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メソポタミア文明とは?歴史や文化、遺跡や場所について紹介【地図つき】

「メソポタミア文明ってなに?簡単に知りたい!」
「メソポタミア文明はどんな特徴があるのか、詳しく学びたい!」
「メソポタミア文明の歴史や遺跡についても教えてほしい。」

この記事を読んでいる方はこのように思っているのではないでしょうか?メソポタミア文明は、古代四大文明の一つです。その他の文明「エジプト文明」「インダス文明」「黄河文明」の中で、最も早く歴史の教科書に登場する文明でもあります。

近年はFGOなどスマホゲームの舞台になっていることもあり、ご存知の方も多いでしょう。

そんなメソポタミア文明ですが、その歴史はいまだにすべて解明できていません。遺跡の発掘や出土したものの解読が今も続いています。

そこでこの記事では、メソポタミア文明について簡単かつ詳しく解説します。誕生から滅亡までの歴史はもちろん、川との関係や文化、経済、遺跡までご紹介します。メソポタミア文明の世界を楽しんでいただければ幸いです。

メソポタミア文明とは?

メソポタミア文明の地図

メソポタミア文明とは、ティグリス川とユーフラテス川の二つの川の間にできた、人類最古の都市文明です。エジプト文明と並んであげられる、古代文明の一つでもあります。

そんなメソポタミア文明は、一体どのような歴史を歩んだのでしょうか。簡単にまとめたので、見てみましょう。

メソポタミア文明について簡単に紹介

メソポタミア文明の歴史は、民族の興亡の歴史です。

最初は農耕から始まり、青銅器が生まれ、楔形文字と粘土板によって文明は発達していきました。初めにメソポタミア文明を発達させたのはシュメール人です。

シュメール人の像

彼らは文字と銅器の他に、多神教を基本とした神殿やギルガメッシュ叙事詩などの文化を生み出しました。文化が生まれ、安定してからは民族の移動、興亡の流れが加速します。

シュメール人、セム系のアッカド人、東方のエラム人、西方のアムル人などの民族が互いを攻め、滅ぼしあいました。最後はアムル人のバビロニア王国が勝利し、150年ほどメソポタミアを支配します。

有名なハンムラビ法典の制定、交通網の整備など、国の形を整えていったバビロニア王国ですが、インドからきたヒッタイト人により滅亡しました。

メソポタミアを支配した国の勢力図

この頃のメソポタミアは、外の世界の民族が移動してきた時代です。ヒッタイト人と同じインドから、カッシート人やミタンニ人が流れこみ、それぞれ王国を成立しました。彼らとともに、西アジアの鉄器文化がメソポタミアに持ち込まれ、後のアッシリア帝国誕生に影響します。

アッシリア帝国の戦士

アッシリア帝国は、いち早く鉄器文化を受け入れて強大な軍事力を手に入れた、西アジア初の帝国です。彼らはメソポタミアとエジプトを支配し、二つの文明が合わさったオリエント文明が生まれます。

そしてアッシリア帝国が滅亡後、統一されていたメソポタミアとエジプトは再び分裂しました。

その後は新バビロニア王国やリディア王国、メディア王国が生まれ、メソポタミアの文明を引き継ぎます。やがて、アケメネス朝がそれらの三国を滅ぼし、メソポタミアを支配しました。

しかし、200年ほど続いたペルシア帝国は、ギリシア人のアレクサンドロス大王の侵攻によって滅ぼされます。メソポタミア文明はギリシア文明、エジプト文明と融合し、忘れ去られていきました。

メソポタミア文明の要「ティグリス川とユーフラテス川」

ティグリス川とユーフラテス川

ティグリス川とユーフラテス川、二つの川はメソポタミア文明の形成に大きな影響を与えました。

実はメソポタミアという名前は、ギリシア語で「川の間の地域」を意味します。上で挙げたシュメール文明やバビロニア王国は、二つの川の流域に存在しています。二つの川はたびたび大洪水を起こしており、下流に広大で肥沃な平野を形成し、農業を育みました。

農業の発達によって生まれた余裕は人の数を増やし、文化を育て、発展を促しました。

特に川による大洪水はメソポタミアの文化に大きな影響を与えます。大洪水が運ぶ土は農業に使われ、積み重なった泥は粘土板とレンガの材料になり、文字や経済、建築物を発展させました。

また洪水の時期を予測するために、天文学が発達して、月の満ち欠けを元にした暦が生まれました。

このように、ティグリス川、ユーフラテス川はメソポタミア文明の形成に大きく関わっています。

メソポタミアは神殿共同体を生成した

メソポタミア文明の神殿ジッグラト

メソポタミア文明の文化形成には、宗教が大きく関わっています。

メソポタミアの地形は低く平坦で、ティグリス川とユーフラテス川はひんぱんに氾濫して洪水を起こしました。また乾燥が激しく、厳しい干ばつもありました。これら自然の脅威は、等しくすべての人間に襲いかかりました。

こうした自然と闘ってきたため、メソポタミアの人々は「特別な人間はおらず、神の前ではみな同じ」といった思想を持ちます。そのため、エジプトのように特別な人間が王になる、といったことはありませんでした。

ですが、人々を統治する存在がいなかったわけではありません。

メソポタミア文明ではかなり早い段階で、複雑な宗教儀式が存在していました。豊作を祈願していけにえを捧げる、といった宗教的な祭儀は時が経つにつれ、複雑になります。やがて、複雑化した儀礼を執り行う専門家として、神官という職業が生まれました。

神官は文化、宗教の維持が主な仕事だった

神官は神の代弁者として、行政や交易などを取り仕切るようになります。

なかでも王は神の代理人でもありました。神の代理人という概念は神官階級の権力をより強くします。また、交易によって各地から寄せられた品々も、それを後押ししました。

国にとって重要な職務についていた彼らは経済的に特別な権利を与えられ、特殊な技能や知識の習得に務めることができました。人類で初めて、教育制度が誕生した瞬間です。

このように、メソポタミアの宗教は行政や経済と深い関係がありました。

メソポタミア文明の言語・書物

メソポタミア文明の象徴「楔形文字」

粘土板に刻まれた楔形文字

楔形文字とは、シュメール人によって作られた最古の文字です。

楔形文字の特徴は、葦で作ったペンを粘土を薄く板状にした粘土板に押し付けて、楔形の文字を刻んでいることです。普通、文字を書くものと言えば紙が思い浮かびます。

しかしメソポタミア地域は、紙の材料となる植物が乏しく、代わりに粘土が大量にありました。紙がなかったため、大量にあった粘土に目をつけたのでしょう。曲線がほぼない楔形文字は、粘土に文字を書くうえで困難だったからこその形状です。

楔形文字の主な利用方法は、行政や経済の記録でした。奴隷や家畜、品物を数えたり、穀物の量を測って記録したり、土地の面積を計算するために使われたりと、楔形文字はメソポタミア文明の発展を手助けする非常に重要なツールだったのです。

楔形文字について、もっと詳しく知りたい方はこちらの記事もどうぞ。

楔形文字とは?読み方や解読の経緯、特徴を紹介【50音表付】

世界最古の文学作品「ギルガメシュ叙事詩」

ギルガメシュ叙事詩

ギルガメシュ叙事詩は、楔形文字で記された世界最古の文学作品です。物語は十二枚の粘土板から成り立っています。内容は、ウルクの王ギルガメシュが女神イシュタルの誘惑を振り切ったり、不死の薬草を求めて旅をする、という話です。

ギルガメシュ叙事詩には、旧約聖書にあるノアの方舟の元になったと考えられている『洪水伝説』が記されています。

「目には目を」「歯には歯を」でおなじみ「ハンムラビ法典」

ハンムラビ法典は紀元前1700年頃にメソポタミアを統一したハンムラビ王が、国家統一のために今までの法律をまとめたものです。

内容は大きく分けて、同害復讐法と身分法の二つです。同害復讐法とは「目には目を」「歯には歯を」と、やられたら同じだけやり返すと行った趣旨の法です。

ただし、よく勘違いされるのですが、この法律は復讐を進めているわけではありません。むしろ、相手にやられた以上のことはしてはいけない、というものです。

次に身分法とは、身分によって、刑罰に差が生まれる法です。当時のメソポタミアでは三つの身分があり、下の者が上の者を傷つけた場合、傷つけた以上の罰が待っていました。対して、上の者が下の者を傷つけた場合、罰は軽く、お金を払うだけで許されることもありました。

上記以外にも、ハンムラビ法典には賃金や離婚、医療費などさまざまな問題の解決について書かれていました。

このように国民が守るべき法を明確に定めたことで、国の社会性を作っただけでなく、将来の王へ公平さを伝える手本書の役割を果たしました。

「目には目を」で有名なハンムラビ法典とは?内容や特徴、成り立ちを解説

メソポタミア文明とエジプト文明の違い

メソポタミア文明とエジプト文明

メソポタミア文明とエジプト文明の大きな違いは、歴史です。

メソポタミア文明とエジプト文明は、ユーフラテス川・ティグリス川流域、ナイル川流域と両方とも川の近くで発展しました。一見すると同じ環境に思える2つの文明の歴史が、なぜ大きく異なったのでしょうか。

その秘密は、地形にあります。

メソポタミアは土地が低く、外敵が入りやすい地形をしていました。そのため、さまざまな民族が入ってきては争い、発展しては滅亡するを繰り返します。結果、複雑で変化の激しい歴史となったのです。

対してエジプトは、外敵が侵入しにくい地形をしていました。敵が入って来なかったため、同じ系統の民族による治世が長く続き、メソポタミアと比べると安定した歴史となったわけです。

メソポタミア文明の文化

【暦】太陰暦を使用していた

月の満ち欠けを基準に時間の流れを把握した

太陰暦とは、月の満ち欠けを基準にする暦の方法です。

メソポタミアではこの太陰暦を使用していましたが、このまま使用すると一年が十一日ほど短くなることがわかっていました。その調整のために、十二ヵ月に、閏月を入れた十三ヵ月で時間の流れを表していました。

また現在の時間の単位になっている、一週間を七日としたのもメソポタミア文明です。これらの功績は、占星術の発達も促し、カルデア人の知恵と呼ばれました。

【経済】エジプト文明やインダス文明と交易していた

メソポタミアのシュメールは大きな港町でもあった

メソポタミアの経済は、交易を中心としていました。

メソポタミア地域は、農耕に向いた肥沃な土地でしたが、木材や金属、石などの生活に必要な資源が不足していました。そのため、周辺地域との交易は必要不可欠です。その範囲は広く、エジプト文明やインダス文明とも交易があったと見られています。

メソポタミアからは大量に取れた穀物などの食料品を、メソポタミアの外からは銅などの金属類や装身具、ラピスラズリ、木材、石灰岩、玄武岩などが持ち込まれました。

交易によって集められた食物など生活に必要なものは蓄えられ、宮殿や都市の門で分配されます。経済にはさらに良い流れが生まれ、文化を発展させました。

また、古バビロニア王国のハンムラビ法典では、損害賠償や負債の取り消し、報酬、等価概念などの経済的な概念が法律によってルール化されていました。

【農業】大麦からビールも作っていた!?

川よりも土地が低かったため、畑まで簡単に水を引けた

メソポタミア文明の経済を全面的に支えたのは、農業です。

乾燥の激しいメソポタミアでは、主に灌漑(かんがい)農業を行っていました。灌漑農業とは、作物の成長に必要な水を雨水に頼るのではなく、人口的な用水路やため池、地下水を使って得る方法です。

メソポタミア南部は水気の多い土地で、鉄で作られた農具がなくても簡単に耕せます。そのため、用水路を作って、作物のための水を確保していました。作物は大麦や小麦、アワ、ごまなどが大量に栽培されました。

中でも重要なのが大麦です。メソポタミア地帯は塩分の多い土地でしたが、大麦は塩害に強く、メソポタミア地帯で耕作するにはうってつけの作物でした。さらに貯蔵ができたため人々の生活に余裕が生まれます。農耕によって余った時間は文化を生むきっかけを作り、メソポタミアの文明発展に大きく貢献しました。

また、メソポタミアはビールを誕生させた文明とも言われています。メソポタミア文明では、収穫した大麦をおかゆにして食べていました。そのおかゆを放置していたところ、偶然にも酵母が入り、自然に発酵してビールが生まれたのでは、と言われています。

ストローを使ってビールを飲んでいた

実際に、紀元前3000年頃の粘土板にはビールの記述があります。「楽しみはビール、いやなものは戦争」と粘土板の文書にあり、日常的に飲まれていたようです。わたしたちのように、労働のあとのおいしい一杯を楽しんでいたのかと思うと、メソポタミアの人々が近くに感じますね。

このように、メソポタミアの農業はさまざまな文化を生み出す土壌となりました。

メソポタミア文明の遺跡

シュメール人の王が埋葬されている「ウル遺跡」

ウル遺跡の美しいジッグラト

ウル遺跡は、現在のイラク領ジーカール県ナーシリーヤ近郊にあります。

シュメール都市の中でも重要な都市遺跡で、ウル王墓と呼ばれるシュメール人の王の墓が発見されており、当時の生活や政治について多くのことがわかっています。

また、ウル遺跡は巨大なジッグラトでも有名です。ジッグラトとは、日干しレンガで作られた階段状の神殿のことです。メソポタミア文明では、シュメールの神々は高い場所に宿る、と考えられていました。そのため、メソポタミアの人々は高い場所のない平野に、ジッグラトを作ったのです。

ジッグラトはメソポタミアの各地で作られました。中でもウルの遺跡のジッグラトは、現在存在するジッグラトの中で最も保存状態が良いと言われています。

イラク周辺は危険地帯のため、気軽におすすめはできませんが、ウル遺跡のジッグラトには一見の価値があります。治安が安定し、安全に観光ができるようになったらぜひ、行ってみてください。

いまだほとんどが発掘されていない「バビロン遺跡」

イシュタル門はここにあった

バビロン遺跡は、イラクの首都バグダットから南へ約85kの場所にあります。2019年にユネスコの世界遺産リストに登録され、10平方kmの広大な遺跡です。実は発掘が続いており、いまだに18%しか終了していません。

遺跡となったバビロンの町を、ここまで広大に拡張したのはネブカドネザル2世です。ネブカドネザル2世は強権的な支配者で、ヘブライ人の王を滅ぼして、彼らをバビロンまで連行した「バビロン捕囚」を行いました。

多くの人がイスラエルからバビロンへと強制的に移住させられ、人口が増えたのです。人口が増えた結果、彼らの居住地を確保する必要もあり、ここまでバビロン遺跡は大きくなったのでしょう。

また、バビロン遺跡は、イシュタル門や空中庭園など、優れた建造物が数多く作られたことで有名です。さらにバビロンは旧約聖書に出てくるバベルの町として登場することから、聖書ゆかりの場所とも言われています。

現在のバビロン遺跡には、イラクの元大統領サダム・フセインの手が加えられている場所があったり、イラク戦争時にアメリカ軍がレンガを持ち去ってしまったりと、メソポタミア文明当時のものとは少々違ってしまっているものもあります。

それを念頭に置いて、バビロン遺跡に残された美しい建造物と古代の空気を楽しみましょう。

メソポタミア文明の始まりから滅亡までの年表

紀元前7000年頃 – 農耕文明の誕生

雨水だよりとはいえ、他の文明よりも農業化が早かった

紀元前7000年頃、栄養がたっぷり含まれたメソポタミア地帯で初期の農耕文明が生まれました。この頃の農業は作物に必要な水を川ではなく、雨に頼った天水農業でした。

ですが、今まで狩猟中心だった生活を農耕に切り替えたことは、人類にとって大きな革命です。この革命は後に、新石器革命と呼ばれます。

メソポタミア地帯で定住生活を開始した人類は、農耕だけでなく羊などの牧畜も行います。さらに土器を使ったり、日干しレンガで住居を作ったりと、少しずつ文化が発達していきました。

紀元前6000年頃 – 灌漑農業の開始

カッシート人の粘土板

紀元前6000年頃になると、人々は雨水に頼っていた農業を、川から用水路を引くことによって水を確保する灌漑農業へと切り替えます。

最初の灌漑農業は、ティグリス川中流から始まりました。この地域は年間最低降水量が200mm以下と少なかったため、灌漑を行う必要があったのでしょう。灌漑農業によって、大麦の生産量は大幅に上がりました。

そして紀元前5500年頃には、メソポタミア南部で生産量の増加によって大規模な定住化が進み、都市が形成されました。

紀元前3300年頃 – シュメール文明の誕生

シュメールの神の彫刻

紀元前3300年頃、ユーフラテス川下流の左岸にあるウルクを代表に、最初の都市文明が形成されました。

現在のワルカにあるウルク遺跡から見つかった多数の粘土板によると、メソポタミア南部で都市文明を成立させたのはシュメール人と推測されています。

紀元前3000年頃には、シュメール初期王朝が成立し、ウルクやラガシュ、ウルなど二十もの都市国家が形成されました。シュメール人は青銅器や楔形文字を用いて、階段状の神殿ジッグラトやギルガメシュ叙事詩、多神教信仰など数々の文化を生み出します。

紀元前2400年頃 – アッカド王国誕生

アッカドの銅像

紀元前2400年頃、シュメール人からアッカド人へ歴史の中心が動きます。ウルクの北で暮らしていたセム系のアッカド人サルゴン一世がウルクを制服し、アッカド王国を建国しました。

サルゴン一世はシュメールの都市を支配下に置いて、各地に知事を派遣します。都市国家の枠を超えた領域支配を行い、ときに起こったシュメールの反乱を沈め、さらに力を増していきました。

およそ200年ほど、メソポタミアとその周辺を支配したアッカド王国でしたが、紀元前2200年頃に北東の山岳民族の侵攻により、滅亡します。

アッカド人とは?アッカド帝国繁栄の歴史や文明、歴代君主などを徹底解説

紀元前2100年頃 – ウル第三王朝

ウル・ナンムの名が刻まれているレンガ。彼が制定したウル・ナンム法典は現存する最古の法典

紀元前2100年頃、アッカド王国が滅び、シュメール人の都市国家が復興しました。

シュメールの王ウル・ナンムがウル第三王朝を建国して、メソポタミアを支配します。ウル・ナンムとその後継者シュルギは財政基盤を整え、常備軍を創設して、中央集権体制をとりました。また、ハンムラビ法典の元となる、ウル・ナンム法典を制定します。

メソポタミアを支配したウル第3王朝ですが、次第にその他の都市国家も力をつけて独立してしまいます。そのようなことが続き、ウル第三王朝は分裂状態になりました。東からはエラム人が攻め入ってきて、西方からはアムル人の移住が急増。

紀元前2000年頃、ついにエラム人によってウル第三王朝は滅ぼされました。その後、南部メソポタミアには国家が乱立します。

シュメール人の生き残りが建国したイシン王国、アムル人のラルサ王国、バビロンにいるアムル人によって成立したバビロニア王国の三つの国が互いに争う時代が始まりました。

紀元前1792〜1750年頃 – 古バビロニア王国ハムラビ王の治世

ハンムラビ王の像

紀元前1800年頃、三国の争いは終わりました。イシン王国をラルサ王国が滅ぼし、そのラルサ王国をバビロニア王国ハンムラビ王が倒し、メソポタミアを統一しました。

メソポタミア統一を成し遂げたハンムラビ王は、交通網を整備し、法律を定め、国の形を整えます。しかしハンムラビ王が亡くなったあと、東方の山岳民族カッシートの信仰を受けて衰退してしまいます。

国の力が弱まったバビロニア王国は、紀元前1600年頃に小アジアのヒッタイト人から攻撃を受けて滅亡しました。

紀元前1500年頃 – 民族大移動

ヒッタイト人の戦車

紀元前2000〜1500年頃は、西アジアに大規模な民族移動の波が押し寄せた時代です。インドのヒッタイト人やカッシート人、ミタンニ人が西アジアへと侵入してきました。この頃のメソポタミアはとにかく変化が激しく、各地で民族同士の衝突がありました。

紀元前1500年頃に古バビロニア王国がヒッタイト人に滅ぼされた理由は、鉄製の武器です。ヒッタイト人は高度な製鉄技術を持っており、それによって圧倒的な軍事力を持っていました。その技術は他の民族を圧倒しており、紀元前1200年頃までヒッタイト人による支配が続きます。

しかし紀元前1200年頃、海の民によってヒッタイト人は滅亡しました。彼らの技術は各地へと広がり、世界帝国を出現させるきっかけとなります。

紀元前1200〜700年頃 – アッシリア帝国

アッシリア王アッシュールバニパル

メソポタミア北部で活動していたアッシリアは、インドからもたらされた鉄器文化をいち早く受け入れ、強大な軍事力を手に入れました。

アッシリアの軍事力は、紀元前900年頃の西アジアで最も力を持つ国家の一つとして数えられます。その評価にふさわしく、紀元前700年にはメソポタミアだけでなくエジプトを支配し、オリエントを統一しました。

アッシリア帝国は、西アジア初の世界帝国になったのです。

これにより、メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、オリエント文明と呼ばれるようになりました。

紀元前600年頃 – 四国分立時代

バビロン捕囚は後に誕生するユダヤ教に影響した

圧倒的な軍事力を誇ったアッシリア帝国ですが、紀元前600年頃になると滅亡してしまいます。そして西アジアは再び分裂し、四国分立時代が始まりました。

メソポタミアでは、バビロンを都にしてカルデア人が、新バビロニア王国を成立させます。新バビロニア王国のネブカドネザル王は紀元前600年前半に、パレスチナのユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人をバビロンに連行しました。この出来事は後に「バビロン捕囚」と呼ばれます。

その後、小アジア西部にはリディア王国が、イラン高原にはメディア王国がそれぞれ独立し、エジプトも再び独立しました。

紀元前400年頃 – アレクサンドロス大王の遠征により滅亡

アレクサンドロス大王と愛馬ブケパロス

分裂状態にいた各国ですが、イランでメディア王国に代わって、アケメネス朝が成立すると状況が変わります。アケメネス朝の勢力は強大で、紀元前600年中頃には西アジア全体におよびます。メソポタミアもその影響を受けました。

アケメネス朝も楔形文字など、メソポタミアの文明を吸収します。

メソポタミアの文明はこうして、次の時代へと受け継がれました。しかし、紀元前400年にギリシア人のアレクサンドロス大王の東方遠征よってアケメネス朝は滅ぼされます。

こうして、メソポタミア文明はギリシアの文化に吸収され、忘れられていったのです。

メソポタミア文明に関するまとめ

メソポタミア文明について解説しましたが、いかがでしたか?最後に簡単にまとめたいと思います。

  • メソポタミア文明はティグリス川とユーフラテス川の間で発展した
  • メソポタミア文明は、民族の興亡の歴史
  • メソポタミア文明の特徴は、神殿中心の政治と広い交易
  • メソポタミア文明では、楔形文字が使われており「ギルガメシュ叙事詩」や「ハンムラビ法典」を記した

古代文明の中でも特に移り変わりの激しかったメソポタミア文明。はるか昔に姿を消した文明ですが、その文化は今の時代に引き継がれているものもあります。機会があれば、ぜひウル遺跡やバビロン遺跡を訪ねてみてください。

この記事をきっかけに、メソポタミア文明について興味を持っていただけましたら幸いです。長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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