「メソポタミア文明はどんな特徴があるの?」
「メソポタミア文明の有名な遺跡って何だろう?」
「遺跡の場所がわかる地図ってないかな…」
と悩んでいませんか?
メソポタミア文明は、「エジプト文明」「インダス文明」「黄河文明」に並ぶ古代四大文明の一つです。四大文明の中で最も早く歴史の教科書に登場することから、聞き覚えのある人も多いのではないでしょうか。
また、近年では「FGO」というスマホゲームの舞台にも使われていますね。
ただ、メソポタミア文明は未だその歴史のすべてが解明されているわけではありません。遺跡の発掘や出土物の解読は今も続いています。
この記事では、そんなメソポタミア文明の文化や有名な遺跡の場所、地図について解説します。この記事を読めば、今明らかになっているメソポタミア文明の全貌を知ることができますよ。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
メソポタミア文明とは?
メソポタミア文明とは、ティグリス川とユーフラテス川の二つの川の間にできた、人類最古の都市文明です。エジプト文明と並んであげられる、古代文明の一つでもあります。
そんなメソポタミア文明は、一体どのような歴史を歩んだのでしょうか。簡単にまとめたので、見てみましょう。
メソポタミア文明を簡単に紹介
メソポタミア文明の歴史は、民族の興亡の歴史です。
最初は農耕から始まり、青銅器が生まれ、楔形文字と粘土板によって文明は発達していきました。初めにメソポタミア文明を発達させたのはシュメール人です。
彼らは文字と銅器の他に、多神教を基本とした神殿やギルガメッシュ叙事詩などの文化を生み出しました。文化が生まれ、安定してからは民族の移動、興亡の流れが加速します。
シュメール人、セム系のアッカド人、東方のエラム人、西方のアムル人などの民族が互いを攻め、滅ぼしあいました。最後はアムル人のバビロニア王国が勝利し、150年ほどメソポタミアを支配します。
有名なハンムラビ法典の制定、交通網の整備など、国の形を整えていったバビロニア王国ですが、インドからきたヒッタイト人により滅亡しました。
この頃のメソポタミアは、外の世界の民族が移動してきた時代です。ヒッタイト人と同じインドから、カッシート人やミタンニ人が流れこみ、それぞれ王国を成立しました。彼らとともに、西アジアの鉄器文化がメソポタミアに持ち込まれ、後のアッシリア帝国誕生に影響します。
アッシリア帝国は、いち早く鉄器文化を受け入れて強大な軍事力を手に入れた、西アジア初の帝国です。彼らはメソポタミアとエジプトを支配し、二つの文明が合わさったオリエント文明が生まれます。
そしてアッシリア帝国が滅亡後、統一されていたメソポタミアとエジプトは再び分裂しました。
その後は新バビロニア王国やリディア王国、メディア王国が生まれ、メソポタミアの文明を引き継ぎます。やがて、アケメネス朝がそれらの三国を滅ぼし、メソポタミアを支配しました。
しかし、200年ほど続いたペルシア帝国は、ギリシア人のアレクサンドロス大王の侵攻によって滅ぼされます。メソポタミア文明はギリシア文明、エジプト文明と融合し、忘れ去られていきました。
メソポタミア文明の要「ティグリス川とユーフラテス川」
ティグリス川とユーフラテス川、二つの川はメソポタミア文明の形成に大きな影響を与えました。
実はメソポタミアという名前は、ギリシア語で「川の間の地域」を意味します。上で挙げたシュメール文明やバビロニア王国は、二つの川の流域に存在しています。二つの川はたびたび大洪水を起こしており、下流に広大で肥沃な平野を形成し、農業を育みました。
農業の発達によって生まれた余裕は人の数を増やし、文化を育て、発展を促しました。
特に川による大洪水はメソポタミアの文化に大きな影響を与えます。大洪水が運ぶ土は農業に使われ、積み重なった泥は粘土板とレンガの材料になり、文字や経済、建築物を発展させました。
また洪水の時期を予測するために、天文学が発達して、月の満ち欠けを元にした暦が生まれました。
このように、ティグリス川、ユーフラテス川はメソポタミア文明の形成に大きく関わっています。
メソポタミアは神殿共同体を生成した
メソポタミア文明の文化形成には、宗教が大きく関わっています。
メソポタミアの地形は低く平坦で、ティグリス川とユーフラテス川はひんぱんに氾濫して洪水を起こしました。また乾燥が激しく、厳しい干ばつもありました。これら自然の脅威は、等しくすべての人間に襲いかかりました。
こうした自然と闘ってきたため、メソポタミアの人々は「特別な人間はおらず、神の前ではみな同じ」といった思想を持ちます。そのため、エジプトのように特別な人間が王になる、といったことはありませんでした。
ですが、人々を統治する存在がいなかったわけではありません。
メソポタミア文明ではかなり早い段階で、複雑な宗教儀式が存在していました。豊作を祈願していけにえを捧げる、といった宗教的な祭儀は時が経つにつれ、複雑になります。やがて、複雑化した儀礼を執り行う専門家として、神官という職業が生まれました。
神官は神の代弁者として、行政や交易などを取り仕切るようになります。
なかでも王は神の代理人でもありました。神の代理人という概念は神官階級の権力をより強くします。また、交易によって各地から寄せられた品々も、それを後押ししました。
国にとって重要な職務についていた彼らは経済的に特別な権利を与えられ、特殊な技能や知識の習得に務めることができました。人類で初めて、教育制度が誕生した瞬間です。
このように、メソポタミアの宗教は行政や経済と深い関係がありました。
メソポタミア文明の言語・書物
メソポタミア文明の象徴「楔形文字(くさびがたもじ)」
楔形文字とは、シュメール人によって作られた最古の文字です。
楔形文字の特徴は、葦で作ったペンを粘土を薄く板状にした粘土板に押し付けて、楔形の文字を刻んでいることです。普通、文字を書くものと言えば紙が思い浮かびます。
しかしメソポタミア地域は、紙の材料となる植物が乏しく、代わりに粘土が大量にありました。紙がなかったため、大量にあった粘土に目をつけたのでしょう。曲線がほぼない楔形文字は、粘土に文字を書くうえで困難だったからこその形状です。
楔形文字の主な利用方法は、行政や経済の記録でした。奴隷や家畜、品物を数えたり、穀物の量を測って記録したり、土地の面積を計算するために使われたりと、楔形文字はメソポタミア文明の発展を手助けする非常に重要なツールだったのです。
楔形文字について、もっと詳しく知りたい方はこちらの記事もどうぞ。
楔形文字とは?解読の経緯や読み方、特徴を紹介【50音一覧表付】
世界最古の文学作品「ギルガメシュ叙事詩」
ギルガメシュ叙事詩は、楔形文字で記された世界最古の文学作品です。物語は十二枚の粘土板から成り立っています。内容は、ウルクの王ギルガメシュが女神イシュタルの誘惑を振り切ったり、不死の薬草を求めて旅をする、という話です。
ギルガメシュ叙事詩には、旧約聖書にあるノアの方舟の元になったと考えられている『洪水伝説』が記されています。
「目には目を」「歯には歯を」でおなじみ「ハンムラビ法典」
ハンムラビ法典は紀元前1700年頃にメソポタミアを統一したハンムラビ王が、国家統一のために今までの法律をまとめたものです。
内容は大きく分けて、同害復讐法と身分法の二つです。同害復讐法とは「目には目を」「歯には歯を」と、やられたら同じだけやり返すと行った趣旨の法です。
ただし、よく勘違いされるのですが、この法律は復讐を進めているわけではありません。むしろ、相手にやられた以上のことはしてはいけない、というものです。
次に身分法とは、身分によって、刑罰に差が生まれる法です。当時のメソポタミアでは三つの身分があり、下の者が上の者を傷つけた場合、傷つけた以上の罰が待っていました。対して、上の者が下の者を傷つけた場合、罰は軽く、お金を払うだけで許されることもありました。
上記以外にも、ハンムラビ法典には賃金や離婚、医療費などさまざまな問題の解決について書かれていました。
このように国民が守るべき法を明確に定めたことで、国の社会性を作っただけでなく、将来の王へ公平さを伝える手本書の役割を果たしました。
ハンムラビ法典の「目には目を歯には歯を」とは?内容や特徴、意味を簡単に解説
メソポタミア文明の文化
【暦】太陰暦を使用していた
太陰暦とは、月の満ち欠けを基準にする暦の方法です。
メソポタミアではこの太陰暦を使用していましたが、このまま使用すると一年が十一日ほど短くなることがわかっていました。その調整のために、十二ヵ月に、閏月を入れた十三ヵ月で時間の流れを表していました。
また現在の時間の単位になっている、一週間を七日としたのもメソポタミア文明です。これらの功績は、占星術の発達も促し、カルデア人の知恵と呼ばれました。
【経済】エジプト文明やインダス文明と交易していた
メソポタミアの経済は、交易を中心としていました。
メソポタミア地域は、農耕に向いた肥沃な土地でしたが、木材や金属、石などの生活に必要な資源が不足していました。そのため、周辺地域との交易は必要不可欠です。その範囲は広く、エジプト文明やインダス文明とも交易があったと見られています。
メソポタミアからは大量に取れた穀物などの食料品を、メソポタミアの外からは銅などの金属類や装身具、ラピスラズリ、木材、石灰岩、玄武岩などが持ち込まれました。
交易によって集められた食物など生活に必要なものは蓄えられ、宮殿や都市の門で分配されます。経済にはさらに良い流れが生まれ、文化を発展させました。
また、古バビロニア王国のハンムラビ法典では、損害賠償や負債の取り消し、報酬、等価概念などの経済的な概念が法律によってルール化されていました。
【農業】大麦からビールも作っていた!?
メソポタミア文明の経済を全面的に支えたのは、農業です。
乾燥の激しいメソポタミアでは、主に灌漑(かんがい)農業を行っていました。灌漑農業とは、作物の成長に必要な水を雨水に頼るのではなく、人口的な用水路やため池、地下水を使って得る方法です。
メソポタミア南部は水気の多い土地で、鉄で作られた農具がなくても簡単に耕せます。そのため、用水路を作って、作物のための水を確保していました。作物は大麦や小麦、アワ、ごまなどが大量に栽培されました。
中でも重要なのが大麦です。メソポタミア地帯は塩分の多い土地でしたが、大麦は塩害に強く、メソポタミア地帯で耕作するにはうってつけの作物でした。さらに貯蔵ができたため人々の生活に余裕が生まれます。農耕によって余った時間は文化を生むきっかけを作り、メソポタミアの文明発展に大きく貢献しました。
また、メソポタミアはビールを誕生させた文明とも言われています。メソポタミア文明では、収穫した大麦をおかゆにして食べていました。そのおかゆを放置していたところ、偶然にも酵母が入り、自然に発酵してビールが生まれたのでは、と言われています。
実際に、紀元前3000年頃の粘土板にはビールの記述があります。「楽しみはビール、いやなものは戦争」と粘土板の文書にあり、日常的に飲まれていたようです。わたしたちのように、労働のあとのおいしい一杯を楽しんでいたのかと思うと、メソポタミアの人々が近くに感じますね。
このように、メソポタミアの農業はさまざまな文化を生み出す土壌となりました。
メソポタミア文明を象徴する有名遺跡
シュメール人の王が埋葬されている「ウル遺跡」
ウル遺跡は、現在のイラク領ジーカール県ナーシリーヤ近郊にあります。
シュメール都市の中でも重要な都市遺跡で、ウル王墓と呼ばれるシュメール人の王の墓が発見されており、当時の生活や政治について多くのことがわかっています。
また、ウル遺跡は巨大なジッグラトでも有名です。ジッグラトとは、日干しレンガで作られた階段状の神殿のことです。メソポタミア文明では、シュメールの神々は高い場所に宿る、と考えられていました。そのため、メソポタミアの人々は高い場所のない平野に、ジッグラトを作ったのです。
ジッグラトはメソポタミアの各地で作られました。中でもウルの遺跡のジッグラトは、現在存在するジッグラトの中で最も保存状態が良いと言われています。
イラク周辺は危険地帯のため、気軽におすすめはできませんが、ウル遺跡のジッグラトには一見の価値があります。治安が安定し、安全に観光ができるようになったらぜひ、行ってみてください。
いまだほとんどが発掘されていない「バビロン遺跡」
バビロン遺跡は、イラクの首都バグダットから南へ約85kの場所にあります。2019年にユネスコの世界遺産リストに登録され、10平方kmの広大な遺跡です。実は発掘が続いており、いまだに18%しか終了していません。
遺跡となったバビロンの町を、ここまで広大に拡張したのはネブカドネザル2世です。ネブカドネザル2世は強権的な支配者で、ヘブライ人の王を滅ぼして、彼らをバビロンまで連行した「バビロン捕囚」を行いました。
多くの人がイスラエルからバビロンへと強制的に移住させられ、人口が増えたのです。人口が増えた結果、彼らの居住地を確保する必要もあり、ここまでバビロン遺跡は大きくなったのでしょう。
また、バビロン遺跡は、イシュタル門や空中庭園など、優れた建造物が数多く作られたことで有名です。さらにバビロンは旧約聖書に出てくるバベルの町として登場することから、聖書ゆかりの場所とも言われています。
現在のバビロン遺跡には、イラクの元大統領サダム・フセインの手が加えられている場所があったり、イラク戦争時にアメリカ軍がレンガを持ち去ってしまったりと、メソポタミア文明当時のものとは少々違ってしまっているものもあります。
それを念頭に置いて、バビロン遺跡に残された美しい建造物と古代の空気を楽しみましょう。