アレクサンドロス大王の簡単年表
マケドニア王・ピリッポス2世の子として誕生しました。父はヘラクレスの、母はアキレウスの血を引くとされるギリシャ有数のサラブレッドだったようです。
アリストテレスに教えを受け、聡明な少年として育ったアレクサンドロスは、この年に父が暗殺されたことで王位を継承。父の遺志を継ぐ形で、東方への遠征に着手し始めます。
マケドニア軍を率いてペルシャ王国の領地に侵攻を開始。グラニコス川の戦いで鮮烈な勝利をあげて軍の士気を高めると、小アジア圏のペルシア軍を蹴散らすように、東への進撃を行っていきました。
アレクサンドロス大王のライバルとして語られる、ペルシャ王・ダレイオス三世との直接対決であるイッソスの戦いが勃発。巧みな指揮でペルシャ軍を敗走させ、更に進軍を続けます。
この年にはエジプトを征服したアレクサンドロス大王は、ファラオ「メリアメン・セテプエンラー」として神殿に祀られることになります。また、この時エジプトに起こした植民都市が、かの有名な「アレクサンドリア」の元祖だとも言われているようです。
紀元前331年には、ガウガメラの戦いにて再びダレイオス三世率いるペルシャ軍と交戦し、これに勝利。その後もアレクサンドロス大王は進撃を続け、ペルシス門の戦いにも勝利してペルシャの首都にあたるペルセポリスに入城。これによってペルシャ王国は事実上滅亡しました。
ペルシャを破り、中央アジアへ進出したアレクサンドロス大王は、ここでも幾分かの苦戦がありつつも着々と領土を広げていきます。しかしこの頃から、部下による「アレクサンドロス大王毒殺未遂事件」が起こるなど、大王の威光には若干の陰りが見えるようになってしまうのです。
部下たちが疲労を原因にこれ以上の進軍を拒否したため、アレクサンドロス大王はやむなく遠征を断念。こうして兵を引き上げた大王ですが、帰路においてもユーフラテス川付近の地図の作成を行うなど、後世に残る偉業を残しています。
帰還したアレクサンドロス大王は、大きく広がった領地の支配大系を模索しつつ、マケドニア人とペルシア人の融和や、文化的な融合などを模索していきますが、その最中に急逝。そして、彼が死の間際に「最強の者が国を継げ」と遺言したことで、マケドニアでは継承者争いが勃発し、彼の築き上げた大王国は、脆くも崩れ去ることになってしまうのでした。
アレクサンドロス大王の年表
紀元前356年 – 0歳「ギリシャ有数のサラブレッドとして誕生」
「ヘラクレスとアキレウスの血を引く子」
アレクサンドロス大王は、紀元前356年に、マケドニア王国を治める国王・ピリッポス2世と、エペイロスの王女であるオリュンピアスの間に生まれました。
父であるピリッポス2世は、ギリシャ神話の英雄であるヘラクレスの血を引くとされる家系の出身。
また、母であるオリュンピアスは、これまたギリシャ神話の英雄であるアキレウスの家系の出身だったため、当時のギリシャ世界における血筋としては、まさに最高峰のサラブレッドだったと言えるでしょう。
後の配下たちと共に、アリストテレスに師事する
アレクサンドロスは、後の配下筆頭であるヘファイスティオンらと共に、かの有名な哲学者・アリストテレスに師事し、16歳まで様々なことを学びます。
その師弟関係はアレクサンドロスの急逝まで続き、アリストテレスは彼に「王としての心構え」を教え続け、アレクサンドロスはアリストテレスに、「遠征先で見つけた動植物のサンプル」を贈って、お互いに交流を深めていたようです。
紀元前336年 – 20歳「王位継承」
父の死により、王位を継承する
この年、マケドニアを治めながらペルシャ王国との全面対決を企てていた父が、暗殺によって死去。アレクサンドロスはその後を継ぐ形で20歳で王位を継承することとなります。
父の生前より、ペルシャ王国との全面対決に積極的だったアレクサンドロスは、王位を継ぐと同時に、マケドニア内部の敵対者の排除に乗り出し、着々と東方遠征への基盤を固めていきました。
紀元前334年 – 22歳「東方遠征、開始」
東方遠征の開始
マケドニア本国を統一し、全ギリシャを手中に収めたアレクサンドロスは、いよいよ本格的に東方遠征に乗り出します。
本国を父の時代からの重臣・アンティパトロスに任せて、東方遠征に乗り出したアレクサンドロス。しかし彼がマケドニア本国の土を踏むことは、もう二度とありませんでした。
グラニコス川の戦い
小アジアへと電撃的に侵攻を開始したアレクサンドロスの軍勢は、グラニコス川近郊にてペルシャ軍と会敵。
アレクサンドロス自ら最前線で敵将を討ち取る活躍をあげ、これによって兵士たちから熱狂的な支持を集めることに成功したアレクサンドロスは、着々と東方への進撃を続けていきます。
紀元前333年 – 23歳「ライバルとの出会い~イッソスの戦い~」
イッソスの戦い
この年に起こったイッソスの戦いは、ペルシャの王であるダレイオス三世が自ら出陣し、「不死隊」と呼ばれる精鋭部隊を含む10万の軍勢でマケドニアを待ち受けるという、かつてない規模の激戦となりました。
しかしアレクサンドロス大王は、兵力では明らかに劣るものの、指揮の高い軍勢と最新の戦術を駆使して立ち回り、見事にペルシャ軍を撃退。これまで無敗を誇っていた「ダレイオス三世自ら指揮するペルシャ軍」が、はじめて敗北する戦いとなりました。
また、この時にアレクサンドロス大王は、ダレイオス三世の母、妻、娘を捕虜としていますが、彼は彼女たちを非常に手厚く扱ったらしく、敵であるダレイオスが「もし私が国を失ったなら、次の王はアレクサンドロスに任せたい」と神に祈ったというエピソードも残されています。
ゴルディアスの結び目
「名言」の項で少しだけ紹介した『ゴルディアスの結び目』のエピソードも、記録上はこの年のエピソードだとされています。
戦場続きの上、負けなしだったダレイオス率いるペルシャ軍に土を付けたアレクサンドロス大王。この頃の彼が「アジアを統べる王になる」という神託を受けるのも、割と納得のいく話のようにも感じられます。
紀元前332年 – 24歳「エジプト征服~アレクサンドリア~」
メリアムン・セテプエンラー
南下してエジプトに侵入したアレクサンドロス大王の軍勢は、割と歓迎される形でエジプトを征服。エジプト人はアレクサンドロス大王を「解放者」として迎え入れ、「メリアムン・セテプエンラー」のファラオ名を与えて神殿に祀ったことが記録されています。
ちなみに大王はここで、「あなたはゼウスの子である」という神託を受けたとも記録されており、なんにせよ「アレクサンドロス大王が神と同一視されるようになった」というのは、この辺りが始まりであるようです。
アレクサンドリアの起こり
エジプトを征服したアレクサンドロス大王は、ナイルデルタの西端に都市を建設し、そこを植民地としました。
この年は、後にアレクサンドロス大王が各地に建設する「アレクサンドリア」という植民都市の元祖とされており、現在のエジプトでも「首都に次ぐ第二の都市」として、非常に発展した姿を見せているようです。
紀元前331~330年 – 25~26歳「ペルシャ王国の滅亡」
ガウガメラの戦い
紀元前331年に、アレクサンドロス大王の軍勢は、ダレイオス三世の率いるペルシャ軍30万と、チグリス川上流のガウガメラにて交戦しました。
ペルシャ軍は15体もの戦象を動員し、戦いは非常に大規模なものになりましたが、この戦いに関しても最新鋭の戦術と、非常に士気の高いアレクサンドロス軍に軍配が。これの敗北によってダレイオス三世はカスピ海方面に撤退し、ペルシャ王国はもはや滅亡を免れない状況に陥ります。
そして、アレクサンドロス大王はそのままペルシャの首都方向へ侵攻。ウクシオンとペルシス門でペルシャ軍を破り、ペルセポリスを徹底的に破壊したことで、ここにペルシャ王国は滅亡を迎えることになりました。
ダレイオス三世のその後
ペルシャ滅亡後も生き延びていたダレイオス三世でしたが、アレクサンドロス大王のペルシャ征服の翌年、追撃から逃走している最中に、腹心だったベッソスによって暗殺されてしまいます。
暗殺によって生涯を閉じたライバルに対して、アレクサンドロス大王は彼の亡骸を丁重に葬り、ベッソスを追討して公開処刑に処するなど、厳しい対処を行いました。戦場でしのぎを削ったもの同士、もしかすると友情にも似た感情があったのかもしれませんね。
紀元前329年~326年 – 27~30歳「続く進撃~中央アジア、そしてインドへ~」
中央アジアへの進撃
ペルシャ王国の領土を手中に収めたアレクサンドロス大王は、いよいよ中央アジアへ進軍。しかし、勢力としては小粒ながら好戦的な諸部族からの抵抗にあい、この時期には決定的な敗戦こそしないものの、若干苦戦をすることが増えてきています。
そして、そんな苦戦が増えた現状と、あまりにも長すぎる遠征期間は配下の将兵たちを疲れさせてしまい、この時期からアレクサンドロス大王の進軍には、若干の向かい風が吹き始めることになるのです。
インド遠征と、決定的な”翳り”
若干の士気の低下がありながらも勝利を収め、インドへの進軍を始めたアレクサンドロス大王。彼はここでも勝利をおさめ続けますが、配下の将兵たちはもはや限界を迎えていました。
そしてここで決定的な事件が。
ペルシア征服後、アレクサンドロス大王はペルシャの文化を積極的に取り入れ過ぎたことで、一部の将兵から反感を持たれていました。そして彼はあろうことか、ペルシャとの融和政策について口出しをしてきた臣下・クレイトスを、カッとなって殺害してしまうのです。
クレイトスを殺し、冷静になったアレクサンドロスは深く悲しんだようですが、それはもう後の祭り。アレクサンドロス大王の威光は、既にゆっくりと翳りはじめていました。
紀元前326年 – 30歳「夢の終わり~遠征終結~」
遠征終了
限界を超えた将兵たちを何とか鼓舞しながら、インド中央部まであと一歩と迫ったアレクサンドロス大王ですが、ここで完全に限界が来てしまいます。
古参の老将・コイノスに「このあたりでいったん帰りましょう」と進言されたことや、占星術師に「これ以上の進軍は不吉」と占われたこともあり、アレクサンドロス大王は不承不承ながら軍を引き上げることを決定しました。
「世界の果てを目指す」ようなアレクサンドロス大王の遠征は、志半ばで終わることとなってしまったのです。
紀元前323年 – 32歳「メソポタミア地方・バビロンにて急逝」
征服した地域の融和を図る
征服したメソポタミア地域の古都・バビロンへ戻ったアレクサンドロス大王は、広げに広げた領地を、ペルシャ、マケドニア、ギリシアの三地域に再編し、同君連合の形で統治する構想を打ち立てました。
また、アレクサンドロス大王はギリシア文化とペルシャのオリエント文化の融和も推進しており、これは後に「ヘレニズム文化」として、”サモトラケのニケ”、”ミロのヴィーナス”などの芸術の形で結実しています。
しかし、少々急進的かつ、見ようによっては「ペルシャ贔屓」と取られかねない政策だったため、古参の将兵からの受けはあまり良くなく、政策の推進は若干難航していたようです。
祝宴の最中、熱に倒れて急逝
こうして統治政策を次々打ち出しながら、次はアラビア半島方面への遠征を企画していたアレクサンドロス大王は、祝宴の最中に突如として昏倒。そのまま数日間高熱に苦しんだ末、32歳で帰らぬ人となりました。
彼の死後、広範なマケドニア王国は分裂し、様々な国や王朝となって歴史上に名を残すことになります。彼の築いた広大な版図こそ維持できなかったものの、彼の功績は未来永劫にわたって、様々な地域に影響を与え続けているのです。
アレクサンドロス大王の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
図説 アレクサンドロス大王 (ふくろうの本)
アレクサンドロス大王の足跡が、写真や図で非常にわかりやすく示されている良書です。
若干駆け足気味な部分もありますが、全体的に非常にわかりやすい本のため、「アレクサンドロス大王を知るには、まずはこれ!」とおすすめしたい一冊になっています。
Fate/Zero
アレクサンドロス大王をモチーフにした「征服王イスカンダル」というキャラクターが登場する物語。創作ではありますが、非常に説得力のあるキャラクター設定がされていて、「アレクサンドロス大王」という人物の魅力にどっぷりハマるきっかけとなり得る作品です。
「興味はあるけど、いきなり学術的な部分はちょっと……」という方にこそお勧めしたい、スペクタクルエンターテイメントとなっています。
おすすめの映画
アレキサンダー
正直なところ、下手に文章でアレクサンドロス大王の生涯を追うよりも、まずはこの作品に触れた方が、あらゆる意味で分かりやすいとすら思える作品です。
アレクサンドロス大王の生涯のほぼ全てを網羅して映像化しているため、伝記として楽しめるのももちろんですが、古代の文化的な描写も多々あるため、非常に広範囲にわたって「勉強になる」作品です。
関連外部リンク
アレクサンドロス大王についてのまとめ
紀元前300年代という超古代でありながら、日本列島約15個分の面積を鮮やかに侵略し、文字通りの「世界征服」すら成し遂げかけた大王・アレクサンドロス。
あまりに偉大過ぎる生涯のため、まぁかなり長めの記事になってしまいましたが、実はこれでもかなり削った方。彼の生涯や人物像にフォーカスした記事にしましたが、彼の死後のマケドニア王国の動きなんかも、実はこれだけで記事一本ぐらいは書けてしまいそうな面白い部分だったりします。
ともあれ、彼が世界史上のどの分野に対しても影響を与えた、偉大な大王であることだけは何があろうと変わりません。皆さんもそれぞれに様々な分野に関心があってこのサイトをご覧いただいていると思いますが、どうかこのサイトをぐるっと周遊した時に「これもアレクサンドロス関係!?」と驚いていただければと思います。
それでは、長い記事にお付き合いいただきまして、まことにありがとうございました!