アリストテレスとはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や名言、思想についても紹介】

アリストテレスにまつわる逸話

逸話1「実はかなり不遇な人生を歩んだ」

実は挫折多き生涯だったと言われるアリストテレス

学問分野には華々しい功績を遺したアリストテレスですが、実は彼自身の生涯は、挫折や迫害に彩られた、中々に厳しいものだったと言われています。

実は彼が学者として名を残すに至ったのも、軍人や医師を目指すも挫折し、最後の最後に流れ着いたアカデメイアでの事――つまり、成り行きによるものだったという説も存在しているのです。

他にも、アレクサンドロス大王の死によってアテナイを追い出されたり、迫害を逃れるために生涯に何度も移住を経験したりと、彼の人生がなかなかハードなものだったことは、記録上からも読み取ることができるのですが、その辺りについては後の年表をご覧いただければと思います。

逸話2「バッドエンド至上主義者だった!?」

”悲劇”を全ての芸術の頂点だと考えたアリストテレス

『文学』のトピックでも少しだけ触れましたが、アリストテレスは『悲劇』というジャンルを、芸術分野における頂点だと考えていました。

アリストテレスの言う”芸術”は、「現実を模倣するもの」であったことからも、アリストテレスは「現実の本質」として、悲劇を好んでいたのではないかと思われます。

とはいえ、『マクベス』『マッチ売りの少女』のような悲劇の名作も多数ありますが、チャップリンの作品のような喜劇の名作も数多く残るのが現代。
そう考えると、アリストテレスは確かに「多数の分野に功績を残した人物」ではありますが、「多数の分野に正解をもたらした人物ではない」ということになるため、彼の言葉を鵜呑みにし過ぎないように注意が必要とも言えそうです。

アリストテレスの簡単年表

紀元前384年 – 0歳
トラキア地方・スタゲイロスにて誕生

アリストテレスは、マケドニア王国の支配下にあったトラキア地方の植民都市・スタゲイロスにて生を受けました。

父はマケドニア王の侍医を務める優秀な人物でしたが、理由は分かりませんがアリストテレスが幼い頃に早逝。以降アリストテレスは、義兄を後見人として少年期を過ごすことになります。

紀元前367年 – 17歳
アカデメイアに入門

アテナイに上り、「ギリシャの学校」と称されたアカデメイアに入門。アリストテレスはそこで、20年近くにわたって勉学に励むことになりました。
紀元前347年 – 37歳
プラトンの死をきっかけにアカデメイアを去る

この年、師であるプラトンが死去し、アリストテレス葉アカデメイアを去ることを決めます。当時のアテナイは反マケドニアの勢いが強く、マケドニアの植民都市出身のアリストテレスには居心地の悪い場所だったことが理由だと考えられています。
紀元前345年 – 39歳
ミュティレネに移住

アテナイを去り、流れついたアッソスの街で妻を得たアリストテレスは、アッソスへの侵攻を避けるため、アッソスの対岸に位置するミュティレネに移住。かれはそこで、主に生物学分野の研究を行ったようです。
紀元前342年 – 42歳
アレクサンドロス大王の家庭教師になる

マケドニア王・フィリッポス2世に召集され、彼の息子であるアレクサンドロスとその学友の家庭教師となります。アレクサンドロスとの交流は生涯にわたって続き、師弟関係は非常に良好なものだったようです。
紀元前335年 – 49歳
アテナイに学園「リュケイオン」を開設

前年にアレクサンドロス大王が即位し、反マケドニア派の勢いが弱まったため、アリストテレスはアテナイに戻って「リュケイオン」という学園を解説。弟子たちと学園の廊下を歩きまわりながら議論していたため、彼の学派は「逍遥学派(しょうようがくは)」と呼ばれました。
紀元前323年 – 61歳
迫害に遭い、カルキスに身を寄せる

アレクサンドロス大王の死によって、マケドニアの支配力が減退。反マケドニア勢力による迫害に遭ったアリストテレスは、再びアテナイを去って、今度は母方の故郷であるカルキスに身を寄せることになります。
紀元前322年 – 62歳
カルキスにて死去

カルキスにわたってなお研究を続けていたアリストテレスですが、彼はそこで不審な死を遂げることになりました。老衰ではないその死因は、病死もしくは服毒自殺であると考えられています。

アリストテレスの生涯年表

紀元前384年 – 0歳「トラキア地方・スタゲイロスに生を受ける」

アリストテレスの故郷・スタゲイロス(現スタゲイラ)の風景

マケドニアの植民都市にて誕生

アリストテレスは、マケドニア王国の植民都市にあたる、トラキア地方のスタゲイロスに生を受けました。

母親については記録が残っていませんが、父はニコマコスという名前の医師であり、当時のマケドニア王であるアミュンタス3世の侍医を務めていた、優秀な人物であったようです。

両親を喪い、義兄に育てられる

生地・スタゲイラに存在するアリストテレス像

正確な年代や原因などは分かっていませんが、アリストテレスは幼少の時点で両親を亡くし、義兄であるプロクセノスを後見人として幼少期を過ごしたことが記録されています。

またこの時、プロクセノスが居住する小アジアのアタルネウスに移住したとも言われていますが、あくまでも状況証拠にすぎないため、正確な記録としてアリストテレスの少年期を示す資料は、ほぼ存在していないと言う方が正確です。

紀元前367年 – 17歳「アテナイに渡り、プラトンの「アカデメイア」に入門」

アカデメイアの主催者であり、アリストテレスの師・プラトン

アカデメイアに入門し、学問の道へ

この年、アテナイに渡ったアリストテレスは、当時「ギリシャの学校」と称されていたアカデメイアに入門。高名な学者だったプラトンの下で、以降20年にわたって学究の道を究めることになります。

この時「アリストテレスは何故、アカデメイアに入門したのか」については明確な理由は残っておらず、「軍隊で身を立てることも、医師として身を立てることも失敗したため、仕方なく学問の道に入った」という説も存在しています。

とはいえ、アリストテレスがアカデメイアで頭角を現すほどに成長し、後の世の様々な分野に影響を与える人物に成長したのは、疑う余地のない事実でしょう。

紀元前347年 – 37歳「プラトンの死をきっかけに、アカデメイアを去る」

プラトンの後任としてアカデメイアの学頭となった、スペウシッポス

プラトンの死

アカデメイアにて様々な学問研究に励み、プラトンからも目を掛けられていたアリストテレスですが、この年に師匠であるプラトンが死去。アカデメイアの学頭には、プラトンの甥であるスペウシッポスが就任することになりました。

しかし、スペウシッポスは数学系の自然学を重視する人物だったため、アリストテレスとは反りが合わず、これをきっかけにアリストテレスはアカデメイアを去ることになってしまうのです。

政治的事情により、アテナイを去ることに

アカデメイアを去ることになったアリストテレスですが、彼の受難はまだ終わりませんでした。

当時のアテナイの情勢は、反マケドニア王国の風潮が根強く、マケドニア系の植民都市出身の外国人には、非常に厳しい風潮が起こっていました。そのため、アリストテレスはアカデメイアを去るだけでなく、政治的な事情によってアテナイからも去ることになってしまったのです。

紀元前345年 – 39歳「ミュティレネにて生物学研究に勤しむ」

ウニの口器構造は「アリストテレスの提灯」と呼ばれている

アッソスにて結婚

アカデメイアを去ったアリストテレスは、かつての学友であるアッソスの僭主・ヘルミアスの呼びかけに応じて、アッソスの街に移住。そこでヘルミアスの姪であるピュティアスと結婚します。

アリストテレスの妻であるピュティアスについての詳しい人物像や、その夫婦生活についての記録は残っていません。

しかし、ニコマス(ニコマコスという説もあり)という名前の子がいたということは記録として残っており、アリストテレスの著作の一つである『ニコマコス倫理学』という倫理学のテキストは、そのニコマスによって編集されたのだそうです。

ミュティレネに移住

しばらくアッソスに留まっていたアリストテレスですが、紀元前345年に、ヘルミアスがペルシャ帝国に囚われるという事件が発生。アリストテレスは難を逃れるために、アッソスの対岸にあるミュティレネに移住することになります。

ミュティレネに移住したアリストテレスは、主に生物学的な研究にいそしんでいたことが記録されています。

哲学の分野のイメージが強いアリストテレスですが、現在もウニの口器構造を指して「アリストテレスの提灯」というなど、生物学分野にも彼の功績が残っている事は間違いありません。

紀元前342年 – 42歳「アレクサンドロス大王の家庭教師となる」

アリストテレスの弟子である「大王」・アレクサンドロス3世

後のアレクサンドロス大王の家庭教師となる

マケドニア王であるフィリッポス2世から招集を受けたアリストテレスは、王子であるアレクサンドロス3世と、ヘファイスティオンに代表されるマケドニア貴族の子供たちの家庭教師に抜擢。首都から離れたミエザ後に学園を作り、そこで彼らに様々な学問を教えました。

アレクサンドロスは、アリストテレスの事を非常に尊敬していたらしく、「ピリッポス2世から生を受けたが、王として誇り高く生きることはアリストテレスから学んだ」という言葉を残しているほか、大遠征に出ている最中も手紙のやり取りをしていたことがわかっています。

アリストテレスも彼の事を可愛がっていたようで、その師弟関係が非常に良好だったことは、記録上からも簡単に読み取ることができるでしょう。

紀元前335年 – 49歳「アテナイに戻り、自身の学園である「リュケイオン」を開く」

アリストテレスの開いた学び舎・リュケイオンの跡地

学び舎「リュケイオン」を開設

紀元前336年に、教え子であるアレクサンドロス3世が王として即位。これによって反マケドニア勢力の勢いが弱まったため、アリストテレスは即位の翌年にアテナイに戻り、そこで自身の学び舎である「リュケイオン」を開設しました。

この学び舎の開設にあたって、アレクサンドロス3世が様々な尽力を行ったという説があり、基本的には親マケドニア派の学園として、マケドニア寄りの思想を持った人々が多くここで学んだようです。

 逍遥学派(ペリパトス学派)

リュケイオンの学びや議論の特徴として、「廊下(=ペリパトス)を歩きながら議論を交わす」というものがありました。

そのため、リュケイオンを起点とするアリストテレスの学派は「逍遥学派(ペリパトス学派)」と呼ばれ、その独特の学びのスタイルや思考を受け継いだ、数多くの弟子を輩出しています。

紀元前323年 – 61歳「迫害によってアテナイを去り、カルキスへ」

アリストテレスの最期の地とされる、エウボイア島・カルキスの現在

アレクサンドロス大王の死

この年、大遠征から帰還したアレクサンドロス大王が急逝。急速に版図を広げた中でカリスマ的な指導者を喪ったマケドニアは大混乱に陥り、元々反マケドニア勢力が優勢だったアテナイでは、マケドニア人に対するかつてない規模の迫害が起こってしまいます。

これによってアリストテレスは、半ば追放されるような形でアテナイを去ることに。彼は母方の故郷であるエウボイア島のカルキス(現在のエヴィア島・ハルキス(ハルキダ))に身を寄せることになるのでした。

紀元前322年 – 62歳「カルキスにて謎の死を迎える」

ドクニンジンは、アリストテレスの死因だとも囁かれている

カルキスにてこの世を去る

カルキスに身を寄せたアリストテレスですが、移住してから約1年が経った頃に、そこで謎の死を迎え、あっけなくこの世を去ってしまいます。

死因については、通説としては病死とされていますが、中には「ドクニンジンの煎じ薬による服毒自殺」という説や「毒殺説」もささやかれており、死因は現在もはっきりしてはいません。

ともかく、アリストテレスは62歳でこの世を去ってしまうのですが、彼の遺した思想はキリスト教などに吸収されていき、長きにわたって全世界的な思想の根幹として支持されていくことになるのでした。

アリストテレスの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

アリストテレス入門

タイトル通りのアリストテレスの入門書。アリストテレスという人物の思想に関する、「まさに入門編」といった印象のテキストです。

専門家によるテキストのため情報源としての信頼性はあり、初めの一歩にはぴったりの書籍ですが、やはり少々小難しく、思想それぞれの内容を理解するまでには至りません。良くも悪くも「入門編」という印象の強いテキストでした。

詩学

アリストテレスの思想としてはあまり有名ではありませんが、実際のところ「形而上学」よりも広く大衆に影響を与えたのは、このテキストではないかと筆者は考えています。

「物事の本質」ではなく、「本質に至るまでのストーリー」――「物語」についてを解説した書籍がこれ。アリストテレスの思想に触れるなら、単純な形而上学や自然学をマスターするだけでなく、このテキストも必読だと言えるでしょう。

面白いほどよくわかるギリシャ哲学―ソクラテス、プラトン、アリストテレス…現代に生き続ける古典哲学入門

「アリストテレスの思想に興味はある」「けれど、難しい本は読みたくない」という方にピッタリの、中高生向けのギリシャ哲学のテキストです。

若干駆け足に感じる部分はありますが、とにかく文章が読みやすく、入門書としてはこれ以上のものはそうそうないように感じる、隠れた名著の一つです。

【24年1月最新】アリストテレスをよく知れるおすすめ本ランキングTOP8

関連外部リンク

アリストテレスについてのまとめ

「哲学者」というイメージが先行して、どうにも小難しいイメージで敬遠されがちな人物でもあるアリストテレス。

しかしアリストテレスの人物像を調べていくと、その幅広い頭脳や思考はともかく、その人生そのものは不運や迫害に翻弄された、かなりハードなものだったことを皆さんもご理解いただけたかと思います。

個人の思考というのは、やはり個人の経験に影響を受けて生まれてくるもの。アリストテレスの広範極まる思考が、一体どのような経験から生まれたものであるのか。そういう観点でアリストテレスを考察してみるのも、面白いかもしれません。

それでは、かなりの長文記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました!

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