イヴァン4世は、16世紀に現在のロシア連邦の位置に存在していた、モスクワ大公国(ロシア・ツァーリ国)の皇帝です。
悪徳貴族や聖職者による腐敗した政治体制を改革したエピソードがある一方で、強大で暴力的に権力を振るい、多くの民衆を虐殺した暴君としても知られる、非常に評価の難しい人物でもあります。

歴史に残るイヴァン4世のエピソードからは、良くも悪くも極端な人物だったことが読み取れます。ある時は敬虔に神を敬い、熱心に祈りを捧げる宗教的な人物の側面が見え、またある時は周囲にあるすべてを疑い、「疑わしきは罰せよ」と言わんばかりに虐殺を繰り返す虐殺者の側面を見せる。記録を見ていると、どうにも彼の人物像は安定していないように見えます。
エピソードとしては「虐殺者」の側面のインパクトが強く、それ故に「暴君」の代名詞として語られがちなイヴァン4世ですが、果たして彼は本当に「暴君」というマイナスな言葉だけで表現できる人物だったのでしょうか?
この記事では、そんなイヴァン4世の年表や評価などを見ていきつつ、「彼は本当に”暴君”だったのか」について考えていきたいと思います。
イヴァン4世とはどんな人物か
名前 | イヴァン・ヴァシリエヴィチ |
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通称 | イヴァン4世、雷帝 |
誕生日 | 1530年8月25日 |
没日 | 1584年3月18日(享年53) |
生地 | モスクワ大公国モスクワ・クレムリン、 テレムノイ宮殿 |
没地 | ロシア・ツァーリ国モスクワ |
配偶者 | アナスタシア・ロマノヴナ(1547~1560) →マリヤ・テムリュコヴナ(1561~1569) →マルファ・ソバーキナ(1571) →アンナ・コルトフスカヤ(1572~1575) →アンナ・ヴァシリチコヴァ(1575~1577) →ヴァシリーサ・メレンティエヴァ(1577~1580) →マリヤ・ナガヤ(1580~1584) |
埋葬場所 | モスクワ、聖天使首大聖堂 |
イヴァン4世(雷帝)の生まれ

イヴァン4世は、モスクワ大公であるヴァシーリー3世と、その二人目の妻であるエレナ・グリンスカヤの間に生を受けました。
当時のヴァシーリー3世には嫡男がおらず、待望の男子だったことからヴァシーリー3世はイヴァンをたいそう可愛がったようですが、その一方でエレナとの結婚自体が、当時のモスクワ大公国に強い影響を及ぼしていたエルサレム聖教庁の意に反するものだったため、聖教庁の総主教からは「邪悪な子供」として忌み嫌われていたようです。
そのように両親からの愛情と聖教庁からの憎悪を受けて生まれたイヴァンは、1533年に父が病死すると、なんと僅か3歳でモスクワ大公に即位。とはいえ、3歳の子供に政治ができるわけもなく、母であるエレナの一族と一部の貴族たちが主権を握り、イヴァンの意思は顧みられない状況が増えていきました。
そんな中でもイヴァンは、尊敬する師であるマカリー府主教から教育を受け、信仰心に篤く平等を愛する、皇帝にふさわしい青年に成長していきます。実際、皇帝に即位した直後のイヴァンの政治は、腐敗した貴族に厳しく、民衆に優しいものでした。
しかしその一方で、貴族の友人たちと鳥獣を虐殺するなどの二面性も発揮。統治の後期に顕著になってくる彼の二面性は、しかしこの時期にも確実に散見されていたようです。
イヴァン4世(雷帝)の歴史的評価

基本的に「暴君」としてのエピソードが多く、その言葉のイメージによって「暴力的な暗君」というイメージも抱かれがちなイヴァン4世ですが、実のところ彼は、統治者としてはかなり優秀な一面も垣間見せています。
例えば、彼が皇帝に即位してから、一度退位するまでの期間に関してだけを見るなら、彼は非常に優秀な統治者です。腐敗貴族が幅を利かせていた政治体制を改革して中小貴族の発言権の拡大を図ったり、地方自治を認めることで政治の腐敗を防いだり、幅を利かせ過ぎていたロシア正教会を皇帝の下部組織に治めたりと、この期間の彼は「民衆の味方」とも呼ぶべき名君だと言えます。
しかしその一方で、一度退位に追い込まれてからの彼は、そんな「民衆の味方」から「強権的な暴君」へと変貌。逆らうものは躊躇いなく処刑し、民からも貴族からも恐れられる「暴君」の言葉にふさわしい人物に変貌してしまったのです。
暴君化してからの彼のエピソードは、一言で言って「えげつない」ものが非常に多く、それ故にイヴァン4世を語るには、やはり「暴君」という言葉は外せません。
しかし一方で、「腐敗貴族を憎み、民衆の豊かな生活を守ろうとした」側面や時期があったことも、彼を語る上では避けて通ってはならない一面だと言えるでしょう。
イヴァン4世は何故「雷帝」と呼ばれたのか
イヴァン4世が後世において「雷帝」とあだ名されるようになったのは、やはりその「強権的で冷酷な性格」によるところが大きいと言えます。実際、イヴァン4世と同様に「雷帝」とあだ名されたバヤジット1世も、イヴァン4世と似た「処刑や拷問に躊躇しない苛烈な性格だった」という記録が残っている人物です。
ただ、ここで一つ重要なのは、イヴァンに対する「雷帝」という呼び名は、あくまでも日本固有の呼び名であるということです。
ロシアにおいてイヴァン4世は「グローズヌイ(Гро́зный)」という呼び名を得ていますが、その単語の意味は「恐怖を与える」「脅すような」という意味の形容詞であり、「雷」という意味は持っていないのです。
英語圏においても「Ivan the Terrible」と呼ばれ、ここでも「雷」の言葉は使われておらず、つまり「雷帝」というのは、日本語における訳者が「厳しく冷徹なイメージ」を指して「雷帝」と訳したのが浸透した、という程度のものだとみるべきでしょう。
イヴァン4世(雷帝)の最期

暴君になり果て、周囲から恐怖の感情しか向けられなくなってしまった晩年のイヴァン4世は、1581年に決定的で取り返しのつかない失敗を犯すことになってしまいます。
それは、自身の後継者となるはずだった次男の殺害。自身に口答えをした次男に腹を立て、彼は次男とその妻を杖で殴打してしまったのです。我を忘れるほどに激昂したイヴァン4世が正気を取り戻すと、そこには息も絶え絶えの次男と、虫の息の次男の妻が転がっていて、彼らは数日後に息を引き取ってしまいます。
これによって抱えた罪の意識により、かねてより抱えていた不眠症を悪化させたイヴァンは、もはや夢遊病患者に近い精神状態だったとも記録されています。その後悔も相当のものだったようで、彼はここから死ぬまでの間、たびたび修道院に多額の寄進を行ったほか、遺言書には自身の行ってきた所業への懺悔も残しています。
しかし、全ては後の祭り。次男の殺害を機に自身の所業を後悔し、罪悪感に苛まれていたイヴァン4世は、その罪の意識を抱えたまま、1584年にこの世を去ることになるのでした。
イヴァン4世(雷帝)の功績
功績1「現在につながる、広大なロシアの基盤を作った」

現在のロシア連邦と言えば、やはり圧倒的に広い領土を持つ国として有名です。ですがロシアという国は、実は最初から広い領土を支配していたわけではなく、長い時間をかけて少しずつ領土を拡張してきた、下積み時代の長い国家でもありました。
イヴァン4世の時代はその状況が顕著で、実はモスクワ大公国は、イヴァン4世の祖父・イヴァン3世の時代にモンゴル帝国の支配から脱したばかり。そのためイヴァン4世の時代のモスクワ大公国は、実はさほど強い国ではなかったのです。
そのため、イヴァン4世は生涯を通じて領土を拡張することを急務とし、周辺に存在する様々な小国を併合。今のロシア連邦の原型の一部を形作りました。
とはいえ、強豪ひしめく西方への侵略はほとんどが失敗に終わったため、イヴァン4世が領土を広げたのは東方面がほとんど。それも「現在のロシアの基盤」ということには違いありませんが、「大偉業」と呼べるほどの領土拡張ではないことも念頭に置く必要があります。
功績2「聖ワシリイ大聖堂の建築者」

ロシア文化の代表的な建築とされ、「ロシアの観光名所と言えば?」という問いでは必ず名前が挙がる”聖ワシリイ大聖堂”。実はこの大聖堂は、イヴァン4世が戦勝記念に建てさせた建築物なのです。
とはいえ、そこは「雷帝」として名高いイヴァン4世。単純に「美しい大聖堂を建立した」というだけではなく、こんなエピソードも残す結果となってしまっています。
完成した聖ワシリイ大聖堂を見たイヴァン4世は、その設計を行ったポスニフ・ヤーコブレクを呼び出し、彼の目を潰したというのです。理由として「ポスニフがこれ以上に美しいものを作らないように」と語ったというだけに、イヴァン4世の恐ろしさがこれ以上なく語られているエピソードだと言えます。
…が、このエピソードは流石に後世の創作であると証明されています。聖ワシリイ大聖堂が完成した当時のイヴァンの統治は穏やかなものだったので、このエピソードはあくまで「イヴァン4世の恐ろしさ」を語るために作られたデマだと言ってもいいでしょう。
イヴァン4世(雷帝)にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「愛妻家ゆえの狂気」

その激しい気性から、多くの暴君エピソードを残しているイヴァン4世。しかし彼の前期の統治は安定していて、国民からの覚えも非常にいいものだったと言います。そして、その理由としては前期のイヴァンの傍らには、常に”ある女性”が控えていたからだというのです。
その女性というのは、イヴァンの最初の妻であるアナスタシア・ロマノヴナ。
彼女は当時のモスクワ大公国の伝統だった花嫁コンテストでイヴァン4世に見初められた女性で、非常に穏やかな人物だったと記録されています。その穏やかさは、短気で不安定なイヴァン4世を宥めることができるほどであり、彼女が傍らにいる時のイヴァンは、非常に穏やかで理知的な君主の顔をしていたそうです。
しかし、アナスタシアは1560年に突如として死去。原因不明のその死は、イヴァン4世の猜疑心を煽るには十分すぎたらしく、彼は「アナスタシアは誰かに毒殺された」と思いこんで、家臣たちを次々粛清。これによってイヴァンは「暴君」となり果てていくことになってしまうのです。
もしもアナスタシア皇妃が長生きしていれば、イヴァン4世の治世や評価は、全く違ったものになったのかもしれません。
都市伝説・武勇伝2「比類なき著述家であり雄弁家」

歴史家・ヴァシリー・クリュチュフスキー
「虐殺」「粛清」「暴君」という、かなり暴力的な印象を受けるイヴァン4世という人物ですが、実は彼は武力だけでなく、むしろ弁舌などで人の心を掴むのが上手かったという記録が残っています。
その能力が顕著に表れているのは、皇帝に再び即位をする時の事。イヴァンは貴族や正教会には「お前たちが勝手をしたせいでこんな状況になったんだぞ」という厳しい非難の手紙を。そして民衆には「私はお前たちの事は全く恨んでいない。むしろ、私もお前たちも悪徳貴族に苦しめられる仲間だ」という布告を送り、民衆の心をがっちり掴んだのです。
これによって「イヴァン4世VS貴族、正教会」の趨勢は一気にイヴァン4世優勢になり、イヴァンは皇帝に再即位。この状況を良しと見て「非常大権」という凄まじい強権を手中に収めることにも成功し、結果として彼は、貴族と正教会を完全に支配下におさめる形となりました。
その『非常大権』は、結果としてイヴァンの暴政を加速させることに繋がってしまうのですが、イヴァン4世がそんな強権の所持を認めさせてしまうだけの能力を持っていたのは、疑いようのない事実でしょう。
イヴァン4世(雷帝)の簡単年表
また、最愛の妻であるアナスタシアを娶ったのもこの年の事です。
この理不尽な不幸の中で、イヴァン4世はその原因を「自身に反対した貴族や側近のせい」と考えており、アナスタシア皇妃によって宥められていたとはいえ、後の危険な性質を垣間見せています。
そしてイヴァン4世は再びの即位に際して、無制限の権利である「非常大権」を要求。これによって強権を得たイヴァン4世は、凄まじい暴政を働くことになってしまいます。
また、この年から様々な場所での戦争が本格化してきますが、その戦果はいずれも芳しくなく、最終的にイヴァン4世が統治するロシアに残ったのは、疲弊した民と周辺国からの強い恨みだけだったようです。
イヴァン4世(雷帝)の年表
1530年 – 0歳「「待望の後継者」であり「邪悪な子」としての誕生」

「待望の後継者」
イヴァン4世は、モスクワ大公であるヴァシーリー3世と、その二番目の妻であるエレナ・グリンスカヤの間に生まれた子供でした。
当時のヴァシーリー3世には後継者がおらず、イヴァン4世は待望の後継者として、両親から非常に祝福されて生まれた子供だったようです。
「邪悪な子」
一方で、当時のモスクワ大公国に強い影響を及ぼすエルサレム総主教はその誕生を祝福せず、それどころかイヴァン4世の事を「邪悪な子」として半ば呪うように遠ざけていたと記録されています。
実はヴァシーリー3世は、不妊だった先妻を追放してエレナを娶っており、そのことで総主教と対立していたのです。
両親からの祝福と、総主教からの憎悪を受けて生まれてきたイヴァン4世。後の彼が見せる二面性は、もしかするとこのような環境から育まれてきたのかもしれません。
1533年 – 3歳「父の死によってモスクワ大公に即位」

父の死によってモスクワ大公に
この年に、父であるヴァシーリー3世が病によって死去。これによりイヴァン4世は、僅か3歳でモスクワ大公に即位することになりました。
流石に政務については、母であるエレナが摂政となり、様々な貴族たちと共同で統治を行っていましたが、徐々に貴族たちは増長し、イヴァン4世の事を顧みなくなっていきました。
骨肉の権力争いも日常のように行われ、それを間近で見続けることを強いられたイヴァン4世。そんな生い立ちを考えると、後に彼が行なった政策の元となった考えなども想像しやすいかと思われます。
聡明な少年であり、残虐な少年であり
そんな政争の中でも、イヴァン4世は尊敬する府主教・マカリーに教えを受け「神を敬い、礼節を知り、民を愛する皇帝」として成長していきます。
しかしその一方で、貴族の子弟と共に町で乱暴を働いたり、鳥獣を虐殺するなどの二面性を発揮していたことも記録されています。
1547年 – 17歳「”ツァーリ”として即位し、最愛の妻を娶る」

”大公”ではなく”ツァーリ”として即位
イヴァンはこの年、”モスクワ大公”としてではなく、その上の位である”ツァーリ(皇帝)”として戴冠。万民に対して、自身の存在を知らしめることになります。
この時の戴冠の儀式は、イヴァン4世が尊敬する師であるマカリー府主教が執り行い、貴族に支配されかけていた国内で、イヴァン4世とロシア正教会の存在を知らしめる結果となりました。
また、即位直後はイヴァン4世の母方の親族が勢力を伸ばしましたが、そんな彼らも同年のモスクワ対価の責任を取る形で失脚。これによっていよいよ、イヴァン4世自信が政務を行う機会が巡ってきたのです。
最愛の皇妃・アナスタシアを娶る
戴冠式の一月後、当時のモスクワ大公国の伝統であった花嫁コンテストが行われ、イヴァン4世はその中から、アナスタシアという貴族の女性を妻に選びました。
アナスタシアは聡明かつ穏やかな女性で、不安定で怒りっぽいイヴァン4世を上手く宥められる能力を持っていました。尊敬するマカリー府主教と、最愛の皇妃であるアナスタシア。そんな二人に支えられながらの統治は、イヴァン4世の人生の中で最も幸福な期間だったと囁かれています。
1549年~1551年 – 19歳~21歳「改革によって貴族たちの力を削ぐ」

名君としての時代
皇妃アナスタシアと師であるマカリーに支えられながら、イヴァン4世は政務を開始。主に腐敗貴族や聖職者の権利を制限する方向に改革を行い、「名君」と呼ぶにふさわしい統治事業を展開しました。
戦争による領土拡張
また「生産力に劣る北国である以上、領土拡張は急務」と考えたらしいイヴァン4世は、改革がひと段落してから周辺の小国へ侵攻。東方面に向けて勢力を伸ばしていきますが、強豪ひしめく西方面の戦線は停滞し、その現状は後のイヴァン4世の治世に大きな影を落とすことにもなってしまいます。
また、聖ワシリイ大聖堂を建立したのも、東方への遠征の戦勝記念のためだったようです。
1553年 – 23歳「大病と息子の死」

死を覚悟するほどの大病
この年、イヴァン4世は死を覚悟するほどの大病を患い、自身の後継者に生後8か月ほどの長男・ドミートリーを指名します。しかし一部の貴族や聖職者はその使命を拒否し、イヴァン4世の従兄弟を後継者に指名してしまうのです。
これによって貴族層とイヴァン4世の対立は浮き彫りになりますが、イヴァン4世が快癒したことと、”ツァーリ”そのものに反逆した者がいなかったため問題は棚上げに。
イヴァン4世はもやもやしたものを抱えつつ、快癒を神に感謝する巡礼の旅に出ることになります。
巡礼の旅の中、ドミートリーが事故死
しかし、その巡礼の旅の中でイヴァン4世は悲劇に見舞われます。船着き場での事故で、長男のドミートリーが死去してしまうのです。
イヴァンはこの事故を「自身に反対する貴族共の陰謀だ」と捉え、一度怒りをあらわにしましたが自制。ドミートリーを後継者にすることを拒否した貴族数名を処罰するだけに留め、協調路線を貫きました。
しかし、怒りを抑えられない彼の危険な一面は、この時にはすでに顕在化しつつあったと言えるでしょう。
1560年 – 30歳「皇妃アナスタシアの死~暴政の片鱗~」

最愛の妻・アナスタシアの死
一部貴族層との対立の表面化。思うようにいかない西方面の戦線など、この頃のイヴァン4世は非常に苛立っている状況にありました。そしてこの年、それに追い打ちをかけるように、その怒りを宥めてくれていた皇妃アナスタシアが死去。
急激な衰弱死を遂げたアナスタシアの死には「反イヴァン4世派の貴族が関わっている」という噂が流れ、あろうことかイヴァン4世はその噂を妄信してしまいます。
怒りを宥めてくれるアナスタシアはもうおらず、怒りを厳しく咎めてくれる師のマカリーも病に倒れている状況。イヴァン4世の怒りは、もう留まることを知りませんでした。
大粛清~暴君の片鱗~
噂を妄信するイヴァン4世は、明確に「反イヴァン4世」を掲げていた大貴族たちを次々粛清。他にも貴族の権利を著しく制限する法令を発布し、明確に名門貴族と敵対する方針を取りました。
他にも、かねてより停滞していたリトアニア・ポーランドとの戦線が敗色濃厚となると、イヴァン4世は内通者の存在を疑い、名門貴族の数人を続々と処刑。この暴政に耐えかねたモスクワ貴族たちは次々とリトアニアに亡命し、イヴァン4世はいよいよ孤立を深めていくことになりました。
1564年~1565年 – 34歳~35歳「退位宣言と『非常大権』」

退位宣言と大混乱
1564年、イヴァン4世は突如として退位を宣言。貴族や聖職者層との対立を主な原因としての大尉でしたが、これによって政治の実権をほとんどをイヴァン4世が握っていた国内は、大混乱に陥ることになります。
この状況を重く見た大貴族たちは、イヴァン4世に再即位を嘆願。イヴァン4世はこの嘆願に「無制限の非常大権を認めること」を条件として要求し、貴族たちにこれを認めさせました。
そしてこの「無制限の非常大権」こそが、イヴァン4世の後期の暴政を加速させる最大の要因となるのです。
恐怖の”オプリーチニキ”
非常大権を得て再即位したイヴァン4世は、自身の親衛隊である”オプリーチニキ”を結成。彼ら以外を全く信用しない、有名な恐怖政治を展開しました。
いわゆる秘密警察であるオプリーチニキは、イヴァン4世の命令で数々の虐殺に関わり、民衆からは恐怖の対象として見られていたようです。
1570年 – 40歳「ノヴゴロド虐殺」

ノヴゴロド虐殺~もはや完全な暴君へ~
恐怖政治により民衆の心は離れ、西方の侵略は上手くいかず、いざという時の逃げ道と考えたイングランドとの関係も悪化。ほぼ自業自得ですが、イヴァン4世の怒りが抑えられなくなるのは、もはや自明の理でした。
そしてその怒りを発散するように、イヴァン4世は西方の都市であるノヴゴロドが「リトアニアに寝返ろうとしている」と猜疑心を爆発させ、あろうことか無実の街に侵攻。大虐殺を繰り広げる暴挙を犯してしまうのです。
この虐殺による死者は現在も明確に算出されておらず、「2000~3000人ほど」というあいまいな記録だけが犠牲者の数を知る手段になっています。虐殺で生き残った市民も、略奪の爪痕による飢餓に苦しむことになり、もはや実行者であるオプリーチニキは「殺戮集団」の代名詞に。
それを指揮したイヴァン4世を尊敬する声も、もはや国土の何処からも聞こえなくなっていました。
1581年 – 51歳「最愛の子を撲殺~重く、遅すぎる後悔~」

度重なる戦争の結果
ノヴゴロド虐殺以後、イヴァン4世は取り憑かれたように各地に向けて侵略戦争を展開。
負け続けたわけではありませんが、度重なる戦争は国土や国民を疲弊させ、最終的にイヴァン4世の起こした戦争で残ったのは、周辺国からの深刻な憎悪と、疲れ切った国土と国民だけだったとも言われています。
最愛の妻の忘れ形見を撲殺
そして1581年。イヴァン4世は最悪の形で自分の所業を後悔することになってしまいます。
最愛の妻であったアナスタシアの遺した子、イヴァンを撲殺してしまったのです。「自分に口答えをした」という、あまりにも子供じみた理由で我を忘れたイヴァン4世は、息子とその妻を殴打。イヴァン4世が気づいた時には、息子の妻は流産して死亡。息子のイヴァンも頭から血を流し、数日後に帰らぬ人となってしまいました。
あろうことか彼は、最愛の妻が遺した愛すべき我が子を、その時の怒りに身を任せて自ら殺害してしまったのです。
重く、遅すぎた後悔
激情に駆られて実の子を殺害したことは、イヴァン4世に強い後悔を植え付けました。その後の彼は、オプリーチニキの虐殺の犠牲者名簿を作ったり、修道院に多額の寄進を行ったりと罪滅ぼしのような活動を行いますが、全てはもう遅すぎました。
統治前期の冴えは見る影もなく、彼は暴君であり暗君として、周囲からは恐れだけを向けられ、孤独と後悔に苛まれる晩年を送ることになったのです。
1584年 – 54歳「後悔と孤独の中で死去」

後悔の中でこの世を去った「雷帝」
最愛の子を誤殺した事への後悔で心身ともに追い詰められたイヴァン4世は、この年の3月に突如として発作を起こして昏倒。そのまま帰らぬ人となりました。
死因そのものは分かっておらず、脳梗塞などの突然死系の病という線もありますが、臣下による毒殺という線も捨てきれず、真相の解明が待たれるところです。
イヴァン4世の死後は、彼の息子であるフョードル1世が即位しますが、彼には知的障害があったため、実質的な政務は摂政となった貴族連が行なうことになり、奇しくもイヴァン4世の目指した統治とは真逆の統治が展開されることとなるのです。
イヴァン4世(雷帝)の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
スターリンとイヴァン雷帝―スターリン時代のロシアにおけるイヴァン雷帝崇拝
スターリンという近代の人物と絡める形で、イヴァン4世にまつわる歴史の面白さがわかる書籍です。
それぞれの人物については、少しばかり前提知識が必要になりますが、「”解釈”という歴史」の面白さがわかる、現代だからこそ楽しめる歴史書の一冊となっています。
イヴァン雷帝
イヴァン4世という人物の生涯がわかる伝記です。かなり古い本のため、探すとすれば図書館あたりで探す方が良いかと思います。
「虐殺者」としてのイヴァン4世がクローズアップされすぎている感はありますが、そのぶん「虐殺者」の側面の描写は濃い一冊。後述の演劇作品と併せることで、彼の生涯のよい所も悪い所も学ぶことができるかと思います。
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イワン雷帝
『書籍』の2冊目で紹介した者とは真逆の、イヴァン4世の前半生――名君時代をフォーカスした映像作品です。古い作品ですが、映像演出などが非常に美しく、ただそれだけでも見る価値のある作品と言えます。
政治的理由で、完結編である第3部は作られていない未完の作品ですが、第一部と第二部だけでも物語としては完結しているため、イヴァン4世の前半生を知ることは可能です。
ぜひ『書籍』の2冊目と一緒に見てほしい作品となっています。
関連外部リンク
イヴァン4世(雷帝)についてのまとめ
ロシア史上どころか、世界史上でも名高い暴君であるイヴァン4世。しかし彼の生涯を見ていくと、どうにも「暴君」の一言で片づけていい人物ではなさそうな気がします。
もしもアナスタシア皇妃がもっと長生きしていれば。もしもマカリー府主教がもっと彼の近くにいてくれたら。もしもイヴァン4世がアナスタシアやマカリーのように尊敬できる人物が、もっと多くいれば…。
歴史に”もしも”は存在しませんが、それでもその”もしも”を考えざるを得ない人物。ある意味で、もっとも周囲に翻弄された人物こそが、このイヴァン4世という人物なのかもしれません。
それでは、長々としたこの記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました!