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アッピア街道とはどこからどこまで?地図や目的、世界史について解説

「アッピア街道とはどんな場所?」
「アッピア街道の名所について知りたい!」
「アッピア街道へ行く方法が知りたい!」

本記事を読んでいるあなたは、このように思っているのではないでしょうか?アッピア街道とは、古代ローマ帝国時代に敷かれた街道です。当時、広大な範囲を支配下におさめていたローマには、多くの街道が集まっていました。アッピア街道は、その中で最も有名な街道です。

アッピア街道
出典:Wikipedia

古代ローマ時代から現在に至るまで残るアッピア街道は、どのような目的で作られ、どのような役割を担っていたのか。今回はその歴史についてひもときます。また、おすすめスポットや行き方、現在の姿、関連作品なども紹介しますので、ぜひ最後までご覧ください。

アッピア街道とは?

アッピア街道のルート図(白線)

アッピア街道は、イタリアの首都・ローマとアドリア海に面したブリンディジを結ぶ街道です。紀元前312年から整備され、ルート変更や延長などを少しずつ繰り返し、現在では全長約560kmにも及びます。

ローマで最初に整備された街道であると同時に、それ以降の街道のモデルとなった道であることから「街道の女王」とも呼ばれています。

誰がいつ作ったのか

チェーザレ・マッカリ画『元老院に登壇する盲目のカエクス』。カエクス(画面中央)
出典:Wikipedia

アッピア街道は紀元前312年に、当時の政治家アッピウス・クラウディウス・カエクスの提案で建設されました。当初はローマとカプアを結ぶ街道でしたが、支配地域の拡大と共に延びていき、最終的にはイタリア半島の東南端ブリンディシまで開通しました。

肥沃な土地であるカプアを守るための重要な道路であったため、アッピア街道は「女王の道」と呼ばれました。

アッピア街道の目的・用途

軍隊を迅速に送るために街道が整備された
出典:Wikipedia

アッピア街道が敷かれ目的は、支配地へ素早く軍隊を移動させるためです。

当時のローマはイタリア半島を支配下においていました。しかし、半島の中部から東南部で暮らす民族からの反発があり、野放しにするには不安定な状態でした。

こういった事情があり、何かあれば迅速に軍隊を送れるよう軍用道路を整備する必要があったのです。そのため、街道はできるだけ直線になるよう建設されました。幅も馬車がすれ違いのできる広さであり、さらに3mの歩道も設置されています。

また、平時には人や物の往来を活発にし、国全体の経済を豊かにする目的もありました。

世界史に登場するアッピア街道

「ローマの元老院と人民」を意味するSPQR(Senatus Populusque Romanus)の紋章

アッピア街道は、都市国家としてのローマが、ローマ共和政、ローマ帝国と移り変わるために必要不可欠なものでした。都市が発展するために、どのように街道が利用されたのでしょうか。

軍用道路として整備

アッピア街道の始まりは軍事目的
出典:Wikipedia

先ほどもお話した通り、アッピア街道は軍用道路として整備されました。ここからは道路が敷かれるまでの歴史を見ていきましょう。

アッピア街道が開通する少し前まで、ローマは貴族・平民・奴隷の3つの身分に分かれていました。当時、数ある中の一都市国家に過ぎなかったローマですが、経済的な発展が著しく、徐々に平民の力が大きくなっていきます。

力をつけた平民たちは、権力者である貴族に対して平等な権利を主張するようになりました。こうして、ローマの政治体制は市民による共和制へ移行します。

当時、戦争の主体となっていた重装歩兵を支えていたのは平民だったことも一要因
出典:Wikipedia

平民が貴族たちに物申せるほどの力を身につけたローマは、イタリア半島の南部へ侵攻し順調に領土を獲得。しかし、中部から東南部で牧畜を営んでいたサムニウム人との間で問題が生じ、支配圏の拡大に陰りが生じます。

当時、カプアのサムニウム人たちは山岳の同じサムニウム人から攻撃を受け、危機に瀕していました。当事者にとっては混沌とした状況でしたが、ローマはこの混乱に乗じて、カプアのサムニウム人たちを支援しました。

第一次サムニウム戦争と呼ばれた戦いに勝利し、ローマはカプアを実効支配することに成功します。ですが、これに反発するサムニウム人がいたため、支配は完璧なものではありませんでした。

反発するサムニウム人たちを迅速に鎮圧するため、軍用道路の必要性が高まりました。そして、紀元前312年に、アッピウスの要請によってアッピア街道が敷かれたのです。

スパルタクスの反乱でも利用

スパルタクスの乱

ローマは領土を拡大する中で獲得した戦争捕虜を奴隷とし、労働力として利用していました。対外戦争が増えると、規模の小さい農民は重装歩兵として戦地に駆り出されてしまい、大規模農業を営む農民に吸収されていきました。この大土地所有(ラティフンディア)の拡大は、安い労働力である奴隷の搾取を強め、奴隷たちの不満を高める結果に繋がりました。

紀元前73年、スパルタクスという人物を主導者としてイタリア全土の奴隷が蜂起した反乱は、およそ12万人の兵となって各地で襲撃を行いました。事態を収めようとしたローマ軍に対しても何度も勝利しましたが、紀元前71年、兵力が分断していたタイミングでローマ軍の将軍クラッススに対峙し、スパルタクスが倒されたことで終焉を迎えます。

クラッススは戦争捕虜およそ6千人を、ローマからカプアに至るアッピア街道沿いで十字架に掛け、磔刑としました。主要な街道であったアッピア街道で見せしめにすることで、ローマ軍の権力を誇示したとも言われています。

現在のアッピア街道

現在のアッピア旧街道の様子

ローマ帝国の崩壊後、街道はしばらく利用されていませんでしたが、1784年にピウス6世の命でアッピア街道に並行する新道が作られ、これまでの街道は旧街道となりました。

現在ではその歴史的価値が再評価され、断片的に旧街道周辺を観光名所として保存する動きがあります。ここでは、アッピア街道の古の姿を知る方法を一部紹介します。

徒歩でアッピア街道州立公園を散策

州立公園内のアッピア街道

アッピア街道の起点であるカペーナ門は現存していませんが、その先のサン・セバスティアーノ門(アッピア門)から10kmにわたってローマ帝国時代の石畳が保存されています。特に前半は、アッピア街道州立公園として整備されており、緑地の中を散策しながら街道を歩くことができます。

道中には初期キリスト教の地下墓所であるカタコンベや、マクセンティウス帝の競技場などがあり、往時の雰囲気を堪能できます。

車や自転車でローマ郊外へ

カプアの闘技場跡

ローマ市内のアッピア旧街道以外は、往時の姿を留めている箇所は少ないですが、旧街道に沿って拡張された車道が整備されています。特にローマからカプアまでは、初期に整備された直線道路に沿って道が作られているので、当時どれだけ最短距離で道を作ろうとしたかがわかる貴重な区間です。

また、街道沿いには城跡や要塞跡などの古代の建造物が点在しており、かつての様子を思い描きながら街を訪問していく楽しみもあります。車や自転車が趣味の方は、イタリア中南部を街道を利用して周遊するのも良いかもしれません。

新アッピア街道が整備

現在の新アッピア街道の様子

ローマ市内では、旧街道の北東を並行するように「新アッピア街道(Via Appia Nuova)」が整備されています。この道路はローマ市街地からローマ・チャンピーノ空港前を通過し、トラピスト修道院のあたりで旧街道と合流します。

石畳ではなくなりましたが、アッピア街道は今でも主要な幹線道路の一つとしてローマの交通を支えています。

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