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アッシリア王国とは?歴史や誕生・滅亡の理由、伝説の女王なども徹底解説

「世界史の授業で聞いた『アッシリア王国』ってどんな国だったんだろう?」
「メソポタミアを統一したらしいけど、どうしてそんなことができたんだろう?」

世界史を学ぶ過程で、このように考えていた人も多いのではないでしょうか。世界史の授業では「アッシリア王国」について掘り下げて学ぶことは少ないですよね。

この記事では、アッシリア王国の誕生から滅亡までの簡単な流れや、なぜメソポタミアを統一できたのかについて解説します。また、アッシリア王国についての豆知識もご紹介しますので、楽しみにしていてください。

アッシリア王国とは

チグリス川

アッシリア王国は紀元前2000年ごろ、チグリス川・ユーフラテス川の上流域にアッシリア人が建国した国です。チグリス川・ユーフラテス川といえば「メソポタミア文明」が思い浮かびますが、建国当時のアッシリア王国は北メソポタミアの一部に過ぎませんでした。その国が徐々に領土を拡大し、紀元前7世紀前半にはエジプトにまで領土がおよんだのです。

現在も中東にはアッシリア人という少数民族の人々がいます。けれども、今回ご紹介する「アッシリア王国」のアッシリア人とは遺伝的につながっているかどうかは不明です。現在のアッシリア人は、迫害を受けたり異民族との競合をしたりしながら、主にイラクやシリア、イランなどで暮らしています。

アッシリア王国の誕生から滅亡まで

ユーフラテス川

アッシリア王国がメソポタミアを統一した流れ

アッシリア王国が建国された北メソポタミア地方に人間が住み始めたのは、紀元前6000年ごろだといわれています。北メソポタミアはチグリス川・ユーフラテス川のほとりではありますが、海抜500メートルほどで2つの川の上流域にあたるため、下流域の南メソポタミア(バビロニア)のように川が運んでくる養分たっぷりの土に頼った農業はなかなかできませんでした。そのため北メソポタミアでは、中継貿易を中心に経済が回ることになりました。

紀元前2500年ごろになると、後にアッシリア王国の首都となるアッシュルに人々が移り住み始め、カルフやアルベラなどアッシリア王国の中心的都市となる場所の基礎もできあがりはじめます。このころには既に都市国家として独自の政治体制をもっていたようです。そして紀元前2000年ごろ、それまでメソポタミアを支配していたウル第3王朝の滅亡とともにアッシリア王国が歴史に姿を表し始めました。

紀元前14世紀の貴重な資料であるアマルナ文書

紀元前15世紀には一時ミタンニ王国に服従したものの、紀元前1365年からのアッシュール・ウリバト1世の時代には独立を取り戻します。その頃のオリエントには、ミタンニをはじめヒッタイト、バビロニア、エジプトなどの強国が君臨していました。アッシリア王国はミタンニを倒したことでその領土を獲得し、続いてヒッタイト、バビロニアにも勝ったことでオリエント世界に名をとどろかせることになります。

その後、「前1200年のカタストロフ」という民族大移動が起こり一時勢力を弱めますが、この混乱を収め王たちは盛んに遠征を繰り返します。そして紀元前744年からのティグラト・ ピレセル3世の治世でついにメソポタミアを統一、オリエント世界最初の統一国家となりました。

アッシリア王国が滅亡した理由

ピンク色の部分がアッシリア王国最大領域

メソポタミアとエジプトを支配下に置いたものの、アッシリア王国は統一国家となってから100年も経たずに滅亡してしまいます。なぜでしょうか。

王家の内紛なども理由の1つとされていますが、1番はアッシリア王国の統治があまりにも厳しく、被支配民族から不満が噴出したことでしょう。アッシリア王国は、被支配国の住民を強制移住させたり、重労働や重い税を課すなど苛烈な支配を繰り返しました。広い領土と多様な民族を統治するには問題のある方法だったのです。

加えて、北方からは遊牧騎馬民族のスキタイなどが来襲するなど統一国家といっても常に外敵にさらされていました。領土内でも反乱が相次ぎ、ついに紀元前625年には新バビロニアがアッシリア王国からの独立を果たします。紀元前612年の「ニネヴェの戦い」では、新バビロニアや現在のイラン北西部にあたるメディア王国の攻撃を受けて、アッシリア王国の首都ニネヴェが陥落しました。

首都陥落を受けて亡命政権がハランに誕生し、即位したアッシュール・ウリバト2世はエジプトの王・ネコ2世とともに新バビロニアに立ち向かいました。しかしこれも紀元前609年には崩壊、アッシリア王国は滅亡しました。

アッシリア王国がメソポタミアを統一できた理由

鉄器の製造技術

ヒッタイト人から製鉄技術を学んだ

アッシリアがメソポタミアを統一できたのは、製鉄技術が発達していたため性能のよい武器や戦車などを作れたことで軍事力が上がったからと考えられています。

アッシリアがまだ小国に過ぎなかったころ、小アジアを中心に王国を建国していたヒッタイトの人々は西アジアで最初に鉄器を使用したと言われています。既にヒッタイト王国のある地域で暮らしていた先住民が製鉄技術に長けていて、ヒッタイトの人々はその製鉄技術を学び、国力をつけてゆきました。

ヒッタイトは紀元前1200年ごろ、「海の民」の侵攻によって滅び去れてしまいます。そのおかげでそれまでヒッタイトが独占していた製鉄技術がオリエント世界各地に拡散し、アッシリアでも鉄を作ることができるようになりました。

強大な軍事力

ティグラト・ピレセル3世

アッシリア王国がメソポタミアを統一したときの王であるティグラト・ピレセル3世の治世は革命的でした。王は帝国主義的な政治に切り替え、アッシリアに服従した国は属国として、抵抗した国は滅ぼして領地とし、属州にしました。

また、大規模な軍制改革を行いました。それまで、アッシリアの軍隊は自由農民や奴隷たちによって構成されていました。ティグラトピレセル王は属州や属国から徴兵されてきて訓練を受けた職業軍人を育成し、戦いがあるときだけ軍隊を作るのではなく常備しておくことにしました。

戦車にも改良を加えました。それまではスポークが6本の車輪の小型馬車を2頭の馬にひかせ、2人で乗っていましたが、スピードは出るのですが壊れやすく安全性に欠けるものでした。王の軍事改革後の戦車は8本スポークの車輪の大型馬車で、3頭の馬がひき3人で乗り込むことができました。

2人乗りの戦車には弓を射る軍人が乗るだけだったのですが、3人乗りになると馬を操る御者、弓を射る兵、そして盾で守る兵が乗れるようになりました。このおかげで攻撃する兵は攻撃に集中でき、また防御力も上がりました。ティグラト・ピレセル王の軍制大改革によってアッシリアの兵力は上がり、メソポタミアを統一するに至ったのです。

アッシリア王国の豆知識・雑学

伝説の女王・セミラミス

エドガー・ドガの「バビロンを建設するセミラミス」

セミラミスとは、紀元前8世紀ごろのアッシリアの伝説上の女王です。あくまで伝説上であって実在したわけではないのですが、絵画やオペラなどのモチーフとしてよく描かれてきました。モデルとなったのは紀元前9世紀の王妃・サンムラマートで、彼女の話がギリシャに伝わって伝説の女王・セミラミスとなりました。

伝説では、美しく知性をもった存在として描かれたり、贅沢で男好きな残虐無慈悲な女王として描かれたりしています。最もポピュラーな説によれば、「セミラミス」とはアッシリア語で「鳩」を意味し、その名の通り彼女は鳩によって育てられたとされています。魚の女神とシリア人男性の間に生まれたのですが、幼いころ捨てられてしまったのです。

成長したセミラミスはアッシリアの首都・ニネヴェを築いた王・ニヌスに寵愛され、息子・ニニュアスを授かります。息子が生まれた後、ニヌス王はセミラミスを女王として亡くなるのですが、これには「セミラミスが王を毒殺した」という伝説もあり、世界最古の毒殺事件とされています。

セミラミスは野心的な女王で、バビロニアに都市を建設したりメディア王国やインドに出兵したりしました。かっこいい兵士を選んでは交わり、後にその者を殺すなどの好色で残虐な伝説も残っています。最後は息子・ニニュアスに殺された説と、息子の謀反を知り鳩になって昇天した説などがあります。

アッシリア学

楔形文字を使っていた文明・文化の研究を「アッシリア学」といいます。楔形文字メソポタミア文明で使われていた文字で、人類の歴史の中でも最も古い文字の1つです。最古の出土品は紀元前3400年前のものとされています。

楔形文字を使っていた民族は多く、アッシリア人をはじめシュメール人、ヒッタイト人など古代に西アジアの全域に及びます。古代メソポタミアの遺跡を発掘していく中で最初に知られたのがアッシリアの遺跡とアッシリア語だったので、楔形文字を解読する学問を「アッシリア学」と呼ぶようになりました。

アッシリア学では諸民族の言語や歴史、政治や経済、宗教や文学などありとあらゆることが研究されています。けれども最近の研究が飛躍的に進歩したため「アッシリア学」とひとことでまとめるのが難しくなり、現在では「シュメール学」「ヒッタイト学」など各民族の名前のついた学問に枝分かれしてきています。

アッシュールバニパル王の図書館

「ライオン狩り」のレリーフに描かれるアッシュールバニパル王

アッシュールバニパル王は紀元前668年からアッシリアを治めていた王で、「アッシリア最後の偉大な支配者」といわれています。王の治世は紀元前631年(627年とする説もあり)まで続いたのですが、アッシュールバニパルの亡くなった後20年も経たずにアッシリアは滅亡してしまいました。

アッシュールバニパルは文化や芸術に情熱をもっていたといわれていて、アッシリア美術も彼の治世のころが最も洗練されています。そして、アッシュールバニパルの偉業とされているのが「アッシュールバニパルの図書館」です。

紀元前7世紀に、アッシリアの首都・ニネヴェのクユンジクの丘に建てられた図書館で、遺跡からは王室の記録や年代記、神話などが記録された粘土板が3万点以上見つかっています。1849年から発掘が進められたそれらの粘土板は、ほとんどが大英博物館に保管されています。

世界最古の文学作品とされる「ギルガメシュ叙事詩」などもこの遺跡から発掘されていて、アッシュールバニパル王が文化や文学・芸術に造詣が深かったことが分かります。

アッシリア美術

アッシリアのレリーフ

アッシリア美術は、アッシリア王国全盛期の紀元前10世紀ごろにその特徴が確立されました。日干しレンガや焼成レンガを使った王宮の遺跡が、現在のイラクやシリアなどに残されています。しかし、度重なる内戦やイスラム国の爆撃などで壊されてしまったものも多数あります。

アッシリア美術はなんといってもレリーフが美しいです。レリーフとは浮彫のことで、図像や模様が浮き上がるように平らな面を彫りこまれた彫刻の一種です。アッシリアのレリーフは戦闘や狩猟、朝貢する人々の列など、王権や帝国の威厳を示すモチーフが多くあります。

彩釉(さいゆう)レンガに浮彫を施すのもアッシリア美術独自のものです。「彩釉レンガ」とは、とはレンガの表面に釉薬を塗って色をつけたもので、古代オリエント世界や明・清時代の中学でよく使われました。

アッシリアに関するまとめ

アッシリア王国について、その誕生や滅亡などを解説してきました。いかがでしたでしょうか?

近年、アッシリア学は急速に進んでアッシリアをはじめ古代オリエント世界も徐々に解明されつつあります。けれども、どんなことでもそうですが知れば知るほど気になってきますし、逆説的ですが分からないことも増えていきます。筆者は歴史のそのような部分がとても面白いと感じています。

この記事を読んだあなたが、アッシリアという国やそこに生きた人々に思いを馳せてくれると嬉しいです。

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