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アレクサンドロス大王とはどんな人?当方遠征の功績や名言、死因など紹介

アレクサンドロス大王とは、紀元前300年代に大王国を築き上げた国王です。

彼は紀元前300年代――日本で言えば、まだ邪馬台国すら存在していなかった古代に、地中海からインドに跨るほど広大な大王国を築き上げた人物であり、有識者からは「世界史上において最も成功した軍司令官」と現在でも考えられている、あらゆる意味で桁外れな偉人だと言えるでしょう。

アレクサンドロス大王の像

世界史上においては、チンギス・ハンに次ぐ面積を征服した人物として知られ、その征服した範囲の広さから、各国の伝承や様々な文化などに名を遺すアレクサンドロス大王ですが、実のところ彼の功績は「東方遠征」の部分がクローズアップされがちで、他の部分は意外とサラッと流されてしまっています。

ですので、「アレクサンドロス大王という人物は、どのような人間性の持ち主だったのか」という部分まで知っている方は、実は少ないのではないでしょうか。

ですのでこの記事では、某作品でイスカンダル――もといアレクサンドロス大王の豪快な魅力に圧倒され、史実における彼の活躍や人物像に「この人アニメそのまんま!!」と衝撃を受けた筆者が、彼の功績以外の部分での魅力を中心に記事を執筆させていただければと思います。

世界史上でもトップレベルの偉大な人物だけに、長い記事になるかと思いますが、どうぞお付き合いくださいませ。

アレクサンドロス大王とはどんな人物か

名前アレクサンドロス3世
通称アレクサンドロス大王、イスカンダル
誕生日紀元前356年7月20日
没日紀元前323年6月10日(32歳没)
生地マケドニア王国・ペラ
没地メソポタミア地方・バビロン
配偶者ロクサネ、スタテイラ2世、パリュサティス2世
埋葬場所不明

アレクサンドロス大王の生まれ

アレクサンドロス大王の彫像

アレクサンドロス大王は、紀元前356年に、マケドニア王国を治める国王・ピリッポス2世と、エペイロスの王女であるオリュンピアスの間に生まれました。

父であるピリッポス2世は、ギリシャ神話の英雄であるヘラクレスの血を引くとされる家系の出身であり、母であるオリュンピアスは、これまたギリシャ神話の英雄であるアキレウスの家系の出身だったため、当時のギリシャ世界における血筋としては、まさに最高峰のサラブレッドだったと言えるでしょう。

そして、ギリシャ最高峰の血筋をもって生まれたアレクサンドロスは、これまた当時の最高峰である哲学者・アリストテレスに教育を受けながらすくすくと成長。後に彼を支える将軍となる学友たちと共に学び、後の「大王」としての片鱗を着々とみせていきます。

こうしてギリシャ有数の血筋と、ギリシャ有数の教育を受けたアレクサンドロスは、父が暗殺されたことをきっかけに、20歳で王位を継承。マケドニア王国の王として、マケドニアの最盛期を形作っていくことになるのです。

アレクサンドロス大王が影響を受けた、与えた人

アレクサンドロス大王が「最高の師」と尊敬した哲学者・アリストテレス

アレクサンドロス大王は、実はかなり多くの人物から多大な影響を受けています。多くの人や伝承から素直に学ぶことができる気質が、彼を「大王」と呼ばれるまでに押し上げたのかもしれません。

例えば、幼い頃から16歳まで教育を受けたアリストテレスに関しては、生涯にわたって「最高の師」と尊敬し続け、死ぬまで師弟関係を継続し続けたことが記録されています。他にも、父の祖先であるヘラクレスや、母の祖先であるアキレウスに対してのリスペクトもかなり強かったようで、現代風にいう所の「聖地巡礼」のような物見遊山をしているなど、かなり現代的な感性を持った人物でもあったようです。

また、「歴史上最も成功した軍司令官」という評価を受けているだけに、多くの歴史上の偉人たちが、アレクサンドロス大王の行動や戦略を参考にしている記録が残っています。

特にハンニバル・バルカ、ガイウス・ユリウス・カエサルナポレオン・ボナパルトあたりは、明らかにアレクサンドロス大王に関する記録を参考にしている部分が見られ、それだけでも彼の影響力が凄まじいものであったことを読み取ることができるでしょう。

アレクサンドロス大王の東方遠征

アレクサンドロス大王の東方遠征の簡易図

おそらく「アレクサンドロス大王の功績」として、最もクローズアップされるのはこの部分でしょう。とはいえ、詳しくは別記事で紹介するとして、ここではあくまで簡単に、さわりを紹介していきます。

アレクサンドロス大王の遠征が始まったのは、紀元前334年。22歳の若さで大遠征をスタートした彼は、以降の生涯の全てを、この大遠征に費やしたと言っても過言ではありません。

この遠征は、総距離にして4500㎞に及ぶ大遠征となり、当時の世界における古代オリエント世界の統一国だったペルシャ王国を打ち破るなど、世界の情勢を大きく塗り替えるものでした。そのことを示すように、この遠征の中でアレクサンドロスは各地の伝承に名を残しています。イスラム世界に残る「イスカンダル伝承」などは、その最たるものでしょう。

そうして、ペルシャ王国や各地の小国を取り込み、数多の伝説を残しながら「世界の果て」を目指して進撃を続けたアレクサンドロス大王でしたが、インド中央部への侵攻を企図したところで配下の兵士たちが音を上げ、あえなく遠征は終了。

そこから間もなくアレクサンドロス大王は命を落としてしまうのですが、彼自身はまだまだ西進を続ける気満々だったため、彼がもう少し長生きをしていれば、世界の歴史はまた少し違った道を歩んでいたかもしれません。

アレクサンドロス大王は、何故「王」ではなく「大王」なのか

アレクサンドロス同様、「大王」と呼ばれる王・フリードリヒ2世

○○王、○○皇帝という風に呼ばれる人物は歴史上に数多く存在しますが、何故アレクサンドロスは「アレクサンドロス”王”」ではなく、「アレクサンドロス”大王”」と呼ばれるのでしょう。あまりにも基本的すぎる部分ではありますが、よく考えると疑問に感じる部分です。

これに関しては、実は明確な理由というのは存在していません。ですので、例えば「アーサー大王」や「大帝ナポレオン」、あるいは「アレクサンドロス王」という呼び方をしても、少々違和感があるだけで、誰かに咎められるような謂れはないと言えます。

ただ、「大王(大帝)」という敬称の使われ方の傾向からすると、「他の人物とは比較にならないほ、偉大な功績を治めた王(皇帝)」に対して使われる称号、という考え方が一般的なようです。

ですので、アレクサンドロスを示す中で、最も広く浸透した呼び名が「アレクサンドロス大王」ということ自体が、彼の成した偉業を示していると言えるでしょう。

アレクサンドロス大王の死因

アレクサンドロス大王の死没した地・バビロンを描いたとされる絵画

アレクサンドロス大王は、遠征のとん挫からほどなくして、大国となったマケドニアの首都とすることを企図していた地・バビロンにて倒れ、そのままこの世を去りました。享年は32歳。まだまだ遠征を続ける気満々だった中での、早すぎる死でした。

その死の原因については諸説があり、通説となっているのは熱病による病死説。他の有力な説には、これ以上の遠征を嫌がった臣下による毒殺説や、祝宴で酒を飲み過ぎたことによる急性アルコール中毒説があり、そのどれもが一定の信ぴょう性を持っていることから、死因をつき止めることは現状ではほぼ不可能だと言えそうです。

大王の死後のマケドニア王国は、アレクサンドロスが後継者を指名せず、あろうことか「最強の者が王国を継承せよ」と遺言を残したことで、荒れに荒れることに。

大王配下の武将たちによる後継者争い――ディアドコイ戦争が勃発し、その結果として王国は分裂。彼の築き上げた巨大な王国は、僅か一代の数年しか持つことなく、歴史の中に消えてしまうのでした。

アレクサンドロス大王の功績

功績1「4500㎞に及ぶ大遠征を成し遂げる」

アレクサンドロス大王による遠征の範囲

アレクサンドロス大王の功績といえば、やはりこの部分は外せません。

数字で見るとイマイチ伝わりにくいかもしれませんが、「邪馬台国も存在していなかった時代に、日本列島約15個分の面積を征服した」と書くと、その異常とも言える功績がよくわかっていただけると思います。

しかも彼は、それだけの領土を征服しておきながらまだ満足はしていなかったようで、遠征がとん挫した後も、アラビア半島の征服に野心を燃やしていたとか。古代オリエント世界を治めたペルシャ王国を滅ぼし、エジプトでファラオの称号を得てもなお収まらない野心は、良かれ悪しかれ「世界史に名を残す人物」としてのアレクサンドロス大王を、最も象徴している部分ではないでしょうか。

功績2「指揮官としても、戦士としても優秀」

愛馬に跨るアレクサンドロス大王の像

「世界史上最も成功した軍司令官」として名高いアレクサンドロス大王ですが、実は彼は戦士としても優秀であり、後方に控えての指揮よりも、最前線に立って戦うことを好む武人だったと伝えられています。

特に大遠征の初期にあたる”グラニコス川の戦い”では、アレクサンドロス大王の戦士としての一面がよく表れています。この時の彼は、派手な甲冑を纏って騎兵隊の先頭に立ち、自ら愛馬と共に敵陣に突進して、敵将を投げ槍で仕留めたという記録が残されているのです。

この時のあまりにも印象強い勝利によって、アレクサンドロス大王は配下から絶大な信頼を受けるようになったとされ、その時に勝ち得た信頼によって、彼は東への進撃を続けることができたのだとされています。

功績3「各国の古文書に名を遺す、ワールドワイド・ヒーロー! 」

イスラム世界に残る『イスカンダル伝承』

僅か10年足らずで、イスラム世界を横切る形で征服していったアレクサンドロス大王は、多くの国々の古文書に伝説を残しています。

とりわけ中東では「イスカンダル伝承(アレクサンドロス・ロマンス)」としてアレクサンドロス大王の英雄譚は語り継がれ、現在でもその英雄譚や、その中のエピソードにちなんだ史跡、あるいは都市名などが数多く残されているようです。彼が各地に起こした植民都市・アレクサンドリアなどは、現在でもとりわけ有名な史跡の一つでしょう。

また、中東圏においての多数派だったイスラム教が徐々に勢力を拡大していったことで、東南アジア圏にもこれらの伝承は伝わっていったらしく、現在の東南アジアにおいても「イスカンダル」というのは一般的な男性の名前として親しまれているようです。

アレクサンドロス大王の名言

挑戦を続ける限り、我らにできないことはない

名言としてはよくある「諦めなければ夢は叶う」というタイプの名言ですが、アレクサンドロス大王が口にすると、正直説得力が違う言葉です。

私は勝利をくすねるような真似はしない

夜襲を進言してきた配下に対しての言葉だと言われています。

一見すると彼の「正々堂々とした人柄」を示す発言のようですが、実際は彼の「類稀な戦術眼」を示す言葉だと言える名言です。

この言葉を言ったアレクサンドロス大王は、敵軍と睨み合っている状況下で悠々と眠りこけ、夜襲を警戒して翌朝には疲れ切っていた敵軍を、次の日の朝にはなぎ倒すように叩き潰していったと言われています。

運命とは伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものである

「解いた者がアジアの王になる」という伝説を持った”ゴルディアスの結び目”を、剣で叩き切った時の発言です。

結び目を”解く”のではなく”切る”という斬新な解決方法は、現在でも「難題を思いもよらない方法で解く」という意味の故事成語『ゴルディアスの結び目』として語り継がれています。

アレクサンドロス大王にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「人類最初の聖地巡礼(オタク的な意味で)」

ギリシャ神話の英雄・アキレウス(イメージ図)

アレクサンドロス大王は、母の祖先であるアキレウスを非常に強く尊敬していたらしく、彼が描かれるギリシア抒情詩『イーリアス』の大ファンだったと伝えられています。

そのリスペクトぶりは現代でいう所の「行動派オタク」のそれだったようで、「戦場で『イーリアス』に描かれたアキレウスの言動を真似する」「遠征中、各地に残るアキレウスゆかりの地を巡ってはしゃぐ」など、中々微笑ましいエピソードも数多く残されているようです。

優秀な軍司令官としての一面が大きくクローズアップされやすいアレクサンドロス大王ですが、実は人間らしい、というよりオタクっぽい部分も多く含んだ人物だったと言えそうですね。

都市伝説・武勇伝2「インド神話の神のモデル!?」

「アレクサンドロス大王をモデルにした」と噂された、インド神話のスカンダ神

「世界史上最も成功した軍司令官」として名高いアレクサンドロス大王は、その成功ぶりからか「神のモデルになった」とも噂されています。インド神話の神であり、仏教では「韋駄天」として伝わるスカンダ神などは、一時期は本気で「アレクサンドロス大王をモデルにした伝説」と信じられていました。

ですが、インド神話の成立年はアレクサンドロス大王が活躍した時代よりも古いため、これに関しては事実無根だと言わざるを得ません。とはいえ、彼が「神のモデル」と勘違いされるほど鮮烈な活躍を残したことは、疑いようのない事実でもあります。

実際にアレクサンドロス大王は、そのあまりの功績に「ギリシャの神々に加えるべきか」と”生前に”本気で議論をされてもいます。「流石に生者を神の列に加えるのは……」ということで流石に取りやめになったようですが、アレクサンドロス大王が”神”と同一視されるほどの人物だったことは、これらのエピソードを見ただけでも十分理解いただけるかと思います。

アレクサンドロス大王の簡単年表

紀元前356年 - 0歳
マケドニア王国にて誕生
マケドニア王・ピリッポス2世の子として誕生しました。父はヘラクレスの、母はアキレウスの血を引くとされるギリシャ有数のサラブレッドだったようです。
紀元前336年 - 20歳
父の跡を継ぎ、王となる
アリストテレスに教えを受け、聡明な少年として育ったアレクサンドロスは、この年に父が暗殺されたことで王位を継承。父の遺志を継ぐ形で、東方への遠征に着手し始めます。
紀元前334年 - 22歳
東方遠征、開始
マケドニア軍を率いてペルシャ王国の領地に侵攻を開始。グラニコス川の戦いで鮮烈な勝利をあげて軍の士気を高めると、小アジア圏のペルシア軍を蹴散らすように、東への進撃を行っていきました。
紀元前333年 - 23歳
イッソスの戦い
アレクサンドロス大王のライバルとして語られる、ペルシャ王・ダレイオス三世との直接対決であるイッソスの戦いが勃発。巧みな指揮でペルシャ軍を敗走させ、更に進軍を続けます。
紀元前332年 - 24歳
エジプト征服
この年にはエジプトを征服したアレクサンドロス大王は、ファラオ「メリアメン・セテプエンラー」として神殿に祀られることになります。また、この時エジプトに起こした植民都市が、かの有名な「アレクサンドリア」の元祖だとも言われているようです。
紀元前331~330年 - 25~26歳
ペルシャ王国を攻め滅ぼす
紀元前331年には、ガウガメラの戦いにて再びダレイオス三世率いるペルシャ軍と交戦し、これに勝利。その後もアレクサンドロス大王は進撃を続け、ペルシス門の戦いにも勝利してペルシャの首都にあたるペルセポリスに入城。これによってペルシャ王国は事実上滅亡しました。
紀元前329~326年 - 27~30歳
東への進撃~中央アジアへ~
ペルシャを破り、中央アジアへ進出したアレクサンドロス大王は、ここでも幾分かの苦戦がありつつも着々と領土を広げていきます。しかしこの頃から、部下による「アレクサンドロス大王毒殺未遂事件」が起こるなど、大王の威光には若干の陰りが見えるようになってしまうのです。
紀元前326年 - 30歳
遠征終了
部下たちが疲労を原因にこれ以上の進軍を拒否したため、アレクサンドロス大王はやむなく遠征を断念。こうして兵を引き上げた大王ですが、帰路においてもユーフラテス川付近の地図の作成を行うなど、後世に残る偉業を残しています。
紀元前323年 - 32歳
バビロンにて急逝
帰還したアレクサンドロス大王は、大きく広がった領地の支配大系を模索しつつ、マケドニア人とペルシア人の融和や、文化的な融合などを模索していきますが、その最中に急逝。そして、彼が死の間際に「最強の者が国を継げ」と遺言したことで、マケドニアでは継承者争いが勃発し、彼の築き上げた大王国は、脆くも崩れ去ることになってしまうのでした。

アレクサンドロス大王の年表

紀元前356年 – 0歳「ギリシャ有数のサラブレッドとして誕生」

全世界的に有名な、ディズニー版ヘラクレス

「ヘラクレスとアキレウスの血を引く子」

アレクサンドロスは、マケドニア王であるピリッポス2世と、エペイロスの王女であるオリュンピアスの間に生まれます。父はヘラクレス、母はアキレウスの血を引いた、ギリシャ有数のサラブレッドとしての誕生でした。

後の配下たちと共に、アリストテレスに師事する

アレクサンドロスは、後の配下筆頭であるヘファイスティオンらと共に、かの有名な哲学者・アリストテレスに師事し、16歳まで様々なことを学びます。

その師弟関係はアレクサンドロスの急逝まで続き、アリストテレスは彼に「王としての心構え」を教え続け、アレクサンドロスはアリストテレスに、「遠征先で見つけた動植物のサンプル」を贈って、お互いに交流を深めていたようです。

紀元前336年 – 20歳「王位継承」

アレクサンドロス大王の父・ピリッポス2世の彫像

父の死により、王位を継承する

この年、マケドニアを治めながらペルシャ王国との全面対決を企てていた父が、暗殺によって死去。アレクサンドロスはその後を継ぐ形で王位を継承することとなります。

父の生前より、ペルシャ王国との全面対決に積極的だったアレクサンドロスは、王位を継ぐと同時に、マケドニア内部の敵対者の排除に乗り出し、着々と東方遠征への基盤を固めていきました。

紀元前334年 – 22歳「東方遠征、開始」

マケドニア本国を任された重臣・アンティパトロス

東方遠征の開始

マケドニア本国を統一し、全ギリシャを手中に収めたアレクサンドロスは、いよいよ本格的に東方遠征に乗り出します。

本国を父の時代からの重臣・アンティパトロスに任せて、東方遠征に乗り出したアレクサンドロス。しかし彼がマケドニア本国の土を踏むことは、もう二度とありませんでした。

グラニコス川の戦い

小アジアへと電撃的に侵攻を開始したアレクサンドロスの軍勢は、グラニコス川近郊にてペルシャ軍と会敵。

アレクサンドロス自ら最前線で敵将を討ち取る活躍をあげ、これによって兵士たちから熱狂的な支持を集めることに成功したアレクサンドロスは、着々と東方への進撃を続けていきます。

紀元前333年 – 23歳「ライバルとの出会い~イッソスの戦い~」

ダレイオス三世は、アレクサンドロス大王のライバルとも目される

イッソスの戦い

この年に起こったイッソスの戦いは、ペルシャの王であるダレイオス三世が自ら出陣し、「不死隊」と呼ばれる精鋭部隊を含む10万の軍勢でマケドニアを待ち受けるという、かつてない規模の激戦となりました。

しかしアレクサンドロス大王は、兵力では明らかに劣るものの、指揮の高い軍勢と最新の戦術を駆使して立ち回り、見事にペルシャ軍を撃退。これまで無敗を誇っていた「ダレイオス三世自ら指揮するペルシャ軍」が、はじめて敗北する戦いとなりました。

また、この時にアレクサンドロス大王は、ダレイオス三世の母、妻、娘を捕虜としていますが、彼は彼女たちを非常に手厚く扱ったらしく、敵であるダレイオスが「もし私が国を失ったなら、次の王はアレクサンドロスに任せたい」と神に祈ったというエピソードも残されています。

ゴルディアスの結び目

「名言」の項で少しだけ紹介した『ゴルディアスの結び目』のエピソードも、記録上はこの年のエピソードだとされています。

戦場続きの上、負けなしだったダレイオス率いるペルシャ軍に土を付けたアレクサンドロス大王。この頃の彼が「アジアを統べる王になる」という神託を受けるのも、割と納得のいく話のようにも感じられます。

紀元前332年 – 24歳「エジプト征服~アレクサンドリア~」

現在のエジプトにおける第二都市・アレクサンドリア

メリアムン・セテプエンラー

南下してエジプトに侵入したアレクサンドロス大王の軍勢は、割と歓迎される形でエジプトを征服。エジプト人はアレクサンドロス大王を「解放者」として迎え入れ、「メリアムン・セテプエンラー」のファラオ名を与えて神殿に祀ったことが記録されています。

ちなみに大王はここで、「あなたはゼウスの子である」という神託を受けたとも記録されており、なんにせよ「アレクサンドロス大王が神と同一視されるようになった」というのは、この辺りが始まりであるようです。

アレクサンドリアの起こり

エジプトを征服したアレクサンドロス大王は、ナイルデルタの西端に都市を建設し、そこを植民地としました。

この年は、後にアレクサンドロス大王が各地に建設する「アレクサンドリア」という植民都市の元祖とされており、現在のエジプトでも「首都に次ぐ第二の都市」として、非常に発展した姿を見せているようです。

紀元前331~330年 – 25~26歳「ペルシャ王国の滅亡」

ペルシャ軍が用いたとされる戦象

ガウガメラの戦い

紀元前331年に、アレクサンドロス大王の軍勢は、ダレイオス三世の率いるペルシャ軍30万と、チグリス川上流のガウガメラにて交戦しました。

ペルシャ軍は15体もの戦象を動員し、戦いは非常に大規模なものになりましたが、この戦いに関しても最新鋭の戦術と、非常に士気の高いアレクサンドロス軍に軍配が。これの敗北によってダレイオス三世はカスピ海方面に撤退し、ペルシャ王国はもはや滅亡を免れない状況に陥ります。

そして、アレクサンドロス大王はそのままペルシャの首都方向へ侵攻。ウクシオンとペルシス門でペルシャ軍を破り、ペルセポリスを徹底的に破壊したことで、ここにペルシャ王国は滅亡を迎えることになりました。

ダレイオス三世のその後

ペルシャ滅亡後も生き延びていたダレイオス三世でしたが、アレクサンドロス大王のペルシャ征服の翌年、追撃から逃走している最中に、腹心だったベッソスによって暗殺されてしまいます。

暗殺によって生涯を閉じたライバルに対して、アレクサンドロス大王は彼の亡骸を丁重に葬り、ベッソスを追討して公開処刑に処するなど、厳しい対処を行いました。戦場でしのぎを削ったもの同士、もしかすると友情にも似た感情があったのかもしれませんね。

紀元前329年~326年 – 27~30歳「続く進撃~中央アジア、そしてインドへ~」

翳り出す大王の威光

中央アジアへの進撃

ペルシャ王国の領土を手中に収めたアレクサンドロス大王は、いよいよ中央アジアへ進軍。しかし、勢力としては小粒ながら好戦的な諸部族からの抵抗にあい、この時期には決定的な敗戦こそしないものの、若干苦戦をすることが増えてきています。

そして、そんな苦戦が増えた現状と、あまりにも長すぎる遠征期間は配下の将兵たちを疲れさせてしまい、この時期からアレクサンドロス大王の進軍には、若干の向かい風が吹き始めることになるのです。

インド遠征と、決定的な”翳り”

若干の士気の低下がありながらも勝利を収め、インドへの進軍を始めたアレクサンドロス大王。彼はここでも勝利をおさめ続けますが、配下の将兵たちはもはや限界を迎えていました。

そしてここで決定的な事件が。

ペルシア征服後、アレクサンドロス大王はペルシャの文化を積極的に取り入れ過ぎたことで、一部の将兵から反感を持たれていました。そして彼はあろうことか、ペルシャとの融和政策について口出しをしてきた臣下・クレイトスを、カッとなって殺害してしまうのです。

クレイトスを殺し、冷静になったアレクサンドロスは深く悲しんだようですが、それはもう後の祭り。アレクサンドロス大王の威光は、既にゆっくりと翳りはじめていました。

紀元前326年 – 30歳「夢の終わり~遠征終結~」

遠征終了

限界を超えた将兵たちを何とか鼓舞しながら、インド中央部まであと一歩と迫ったアレクサンドロス大王ですが、ここで完全に限界が来てしまいます。

古参の老将・コイノスに「このあたりでいったん帰りましょう」と進言されたことや、占星術師に「これ以上の進軍は不吉」と占われたこともあり、アレクサンドロス大王は不承不承ながら軍を引き上げることを決定しました。

「世界の果てを目指す」ようなアレクサンドロス大王の遠征は、志半ばで終わることとなってしまったのです。

紀元前323年 – 32歳「メソポタミア地方・バビロンにて急逝」

古代メソポタミア時代のバビロン(イメージ図)

征服した地域の融和を図る

征服したメソポタミア地域の古都・バビロンへ戻ったアレクサンドロス大王は、広げに広げた領地を、ペルシャ、マケドニア、ギリシアの三地域に再編し、同君連合の形で統治する構想を打ち立てました。

また、アレクサンドロス大王はギリシア文化とペルシャのオリエント文化の融和も推進しており、これは後に「ヘレニズム文化」として、”サモトラケのニケ”、”ミロのヴィーナス”などの芸術の形で結実しています。

しかし、少々急進的かつ、見ようによっては「ペルシャ贔屓」と取られかねない政策だったため、古参の将兵からの受けはあまり良くなく、政策の推進は若干難航していたようです。

祝宴の最中、熱に倒れて急逝

こうして統治政策を次々打ち出しながら、次はアラビア半島方面への遠征を企画していたアレクサンドロス大王は、祝宴の最中に突如として昏倒。そのまま数日間高熱に苦しんだ末、32歳で帰らぬ人となりました。

彼の死後、広範なマケドニア王国は分裂し、様々な国や王朝となって歴史上に名を残すことになります。彼の築いた広大な版図こそ維持できなかったものの、彼の功績は未来永劫にわたって、様々な地域に影響を与え続けているのです。

アレクサンドロス大王の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

図説 アレクサンドロス大王 (ふくろうの本)

アレクサンドロス大王の足跡が、写真や図で非常にわかりやすく示されている良書です。

若干駆け足気味な部分もありますが、全体的に非常にわかりやすい本のため、「アレクサンドロス大王を知るには、まずはこれ!」とおすすめしたい一冊になっています。

Fate/Zero

アレクサンドロス大王をモチーフにした「征服王イスカンダル」というキャラクターが登場する物語。創作ではありますが、非常に説得力のあるキャラクター設定がされていて、「アレクサンドロス大王」という人物の魅力にどっぷりハマるきっかけとなり得る作品です。

「興味はあるけど、いきなり学術的な部分はちょっと……」という方にこそお勧めしたい、スペクタクルエンターテイメントとなっています。

おすすめの映画

アレキサンダー

正直なところ、下手に文章でアレクサンドロス大王の生涯を追うよりも、まずはこの作品に触れた方が、あらゆる意味で分かりやすいとすら思える作品です。

アレクサンドロス大王の生涯のほぼ全てを網羅して映像化しているため、伝記として楽しめるのももちろんですが、古代の文化的な描写も多々あるため、非常に広範囲にわたって「勉強になる」作品です。

関連外部リンク

アレクサンドロス大王についてのまとめ

紀元前300年代という超古代でありながら、日本列島約15個分の面積を鮮やかに侵略し、文字通りの「世界征服」すら成し遂げかけた大王・アレクサンドロス。

あまりに偉大過ぎる生涯のため、まぁかなり長めの記事になってしまいましたが、実はこれでもかなり削った方。彼の生涯や人物像にフォーカスした記事にしましたが、彼の死後のマケドニア王国の動きなんかも、実はこれだけで記事一本ぐらいは書けてしまいそうな面白い部分だったりします。

ともあれ、彼が世界史上のどの分野に対しても影響を与えた、偉大な大王であることだけは何があろうと変わりません。皆さんもそれぞれに様々な分野に関心があってこのサイトをご覧いただいていると思いますが、どうかこのサイトをぐるっと周遊した時に「これもアレクサンドロス関係!?」と驚いていただければと思います。

それでは、長い記事にお付き合いいただきまして、まことにありがとうございました!

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