聖徳太子とはどんな人?謎多き生涯を功績や死因を交えて解説

聖徳太子(しょうとくたいし)は、古代日本の中央集権国家づくりが進んだ飛鳥時代の、政治改革の中心となった皇族です。天皇を父親を持ち、推古天皇の時代に皇太子として政治に参加し始めています。数々の偉業を残した聖徳太子ですが、現代にも通じる「十七条憲法」を定め、これによって朝廷に使える役人の心構えや、民衆を大切に扱うことを示し国をまとめていきました。

天皇制の基盤を整えた聖徳太子

聖徳太子の定めた「十七条憲法」は、「和をもって貴しとなす」とそれまでの氏族の争いに対して、平和を訴える内容から始まっています。全文において、中国から伝わった仏教・儒教のほか、法家の思想をもとに作られました。聖徳太子は「十七条憲法」以外にも、国際的に通用する政治秩序を作ることが目的であった「冠位十二階」の制定、小野妹子が派遣されたことで有名な「遣隋使」など、数々の功績を残しています。

現代の日本にまで通じる政治的な思想や、多くの歴史的な文化を残した聖徳太子に惹かれ、ゆかりの地を巡ってきた私が、聖徳太子の生涯についてを解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

聖徳太子とはどんな人物か

名前聖徳太子、厩戸皇子、厩戸王
誕生日574年2月7日
没日622年4月8日
生地日本 奈良県
没地日本
用明天皇
配偶者菟道貝蛸皇女、橘大郎女、
刀自古郎女、膳大郎女
埋葬場所叡服寺 磯長墓
(大阪府南河内郡太子町)

聖徳太子の生涯をハイライト

幼少期の聖徳太子が過ごした奈良県橘寺

574年聖徳太子は後に用明天皇となる橘豊日皇子の第二子として生まれ、現在の奈良県橘寺(たちばなでら)で幼少を過ごし知性溢れる賢い男の子に育ちました。早くに父を亡くした聖徳太子は14歳で犬猿の仲にあった蘇我氏と物部氏の対立激化から起きた丁未の乱にて蘇我氏の勝利に貢献、功績と聡明さを認められ20歳から推古天皇を支える摂政(せっしょう)に選ばれ政治に参加します。

天皇制の基盤を整える数々の制度設計に貢献した聖徳太子

聖徳太子は摂政として当時重要課題であった外交の立て直しに着手。隋と国交を結ぶため遣隋使を派遣しましたが国として対等な関係にあると認められず失敗、他国と対等な外交関係を結ぶには国を統制する法が必要だと教訓を得ます。

遣隋使派遣の失敗から聖徳太子は持ち前の聡明さを活かし「冠位十二階」「十七条憲法」の制定に貢献、天皇制の基盤を整えただけでなく、先進的な中国の文化や制度を積極的に取り入れる道筋をつくりました。これは、聖徳太子がお札の顔になるほど現代に讃えられる理由となった功績です。

「銀行券の顔」として最も多く登場した聖徳太子

天皇中心の国づくりに大きく貢献した聖徳太子でしたが、当時流行していた伝染病が原因で愛する母と妻を亡くすと、その後自らも伝染病にかかりそのまま病死しました。当時49歳聡明な聖徳太子も病魔には勝てなかったようですが、妻が亡くなった次の日に病死している不自然さから自殺が死因なのではないかともささやかれています。

聖徳太子は用明天皇の第二皇子として生まれる

聖徳太子の父で後用明天皇となる橘豊日皇子

聖徳太子は、西暦574年に第31代天皇である、用明天皇の第二皇子として生まれました。「日本書紀」では、母である穴穂部(あなほべ)皇女が宮中の馬屋の戸に当たった拍子に、安産で生まれたと伝説的な記述があります。ここから、厩戸皇子という名前の由来のひとつとなったエピソードが生まれました。

また、奈良県にある橘寺のあたりで生まれ、幼少期を過ごしたと言われています。聖徳太子にゆかりの深い場所で、現在このお寺には聖徳太子がご本尊として祀られています。

幼少から賢く豊富な知恵の持ち主

橘豊日皇子(後の用明天皇)の第二子として生まれた聖徳太子

聖徳太子は幼少から賢く豊富な知恵の持ち主でした。天皇と皇女の間に生まれその血を受け継いだ聖徳太子、推古天皇に抜擢され政治に参加したことや憲法の制定に大きく貢献したことからも豊富な知恵の持ち主だったといえますね。

聖徳太子という名前の由来

現在千葉県旭市にある聖徳太子の記念碑

聖徳太子の名前で親しみのある方も多いと思いますが、厩戸皇子、豊聡耳、などいくつかの名前で呼ばれています。日本最古の歴史書「古事記」には、推古天皇の記述はあるのもの、聖徳太子についての記述は見つかっていません。日本書紀に書かれる聖徳太子は架空の人物である、その架空の人物と実在した厩戸皇子を重ね合わせている、など様々な説が存在します。こういった説から、聖徳太子は存在しなかったのでは?という考えが広まっていきました。

冠位十二階・十七条憲法など天皇制を目指した数々の制定に貢献

604年に制定された十七条憲法の条文

聖徳太子は天皇制の基盤を整えるため数々の制定に貢献しました。当時隋との外交関係を築こうと派遣した遣隋使が交渉に失敗、国として認められていないのを痛感します。

遣隋使派遣の失敗から国の統制基盤を整える必要があると教訓を得た聖徳太子らは天皇を中心とした国づくりに着手、「役人のあるべき姿や心構えを記した十七条憲法」や「功績次第で昇進できる仕組み冠位十二階」などの制定に貢献しました。

聖徳太子は遺志を継ぎ法隆寺を建築

世界最古の木造建築である法隆寺五重塔

世界文化遺産にも登録されている法隆寺(別名、斑鳩寺)は、用明天皇が自らの病気を治すために発願し、その死後、遺志をついだ聖徳太子と推古天皇によって607年に完成されました。世界最古の木造建築と言われており、境内には国宝にも指定されている数々の木造建築が並びます。

この法隆寺は、聖徳太子の仏教信仰や研究の拠点でもありました。聖徳太子は、もともと法隆寺の隣に斑鳩宮を建立しており、現在の法隆寺東院伽藍の夢殿、中宮寺を合わせたあたりが、かつての斑鳩宮跡とみられています。

死と隣り合わせの生涯を過ごす

伝染病にかかり49歳でこの世を去った聖徳太子

聖徳太子の生涯は常に死と隣り合わせでした。13歳の時に父が天然痘をわずらい死去、49歳の時には母と妻が伝染病におかされこの世を去ります。

今ほど医療技術が伴っていない当時では病を治すのはとても難しく、病死は珍しくないことでした。聖徳太子自身も最期は伝染病にかかり49歳でこの世を去ります。大切な人を失いながらも献身的に生き抜いた生涯でした。

※摂政:天皇が幼少・病弱などの理由で政務を行うのが困難な際に君主に代わり政務を行う役職のこと

聖徳太子の功績

功績1「天皇中心の国づくりを目指し十七条憲法の制定に貢献」

現在の奈良県生駒郡斑鳩町にある斑鳩宮跡夢殿

聖徳太子の定めたとされる「十七条憲法」は、私たちの知っている現代の憲法とは違い、朝廷にいる役人に向けたものでした。役人の心構えや、民を大切にすることが述べられており、天皇を中心に国づくりを進めていくことが示されました。

この十七条憲法は、現在に至るまで後世にも大きな影響を与えています。十七条憲法には「独断すべからず、必ず衆と論すべし」とありますが、これは明治天皇の「五箇条の御誓文」にも通じる部分があります。

聖徳太子が込めた理念は、現代の私たちも受け入れられるものであり、日本の発展のスタートにあるのではないでしょうか。

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功績2「冠位十二階を制定し人々に公平な昇進機会を与える」

当時聖徳太子が着用していた服と冠

聖徳太子は、「冠位十二階」も制定したと言われています。これによって、それまでの血縁に基づいて秩序が作られていた氏姓制度から、低い身分の人であっても功績をあげれば昇進でき有能な人物が登用されるようになりました。

また、飛鳥時代は遣隋使など、外交も盛んに行われていました。そのため国際的にも通用する政治的秩序が必要だったとも言われています。

この後の時代、長く続く天皇を中心とした政治の基盤が、この冠位十二階によって実現されていくことになります。

功績3「銀行券の顔として最も多く日本のお札に登場」

聖徳太子が肖像画の一万円札は1958年から約25年間使われた

聖徳太子像は、これまで7回、日本のお札に登場しています。初めて採用された1930年に発行の「乙百円券」に始まり、歴史上の人物の中で最も多くお札に登場しています。その中でも、1958年に発行された一万円札は、約25年間という長い間使われてきたため、日本のお札の肖像画のイメージとして定着していったようです。 採用された理由としては、歴史上の事実から肖像を描くための材料があったこと、国民の知名度の高さなどが挙げられています。

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