アインシュタインとはどんな人?生涯を紹介【名言や相対性理論、脳やIQも解説】

アインシュタインは相対性理論を証明し、ノーベル物理学賞を受賞した科学者です。舌を出している写真で知っている方も多いでしょう。「20世紀最大の天才」とも称され、現代の物理学の発展に大きな影響を与えました。

相対性理論が証明されていなければ、今の時代の生活の便利さはなかったかもしれません。そう考えるとアインシュタインの偉大さがわかりますよね。アインシュタインについてもっと詳しく知りたい方に向けて、彼の生涯や相対性理論の生まれた経緯などをご紹介していきたいと思います。

アインシュタイン

アインシュタインは幼い頃あまり言葉を発することがなく、大人になってからも人付き合いが苦手だったようです。しかし、数学に関しては類まれな才能を発揮して、日本でいう小学生の終わり頃には微分積分もマスターするほどでした。

アインシュタインの証明した相対性理論は特殊相対性理論と一般相対性理論に分けられます。この2つの違いも後ほど述べますが、簡単に言うと特殊の方は空気抵抗や摩擦などが全くないと仮定した理想の世界における理論で一般の方は現実世界の環境にも適用できる理論です。

少しアインシュタインに興味が湧いてきたでしょうか。アインシュタインの伝記や簡単な相対性理論の本を10冊以上読み、相対性理論のセミナーにも参加したことのある筆者が、彼の生涯、名言、業績などについて簡単にご紹介していきますので、ぜひご覧ください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

アインシュタインとはどんな人物か

名前アルベルト・アインシュタイン
誕生日1879年3月14日
没日1955年4月18日
生地ドイツ帝国
(ヴュルテンベルク王国ウルム)
没地ニュージャージー州 プリンストン
(アメリカ合衆国)
配偶者ミレヴァ・マリッチ(1903−1919)
エルザ・レーベンタール(1919−1936)
埋葬場所遺言により散骨をしたので墓地は無い

天才・アインシュタインの生涯をダイジェスト

アインシュタインが生まれた街・ウルム

1879年3月14日、アインシュタインはドイツ南西部の都市に生まれました。幼い頃は言葉数の極端に少ない子供で、言語障害があるのではないかと思われていたほどだったといいます。その代わり数学の成績は飛びぬけてよく、9歳のときには自力で「ピタゴラスの定理」を証明しています。

16歳のときにチューリッヒ連邦工科大学を1年早く受験、合格点には至らなかったものの当時の学長が数学と物理の成績のよさに目を止め、1年間ギムナジウム(大学に進学することを前提にした中等教育機関)に通って知識を身につけることを条件に、翌年度に入学することを許可されました。大学に入学したアインシュタインは自分の興味のあることにばかり熱中し、授業も休みがちでしたが、電気技術の成績だけはとてもよかったといいます。最初の妻・ミレーバともこの大学で出会いました。

卒業後は特許庁に就職、翌年にはミレーバと結婚しています。そして1905年に「特殊相対性理論」「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」の3つを発表しました。1907年には「E=mc²」の公式を発表、1915年には「一般相対性理論」を発表しています。

1921年頃のアインシュタイン

特殊相対性理論の発表当初は誰にも理解されなかったアインシュタインの研究結果でしたが、1921年に「光量子仮説」でノーベル物理学賞を受賞しました。この少し前にミレーバと離婚していたアインシュタインは、離婚の条件として「ノーベル賞の賞金をミレーバにあげる」ことを設定していたそうで、そのこともあって物理学賞の受賞はとても嬉しいものでした。離婚の数か月後には、エルザという女性と再婚しています。

1932年にはドイツでナチスが政権を獲得し、ユダヤ人であったアインシュタインはアメリカに拠点を移しました。第二次世界大戦が始まってアメリカのルーズベルト大統領から原子力の軍事利用をほのめかす手紙をもらったときにサインしてしまったことを、アインシュタインは生涯悔いていたといいます。

戦争が終わるとさまざまな平和活動を行いました。1955年の「ラッセル=アインシュタイン宣言」は、核兵器や戦争の廃絶を願って作り上げたものです。この宣言に署名した年の4月18日、アインシュタインは76歳で亡くなりました。

寡黙ながらも才能を発揮していた幼少期

幼い頃のアインシュタイン

アインシュタインは父・ヘルマンと母・パウリーネ・コッホの間に生まれました。生誕地はドイツのヴュルテンベルク州ウルム市です。父・ヘルマンは昔から数学が好きで、アインシュタインの数学の才能は父から受け継がれたのではないかといわれています。

アインシュタインは5歳になるまで言葉が少なく、他人とあまり会話をしたがらない子供でした。その一方で数学の才能は小さい頃から発揮され、9才の時にはピタゴラスの定理を理解し、自らで照明もしました。

12歳の時にはユークリッド幾何学を自分で勉強し、微分積分も同時期にマスターしたそうです。この頃から物理学に興味を示し始めました。

「相対性理論」とは?

岩波文庫「相対性理論」

アインシュタインは1905年に特殊相対性理論、1915年に一般相対性理論を発表しました。1905年はこれ以外にも「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」を論文として提出し「奇跡の年」と呼ばれています。

相対性理論は、簡単にいうと2つの物体が互いに違う動きをしている場合に、それぞれが感じる時間や空間の捉え方が違ってくるという証明です。具体的にいうと、速く動けば動くほど時間の流れは遅くなり、物体の大きさは縮み、重さは重くなるということを言っています。

特殊相対性理論は余計な力がかからない理想的な空間を仮定して証明された理論です。つまり、現実世界のような空気抵抗、摩擦などは一切考慮せず、全ての動きが同じ条件の中で行われた場合に成立する考えとされています。

一般相対性理論はより現実世界に近づけた条件の中で証明された理論です。そのため、こちらの方が複雑な内容となっています。

アインシュタインが発明した理論やモノを紹介!人類最大の発明は何?

相対性理論以外にもあるさまざまな業績

アインシュタインと湯川秀樹

アインシュタインが相対性理論の他に発表した有名な論文は「ブラウン運動」「アインシュタインモデル」「ボース=アインシュタイン凝縮の予言」などです。3つを簡潔に説明いたします。

ブラウン運動

液体の中で小さな粒がランダムに動き回る現象のことです。花粉が水中に撒かれると不規則な動きをし続けるということが発見されていましたが、これが熱によって動く粒同士が衝突することによって起こるとアインシュタインが発表しました。

アインシュタインモデル

物体を熱した時に物によって温度の上昇速度は違います。例えば、鉄とガラスでは鉄の方が温度は上がりやすいですよね。この現象を理論化するために固体が一定の数の原子でできていると仮定すると、その原子1つひとつが全く同じ振動をする集合体であると仮定したのです。

ボース=アインシュタイン凝縮の予言

ボース統計に基づくボース粒子(これは難しい)という粒状の原子がある一定の温度以下になると全部の粒が同じ動きをするということです。その結果、普段は縦横無尽に動き回っている粒が巨大な波のように動くのです。これをアインシュタインは予言しました。

アインシュタインの脳は特殊だった?

アインシュタインの脳

アインシュタインは遺書に自分の遺体は散骨するように言っていたため、墓地はありません。しかし、彼の脳みそは実は家族への許可を取ることなく、研究者によって保存されていたのです。40年にわたって脳みそを研究しましたが、一般人と変わった部分は見当たらなかったそうです。

しかし、ほんの十数年ほど前に、アインシュタインの脳の中にある「グリア細胞」という細胞が普通の人よりもはるかに多いことがわかったのです。

これまで「グリア細胞」は神経細胞を保護したり、支えたりするだけの細胞だと考えられていましたが、近年、神経細胞の制御のための重要な役割を施していることがわかりました。この細胞の多さが類まれな知性を生み出したのかもしれません。

2度の結婚で2人の息子をもうける

ミレーバとの別居前に提示したいくつかの条件

アインシュタインは2度結婚し、最初の妻との間に息子が2人います。最初の妻・ミレーバは大学の同級生で、2人は1903年に結婚しました。

ミレーバとは5年間の別居の末に離婚に至るのですが、別居の前、仲があまりよくないけれどまだ一緒に住んでいたころに、アインシュタインは2人の関係をどうにかしようとして、このようないくつかの条件を提案しました。

  • アインシュタインは自分の部屋で3度の食事を受け取る
  • どうしても必要な場合を除いて、ミレーバはアインシュタインとの関係を放棄する
  • アインシュタインが望んだときは、ミレーバは彼に話しかけてはならない

条件はまだいくつかあるのですが、このような自分勝手ともとれる条件をミレーバは受け入れました。その見返りにアインシュタインはミレーバに対して「見知らぬ女性に対するのと同じように適切なふるまいをする」と約束したといいます。妻のような親しい人ほど扱いが雑になってしまう、そのふるまいを正して丁寧に接します、ということですね。

結局2人は離婚し、その数か月後にアインシュタインはエルザという女性と再婚しました。エルザとの間に子供はいませんでしたが、2人は彼女が亡くなるまで仲良く暮らしたといいます。

照れ隠しの「舌出し」写真は写真賞を受賞!

アインシュタインといえばこの表情

アインシュタインといえば誰もが思い浮かべるのが、あの舌を出した写真ですよね。あの写真は1951年、アインシュタインの72回目の誕生日の日に撮られたものです。撮影したのは、長年にわたってアインシュタインを追いかけてきたカメラマン、アーサー・サス。

サスは「笑顔の写真を撮らせてほしい」とお願いしたのですが、アインシュタインは照れてしまってあの表情になったのだそうです。その後、新聞に掲載されたその写真を見たアインシュタインはとても気に入ったらしく、9枚も焼き増ししてもらったといわれています。

さらに、サスはこの写真で1951年度のニューヨーク新聞写真家賞のグランプリを獲得しました。アインシュタインを近くで見てきたからこそ撮れた、アーサー・サスの代表作です。

アインシュタインの名言

「大切なのは、疑問を持ち続けることだ。神聖な好奇心を失ってはならない。」

アインシュタインは5歳の時に父から方位磁針をプレゼントしてもらい、それをいじっているうちに自然界の不思議に興味を持ち始めたそうです。以来さまざまな物事に対して常に疑問を問いかけ、あらゆる事象に興味を持っていたからこそ、有名な研究を次々に発表できたのです。

「天才とは努力する凡才のことである。」

20世紀最高の天才と称されるアインシュタインですが、努力もせずに偉大なことを成し遂げたのではなく、そこに至るまでには血の滲むような努力を重ねていたのです。幼い頃から大人しく、真面目な性格で興味を持った数学などの勉強に自学自習で打ち込んでいたことからもよくわかります。

「挫折を経験したことが無いものは、何も新しいことに挑戦したことが無いということだ。」

1905年に特殊相対性理論を発表した時に、内容が高度すぎて理解されず、論文が受理されなかったそうです。この挑戦心がなかったら、物理学の開拓者としてのアインシュタインは存在しなかったかもしれません。

「知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。」

知識というのはすでに誰かが発見しているもので、知識を蓄えた上でさらに新しいことを考える想像力の方が人間にとっては大事だと伝えたかったのでしょう。

今現在私たちの暮らしがあるのはアインシュタインを含む過去の偉大な先人たちの想像力の賜物でしょう。

アインシュタインの功績

功績1「相対性理論発表」

相対性理論はGPSの仕組みに関係している

アインシュタインの功績として最も大きいものは、何といっても「相対性理論」の発表でしょう。1905年に特殊相対性理論、1915年から1916年にかけて一般相対性理論を発表しています。

相対性理論が現代の私たちの生活に役立っている代表例として「GPS」が挙げられます。

GPSは人工衛星と地上の間で起こる電波の跳ね返りを計測して現在地を特定できる仕組みです。GPSの人工衛星は約15000km/hという速度で移動しています。相対性理論に基づくと、早く動く物体ほど時間は遅く感じるようになります。

また、人工衛星の飛んでいる位置は地上から約20000kmの高さです。相対性理論によると質量の大きいものから離れるほど時間は早く感じるようになります。この二つを合わせるとGPS人工衛星の場合、時間は少し早くなります。

このずれを計算し、補正することにより、位置情報の誤差はとても小さく抑えられるようになっているのです。

功績2「E=mc²」

「E=mc²」は質量とエネルギーの等価性を表す公式

E=mc²(E:エネルギー、m:質量、c:光速度)は「質量とエネルギーの等価性」を表しています。どういうことかというと、物体はその質量に光速度の2乗をかけたエネルギーを持っているのです。光速度は30万km/sという途方も無く大きな数なので、かなり大きい値になることがわかります。

1gの質量(一円玉)をもつ物質は8.98×10¹³Jのエネルギーを有していることになります。広島に落とされた原子爆弾のエネルギーの約1.4倍ほどになります。途方もなく巨大なエネルギーだということがわかりますね。

アインシュタインは特殊相対性理論を元にこの数式を割り出しました。1907年のことです。これは一般相対性理論への足がかりともなる重要な公式です。

功績3「ノーベル賞受賞」

ノーベル賞

実はアインシュタインへ贈られたノーベル賞は、相対性理論に対するものではありません。ノーベル賞を受賞したのは「光量子仮説」という研究です。こちらは「特殊相対性理論」と同年の1905年に発表されています。

「光量子仮説」は光が波としての性質を持つことはもちろん、粒子としての性質も持っているということを証明した研究のことです。これも当時としては革新的な発表で、これらの研究成果が発表された年は「奇跡の年」と呼ばれていることは先ほども述べたとおりです。

「相対性理論」は内容が難しい上に、物理学の根本をひっくり返してしまうほどの研究であったため、ノーベル賞には選ばれなかったというのです。

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3 COMMENTS

〇△▢乃庭

≪…事象に好奇心…≫を、【舌】に・・・
 数の言葉ヒフミヨ(1234)は、円(〇)に棲む、点線面とか・・・

 √6意味知ってると舌安泰

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