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アレクサンドロス大王とはどんな人物?生涯・年表まとめ【性格や名言、死因など紹介】

アレクサンドロス大王とは、紀元前300年代に大王国を築き上げた国王です。

紀元前300年代――日本で言えば、まだ邪馬台国すら存在していなかった古代に、アレクサンドロス大王は地中海からインドに跨るほど広大な大王国を築き上げました。有識者からは「世界史上において最も成功した軍司令官」と現在でも考えられている、あらゆる意味で桁外れな偉人だと言えるでしょう。

アレクサンドロス大王の像

世界史上においては、チンギス・ハンに次ぐ面積を征服した人物として知られ、その征服した範囲の広さから、各国の伝承や様々な文化などに名を遺しています。しかし、実のところ彼の功績は「東方遠征」の部分がクローズアップされがちで、他の部分は意外とサラッと流されてしまっています。

そのため、「アレクサンドロス大王という人物は、どのような人間性の持ち主だったのか」という部分まで知っている方は、実は少ないのではないでしょうか。

そこでこの記事では、アレクサンドロス大王の功績だけでなく、性格や名言、死因などについて紹介していきます。世界史上でもトップレベルの偉大な人物だけに、長い記事になるかと思いますが、どうぞお付き合いくださいませ。

アレクサンドロス大王とはどんな人物か

名前アレクサンドロス3世
通称アレクサンドロス大王、イスカンダル
誕生日紀元前356年7月20日
没日紀元前323年6月10日(32歳没)
生地マケドニア王国・ペラ
没地メソポタミア地方・バビロン
配偶者ロクサネ、スタテイラ2世、パリュサティス2世
埋葬場所不明

アレクサンドロス大王の生涯をハイライト

アケメネス朝ペルシアとアレクサンドロス大王の戦いを描いた絵画

アレクサンドロス大王はどのような生涯を送ったのでしょうか。まず簡単にご説明したいと思います。

アレクサンドロスは、マケドニア王フィリッポス2世の息子として誕生。その後、哲学者アリストテレスの下でギリシア文化を学び、多くの学友と共に少年時代を過ごしました。

しかし、フィリッポス2世が暗殺されると、アレクサンドロスは20歳の若さで即位することになります。そして、父が生前に志していたペルシア遠征の計画を継承したのです。

ペルシア遠征を開始したアレクサンドロス大王は、小アジアからシリア、エジプトへと進軍し、勝利を重ねていきます。そして、ガウガメラの戦いにおいてペルシア王ダレイオス3世を破り、王都ペルセポリスを占領。その結果、アケメネス朝ペルシアは滅亡しました。

その後、アレクサンドロス大王はインド北部まで侵攻しましたが、部下の反対を受けて更なる進軍は断念。しかし、最終的にアレクサンドロス大王はギリシア、エジプトからインド北部にかけて広がる大帝国を築き上げたのです。

愛馬ブケパロスに騎乗して戦場を駆けるアレクサンドロス大王

そして、メソポタミアのバビロンに帰還したアレクサンドロス大王は、広大な領土を3つの地域に再編し、同君連合体制によって統治することにしました。

その後、アレクサンドロス大王はアラビア遠征を計画していましたが、とある夜に催された宴の最中に倒れ、32歳の若さで死没。そして、死の間際に「最強の者が帝国を継承せよ」という言葉を残したのです。

アレクサンドロス大王はアケメネス朝ペルシアの継承者

マケドニア王国の最大版図

ギリシアからインド北部までの広大な領域を征服したアレクサンドロス大王は、事実上アケメネス朝ペルシアの継承者と言うことができます。

その理由は、紀元前5世紀頃におけるペルシア王ダレイオス1世が築き上げたアケメネス朝の統治体制にありました。ダレイオス1世は、広大な領土を統治するために「王の道」と呼ばれる道路網を作り、駅伝制を完備していたのです。

そして、アレクサンドロス大王はアケメネス朝ペルシアの統治方法を上手く利用することで、さらに領土を拡大していきました。その結果、アケメネス朝ペルシアは滅亡しましたが、アケメネス朝が築いた政治体制や文化などはアレクサンドロス大王の帝国の中に残り続けたのです。

アレクサンドロス大王が「王」ではなく「大王」と呼ばれる理由

アレクサンドロス同様、「大王」と呼ばれる王・フリードリヒ2世

○○王、○○皇帝という風に呼ばれる人物は歴史上に数多く存在しますが、何故アレクサンドロスは「アレクサンドロス”王”」ではなく、「アレクサンドロス”大王”」と呼ばれるのでしょう。あまりにも基本的すぎる部分ではありますが、よく考えると疑問に感じる部分です。

これに関しては、実は明確な理由というのは存在していません。ですので、例えば「アーサー大王」や「大帝ナポレオン」、あるいは「アレクサンドロス王」という呼び方をしても、少々違和感があるだけで、誰かに咎められるような謂れはないと言えます。

ただ、「大王(大帝)」という敬称の使われ方の傾向からすると、「他の人物とは比較にならないほ、偉大な功績を治めた王(皇帝)」に対して使われる称号、という考え方が一般的なようです。

ですので、アレクサンドロスを示す中で、最も広く浸透した呼び名が「アレクサンドロス大王」ということ自体が、彼の成した偉業を示していると言えるでしょう。

アレクサンドロス大王の死因

アレクサンドロス大王の死没した地・バビロンを描いたとされる絵画

アレクサンドロス大王は、遠征のとん挫からほどなくして、大国となったマケドニアの首都とすることを企図していた地・バビロンにて倒れ、そのままこの世を去りました。享年は32歳。まだまだ遠征を続ける気満々だった中での、早すぎる死でした。

その死の原因については諸説があり、通説となっているのは熱病による病死説。他の有力な説には、これ以上の遠征を嫌がった臣下による毒殺説や、祝宴で酒を飲み過ぎたことによる急性アルコール中毒説があり、そのどれもが一定の信ぴょう性を持っていることから、死因をつき止めることは現状ではほぼ不可能だと言えそうです。

大王の死後のマケドニア王国は、アレクサンドロスが後継者を指名せず、あろうことか「最強の者が王国を継承せよ」と遺言を残したことで、荒れに荒れることに。

大王配下の武将たちによる後継者争い――ディアドコイ戦争が勃発し、その結果として王国は分裂。彼の築き上げた巨大な王国は、僅か一代の数年しか持つことなく、歴史の中に消えてしまうのでした。

アレクサンドロス大王の遺体の行方

アレクサンドロス大王の葬式を描いた絵画

アレクサンドロス大王の遺体は、棺車に乗せてバビロンの外へ運び出されました。この時、遺体を運び出すまでに死没から2年が経過しており、その間に遺体をどのような方法で管理していたのかは未だにわかっていません。

当初、棺車は故郷であるマケドニアへ向かう予定でしたが、アレクサンドロス大王に仕えた将軍の1人であるプトレマイオス1世が、遺体をエジプトのメンフィスに埋葬するように指示。そして、紀元前3世紀には遺体がメンフィスからアレクサンドリアへ移されます。

しかし、4世紀頃になると、アレクサンドロス大王の墓の場所がわからなくなってしまいました。現在に残る伝説では、初期キリスト教会の地下聖堂にアレクサンドロス大王の遺体が眠っているとされています。

アレクサンドロス大王の功績

功績1「4500㎞に及ぶ大遠征を成し遂げる」

アレクサンドロス大王による遠征の範囲

アレクサンドロス大王の功績といえば、東方遠征は外せません。

数字で見るとイマイチ伝わりにくいかもしれませんが、「邪馬台国も存在していなかった時代に、日本列島約15個分の面積を征服した」と書くと、その異常とも言える功績がよくわかっていただけると思います。

アレクサンドロス大王の遠征が始まったのは、紀元前334年。22歳の若さで大遠征をスタートした彼は、以降の生涯の全てを、この大遠征に費やしたと言っても過言ではありません。

アレクサンドロス大王の東方遠征の簡易図

この遠征は、総距離にして4500㎞に及ぶ大遠征となり、当時の世界における古代オリエント世界の統一国だったペルシャ王国を打ち破るなど、世界の情勢を大きく塗り替えるものでした。

そのことを示すように、この遠征の中でアレクサンドロスは各地の伝承に名を残しています。イスラム世界に残る「イスカンダル伝承」などは、その最たるものでしょう。

イスラム世界に残る『イスカンダル伝承』

しかも彼は、それだけの領土を征服しておきながらまだ満足はしていなかったようで、遠征がとん挫した後も、アラビア半島の征服に野心を燃やしていたとか。

古代オリエント世界を治めたペルシャ王国を滅ぼし、エジプトでファラオの称号を得てもなお収まらない野心は、良かれ悪しかれ「世界史に名を残す人物」としてのアレクサンドロス大王を、最も象徴している部分ではないでしょうか。

そうして、ペルシャ王国や各地の小国を取り込み、数多の伝説を残しながら「世界の果て」を目指して進撃を続けたアレクサンドロス大王でしたが、インド中央部への侵攻を企図したところで配下の兵士たちが音を上げ、あえなく遠征は終了。

そこから間もなくアレクサンドロス大王は命を落としてしまうのですが、彼自身はまだまだ西進を続ける気満々だったため、彼がもう少し長生きをしていれば、世界の歴史はまた少し違った道を歩んでいたかもしれません。

功績2「指揮官としても、戦士としても優秀」

愛馬に跨るアレクサンドロス大王の像

「世界史上最も成功した軍司令官」として名高いアレクサンドロス大王ですが、実は彼は戦士としても優秀であり、後方に控えての指揮よりも、最前線に立って戦うことを好む武人だったと伝えられています。

特に大遠征の初期にあたる”グラニコス川の戦い”では、アレクサンドロス大王の戦士としての一面がよく表れています。この時の彼は、派手な甲冑を纏って騎兵隊の先頭に立ち、自ら愛馬と共に敵陣に突進して、敵将を投げ槍で仕留めたという記録が残されているのです。

この時のあまりにも印象強い勝利によって、アレクサンドロス大王は配下から絶大な信頼を受けるようになったとされ、その時に勝ち得た信頼によって、彼は東への進撃を続けることができたのだとされています。

功績3「スーサで集団結婚式を開催」

アレクサンドロス大王はスーサで集団結婚式を開催した

アレクサンドロス大王は、ペルシアの都市スーサにおいて集団結婚式を開催しました。そして、側近や兵士たちにペルシア人女性との結婚を認め、持参金や引き出物を自ら用意したのです。

当初、この集団結婚式の目的は、民族融合によって両者の差別意識をなくし、次世代の支配層が統治しやすいようにすることにあったと考えられていました。しかし、実際の目的は被征服者であるペルシア人女性を戦利品として分配しただけであり、長旅による疲れを癒す性の慰安だったのです。

そのため、兵士たちが帰国する際には、故郷の家庭におけるトラブルを回避するために新婚の妻たちは同伴させませんでした。しかし、彼女らとの間に男児が生まれることが期待されている場合には、マケドニアに連れて帰ることを許されたのです。

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