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【年表付】アリストテレスとはどんな人?名言や思想、形而上学も紹介

アリストテレスとは、古代ギリシャの哲学者であり自然学者であり政治学者であり文学者であり……。ともかく、古代ギリシャにおいて様々な学問分野に功績を遺した人物です。

哲学者としての知名度は、ソクラテスやプラトンに並ぶ哲学者と目される人物であり、最初の文でも示したような、あまりにも多くの分野にまたがる功績から、「万学の祖」という異名を誇るほどの人物でもあります。

アリストテレスを模ったとされる彫像

アリストテレスは「人間の本性は”知を愛すること”にある」と説き、その思想に基づいて数多くの学問分野を研究。『哲学』の意味を示す英単語『philosopher』が、ギリシャ語における『知を愛すること』という言葉を語源に持っている辺り、その業績の深さは理解いただけるでしょう。

とはいえ、

「結局何をした人なのかはよくわからん」
「哲学の事ばかりで、ぶっちゃけ現代的な功績ってないのでは?」

と考える方も多いのではないでしょうか?

ということで今回は、思想的な入門の部分や、アリストテレスという人物の生涯についてを紹介していきたいと思います。”とある理由”で「アリストテレスの思想とはこういうものだ!」と明確に示すことは難しい人物ではありますが、入門編としてお付き合いいただければ幸いです。

アリストテレスとはどんな人物か

名前アリストテレス
誕生日紀元前384年(月日不明)
没日紀元前322年3月7日
生地トラキア地方・スタゲイロス
没地エウボイア島・カルキス
配偶者ピュティアス
埋葬場所不明
研究分野哲学、自然学、形而上学、政治学、倫理学、文学etc

アリストテレスの生まれ

生地・スタゲイラに存在するアリストテレス像

アリストテレスは、カルキディケ半島のギリシャ人植民地・スタゲイロスに生まれました。当時のスタゲイロスはマケドニア王国の支配下にあり、アリストテレスの父であるニコマコスは、当時のマケドニア王の侍医を務める優秀な人物だったようです。

しかし原因は不明ですが、アリストテレスは幼くして両親を亡くしてしまうことに。両親を亡くし、義兄であるプロクセノスを後見人として少年期を過ごしたアリストテレスは、この頃に義兄の居住地である、小アジアのアタルネウスに移住したとも言われています。

しかし移住については状況証拠がいくつか存在するだけであるため、アリストテレスの正確な少年期の記録については、残っていないと言う方が正確です。

アリストテレスが影響を受けた人

アリストテレスの生涯の師にしてライバル・プラトン

「アリストテレスの師」という存在を考えたとき、恐らく真っ先に浮かぶ人物と言えば、やはりプラトンだろうと思えます。アリストテレスは17~18歳の間にプラトンが主催するアカデメイアという学府に入門し、プラトンが死ぬまでの約20年もの間、そこで学問に打ち込んだと記録されているのです。

アカデメイアの中でも、アリストテレスはかなり優秀な人物だったようで、プラトンはアリストテレスの事を指して「学校の精神」と評した他、自身の代行として度々教壇に立たせていたこともあったとされています。

とはいえ、アリストテレスはプラトンの思想に心酔していたわけではなく、むしろ彼は自身の思想の中で、プラトンの思想とは相反するようなことを主張したりもしています。師に対する尊敬はあったようですが、それと思想については別だったということなのでしょう。

そんな彼の思想については、次のトピックで簡単にですが触れていきます。

アリストテレスの思想

非常に広範囲に及んだアリストテレスの研究

アリストテレスは「哲学」という学問分野を起点としつつ、その彼自身が哲学の本質と考えた「知を愛すること」という思想を根本とし、現代における様々な学問分野の研究を行いました。

その研究範囲は、画像の『アリストテレス全集』の分厚さを見ていただければわかるように、本当に異常なレベルで幅広く、現代における学問のほぼすべてにアリストテレスの影響があると言っても過言ではありません。

というわけで、その全てを記事で紹介するのは間違いなく不可能なのですが、ここではその中でも代表的な学問分野の”さわり”の部分を解説していきたいと思います。

アリストテレスの遺した資料は、そのほとんど全てが「自分用のまとめノート」のため、もしかすると解釈違いなどあるかもしれません。ですので、ここに示すのは「あくまで一例」と割り切って、興味を持った分野があればぜひご自身で調べていただければ幸いです。

形而上学

「アテネの学堂」の中央にはプラトンとアリストテレスが描かれている

まずは「アリストテレスの研究」としてもっとも有名だろうこの分野から。

アリストテレスの考えだした「形而上学」というのは、いってしまえば「プラトンのイデア論に対する反証」です。

プラトンは「事物の本質は別世界にある」と考えたのに対し、アリストテレスは「事物の本質は事物そのものの中に存在する」と考えたのです。……と、説明してもおそらく「???」となる方がほとんどだと思いますので、例を挙げて説明していきます。

例えば、皆さんが見ているこの『Rekisiru』という歴史紹介サイトについて。二人の思想に基づいてこのサイトを見てみると、プラトンは「究極の歴史紹介サイト(=”歴史紹介サイト”のイデア)の模造品」と捉え、アリストテレスは「このサイトにも、他の歴史サイトにも”歴史サイト”の本質が宿っている」と考えます。

簡単に言えば、彼らの思想の違いは「本質がどこに存在するか」という一点に集約するのです。

とはいえ、この議論で現在の我々が納得しやすいのは、やはりアリストテレスの方。プラトンの思想だと「『Rekisiru』というサイトをチラッと見た段階で(=記事も何も読まずに)歴史紹介サイトだと理解できる」ということになってしまうからです。

ただし、アリストテレスの思想にも弱点は存在しています。

それは「”本質”というのは普遍的なものなのに、この世界には色々な歴史紹介サイトがある」という点です。どれも同じ「歴史紹介サイト」というくくりを持っている以上、”本質”は同じであるはず。つまり、「同じくくりの中にあるのに、本質が違う」という状況が、アリストテレスの思想からは生じてしまうのです。 ということでアリストテレスは、その矛盾の解消のためにこのような理屈を設けました。

四原因説

食卓を例にし図式化した四原因説

アリストテレスが提唱した『四原因説』の中では、この世に存在する事物の全ては、「四つの原因から成る」とされています。

四つの原因とは、

  • 質料因=材質
  • 形相因=形
  • 作用因=事物を作り出すもの
  • 目的因=事物の目的

のことです。

これも、先ほどと同様に「歴史紹介サイト」と『Rekisiru』を例にして説明していきましょう。

  • 歴史紹介サイトの質料因=インターネット(電気運動?)
  • 歴史紹介サイトの形相因=ネット上の情報媒体
  • 歴史紹介サイトの作用因=サイト管理者やライター、読者の皆様
  • 歴史紹介サイトの目的因=歴史上の事物や人物を紹介すること

そして、ここまで読んだ中でも勘のいい皆さまであれば、前段の疑問の答えに気づいてくれると思います。
上記の『歴史紹介サイトの四原因』は、そのまま『Rekisiruの四原因』と置き換えることも出来る――つまり、『Rekisiru』は歴史紹介サイトの本質を持ったサイトだと言え、ほかの歴史紹介サイトもその本質を持ったサイトだと言えるのです。
「内部にある四つの本質が同じであれば、それは同じ本質を持つ」――アリストテレスはそう考えたわけですね。

自然学

アリストテレスの理論による四元素の関係図

前段の『形而上学』という分野が、皆さんが想像するいわゆる「哲学」の分野の話です。アリストテレスと言えば、多くの方が前段の小難しい説明を想像するかと思います。

しかしアリストテレスが「万学の祖」と呼ばれるまでに至った理由は、むしろこれ以降の学問分野――本質ではなく現実を見た、いわゆる「形而下学」にあたる分野を研究していったからなのです。

例えばこの「自然学」については、現代的な理系学問を想像してもらえればそれでOKです。「人は何故病気になるのか」「人の指は何故こんな形なのか」というのを、現実的な必要性や目的の面から考える学問が、アリストテレスの考えた自然学なのです。

倫理学

アリストテレスは「人間の全ての営みには理由があり、それらの目的には”それ自体が史上目的となる”『最高善』が存在する」と考え、人間にとっての最高善は『幸福に生きること』であると説いています。

彼は『最高善(=幸福に生きる)』のためには、人間の固有の形相である魂の理性を発展させ、『中庸』という徳を守ることが重要であると考えていたようです。

『中庸』とはザックリ言えば「相反する感情の中の中間部」の事です。例えば「”快楽と苦痛”の中では、どちらにも転ばない”節制”」や「”名誉”に関しては、驕りにも謙遜にもならない”矜持”」こそが中庸という徳であると考えていたようです。

また、『中庸』に代表される”徳”を『知性的徳』と『習性的徳(道徳)』に分類するなど、更に発展させて言っていますが、ここではその辺りの議論は割愛。

ここでは、アリストテレスは「人は幸福に生きるために生きている」と考えていたことだけ押さえていただければOKです。

政治学

「人間は政治的生物である」とアリストテレスは定義した

政治学分野に関して、アリストテレスは「倫理学の延長線上」と捉えていたようです。

彼は人間の最高善――「幸せに生きること」は国家によって実現されると考え、共同体の統治が堕落と革命の循環を繰り返すことで最高善が実現されると考えていました。

また、アリストテレスは「国家間の地位に基づき、民衆がそれぞれの立場に基づいた”中庸”を持つことで、国家は上手く循環して最高善に近づく」と主張しています。

一見すると正しいようにも感じられますが、「貴族の中庸=支配」「奴隷の中庸=服従」と考え、身分制度を肯定していた側面があるあたり、アリストテレスの主張した政治学的な制度は、必ずしも「正しい」とは言い切れないように思えます。

文学

アリストテレスは芸術分野を「最高の形の模倣」と捉え、中でも文学の事を「自然や世界を模倣する芸術」として、非常に高く評価していたことが明らかになっています。

中でもアリストテレスは、「浄化(カタルシス)を味わうことができる」として悲劇を文学の最上位に位置付けており、フランスの古典的な作劇術である”三一致の法則”は、アリストテレスが文学についてを記した『詩学』というノートに根拠を求めているほどです。

以上、かなりザックリとアリストテレスの学問功績の”一部”を紹介させていただきました。内容の正しさなどはともかく、これだけの分野に影響を遺したあたり、彼が「万学の祖」と称される由来は理解いただけたかと思います。

アリストテレスの死因

アリストテレスの死因ともされる、ドクニンジンの花

アリストテレスの死因は、実際のところ「よくわかっていない」というのが答えです。晩年の彼は、母方の故郷であるエウボイア島のカルキスに身を寄せ、そこで息を引き取ったことは明らかになっているのですが、その死因に関しては記録が残っておらず、不明のままとなっているのです。

通説としては「病に倒れた」ということになっていますが、異説としては「毒人参をあおっての自殺」という説も存在しており、そのどちらもが弱い根拠しかもっていないため、真実は未だに掴み切れていないのが現状となっています。

とはいえ、現在では「万学の祖」と著しい尊敬を集めているアリストテレスですが、彼自身の晩年は、どうにも寂しいものだったのは殆ど間違いがないように思えます。

では、彼の晩年はなぜそうなってしまったのでしょうか?

その部分については、後の年表をご覧いただければ幸いです。

アリストテレスの功績

功績1「あらゆる学問分野に影響を与えた」

これらの本のほぼすべてに、アリストテレスの影響がある……かも

これに関しては、前までのトピックで紹介してきたとおりです。現在存在する学問分野のほぼすべてに影響を与え、一説ではキリスト教に代表される一神教の世界観にも影響を与えたとされています。

現在の研究分野をザックリとみると「文系と理系」といった括りがあらゆる場所で見受けられますが、それらの学問のほぼ全てを研究し、生物学分野にすら「アリストテレスの提灯」という構造の名を残していることなどからも、彼の凄まじい探究心は読み取れると思います。

功績2「アレクサンドロス大王の「生涯の師」」

大王国を築き上げた大王・アレクサンドロス3世

日本列島15個分にもわたる面積を征服した、マケドニア王国の大王・アレクサンドロス3世。実はアリストテレスは、幼い頃のアレクサンドロスと後の配下たちに様々な学問を教えた家庭教師でもありました。

アレクサンドロスはアリストテレスの事をたいそう尊敬していたらしく、「ピリッポス2世から生を受けたが、王として誇り高く生きることはアリストテレスから学んだ」などの言葉を残しているほか、遠征先からアリストテレスに、その土地土地の研究資料を送るなど、生涯にわたって交流を続けていた様子が明らかになっています。

アリストテレスの名言

すべての人間は生まれつき知ることを欲する

アリストテレスの言葉として、かなり有名な一説です。

「philosophy(哲学)」の語源となった言葉でもあり、アリストテレスという人物の思想が詰まった、これ以上ない言葉だと言えるでしょう。

すべての人間は政治的(ポリス的)動物である

これもアリストテレスの言葉として有名な一説です。

一件だけではよくわからない言葉ですが、「アリストテレスの政治学」を理解してから見ると、その本当の意味が理解できる、ある種の”指標”のような言葉でもあります。

幸せかどうかは、自分次第である

これ単体だと、ある意味普通の人生訓のようですが、アレクサンドロス大王のエピソードと合わせると面白い言葉です。

アレクサンドロス大王は、無欲な哲学者と接した後に「自分がアレクサンドロスでなければ、この無欲な哲学者として生きたい」と言ったのだとか。
この言葉を残したアリストテレスと、実際に「そうありたい」と口にしたアレクサンドロス。歴史の連続性を感じて少し面白くなる言葉ではないでしょうか。

アリストテレスにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「実はかなり不遇な人生を歩んだ」

実は挫折多き生涯だったと言われるアリストテレス

学問分野には華々しい功績を遺したアリストテレスですが、実は彼自身の生涯は、挫折や迫害に彩られた、中々に厳しいものだったと言われています。

実は彼が学者として名を残すに至ったのも、軍人や医師を目指すも挫折し、最後の最後に流れ着いたアカデメイアでの事――つまり、成り行きによるものだったという説も存在しているのです。

他にも、アレクサンドロス大王の死によってアテナイを追い出されたり、迫害を逃れるために生涯に何度も移住を経験したりと、彼の人生がなかなかハードなものだったことは、記録上からも読み取ることができるのですが、その辺りについては後の年表をご覧いただければと思います。

都市伝説・武勇伝2「バッドエンド至上主義者だった!?」

”悲劇”を全ての芸術の頂点だと考えたアリストテレス

『文学』のトピックでも少しだけ触れましたが、アリストテレスは『悲劇』というジャンルを、芸術分野における頂点だと考えていました。

アリストテレスの言う”芸術”は、「現実を模倣するもの」であったことからも、アリストテレスは「現実の本質」として、悲劇を好んでいたのではないかと思われます。

とはいえ、『マクベス』『マッチ売りの少女』のような悲劇の名作も多数ありますが、チャップリンの作品のような喜劇の名作も数多く残るのが現代。
そう考えると、アリストテレスは確かに「多数の分野に功績を残した人物」ではありますが、「多数の分野に正解をもたらした人物ではない」ということになるため、彼の言葉を鵜呑みにし過ぎないように注意が必要とも言えそうです。

アリストテレスの簡単年表

紀元前384年 - 0歳
トラキア地方・スタゲイロスにて誕生
アリストテレスは、マケドニア王国の支配下にあったトラキア地方の植民都市・スタゲイロスにて生を受けました。

父はマケドニア王の侍医を務める優秀な人物でしたが、理由は分かりませんがアリストテレスが幼い頃に早逝。以降アリストテレスは、義兄を後見人として少年期を過ごすことになります。

紀元前367年 - 17歳
アカデメイアに入門
アテナイに上り、「ギリシャの学校」と称されたアカデメイアに入門。アリストテレスはそこで、20年近くにわたって勉学に励むことになりました。
紀元前347年 - 37歳
プラトンの死をきっかけにアカデメイアを去る
この年、師であるプラトンが死去し、アリストテレス葉アカデメイアを去ることを決めます。当時のアテナイは反マケドニアの勢いが強く、マケドニアの植民都市出身のアリストテレスには居心地の悪い場所だったことが理由だと考えられています。
紀元前345年 - 39歳
ミュティレネに移住
アテナイを去り、流れついたアッソスの街で妻を得たアリストテレスは、アッソスへの侵攻を避けるため、アッソスの対岸に位置するミュティレネに移住。かれはそこで、主に生物学分野の研究を行ったようです。
紀元前342年 - 42歳
アレクサンドロス大王の家庭教師になる
マケドニア王・フィリッポス2世に召集され、彼の息子であるアレクサンドロスとその学友の家庭教師となります。アレクサンドロスとの交流は生涯にわたって続き、師弟関係は非常に良好なものだったようです。
紀元前335年 - 49歳
アテナイに学園「リュケイオン」を開設
前年にアレクサンドロス大王が即位し、反マケドニア派の勢いが弱まったため、アリストテレスはアテナイに戻って「リュケイオン」という学園を解説。弟子たちと学園の廊下を歩きまわりながら議論していたため、彼の学派は「逍遥学派(しょうようがくは)」と呼ばれました。
紀元前323年 - 61歳
迫害に遭い、カルキスに身を寄せる
アレクサンドロス大王の死によって、マケドニアの支配力が減退。反マケドニア勢力による迫害に遭ったアリストテレスは、再びアテナイを去って、今度は母方の故郷であるカルキスに身を寄せることになります。
紀元前322年 - 62歳
カルキスにて死去
カルキスにわたってなお研究を続けていたアリストテレスですが、彼はそこで不審な死を遂げることになりました。老衰ではないその死因は、病死もしくは服毒自殺であると考えられています。

アリストテレスの年表

紀元前384年 – 0歳「トラキア地方・スタゲイロスに生を受ける」

アリストテレスの故郷・スタゲイロス(現スタゲイラ)の風景

マケドニアの植民都市にて誕生

アリストテレスは、マケドニア王国の植民都市にあたる、トラキア地方のスタゲイロスに生を受けました。

母親については記録が残っていませんが、父はニコマコスという名前の医師であり、当時のマケドニア王であるアミュンタス3世の侍医を務めていた、優秀な人物であったようです。

両親を喪い、義兄に育てられる

正確な年代や原因などは分かっていませんが、アリストテレスは幼少の時点で両親を亡くし、義兄であるプロクセノスを後見人として幼少期を過ごしたことが記録されています。

またこの時、プロクセノスが居住する小アジアのアタルネウスに移住したとも言われていますが、あくまでも状況証拠にすぎないため、正確な記録としてアリストテレスの少年期を示す資料は、ほぼ存在していないと言う方が正確です。

紀元前367年 – 17歳「アテナイに渡り、プラトンの「アカデメイア」に入門」

アカデメイアの主催者であり、アリストテレスの師・プラトン

アカデメイアに入門し、学問の道へ

この年、アテナイに渡ったアリストテレスは、当時「ギリシャの学校」と称されていたアカデメイアに入門。高名な学者だったプラトンの下で、以降20年にわたって学究の道を究めることになります。

この時「アリストテレスは何故、アカデメイアに入門したのか」については明確な理由は残っておらず、「軍隊で身を立てることも、医師として身を立てることも失敗したため、仕方なく学問の道に入った」という説も存在しています。

とはいえ、アリストテレスがアカデメイアで頭角を現すほどに成長し、後の世の様々な分野に影響を与える人物に成長したのは、疑う余地のない事実でしょう。

紀元前347年 – 37歳「プラトンの死をきっかけに、アカデメイアを去る」

プラトンの後任としてアカデメイアの学頭となった、スペウシッポス

プラトンの死

アカデメイアにて様々な学問研究に励み、プラトンからも目を掛けられていたアリストテレスですが、この年に師匠であるプラトンが死去。アカデメイアの学頭には、プラトンの甥であるスペウシッポスが就任することになりました。

しかし、スペウシッポスは数学系の自然学を重視する人物だったため、アリストテレスとは反りが合わず、これをきっかけにアリストテレスはアカデメイアを去ることになってしまうのです。

政治的事情により、アテナイを去ることに

アカデメイアを去ることになったアリストテレスですが、彼の受難はまだ終わりませんでした。

当時のアテナイの情勢は、反マケドニア王国の風潮が根強く、マケドニア系の植民都市出身の外国人には、非常に厳しい風潮が起こっていました。そのため、アリストテレスはアカデメイアを去るだけでなく、政治的な事情によってアテナイからも去ることになってしまったのです。

紀元前345年 – 39歳「ミュティレネにて生物学研究に勤しむ」

ウニの口器構造は「アリストテレスの提灯」と呼ばれている

アッソスにて結婚

アカデメイアを去ったアリストテレスは、かつての学友であるアッソスの僭主・ヘルミアスの呼びかけに応じて、アッソスの街に移住。そこでヘルミアスの姪であるピュティアスと結婚します。

アリストテレスの妻であるピュティアスについての詳しい人物像や、その夫婦生活についての記録は残っていませんが、ニコマス(ニコマコスという説もあり)という名前の子がいたということは記録として残っており、アリストテレスの著作の一つである『ニコマコス倫理学』という倫理学のテキストは、そのニコマスによって編集されたのだそうです。

ミュティレネに移住

しばらくアッソスに留まっていたアリストテレスですが、紀元前345年に、ヘルミアスがペルシャ帝国に囚われるという事件が発生。アリストテレスは難を逃れるために、アッソスの対岸にあるミュティレネに移住することになります。

ミュティレネに移住したアリストテレスは、主に生物学的な研究にいそしんでいたことが記録されています。哲学の分野のイメージが強いアリストテレスですが、現在もウニの口器構造を指して「アリストテレスの提灯」というなど、生物学分野にも彼の功績が残っている事は間違いありません。

紀元前342年 – 42歳「アレクサンドロス大王の家庭教師となる」

アリストテレスの弟子である「大王」・アレクサンドロス3世

後のアレクサンドロス大王の家庭教師となる

マケドニア王であるフィリッポス2世から招集を受けたアリストテレスは、王子であるアレクサンドロス3世と、ヘファイスティオンに代表されるマケドニア貴族の子供たちの家庭教師に抜擢。首都から離れたミエザ後に学園を作り、そこで彼らに様々な学問を教えました。

アレクサンドロスは、アリストテレスの事を非常に尊敬していたらしく、「ピリッポス2世から生を受けたが、王として誇り高く生きることはアリストテレスから学んだ」という言葉を残しているほか、大遠征に出ている最中も手紙のやり取りをしていたことがわかっています。

アリストテレスも彼の事を可愛がっていたようで、その師弟関係が非常に良好だったことは、記録上からも簡単に読み取ることができるでしょう。

紀元前335年 – 49歳「アテナイに戻り、自身の学園である「リュケイオン」を開く」

アリストテレスの開いた学び舎・リュケイオンの跡地

学び舎「リュケイオン」を開設

紀元前336年に、教え子であるアレクサンドロス3世が王として即位。これによって反マケドニア勢力の勢いが弱まったため、アリストテレスは即位の翌年にアテナイに戻り、そこで自身の学び舎である「リュケイオン」を開設しました。

この学び舎の開設にあたって、アレクサンドロス3世が様々な尽力を行ったという説があり、基本的には親マケドニア派の学園として、マケドニア寄りの思想を持った人々が多くここで学んだようです。

 逍遥学派(ペリパトス学派)

リュケイオンの学びや議論の特徴として、「廊下(=ペリパトス)を歩きながら議論を交わす」というものがありました。 そのため、リュケイオンを起点とするアリストテレスの学派は「逍遥学派(ペリパトス学派)」と呼ばれ、その独特の学びのスタイルや思考を受け継いだ、数多くの弟子を輩出しています。

紀元前323年 – 61歳「迫害によってアテナイを去り、カルキスへ」

アリストテレスの最期の地とされる、エウボイア島・カルキスの現在

アレクサンドロス大王の死

この年、大遠征から帰還したアレクサンドロス大王が急逝。急速に版図を広げた中でカリスマ的な指導者を喪ったマケドニアは大混乱に陥り、元々反マケドニア勢力が優勢だったアテナイでは、マケドニア人に対するかつてない規模の迫害が起こってしまいます。

これによってアリストテレスは、半ば追放されるような形でアテナイを去ることに。彼は母方の故郷であるエウボイア島のカルキス(現在のエヴィア島・ハルキス(ハルキダ))に身を寄せることになるのでした。

紀元前322年 – 62歳「カルキスにて謎の死を迎える」

ドクニンジンは、アリストテレスの死因だとも囁かれている

カルキスにてこの世を去る

カルキスに身を寄せたアリストテレスですが、移住してから約1年が経った頃に、そこで謎の死を迎え、あっけなくこの世を去ってしまいます。

死因については、通説としては病死とされていますが、中には「ドクニンジンの煎じ薬による服毒自殺」という説や「毒殺説」もささやかれており、死因は現在もはっきりしてはいません。

ともかく、アリストテレスは62歳でこの世を去ってしまうのですが、彼の遺した思想はキリスト教などに吸収されていき、長きにわたって全世界的な思想の根幹として支持されていくことになるのでした。

アリストテレスの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

アリストテレス入門

タイトル通りのアリストテレスの入門書。アリストテレスという人物の思想に関する、「まさに入門編」といった印象のテキストです。

専門家によるテキストのため情報源としての信頼性はあり、初めの一歩にはぴったりの書籍ですが、やはり少々小難しく、思想それぞれの内容を理解するまでには至りません。良くも悪くも「入門編」という印象の強いテキストでした。

詩学

アリストテレスの思想としてはあまり有名ではありませんが、実際のところ「形而上学」よりも広く大衆に影響を与えたのは、このテキストではないかと筆者は考えています。

「物事の本質」ではなく、「本質に至るまでのストーリー」――「物語」についてを解説した書籍がこれ。アリストテレスの思想に触れるなら、単純な形而上学や自然学をマスターするだけでなく、このテキストも必読だと言えるでしょう。

面白いほどよくわかるギリシャ哲学―ソクラテス、プラトン、アリストテレス…現代に生き続ける古典哲学入門

「アリストテレスの思想に興味はある」「けれど、難しい本は読みたくない」という方にピッタリの、中高生向けのギリシャ哲学のテキストです。

若干駆け足に感じる部分はありますが、とにかく文章が読みやすく、入門書としてはこれ以上のものはそうそうないように感じる、隠れた名著の一つです。

関連外部リンク

アリストテレスについてのまとめ

「哲学者」というイメージが先行して、どうにも小難しいイメージで敬遠されがちな人物でもあるアリストテレス。

しかしアリストテレスの人物像を調べていくと、その幅広い頭脳や思考はともかく、その人生そのものは不運や迫害に翻弄された、かなりハードなものだったことを皆さんもご理解いただけたかと思います。

個人の思考というのは、やはり個人の経験に影響を受けて生まれてくるもの。アリストテレスの広範極まる思考が、一体どのような経験から生まれたものであるのか。そういう観点でアリストテレスを考察してみるのも、面白いかもしれません。

それでは、かなりの長文記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました!

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