エルビスプレスリーにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「エルビスサンドが高カロリーすぎて体調を崩した?」
エルビスサンドは「パンにピーナッツバターを塗って、バナナとベーコンを挟み、大量のバターを溶かしたフライパンで揚げたサンドウィッチ」です。エルビスはこのサンドウィッチが大好きで、毎日欠かさず食べていたようです。
エルビスは30代になると肥満気味になり、体調を崩しやすくなっていました。その原因がエルビスサンドなのではないかと言われています。
エルビスはこのエルビスサンド以外にも炭酸飲料などが好きでよく飲んでいたそうです。実は、死因の一つとして生活習慣の乱れが候補に挙がっているほど荒れた食生活をしていました。
都市伝説・武勇伝2「ステージでの衣装が20kg超え?」
エルビスプレスリーは1960年代後半からツアーとコンサートに精力的に取り組みましたが、その際の衣装が年を追うごとに豪華になっていき、最終的には総重量25kgもの衣装を着ていたと言われています。
最初の頃は動きやすいようにシンプルな衣装を着ていましたが、ピアニストであるリベラーチェに影響を受けて、宝飾物を衣装に大量に取り付けるようになっていきます。ただし、エルビスは貧乏な家の出身であるので、実際には宝石関係にはこだわらず、安物の飾りでも問題なかったのだそうです。
都市伝説・武勇伝3「約60万円のバイクがエルビスの肉筆入りで1億2000万円に」
F1チームのオーナーをしていたクレイグ・ポロックと言う人物が中古のハーレーダビッドソンを約60万円で購入したところ、数回も使わないうちに故障してしまったので、修理屋に出しました。
その時に、シートを確認してみると「親愛なるジェームズディーンへ、エルビス・プレスリー」と書かれていました。このサインが発覚し、本物だと確認された途端に、そのハーレーダビッドソンには1億2000万円の値がついたのです。
エルビスはジェームズディーンの大ファンで憧れの存在としていました。ディーンが出ている映画の「理由なき反抗」に至ってはディーンの台詞部分を全て暗記してしまうほどでした。
エルビスプレスリーの簡単年表
父ヴァーノンと母グラディスの間に双子として誕生しましたが、もう1人は生まれた時に亡くなってしまいました。そのためエルビスは一人っ子です。幼少時はとても貧しい生活をしていました。
エルビスは9歳の時にプロテスタントの洗礼を受けることとなります。
11歳の誕生日の際にギターをプレゼントされ、以来、毎日のように音楽を練習するようになります。最初はライフルが欲しいといったエルビスですが、両親から反対され、代わりに与えられたのがこのギターです。
メンフィスは黒人が多く、貧しい人々が多いのですが、エルビスはそこへ引越しをします。このような環境の下で黒人の音楽やゴスペルなどを聞いて生活していくことになりました。
1953年にスタジオで収録した「My Happiness」などがサン・レコードの関係者に響き、エルビスを売り出すことが決まりました。その一ヶ月後に「That’s All Right, Mama」を作り、メンフィスでヒットを飛ばしたのです。
1955年の11月21日にRCAビクターと契約し、1956年1月28日にTV初出演を果たします。白人であるエルビスが黒人のR&Bを歌い、激しい非難を浴びることとなります。その一方で若者からは絶大な支持を集めるようになりました。
1956年1月27日にリリースされた「Heartbreak Hotel」が4月にはチャートで1位を記録しました。この曲は後世のアーティストにも支持され、影響を与えています。
国民的なバラエティー番組である「エド・サリヴァン・ショー」に3度出演することとなりました。司会者であるエド・サリヴァンがエルビスのことを褒めたため、これ以後はバッシングが非常に減りました。
1958年1月20日にエルビスはアメリカ陸軍へ徴兵するように通知を受けます。他の隊員と区別なく、全ての勤務を遂行しました。2年の徴兵期間を終えて、1960年3月5日に満期除隊となりました。
1960年に軍を除隊すると、1969年までに30本以上の映画に出演します。この期間中は1年間に3本以上のペースで撮影が進んだので、ハリウッドに住まざるを得なくなりました。
ビートルズはもともとエルビスプレスリーに憧れていました。そのビートルズが売れてきた後の1965年の8月にエルビスの家で一回だけこの2大アーティストが一堂に会したことがあります。この時のジョンレノンの発言がエルビスを怒らせてしまったことも有名です。
1967年5月1日にラスベガスのアラジンホテルでプリシラ・アン・ボーリューと結婚しました。その9ヶ月後にはリサ・マリー・プレスリーが誕生します。しかし、様々な理由が重なって、1973年に2人は離婚することとなります。
映画に関しては編集者との折り合いがうまくいかず、だんだんと興味を失っていきます。そして、1960年代の後半からは再びミュージシャンとしてツアーやコンサートを多く開くようになりました。
エルビスは1970年12月21日に、大統領に宛てた手紙を渡すためにホワイトハウスを訪れます。もともと大統領と会う予定はありませんでしたが、エルビスが来たと騒ぎになり、それを聞きつけた大統領が面会を要請し、2人のツーショットが実現しました。
1977年に行われるコンサートまで全て売り切れが相次ぎ、その人気は衰えることはありませんでしたが、1977年8月16日に急死します。死因は睡眠薬の誤用が考えられています。
エルビスプレスリーの年表
1935年 – 0歳「エルビスプレスリー誕生」
エルビス生誕
エルビスプレスリーは双子で誕生しました。もう片方の兄弟は生まれてすぐに亡くなってしまいましたが、エルビスは両親に愛されながら成長します。実家はとても貧乏で、父親のヴァーノンが不渡りの小切手の服役をするほどでした。
ギターを買ってもらう
9歳の頃にはキリスト教プロテスタントの信者となるべく、洗礼を受けました。11歳の誕生日にはギターを買ってもらい、自宅の地下室でひたすら練習をするようになりました。音楽に目覚めたのはこのギターがきっかけです。
エルビスが13歳の時にはテネシー州のメンフィスへと引っ越しました。エルビスは生涯の大半をこのメンフィスの地で過ごしており、死没地もメンフィスとなっています。ここでは黒人の音楽やゴスペルをよく鑑賞するようになり、次第に音楽へと傾倒していったことがわかります。
1954年 – 19歳「音楽業界へ」
サン・レコードの創業者に誘われ、音楽の世界へ
1953年に収録した「My Happiness」という曲が音楽のサン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーの注目を集め、1954年にエルビスを売り出すことに決めました。
エルビスはその後、「That’s All Right,Mama」を奏でるようになり、これがメンフィスの地でヒットしたのです。この時代のアメリカは人種差別が色濃く、白人が黒人の曲をカバーして売り出されることが多かったのです。エルビスは黒人の歌を黒人のように歌えるミュージシャンとして活躍するようになりました。
RCAビクターと契約
1955年にエルビスはRCAビクターと契約することとなります。1956年には「トミー・ドーシー・ステージ・ショウ」でTV初出演を果たし、黒人の曲を歌います。やはりこの時代は人種差別が根についていたので、一部の宗教団体などから激しい非難を浴びました。
1956年4月には「Heartbreak Hotel」がシングルチャートで1位を記録しました。この曲は当時に売れたこともさることながら、のちに出てくるビッグアーティストたちがこぞって影響を受けた作品でもあります。
1957年 – 22歳「エド・サリヴァン・ショーへ出演」
国民的バラエティー番組への出演
1956年から1957年にかけて国民的バラエティー番組である「エド・サリヴァン・ショー」へ3度出演を果たしました。この番組の視聴者がものすごい数に上るため、失敗は許されないと思い、ジャケットをしっかり着用して出演しています。
司会者であるエド・サリヴァンが「エルビスは素晴らしい男なのです。」と紹介したことによって国民の支持を得ることが出来、これ以後、エルビスへの批判はかなり少なくなったそうです。
1958年 – 23歳「アメリカ陸軍へ徴兵」
アメリカ陸軍に2年間の徴兵
エルビスが20歳前後の頃のアメリカは徴兵制を実施しており、エルビスもその対象となりました。軍の隊員として約2年間の徴兵を勤め上げたのです。エルビス・プレスリーだからということで特別扱いを受けることはなく、他の隊員と一緒に訓練を共にしました。
この徴兵の通知を受けた時、エルビスは映画の撮影中だったため、招集を少し延期されたことも有名です。