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司馬遼太郎とはどんな小説家?性格や子孫、死因、おすすめ作品も紹介

皆さんは、司馬遼太郎という名前を聞いたことがありますでしょうか。司馬遼太郎がどんな人か一言で言ってしまうと、日本が生んだ偉大な歴史小説家です。

司馬遼太郎という名前を知らなくても、もしかしたら「燃えよ剣」や「竜馬がゆく」、「坂の上の雲」などの作品名を聞いたことがある人も多いかもしれません。NHKの大河ドラマの原作としても、司馬遼太郎の「功名が辻」や「国盗り物語」といった作品が採用されています。

司馬遼太郎の肖像

司馬遼太郎は、たくさんの歴史小説を残しました。では、たくさんいる歴史小説家の中で、なぜ司馬遼太郎はこんなにも人気なのでしょうか。それは、司馬遼太郎にしかできない歴史の切り取り方にあります。

この記事ではそんな司馬遼太郎の生涯を年表でまとめると共に、代表作品や名言などその全てを紹介していきます。

司馬遼太郎とはどんな人?生涯をダイジェスト

名前司馬遼太郎
(本名:福田 定一)
誕生日1923年8月7日
没日1996年2月12日
生地大阪市
没地大阪市
配偶者松見みどり
埋葬場所京都市東山区

司馬遼太郎は本名を福田定一といいます。1923年に大阪で生まれ、大学在学中に太平洋戦争で学徒出陣を経験しました。戦後に新聞社へ入社するも、小説家になる夢を叶えようと文学賞に応募。見事選ばれて小説家デビューを果たします。

「梟の城」などを執筆していた当時に使っていた文机
出典:東大阪経済新聞

「梟の城」が第42回直木賞を受賞したことで新聞社も退社し、小説家一本で生計を立てるようになります。「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「坂の上の雲」といった今も語り継がれる名作を数多く世に送り出しました。その功績が認められ、1993年に文化勲章を受賞しました。

「竜馬がゆく」の自筆原稿
出典:毎日新聞

1996年、司馬遼太郎は病により息を引き取りました。亡くなる前の10年はすでに小説の執筆はしておらず、日本の行く末が気になり、そうした内容の随筆や紀行文だけを勢力的に書いていました。その遺言のようなエッセイは、今も私たちに日本という国の形を考えるきっかけを与えてくれています。

司馬遼太郎の性格や家族、死因

明るかった遼太郎の性格

司馬遼太郎の写真

司馬遼太郎の性格は明るかったそうです。一方で、学校は嫌いで、悪ガキであったとも言われています。いわゆるガキ大将みたいなものですね。

一方で、司馬遼太郎は子供頃から本の虫でもありました。外で遊ぶだけではなく、たくさんの本も読んでいたんですね。たくさんの本から得られた知識が、著作にも生きているのだと思われます。

歴史小説家になった原点とは?

関東軍が暴走してソ連・モンゴル連合軍と戦闘を行い、壊滅的な敗北を喫したノモンハン事件
出典:wikipedia

司馬遼太郎が日本史に関心を持ったきっかけは、1939年に起きた満州国とモンゴルの国境紛争であるノモンハン事件でした。まだ学生だった司馬遼太郎は、日本はなぜこんな愚かな戦争をしているのか、日本とは何だろうかと考え始めます。

サイパンに今も残る日本軍の戦車
出典:時事ドットコム

そして自分が学徒出陣で招集され、配属された戦車部隊が、ノモンハン事件に関与していた可能性を知り、その疑問は一気に身近なものへと引き寄せられたのです。終戦を迎え、「なぜこんなことになってしまったのか」という気持ちが、小説家の原点でした。

しかし司馬遼太郎は、日本史を遡っていくと、全ての歴史が悪かったわけではないと考えるようになります。明治時代、江戸時代、それ以前の日本はそこまで愚かな国ではなかったということを検証するために、司馬遼太郎は数多くの小説を執筆していくのです。

司馬遼太郎の二人の妻たち

司馬遼太郎は2度結婚しています。一度目の妻は雅子といい、薬剤師をしていました。お見合いで出会い1950年に結婚します。1952年に長男が生まれましたが、1954年に協議離婚しています。

文化勲章を受賞した際の、司馬遼太郎夫妻
出典:zakzak

二度目の妻が松見みどりです。司馬遼太郎と同じく産経新聞の記者をしており、恋愛結婚でした。みどりは結婚後に退職し、司馬遼太郎の作家生活を生涯支えました。司馬遼太郎の他界後には司馬遼太郎記念財団を設立し、理事長に就任しています。2014年に亡くなりました。

長らく公表されなかった息子

司馬遼太郎の最初の妻と長男については、長らく公表されていませんでしたが、司馬遼太郎の没後に遺産の一部が長男に渡ったことが明らかになり、その存在が知られるようになりました。長男は父母の離婚後、親権を持つ司馬遼太郎が引き取りましたが、親子では生活せず、司馬遼太郎の両親に預けられて育ちました。

司馬遼太郎の執筆風景(1968年9月)
出典:毎日新聞

司馬遼太郎は、長男の養育費は払っていたようでしたが、父子でともに暮らすことは一度もなく、息子は成人して教師となりました。司馬遼太郎が一度結婚に失敗していることや息子がいることについては、今も公の年表では触れられていません。

司馬遼太郎が影響を与えた人

司馬遼太郎に影響を受けた一人

司馬遼太郎に影響を与えられたと公言する有名人は数え切れません。例えば、ピースの又吉直樹さん、女優の杏さんなどは、司馬遼太郎のファンであることを公言しています。また、ソフトバンクを作った孫正義さんも、司馬遼太郎に大きな影響を受けたと語っています。

司馬遼太郎は、多くの著名人に影響を与えた人と言って良いでしょう。もちろん、著名人だけではなく、皆さんの周りにも司馬遼太郎から影響を受けたと言う人はたくさんいると思いますよ。

司馬遼太郎の死因

司馬遼太郎の訃報を伝える新聞
出典:人の土俵で褌を取る

司馬遼太郎の死因は、腹部大動脈瘤破裂と言われています。亡くなったのは1995年ですが、その1年以上前から坐骨神経痛や足の痛み、腰痛に悩まされていました。しかし医者が嫌いであった司馬遼太郎は、診察を受けずに時を過ごしてしまいます。2月10日、歯磨き中に倒れて病院へ搬送され、12日に他界しました。

近代軍制の創始者と言われる大村益次郎
出典: Visit Chiyoda

司馬遼太郎が息を引き取ったのは国立大阪病院(現在の国立病院機構大阪医療センター)です。ここは司馬遼太郎の傑作としても名高い歴史小説「花神」の主人公である大村益次郎が、襲われて瀕死の重症となって運び込まれるも、命を落とした場所でもありました。

司馬遼太郎の功績

功績1「数多くの名作を残した」

司馬遼太郎の代表作「燃えよ剣」

司馬遼太郎は、日本の小説史上に名前が残る名作をたくさん生み出しました。例えば、代表作である「竜馬がゆく」は2125万部も売れています。100万部売れた作品はベストセラーと呼ばれますが、その20倍以上も売れているのです。どれだけ人気かわかりますね。

それ以外にも、「坂の上の雲」は1475万部。「翔ぶが如く」1070万部も売れています。司馬遼太郎は、たくさんの小説を残しましたが、その多くはベストセラーとなっています。司馬遼太郎の小説の累計販売数は2億冊とも言われ、この数字からも日本屈指の人気小説家と言えるでしょう

さらに、様々なドラマや映画の原作としても採用され「燃えよ剣」はV6の岡田くんが主演で2020年に公開予定です。NHKの大河ドラマの原作にもなり「功名が辻」は仲間由紀恵さん主演で大ヒットしましたね。

功績2「新しい歴史観を生み出した」

司馬遼太郎の歴史観

司馬遼太郎は、日本人の歴史観に大きな影響を与えた人物と言われています。司馬遼太郎の歴史観は、「司馬史観」と呼ばれ、司馬遼太郎の歴史解釈により、歴史上の登場人物たちを生き生きと色づけて描いています。

知らず知らずのうちに、司馬遼太郎の歴史観に多くの人が触れています。例えば、新選組が正義のヒーローのような扱いになったのも司馬遼太郎の影響が大きいと言われています。それまで、新選組はどちらかというと極悪非道人のような扱いだったのですが、新選組の「義」の力強さを司馬遼太郎が小説で描いたことにより、日本人の新選組に対する評価は変わりました。

また、坂本龍馬も司馬遼太郎により日本人に知れ渡った一人と言えるでしょう。坂本龍馬が活躍する「竜馬がゆく」は司馬遼太郎最大のヒット作ですが、この作品を通して幕末における坂本龍馬の大活躍を多くの人が知ることになりました。

功績3「25年にわたり歴史紀行文を連載した」

「街道をゆく」は須田剋太による味のある挿絵も人気がある。
出典:街道をゆく 須田剋太 挿絵原画展

司馬遼太郎は1971(昭和46)年より、週刊誌「週刊朝日」にて「街道をゆく」という紀行文の読切連載を始めました。43冊目となった「濃尾参州記」は司馬遼太郎の突然の死により未完に終わっています。

「街道をゆく」は、その名の通り街道を進みながら、その土地の風土や暮らし方に触れて、時間を自由に行き来しながら司馬遼太郎の思索をたどることのできる紀行文です。日本国内だけでなく、アイルランドやオランダ、モンゴルなどへも足を伸ばしています。1984年に刊行された「南蛮のみちI」で日本文学大賞学芸部門を受賞しました。

書籍としてシリーズ本全てが刊行されているほか、NHKでドキュメンタリー番組として放送され、DVD化されています。

功績4「日本という国について定義した」

日本文学研究者のドナルド・キーン(1922〜2019)
出典:千代田区立図書館

司馬遼太郎は最晩年において、今までの小説執筆を通じて考えた日本という国のことや日本人について、数多く書き残しました。ドナルド・キーンや井上ひさしといった著名人と、日本をテーマにした対談をまとめたものも多く出版されています。

第4代中華民国総統・李登輝と司馬遼太郎の対談は「街道をゆく 台湾紀行」に収められている。
出典:wikipedia

歴史家の磯田道史は、司馬遼太郎のことを「歴史を作る歴史家」と称していますが、司馬遼太郎はその作品で読み手の心を動かし、新たな時代の歴史に影響を与えることのできる稀有な小説家でした。そのため、司馬遼太郎の語る日本という国のかたちや日本人の定義は、今でも多くの日本人に新たな思索を投げかけるものとなっています。

司馬遼太郎の代表作品

国盗り物語

国盗り物語は、美濃の英雄である斎藤道三をテーマに書かれた歴史小説です。斎藤道三は、戦国時代の中でも「下克上(げこくじょう)」という言葉が最も当てはまる人物かもしれません。ただの商人であった斎藤道三は、最終的に一国一城のある時まで上り詰めます。斎藤道三がどうやって大名に上り詰めたのか、司馬遼太郎の切り口でいきいきと描かれる名作小説です。

坂の上の雲

坂の上の雲は、日露戦争に挑む日本を舞台に、日本騎兵の父である秋山好古と、バルチック艦隊を打ち破った秋山真之、そして明治の文学史に名を残す正岡子規をテーマに描かれた歴史小説です。物語は、この3人の学生時代から始まり、彼らがいかにして明治の時代を生きて、日露戦争でロシアを破るに至るかを、司馬遼太郎の豊富な見識をベースに描いた一作です。

燃えよ剣

燃えよ剣は、新選組の土方歳三を主人公に、幕末の動乱期を描いた一作です。農民や流浪人乗集まりであった試衛館の面々が、どのようにして新選組で活躍するまでに至ったのかを描いた名作です。私の友人の中には、燃えよ剣を読んで剣道を始めた人もいるくらい、影響を与えてくれる一冊といえます。

竜馬がゆく

「竜馬がゆく」は幕末の志士・坂本龍馬の人気を押し上げた、司馬遼太郎の代表作の一つです。何度もドラマ化されているほど、そのストーリーは親しみやすく、楽しげな人物がたくさん登場します。司馬遼太郎の作品を初めて読む人にはもちろん、小学校高学年の子供でも十分楽しめます。

坂本龍馬の功績については、創作なのか史実なのかわからない部分も多いです。しかしこの作品は、そうしたことはさておき、幕末という激動の時代を20代の若者がどれだけエネルギッシュに生きていたかを感じることができるという点で、魅力があると思います。

項羽と劉邦

「項羽と劉邦」は楚の項羽と漢の劉邦との攻防の物語です。部下を持つ中高年のビジネスマン必読の書とも言われ、人望を得る将とはどういうものなのかを考えさせられます。

また、「項羽と劉邦」といえば、四面楚歌や背水の陣といった有名な故事が生まれた作品でもあり、高校の漢文の授業で頻出の文章も多いです。そういった意味でも、高校生にぜひおすすめしたい小説です。

街道をゆく

「街道をゆく」は司馬遼太郎の紀行文で、全部で43巻あります。どれも甲乙つけがたい魅力がありますが、33巻「白河・会津のみち、赤坂散歩」は、司馬遼太郎が何度も小説で書いている会津への深い同情が溢れていて、とても印象的でした。

一緒に収録されている「赤坂散歩」には、徳川吉宗、勝海舟、乃木希典、高橋是清という時代の違う人々が赤坂という場所を通して語られており、時空を操る司馬遼太郎ならではの作品です。

司馬遼太郎のおすすめ本・小説21選【代表作品から隠れた名作まで】

司馬遼太郎の名言

君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない

この名言は、司馬遼太郎が大阪市の小学生にむけて贈った「21世紀に生きる君たちへ」という文章の中の一説です。この文章の中で、司馬遼太郎は人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえを語っています。

この文章は、力強く生きることの大切さを教えたいという司馬遼太郎の思いが伝わってくる文章です。

一生というものは、美しさを作るためのものだ、自分の。そう信じている

この文章は、司馬遼太郎の名著「燃えよ剣」からの出典です。これは、燃えよ剣の主人公である土方歳三の言葉で、武士として生きる新選組の思いを伝えているものです。自分の人生はお金を稼ぐことや偉くなって地位を得ることではない。美しく生きるのだという幕末期の思想が伝わってきます。

何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。

この言葉は、「竜馬がゆく」の中の坂本龍馬のセリフです。幕末という激動の時代を生きた坂本龍馬が、常に変化や選択を迫られる中で発した言葉です。

日本初の株式会社を作ったり、日本で初めて新婚旅行にでかけたりと、常人の発想では及びがつかない坂本龍馬の、どうせ人間最後は死ぬのだから、なんでもやってみるのである、という思いが込められている言葉です。

司馬遼太郎にまつわる逸話・伝説

逸話・伝説1 もののけ姫は司馬遼太郎が生んだ!?

司馬遼太郎もが生んだもののけ姫

司馬遼太郎は、実はアニメ作品にも興味があったようです。司馬遼太郎は、特にアニメ監督の宮崎駿監督の作品の「ルパン三世 カリオストロの城」や「となりのトトロ」を高く評価していたとのことです。

宮崎駿監督と司馬遼太郎は対談も行っています。その対談の際に、司馬遼太郎が新聞記者だったときに宿で経験した奇妙な体験を聞いた宮崎駿監督が、その話をもとに「もののけ姫」を着想した、と言われています。

日本の著名人物が、意外なところでつながっていたのですね。もののけ姫は、司馬遼太郎がいなかったら生まれなかった作品かもしれません。

逸話・伝説2 太陽の塔を生んだのも司馬遼太郎だった!?

太陽の塔

大阪万博の際に芸術家の岡本太郎が作った「太陽の塔」。特に関西圏の方には馴染みが深いかもしれません。実は、太陽の塔も司馬遼太郎に関係があるのです。

日本で万博が開催されることになり、万博を開催する協会は、岡本太郎に大阪万博のプロデューサーに就任するように打診しました。悩んだ岡本太郎は、信頼していた司馬遼太郎へ相談に行きました。司馬遼太郎は、その相談を受けると「ぜひやったほうがいい」と岡本太郎にアドバイスをしました。

その結果、岡本太郎は大阪万博のプロデューサーに就任することになり、今でも残る芸術作品である太陽の塔が生み出されたのです。

逸話・伝説3 本が多すぎて家の床が抜けた?

司馬遼太郎の書斎
出典:司馬遼太郎記念館

司馬遼太郎は、作品を書く前に膨大な資料を読み込んでいたことで知られています。そのため、家の蔵書の数は半端なものではなく、結婚当初に住んでいたアパートは床が抜けるのではないかと心配になり、一軒家に引っ越しをしています。

司馬遼太郎記念館では、その尋常でない数の蔵書がずらりと並んでいる様子を、実際に見ることができるようになっています。

司馬遼太郎の簡単年表

1943年
学徒出陣で戦争へ行く

司馬遼太郎がまだ学生だった21歳のとき、いよいよ戦争の状況は悪化していました。そして、学生の司馬遼太郎も戦争にいくことになります。司馬遼太郎は満州に行くことになりますが、終戦時には日本に戻り、栃木県で終戦を迎えることになります。このときの戦争体験が、司馬遼太郎の著作に大きな影響を与えることになったのでした。

1960年 - 48歳
「梟の城」にて直木賞を受賞する

司馬遼太郎は大学を卒業後、新聞社に勤めることになります。新聞社に務める傍ら、小説を書き続けた司馬遼太郎ですが、48歳のときに梟の城でついに直木賞を受賞し、名実ともに売れっ子作家の仲間入りをしました。

1966年
「竜馬がゆく」と「国盗り物語」で菊池寛賞を受賞する

さらに、司馬遼太郎は54歳のときに竜馬がゆくと国盗り物語で、菊池寛賞を受賞します。竜馬がゆくは司馬遼太郎を代表する著作で、坂本龍馬が日本人の心に根付くきっかけとなった一作です。この頃出版した著作はすべてタイヒットし、日本でも1,2を争うような大作家となりました。

司馬遼太郎の年表

1923年 – 0歳「司馬遼太郎、生まれる」

子供時代のイメージ

大阪で生まれた司馬遼太郎

司馬遼太郎は、1923年に大阪府で生まれました。司馬遼太郎が生まれたときは、大正デモクラシーの時代で、日本がどんどん近代化していっていたときでした。

父は薬局を経営する薬剤師でした。また、司馬遼太郎には兄がいましたが、司馬遼太郎が2歳のときになくなってしまいました。それ以外に、姉と妹が一人ずついました。司馬遼太郎は生まれつき体が強くなく、脚気のために3歳まで環境の良い奈良県の母の実家で過ごしました。

1946年 – 23歳「新聞社に就職する」

新聞社に就職する

終戦後、新聞社へ就職

戦争も終わり、軍隊から開放された司馬遼太郎は、大阪にあった新世界新聞社へ入社します。しかし、肌が合わなかったのかすぐに退職し、今度は新日本新聞社に入社することになります。

そうやって入社した新日本新聞社ですが、司馬遼太郎が入社した2年後になんと倒産してしまいます。失意に暮れる司馬遼太郎でしたが、たまたま知り合った産経新聞の社員に入社を誘われます。「英語はできるか?」と聞かれた司馬遼太郎は、実は全く英語ができないのにもかかわらず「できます」と答え、入社が決定します。

小説家への目覚め

こうやって産経新聞に入社した司馬遼太郎でしたが、司馬遼太郎としては小説家への夢を持っていたようで、このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになったそうです。

その後、大阪本社へ異動になった司馬遼太郎は、京都の寺社周りや京都大学を担当することになります。そして、お寺で不思議な僧侶らと出会ったり、京都大学で学者の先生に取材するなどした経験を得ることになります。その内容は、後に司馬遼太郎が執筆したエッセイの中で克明に描かれています。

1956年 – 33歳「小説家としてデビュー」

司馬遼太郎、小説家になる

賞への応募をきっかけに小説家への道へ

司馬遼太郎は、1956年に「ペルシャの幻術師」を執筆し、講談倶楽部賞に応募し、見事受賞します。このときに、初めて司馬遼太郎のペンネームを使ったといいます。これがきっかけで、司馬遼太郎は世に出ることになりました。

梟の城で人気作家の仲間入り

その後も作品を発表し続けた司馬遼太郎でしたが、ついに出世作である「梟の城」を発表します。この作品が第42回直木賞を受賞することになり、受賞の翌年には産経新聞社を退職し、作家生活に入ることになりました。

1993年 – 69歳「文化勲章を受賞」

文化勲章受賞者に与えられる勲章

これまでの功績が認められる

司馬遼太郎は、その後も数々の人気作品を発表し続けることになります。 1981年に日本芸術院会員となり、さらに1991年には文化功労者となります。そして1993年には、これまでの功績が認められ、優れた文化功績を残した方に贈られる文化勲章を受章することになります。小説家でこの賞を他に受賞したのは川端康成や吉川英治など、ごく限られた人だけです。

1996年 – 72歳「司馬遼太郎、亡くなる」

病院のイメージ

体の変調があらわれはじめる

文化勲章を受賞し、名実ともに超一流の小説家となった司馬遼太郎ですが、70歳を過ぎたあたりから腰に痛みを覚えるようになりました。単純な腰痛だと思っていましたが、実は腹部の大動脈瘤を患っていました。その中でも、精力的に執筆を続けた司馬遼太郎は、晩年においても多くの著作を残しました。

突然の訃報

1996年の2月10日に司馬遼太郎は吐血して倒れてしまいます。司馬遼太郎は、大阪市中央区の国立大阪病院に入院し、必死の治療を受けますが、日後の2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため亡くなりました。72歳でした。3月10日には、大阪市内のホテルで「司馬遼太郎さんを送る会」が行われ、司馬遼太郎を惜しんだ約3000人が参列しました。

亡くなったあとも、司馬遼太郎は著作という形で、今なおたくさんのものを我々に与え続けてくれています。

司馬遼太郎の関連作品

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【司馬遼太郎・シンポジウム】『人は変革期にどう生きるか』

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今だからこそ、今一度、司馬遼太郎氏の言葉に耳を傾けたい

こちらは、司馬遼太郎が文化功労賞を受賞したときの会見映像です。この映像の中で、司馬遼太郎はどんな思いを持って執筆を行ってきたかを語っています。その中で、司馬遼太郎は22歳の自分に贈るように作品を執筆していると語っています。司馬遼太郎22歳のときといえば、太平洋戦争が終戦したときです。戦争は、司馬遼太郎の思想に大きな影響を与えたのでしょうね。

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関ヶ原

司馬遼太郎の名著、「関ヶ原」を映画化した作品です。出演はV6の岡田准一さんと女優の有村架純さんです。歴史が動いた瞬間を、豪華な出演陣が名演している素晴らしい作品ですよ。

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NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲

もう一つ紹介するのは、NHKが作成したスペシャルドラマ「坂の上の雲」です。坂の上の雲は、日本に騎兵を導入し、バルチック艦隊を打ち破った秋山兄弟について描いた作品です。このドラマも素晴らしいので、ぜひ見てみてください。

関連外部リンク

司馬遼太郎についてのまとめ

この記事では、司馬遼太郎についてまとめてきました。司馬遼太郎は、大ヒット作家というだけではなく、日本人の歴史観に大きな影響を与えた人物ということですね。

筆者も司馬遼太郎の作品は大好きです。これからも、司馬遼太郎の作品は時を越えて読みつがれていくのでしょう。この記事を読んで、司馬遼太郎に興味をもたれた方は、ぜひ一冊読んでみることをおすすめします。

この記事の内容がしっかり理解できたかクイズでおさらいしてみてください!

【司馬遼太郎クイズ#1】歴史に新たな息吹を吹き込んだ小説家。

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