智」をもってヨーロッパの学術界に切り込んだ熊楠は、イギリスの学者たちの間に知られるようになりました。孫文と知り合ったのもこのころです。
しかし1897年11月に大英博物館で人種差別を受けた熊楠は暴行事件を起こして一時立ち入り禁止になってしまいます。12月には入れるようになったのですが、翌年1898年の12月に再び揉め事を起こし、とうとう博物館から追放されてしまいました。
大英博物館を追われた後も2年ほどイギリスに滞在していたのですが、1900年10月に熊楠は14年ぶりに帰国します。和歌山県・那智の原始林に感動し、隠花植物の研究を始めました。1904年には生涯暮らすことになる田辺市に引っ越しています。
田辺市にある闘鶏神社の宮司の娘・松枝と結婚します。1907年には長男・熊弥が、1911年には長女・文枝が生まれました。
結婚した年の6月にはタブノキから採集した粘菌が新種と認められました。熊楠が生涯で発見した新種の粘菌のうち最初のものです。
田辺市に弟・常楠の名義で家を買った熊楠は、庭の柿の木に粘菌を発見します。後にこれは新属であることが分かり、「ミナカテラ・ロンギフィラ」と名付けられました。
1929年、紀南地方に昭和天皇が行幸され、熊楠は田辺湾神島沖の戦艦長門で粘菌について御進講を行いました。生物学者でもあった陛下は大変喜ばれ、25分を予定していた御進講を5分延長しています。このとき熊楠が献上した粘菌標本は、現在筑波実験植物園に保管されています。
1941年12月29日、熊楠は74歳で亡くなりました。墓所は田辺市稲成町の高山寺にあります。
南方熊楠の具体年表
1867年 – 0歳「和歌山県和歌山市に生まれる」
金物商の次男として誕生
1867年旧暦の4月15日、南方熊楠は金物商を営む父・弥兵衛、母・すみの次男として生まれました。南方家の子供たちは和歌山県海南市にある籐白神社に名前を授けてもらうのが慣わしでした。藤白神社の「藤」、熊野神の「熊」、そして境内にある大楠の「楠」の字から名前をとると健康で長生きする子供になる、という言い伝えがあり、熊楠は身体の弱い子供だったため2文字をもらって「熊楠」と名付けられました。
熊楠は6人兄弟で、兄・姉・妹が1人ずつ、弟が2人います。それぞれの名前にやはり「藤」「熊」「楠」の字や音が使われているので、南方家は割と信心深い家だったようです。
幼少期にして既に頭角を現す
金物商だったため、商品を包むための書き損じの紙がたくさんありました。熊楠は反故紙の文字や絵、さらに父・弥兵衛の前妻の兄から受け継いだ書籍をむさぼるように読んで育ちました。学校に入る前に大抵の漢字は読めたというから驚きです。
熊楠のその様子を見た父は「この子にだけは絶対に学問をさせよう」と思う、小学校に入る前に寺子屋や漢学塾、心学塾に通わせています。
1873年 – 6歳「小学校に入学」
雄小学校に入学、『和漢三才図絵』と初めて出会う
1873年、和歌山市に雄(おの)小学校(現在は閉校となった雄湊小学校)が創設され、熊楠は6歳で入学します。翌年、近所の産婦人科で出会ったのが『和漢三才図会』です。『和漢三才図会』とは江戸時代中期に編纂された現在の百科辞典で、熊楠は一目で心を奪われたといいます。
1876年には小学校を卒業、希望者のみが通う鍾秀学校に入学しました。ここで同級生から『和漢三才図会』を借り、筆写を始めます。このころに学問を筆写で行うスタイルが培われたようです。
和歌山中学に入学
1879年に和歌山中学校(現在の桐蔭高校)に入学した熊楠は、鳥山啓という教師と出会います。この先生が熊楠に「博物学」というものを教え、薫陶を施しました。熊楠も独自の勉強を続けていて、1880年には洋書を参考にして「動物学」という教科書を自分で作っています。
1883年 – 16歳「上京」
共立学校に入学
和歌山中学校を卒業した熊楠は、上京し神田にあった共立学校(現在の開成高校)に入学します。当時、共立学校は大学予備門(現在の東京大学)に合格するための予備校のような学校でした。このころに熊楠はイギリスの植物学者・バークレイが6000点もの菌類を集めたということを知り、それ以上の標本を作ろうと奮起します。
大学予備門に入学
1884年の9月に熊楠は大学予備門に入学しました。同級生は夏目漱石、正岡子規、山田美妙、本多光太郎などそうそうたる顔ぶれです。しかし熊楠はあまり授業には出ず、もっぱら採集や遺跡の発掘に取り組んでいました。このころ、父・弥右衛門(弥兵衛から改名)が南方酒造という酒屋を創業しました。現在は「世界一統」という酒造会社になっています。
大学予備門を中退
大森貝塚で土器などを発掘したり、日光を訪れ動植物や化石などを採集したりしていた熊楠ですが、2年生のときの期末試験で単位を落としてしまいます。落第してしまった熊楠は予備門を中退、1886年の2月に和歌山に帰りました。
1887年 -20歳「アメリカに留学」
ミシガン州農業大学に入学
和歌山に帰った熊楠は、自由に研究に没頭できる環境を求めてアメリカに留学することを決意します。当時、海外留学には莫大なお金が必要だったのですが、南方家は事業で成功を収めていて財力が豊富にありました。
熊楠は1886年12月に横浜港を出発、翌年1月にサンフランシスコに到着しています。 8月にはミシガン州農業大学に入学しました。当初は商業を学ぶ予定だったのですが興味が薄れ、ここでも書籍を読んで勉強したり野山で採集したりしています。しかし、1888年に寮でお酒を飲んでしまい熊楠は自主退学してしまいました。
ミシガン州アナーバー市に移る
大学を辞めた熊楠は、アナーバー市に移って地衣類学者のカルキンズに師事するようになりました。カルキンズのもとで標本作成を学びながら、採集と読書で研究を続けます。この「採集」「整理・分類」「標本を作る」という研究のステップは生涯変わりませんでした。
新発見の緑藻を「ネイチャー」に発表
1891年、フロリダに移った熊楠は新しく発見した緑藻を「ネイチャー」誌に発表しました。反響は大きく、ワシントンD.C.の国立博物館から標本を譲ってほしいと頼まれたそうです。また、この年にはキューバに採集旅行にも出かけています。
1892年 -25歳「イギリスに渡る」
大英博物館で研究を始める
1892年の9月、南方熊楠は新天地・イギリスに渡ります。「ネイチャー」誌に論文「東洋の星座」を寄稿したことから、大英博物館の学芸員を務めていたオーガスタス・ウォラストン・フランクスと知り合い、博物館に出入りするようになります。1895年には、同館で東洋図書目録編纂係の職に就きました。
土宜法龍、孫文と出会う
イギリスに着いた年の10月、熊楠は土宜法龍と出会います。真言宗の僧侶であった法龍と、熊楠は仏教をはじめとした宗教論、哲学論を熱く語り合いました。この年の暮れから始まった手紙のやり取りは、法龍が亡くなるまで30年にわたって続きました。
1897年には、ロンドンに亡命していた孫文と知り合いました。孫文が革命家として世界的に有名になる少し前のことです。熊楠が和歌山に帰った後も孫文が訪ねてくるなど、2人の交流がありました。
大英博物館から追放される
1897年11月、大英博物館で日本人差別を受けた熊楠は暴力事件を起こし、一時立ち入り禁止になります。1月ほどで再度入館できるようになったのですが、1898年の12月、閲覧室で女性に静かにするよう注意したことから監督官と揉め、また追い出されてしまいます。今度は追放されてしまいました。
さらに翌年の1月、長年熊楠に仕送りをしていた弟・常楠から仕送りを止めるとの手紙が届きます。これには熊楠も参ったようで、この夜は眠れなかったと日記に残されています。