アレクサンドロス大王とはどんな人物?生涯・年表まとめ【性格や名言、死因など紹介】

アレクサンドロス大王の名言

挑戦を続ける限り、我らにできないことはない

名言としてはよくある「諦めなければ夢は叶う」というタイプの名言ですが、アレクサンドロス大王が口にすると、正直説得力が違う言葉です。

私は勝利をくすねるような真似はしない

夜襲を進言してきた配下に対しての言葉だと言われています。

一見すると彼の「正々堂々とした人柄」を示す発言のようですが、実際は彼の「類稀な戦術眼」を示す言葉だと言える名言です。

この言葉を言ったアレクサンドロス大王は、敵軍と睨み合っている状況下で悠々と眠りこけ、夜襲を警戒して翌朝には疲れ切っていた敵軍を、次の日の朝にはなぎ倒すように叩き潰していったと言われています。

運命とは伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものである

「解いた者がアジアの王になる」という伝説を持った”ゴルディアスの結び目”を、剣で叩き切った時の発言です。

結び目を”解く”のではなく”切る”という斬新な解決方法は、現在でも「難題を思いもよらない方法で解く」という意味の故事成語『ゴルディアスの結び目』として語り継がれています。

アレクサンドロス大王が影響を受けた、与えた人

アレクサンドロス大王は、実はかなり多くの人物から多大な影響を受けています。多くの人や伝承から素直に学ぶことができる気質が、彼を「大王」と呼ばれるまでに押し上げたのかもしれません。

アレクサンドロス大王が「最高の師」と尊敬した哲学者・アリストテレス

例えば、幼い頃から16歳まで教育を受けたアリストテレスに関しては、生涯にわたって「最高の師」と尊敬し続け、死ぬまで師弟関係を継続し続けたことが記録されています。

他にも、父の祖先であるヘラクレスや、母の祖先であるアキレウスに対してのリスペクトもかなり強かったようで、現代風にいう所の「聖地巡礼」のような物見遊山をしているなど、かなり現代的な感性を持った人物でもあったようです。

また、「歴史上最も成功した軍司令官」という評価を受けているだけに、多くの歴史上の偉人たちが、アレクサンドロス大王の行動や戦略を参考にしている記録が残っています。

特にハンニバル・バルカ、ガイウス・ユリウス・カエサルナポレオン・ボナパルトあたりは、明らかにアレクサンドロス大王に関する記録を参考にしている部分が見られ、それだけでも彼の影響力が凄まじいものであったことを読み取ることができるでしょう。

アレクサンドロス大王にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「人類最初の聖地巡礼(オタク的な意味で)」

アキレウスの像

アレクサンドロス大王は、母の祖先であるアキレウスを非常に強く尊敬していたらしく、彼が描かれるギリシア抒情詩『イーリアス』の大ファンだったと伝えられています。

そのリスペクトぶりは現代でいう所の「行動派オタク」のそれだったようで、「戦場で『イーリアス』に描かれたアキレウスの言動を真似する」「遠征中、各地に残るアキレウスゆかりの地を巡ってはしゃぐ」など、中々微笑ましいエピソードも数多く残されているようです。

優秀な軍司令官としての一面が大きくクローズアップされやすいアレクサンドロス大王ですが、実は人間らしい、というよりオタクっぽい部分も多く含んだ人物だったと言えそうですね。

都市伝説・武勇伝2「インド神話の神のモデル!?」

「アレクサンドロス大王をモデルにした」と噂された、インド神話のスカンダ神

世界史上最も成功した軍司令官」として名高いアレクサンドロス大王は、その成功ぶりからか「神のモデルになった」とも噂されています。インド神話の神であり、仏教では「韋駄天」として伝わるスカンダ神などは、一時期は本気で「アレクサンドロス大王をモデルにした伝説」と信じられていました。

ですが、インド神話の成立年はアレクサンドロス大王が活躍した時代よりも古いため、これに関しては事実無根だと言わざるを得ません。とはいえ、彼が「神のモデル」と勘違いされるほど鮮烈な活躍を残したことは、疑いようのない事実でもあります。

実際にアレクサンドロス大王は、そのあまりの功績に「ギリシャの神々に加えるべきか」と”生前に”本気で議論をされてもいます。「流石に生者を神の列に加えるのは……」ということで流石に取りやめになったようですが、アレクサンドロス大王が”神”と同一視されるほどの人物だったことは、これらのエピソードを見ただけでも十分理解いただけるかと思います。

都市伝説・武勇伝3「アレクサンドロス大王の死は予言されていた!?」

死にゆくアレクサンドロス大王を模した像

アレクサンドロス大王は、バビロンに帰還した後に32歳の若さでこの世を去りました。しかし、遠征軍がインドにいた頃、同行していたカラノスというヒンドゥー教のバラモン僧が、アレクサンドロス大王の死を予言していたのです。

当時、カラノスは遠征の疲労によって衰弱しており、焼身自殺をしようと考えていました。これに対し、アレクサンドロス大王は早まらないよう説得しましたが、最終的にはカラノスの願いを聞き入れて火葬台を建設。その後、カラノスは多くの人に囲まれながら自殺したのです。

そして、カラノスは焼け死ぬ直前に、アレクサンドロス大王に対して「我らはバビロンで会うだろう」という最期の言葉を残しました。しかし、この時点でアレクサンドロス大王がバビロンへ帰還する予定は無かったため、当時は誰もカラノスの遺言の意味を理解できなかったのです。

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