司馬遼太郎にまつわる逸話・伝説
逸話・伝説1 もののけ姫は司馬遼太郎が生んだ!?
司馬遼太郎は、実はアニメ作品にも興味があったようです。司馬遼太郎は、特にアニメ監督の宮崎駿監督の作品の「ルパン三世 カリオストロの城」や「となりのトトロ」を高く評価していたとのことです。
宮崎駿監督と司馬遼太郎は対談も行っています。その対談の際に、司馬遼太郎が新聞記者だったときに宿で経験した奇妙な体験を聞いた宮崎駿監督が、その話をもとに「もののけ姫」を着想した、と言われています。
日本の著名人物が、意外なところでつながっていたのですね。もののけ姫は、司馬遼太郎がいなかったら生まれなかった作品かもしれません。
逸話・伝説2 太陽の塔を生んだのも司馬遼太郎だった!?
大阪万博の際に芸術家の岡本太郎が作った「太陽の塔」。特に関西圏の方には馴染みが深いかもしれません。実は、太陽の塔も司馬遼太郎に関係があるのです。
日本で万博が開催されることになり、万博を開催する協会は、岡本太郎に大阪万博のプロデューサーに就任するように打診しました。悩んだ岡本太郎は、信頼していた司馬遼太郎へ相談に行きました。司馬遼太郎は、その相談を受けると「ぜひやったほうがいい」と岡本太郎にアドバイスをしました。
その結果、岡本太郎は大阪万博のプロデューサーに就任することになり、今でも残る芸術作品である太陽の塔が生み出されたのです。
逸話・伝説3 本が多すぎて家の床が抜けた?
司馬遼太郎は、作品を書く前に膨大な資料を読み込んでいたことで知られています。そのため、家の蔵書の数は半端なものではなく、結婚当初に住んでいたアパートは床が抜けるのではないかと心配になり、一軒家に引っ越しをしています。
司馬遼太郎記念館では、その尋常でない数の蔵書がずらりと並んでいる様子を、実際に見ることができるようになっています。
司馬遼太郎の簡単年表
司馬遼太郎がまだ学生だった21歳のとき、いよいよ戦争の状況は悪化していました。そして、学生の司馬遼太郎も戦争にいくことになります。司馬遼太郎は満州に行くことになりますが、終戦時には日本に戻り、栃木県で終戦を迎えることになります。このときの戦争体験が、司馬遼太郎の著作に大きな影響を与えることになったのでした。
司馬遼太郎は大学を卒業後、新聞社に勤めることになります。新聞社に務める傍ら、小説を書き続けた司馬遼太郎ですが、48歳のときに梟の城でついに直木賞を受賞し、名実ともに売れっ子作家の仲間入りをしました。
さらに、司馬遼太郎は54歳のときに竜馬がゆくと国盗り物語で、菊池寛賞を受賞します。竜馬がゆくは司馬遼太郎を代表する著作で、坂本龍馬が日本人の心に根付くきっかけとなった一作です。この頃出版した著作はすべてタイヒットし、日本でも1,2を争うような大作家となりました。
司馬遼太郎の年表
1923年 – 0歳「司馬遼太郎、生まれる」
大阪で生まれた司馬遼太郎
司馬遼太郎は、1923年に大阪府で生まれました。司馬遼太郎が生まれたときは、大正デモクラシーの時代で、日本がどんどん近代化していっていたときでした。
父は薬局を経営する薬剤師でした。また、司馬遼太郎には兄がいましたが、司馬遼太郎が2歳のときになくなってしまいました。それ以外に、姉と妹が一人ずついました。司馬遼太郎は生まれつき体が強くなく、脚気のために3歳まで環境の良い奈良県の母の実家で過ごしました。
1946年 – 23歳「新聞社に就職する」
終戦後、新聞社へ就職
戦争も終わり、軍隊から開放された司馬遼太郎は、大阪にあった新世界新聞社へ入社します。しかし、肌が合わなかったのかすぐに退職し、今度は新日本新聞社に入社することになります。
そうやって入社した新日本新聞社ですが、司馬遼太郎が入社した2年後になんと倒産してしまいます。失意に暮れる司馬遼太郎でしたが、たまたま知り合った産経新聞の社員に入社を誘われます。「英語はできるか?」と聞かれた司馬遼太郎は、実は全く英語ができないのにもかかわらず「できます」と答え、入社が決定します。
小説家への目覚め
こうやって産経新聞に入社した司馬遼太郎でしたが、司馬遼太郎としては小説家への夢を持っていたようで、このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになったそうです。
その後、大阪本社へ異動になった司馬遼太郎は、京都の寺社周りや京都大学を担当することになります。そして、お寺で不思議な僧侶らと出会ったり、京都大学で学者の先生に取材するなどした経験を得ることになります。その内容は、後に司馬遼太郎が執筆したエッセイの中で克明に描かれています。
1956年 – 33歳「小説家としてデビュー」
賞への応募をきっかけに小説家への道へ
司馬遼太郎は、1956年に「ペルシャの幻術師」を執筆し、講談倶楽部賞に応募し、見事受賞します。このときに、初めて司馬遼太郎のペンネームを使ったといいます。これがきっかけで、司馬遼太郎は世に出ることになりました。
梟の城で人気作家の仲間入り
その後も作品を発表し続けた司馬遼太郎でしたが、ついに出世作である「梟の城」を発表します。この作品が第42回直木賞を受賞することになり、受賞の翌年には産経新聞社を退職し、作家生活に入ることになりました。
1993年 – 69歳「文化勲章を受賞」
これまでの功績が認められる
司馬遼太郎は、その後も数々の人気作品を発表し続けることになります。 1981年に日本芸術院会員となり、さらに1991年には文化功労者となります。そして1993年には、これまでの功績が認められ、優れた文化功績を残した方に贈られる文化勲章を受章することになります。小説家でこの賞を他に受賞したのは川端康成や吉川英治など、ごく限られた人だけです。
1996年 – 72歳「司馬遼太郎、亡くなる」
体の変調があらわれはじめる
文化勲章を受賞し、名実ともに超一流の小説家となった司馬遼太郎ですが、70歳を過ぎたあたりから腰に痛みを覚えるようになりました。単純な腰痛だと思っていましたが、実は腹部の大動脈瘤を患っていました。その中でも、精力的に執筆を続けた司馬遼太郎は、晩年においても多くの著作を残しました。
突然の訃報
1996年の2月10日に司馬遼太郎は吐血して倒れてしまいます。司馬遼太郎は、大阪市中央区の国立大阪病院に入院し、必死の治療を受けますが、日後の2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため亡くなりました。72歳でした。3月10日には、大阪市内のホテルで「司馬遼太郎さんを送る会」が行われ、司馬遼太郎を惜しんだ約3000人が参列しました。
亡くなったあとも、司馬遼太郎は著作という形で、今なおたくさんのものを我々に与え続けてくれています。
司馬遼太郎の関連作品
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【司馬遼太郎・シンポジウム】『人は変革期にどう生きるか』
この動画は、2018年に司馬遼太郎について歴史家の磯田道史さんや、作家の木内昇さん、映画化君徳の原田眞人さん、小説家の浅田次郎さんが語ったシンポジウムの録音です。各界の著名人が司馬遼太郎をどのように語っているのか、聞いてみるのも良いかもしれません。
今だからこそ、今一度、司馬遼太郎氏の言葉に耳を傾けたい
こちらは、司馬遼太郎が文化功労賞を受賞したときの会見映像です。この映像の中で、司馬遼太郎はどんな思いを持って執筆を行ってきたかを語っています。その中で、司馬遼太郎は22歳の自分に贈るように作品を執筆していると語っています。司馬遼太郎22歳のときといえば、太平洋戦争が終戦したときです。戦争は、司馬遼太郎の思想に大きな影響を与えたのでしょうね。
おすすめの映画
関ヶ原
司馬遼太郎の名著、「関ヶ原」を映画化した作品です。出演はV6の岡田准一さんと女優の有村架純さんです。歴史が動いた瞬間を、豪華な出演陣が名演している素晴らしい作品ですよ。
燃えよ剣(2020年版)
2020年に公開予定の新作映画です。主演は関ヶ原に引き続き、V6の岡田准一さんです。小説の燃えよ剣は、新選組の副長である土方歳三を華麗に描いた作品ですが、一体どんなふうに映画として描かれるのか楽しみですね。
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NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲
もう一つ紹介するのは、NHKが作成したスペシャルドラマ「坂の上の雲」です。坂の上の雲は、日本に騎兵を導入し、バルチック艦隊を打ち破った秋山兄弟について描いた作品です。このドラマも素晴らしいので、ぜひ見てみてください。
関連外部リンク
司馬遼太郎についてのまとめ
この記事では、司馬遼太郎についてまとめてきました。司馬遼太郎は、大ヒット作家というだけではなく、日本人の歴史観に大きな影響を与えた人物ということですね。
筆者も司馬遼太郎の作品は大好きです。これからも、司馬遼太郎の作品は時を越えて読みつがれていくのでしょう。この記事を読んで、司馬遼太郎に興味をもたれた方は、ぜひ一冊読んでみることをおすすめします。