アッシリア王国とは?残酷だった?歴史や誕生・滅亡の理由なども徹底解説

世界史の授業で聞いた『アッシリア王国』ってどんな国だったんだろう?」
「アッシリア王国やアッシリア人って残酷だったの?」
「メソポタミアを統一したらしいけど、どうしてそんなことができたんだろう?」

世界史を学ぶ過程で、このように考えていた人も多いのではないでしょうか。

アッシリア王国は紀元前2000年ごろ、チグリス川・ユーフラテス川の上流域にアッシリア人が建国した国です。しかし、世界史の授業では「アッシリア王国」について掘り下げて学ぶことは少ないですよね。

この記事では、アッシリア王国の誕生から滅亡までの簡単な流れや、なぜメソポタミアを統一できたのかについて解説します。また、アッシリア王国についての豆知識もご紹介しますので、楽しみにしていてください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

アッシリア王国とは

チグリス川の上流域でアッシリア王国が誕生

はじめにも言いましたが、アッシリア王国は紀元前2000年ごろ、チグリス川・ユーフラテス川の上流域にアッシリア人が建国した国です。

チグリス川・ユーフラテス川といえば「メソポタミア文明」が思い浮かびますが、建国当時のアッシリア王国は北メソポタミアの一部に過ぎませんでした。その国が徐々に領土を拡大し、紀元前7世紀前半にはエジプトにまで領土がおよんだのです。

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現在も中東にはアッシリア人という少数民族の人々がいます。けれども、今回ご紹介する「アッシリア王国」のアッシリア人とは遺伝的につながっているかどうかは不明です。

現在のアッシリア人は、迫害を受けたり異民族との競合をしたりしながら、主にイラクやシリア、イランなどで暮らしています。

アッシリア王国の誕生から滅亡までの歴史

アッシリア王国がメソポタミアを統一した流れ

メソポタミア文明が栄えたユーフラテス川

アッシリア王国が建国された北メソポタミア地方に人間が住み始めたのは、紀元前6000年ごろだといわれています。

北メソポタミアはチグリス川・ユーフラテス川のほとりではありますが、海抜500メートルほどで2つの川の上流域にあたるため、下流域の南メソポタミア(バビロニア)のように川が運んでくる養分たっぷりの土に頼った農業はなかなかできませんでした。そのため北メソポタミアでは、中継貿易を中心に経済が回ることになりました。

紀元前2500年ごろになると、後にアッシリア王国の首都となるアッシュルに人々が移り住み始め、カルフやアルベラなどアッシリア王国の中心的都市となる場所の基礎もできあがりはじめます。

このころには既に都市国家として独自の政治体制をもっていたようです。そして紀元前2000年ごろ、それまでメソポタミアを支配していたウル第3王朝の滅亡とともにアッシリア王国が歴史に姿を表し始めました。

紀元前14世紀の貴重な資料であるアマルナ文書

紀元前15世紀には一時ミタンニ王国に服従したものの、紀元前1365年からのアッシュール・ウリバト1世の時代には独立を取り戻します。その頃のオリエントには、ミタンニをはじめヒッタイト、バビロニア、エジプトなどの強国が君臨していました。

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アッシリア王国はミタンニを倒したことでその領土を獲得し、続いてヒッタイト、バビロニアにも勝ったことでオリエント世界に名をとどろかせることになります。

その後、「前1200年のカタストロフ」という民族大移動が起こり一時勢力を弱めますが、この混乱を収め王たちは盛んに遠征を繰り返します。そして紀元前744年からのティグラト・ ピレセル3世の治世でついにメソポタミアを統一、オリエント世界最初の統一国家となりました。

アッシリア王国が滅亡した理由

ピンク色の部分がアッシリア王国最大領域
出典:Wikipedia

メソポタミアとエジプトを支配下に置いたものの、アッシリア王国は統一国家となってから100年も経たずに滅亡してしまいます。なぜでしょうか。

王家の内紛なども理由の1つとされていますが、1番はアッシリア王国の統治があまりにも厳しく、被支配民族から不満が噴出したことでしょう。アッシリア王国は、被支配国の住民を強制移住させたり、重労働や重い税を課すなど苛烈な支配を繰り返しました。広い領土と多様な民族を統治するには問題のある方法だったのです。

加えて、北方からは遊牧騎馬民族のスキタイなどが来襲するなど統一国家といっても常に外敵にさらされていました。領土内でも反乱が相次ぎ、ついに紀元前625年には新バビロニアがアッシリア王国からの独立を果たします。

紀元前612年の「ニネヴェの戦い」では、新バビロニアや現在のイラン北西部にあたるメディア王国の攻撃を受けて、アッシリア王国の首都ニネヴェが陥落しました。

首都陥落を受けて亡命政権がハランに誕生し、即位したアッシュール・ウリバト2世はエジプトの王・ネコ2世とともに新バビロニアに立ち向かいました。しかしこれも紀元前609年には崩壊、アッシリア王国は滅亡しました。

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