イヴァン4世(雷帝)にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「愛妻家ゆえの狂気」
その激しい気性から、多くの暴君エピソードを残しているイヴァン4世。しかし彼の前期の統治は安定していて、国民からの覚えも非常にいいものだったと言います。そして、その理由としては前期のイヴァンの傍らには、常に”ある女性”が控えていたからだというのです。
その女性というのは、イヴァンの最初の妻であるアナスタシア・ロマノヴナ。
彼女は当時のモスクワ大公国の伝統だった花嫁コンテストでイヴァン4世に見初められた女性で、非常に穏やかな人物だったと記録されています。その穏やかさは、短気で不安定なイヴァン4世を宥めることができるほどであり、彼女が傍らにいる時のイヴァンは、非常に穏やかで理知的な君主の顔をしていたそうです。
しかし、アナスタシアは1560年に突如として死去。原因不明のその死は、イヴァン4世の猜疑心を煽るには十分すぎたらしく、彼は「アナスタシアは誰かに毒殺された」と思いこんで、家臣たちを次々粛清。これによってイヴァンは「暴君」となり果てていくことになってしまうのです。
もしもアナスタシア皇妃が長生きしていれば、イヴァン4世の治世や評価は、全く違ったものになったのかもしれません。
都市伝説・武勇伝2「比類なき著述家であり雄弁家」
「虐殺」「粛清」「暴君」という、かなり暴力的な印象を受けるイヴァン4世という人物ですが、実は彼は武力だけでなく、むしろ弁舌などで人の心を掴むのが上手かったという記録が残っています。
その能力が顕著に表れているのは、皇帝に再び即位をする時の事。イヴァンは貴族や正教会には「お前たちが勝手をしたせいでこんな状況になったんだぞ」という厳しい非難の手紙を。そして民衆には「私はお前たちの事は全く恨んでいない。むしろ、私もお前たちも悪徳貴族に苦しめられる仲間だ」という布告を送り、民衆の心をがっちり掴んだのです。
これによって「イヴァン4世VS貴族、正教会」の趨勢は一気にイヴァン4世優勢になり、イヴァンは皇帝に再即位。この状況を良しと見て「非常大権」という凄まじい強権を手中に収めることにも成功し、結果として彼は、貴族と正教会を完全に支配下におさめる形となりました。
その『非常大権』は、結果としてイヴァンの暴政を加速させることに繋がってしまうのですが、イヴァン4世がそんな強権の所持を認めさせてしまうだけの能力を持っていたのは、疑いようのない事実でしょう。
イヴァン4世(雷帝)の簡単年表
8月25日、モスクワ大公であるヴァシーリー3世と、その二番目の妻のエレナの間に生まれました。両親からは「待望の子」として祝福されましたが、エルサレム総主教からは「邪悪な子」と蔑まれる誕生で、決して恵まれた生誕ではなかったようです。
父が病でこの世を去ったことで、3歳にしてモスクワ大公として即位。貴族会議や母であるエレナが政務を代行する状況が長く続き、彼が政治に参加できる年齢になってからも、その意思は国政から無視されるようになっていたようです。
大公よりも上位である”ツァーリ”として戴冠し、イヴァン4世は国のトップとしての地位を明確化。母の生家であり、政治の実権を握っていたグリンスキー家の失脚を機に、イヴァンは自ら政務を執ることになりました。
また、最愛の妻であるアナスタシアを娶ったのもこの年の事です。
ツァーリとなったイヴァン4世は、様々な改革を行って貴族や教会を弱体化。貴族層に厳しく民衆に優しい政治は、庶民層から絶大な支持を集めたそうです。
この年の初め、イヴァンは死を覚悟するほどの大病を患うことに。その病からは回復するも、神に快癒を感謝する巡礼の旅の中で、長子であるドミートリーが事故死する悲劇に見舞われます。
この理不尽な不幸の中で、イヴァン4世はその原因を「自身に反対した貴族や側近のせい」と考えており、アナスタシア皇妃によって宥められていたとはいえ、後の危険な性質を垣間見せています。
この年、突如として最愛の妻であるアナスタシアが死去。数年前から始まっていた戦争の停滞も手伝い、イヴァン4世の危険な性質はここにきて顕在化。怒りを抑えられない暴君として、彼は配下からも危険視されるようになってしまいます。
人心が離れていったことでイヴァン4世は突如として退位を宣言。しかしいざ退位されると、政治が全く回らず、貴族たちは自分たちが追い出したイヴァン4世を、再び呼び戻す羽目になりました。
そしてイヴァン4世は再びの即位に際して、無制限の権利である「非常大権」を要求。これによって強権を得たイヴァン4世は、凄まじい暴政を働くことになってしまいます。
2年前より開始していた露土戦争において、西部の都市であるノヴゴロドが裏切ろうとしているという噂を真に受け、オプリーチニキたちと共にノヴゴロドに侵攻。3000人以上の罪もない民衆が虐殺され、もはやイヴァン4世を尊敬する声は、ロシアの何処からも聞こえなくなっていました。
また、この年から様々な場所での戦争が本格化してきますが、その戦果はいずれも芳しくなく、最終的にイヴァン4世が統治するロシアに残ったのは、疲弊した民と周辺国からの強い恨みだけだったようです。
紛れもない暴君となったイヴァン4世は、自分に口答えをしてきた息子とその妻を杖で滅多打ちにして撲殺してしまいます。そこでふと正気に戻り、彼は今までの所業を後悔したようですが全ては後の祭り。強い罪の意識は、イヴァン4世の精神をどんどん追い詰めていきました。
精神的に追い込まれ、もはやアナスタシア存命時の冴えは見る影もなくなったイヴァン4世は、側近とのチェスの最中に突如失神。そのまま帰らぬ人となりました。死因に関しては多くの説が入り乱れており、現在でも全く分かっていません。
イヴァン4世(雷帝)の年表
1530年 – 0歳「「待望の後継者」であり「邪悪な子」としての誕生」
「待望の後継者」
イヴァン4世は、モスクワ大公であるヴァシーリー3世と、その二番目の妻であるエレナ・グリンスカヤの間に生まれた子供でした。
当時のヴァシーリー3世には後継者がおらず、イヴァン4世は待望の後継者として、両親から非常に祝福されて生まれた子供だったようです。
「邪悪な子」
一方で、当時のモスクワ大公国に強い影響を及ぼすエルサレム総主教はその誕生を祝福せず、それどころかイヴァン4世の事を「邪悪な子」として半ば呪うように遠ざけていたと記録されています。
実はヴァシーリー3世は、不妊だった先妻を追放してエレナを娶っており、そのことで総主教と対立していたのです。
両親からの祝福と、総主教からの憎悪を受けて生まれてきたイヴァン4世。後の彼が見せる二面性は、もしかするとこのような環境から育まれてきたのかもしれません。
1533年 – 3歳「父の死によってモスクワ大公に即位」
父の死によってモスクワ大公に
この年に、父であるヴァシーリー3世が病によって死去。これによりイヴァン4世は、僅か3歳でモスクワ大公に即位することになりました。
流石に政務については、母であるエレナが摂政となり、様々な貴族たちと共同で統治を行っていましたが、徐々に貴族たちは増長し、イヴァン4世の事を顧みなくなっていきました。
骨肉の権力争いも日常のように行われ、それを間近で見続けることを強いられたイヴァン4世。そんな生い立ちを考えると、後に彼が行なった政策の元となった考えなども想像しやすいかと思われます。
聡明な少年であり、残虐な少年であり
そんな政争の中でも、イヴァン4世は尊敬する府主教・マカリーに教えを受け「神を敬い、礼節を知り、民を愛する皇帝」として成長していきます。
しかしその一方で、貴族の子弟と共に町で乱暴を働いたり、鳥獣を虐殺するなどの二面性を発揮していたことも記録されています。
1547年 – 17歳「”ツァーリ”として即位し、最愛の妻を娶る」
”大公”ではなく”ツァーリ”として即位
イヴァンはこの年、”モスクワ大公”としてではなく、その上の位である”ツァーリ(皇帝)”として戴冠。万民に対して、自身の存在を知らしめることになります。
この時の戴冠の儀式は、イヴァン4世が尊敬する師であるマカリー府主教が執り行い、貴族に支配されかけていた国内で、イヴァン4世とロシア正教会の存在を知らしめる結果となりました。
また、即位直後はイヴァン4世の母方の親族が勢力を伸ばしましたが、そんな彼らも同年のモスクワ対価の責任を取る形で失脚。これによっていよいよ、イヴァン4世自信が政務を行う機会が巡ってきたのです。
最愛の皇妃・アナスタシアを娶る
戴冠式の一月後、当時のモスクワ大公国の伝統であった花嫁コンテストが行われ、イヴァン4世はその中から、アナスタシアという貴族の女性を妻に選びました。
アナスタシアは聡明かつ穏やかな女性で、不安定で怒りっぽいイヴァン4世を上手く宥められる能力を持っていました。尊敬するマカリー府主教と、最愛の皇妃であるアナスタシア。そんな二人に支えられながらの統治は、イヴァン4世の人生の中で最も幸福な期間だったと囁かれています。
1549年~1551年 – 19歳~21歳「改革によって貴族たちの力を削ぐ」
名君としての時代
皇妃アナスタシアと師であるマカリーに支えられながら、イヴァン4世は政務を開始。主に腐敗貴族や聖職者の権利を制限する方向に改革を行い、「名君」と呼ぶにふさわしい統治事業を展開しました。
戦争による領土拡張
また「生産力に劣る北国である以上、領土拡張は急務」と考えたらしいイヴァン4世は、改革がひと段落してから周辺の小国へ侵攻。東方面に向けて勢力を伸ばしていきますが、強豪ひしめく西方面の戦線は停滞し、その現状は後のイヴァン4世の治世に大きな影を落とすことにもなってしまいます。
また、聖ワシリイ大聖堂を建立したのも、東方への遠征の戦勝記念のためだったようです。
1553年 – 23歳「大病と息子の死」
死を覚悟するほどの大病
この年、イヴァン4世は死を覚悟するほどの大病を患い、自身の後継者に生後8か月ほどの長男・ドミートリーを指名します。しかし一部の貴族や聖職者はその使命を拒否し、イヴァン4世の従兄弟を後継者に指名してしまうのです。
これによって貴族層とイヴァン4世の対立は浮き彫りになりますが、イヴァン4世が快癒したことと、”ツァーリ”そのものに反逆した者がいなかったため問題は棚上げに。
イヴァン4世はもやもやしたものを抱えつつ、快癒を神に感謝する巡礼の旅に出ることになります。
巡礼の旅の中、ドミートリーが事故死
しかし、その巡礼の旅の中でイヴァン4世は悲劇に見舞われます。船着き場での事故で、長男のドミートリーが死去してしまうのです。
イヴァンはこの事故を「自身に反対する貴族共の陰謀だ」と捉え、一度怒りをあらわにしましたが自制。ドミートリーを後継者にすることを拒否した貴族数名を処罰するだけに留め、協調路線を貫きました。
しかし、怒りを抑えられない彼の危険な一面は、この時にはすでに顕在化しつつあったと言えるでしょう。