アロー戦争(アロー号事件)とは?原因や結果、条約内容などを簡単に解説

アロー号事件がアロー戦争に発展

大沽砲台へ攻撃したイギリス軍

アロー号をめぐる騒動で抗議の意思を示すため、イギリスは海軍を広州へ派遣し、広州周辺の砲台を占拠するという強硬策に出ました。これに激怒した広州の人々は、外国人居留地を焼き払ってしまいます。

この状況に対し、対話で無理なら武力で応じるしかないということになり、ここに「第二次アヘン戦争」とも呼ばれるアロー戦争が開幕するのでした。

フランス・イギリスが天津を侵攻

イギリス首相・パーマストン子爵は遠征軍5,000人を現地に派遣し、同時にフランスに参戦を打診しました。実は数月前、フランス人宣教師が、外国人の渡航が許可されていない広西西林地区へ侵入してキリスト教を布教したとして、処刑されるという事件が発生していました。

これを口実にフランスのナポレオン3世も出兵を決め、イギリスとフランスの連合軍による侵攻が行われました。

まず広州を攻めた連合軍は、1957年12月にアロー号事件を担当していた欽差大臣の葉名琛(しょうめいちん)を捕えます。南京条約の改正を求めましたが清朝と折り合いがつかず、連合軍は圧力をかけるためさらに北上し、当時の首都であった北京のすぐ手前にある天津を占領。

これに屈服した清朝は降伏し、新たな条約を締結する場を設けることとなりました。

天津条約を締結

天津条約調印の様子

条約の締結はイギリス・フランスに加えて、アメリカとロシアも参加した連合軍と清朝の間で取り交わされました。条約では新たに6港4市を開港し、外国人が中国内地で自由に旅行や商売ができることを認めることとしました。

また、これまで禁止されていたキリスト教の布教を認め、宣教師を保護するという条文も設けられ、経済面だけでなく文化面でも中国を取り入れようとしました。

しかし、「外交官を北京に常駐させることを許可する」という条文が問題を引き起こします。これは、香港、上海、広州のみで常駐が許可されていた外交官を北京に置けるようにすることで、中央政府と諸外国が直接交渉できるようにしようという項目でした。

しかし、「皇帝の近くに夷狄(いてき・外国人の蔑称)が入る」という意見が清朝内部で高まり、条約の内容に反発する動きが見えるようになってきました。

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戦争再開と北京の占領

イギリスとフランスの使節が北京に向かうと、そこには障害物が設けてあり、清朝政府が北京入りを阻止している状況。仕方なく天津近くに待機し圧力をかけつつ、障害物を撤去していると、突然清軍から発砲され、イギリス・フランス軍は撤退することとなります。

とはいえ、そのまま黙っているわけもなく、翌年には大艦隊を引き連れて進軍し、清との交渉の機会を設けます。

しかし、清との交渉にあたっていた連合軍の使節団が捕えられ、殺害されるという事件が起こり、交渉は決裂。連合軍は北京へ進軍・占領し、かつての離宮であった円明園に放火したり、略奪を行ったりするなど、徹底的な破壊活動を繰り広げました。

アロー戦争の結果とその後

太平天国の乱:天京(南京)での戦い

北京条約を締結

完膚無きまでに打ちのめされた清朝は、新たな条約を結ぶことで事態を収めます。貿易関連では、開港地に新たに天津を追加し、首都・北京に近い都市での貿易の活性化が図られました。

さらに、イギリスに対しては香港島の北に位置する九龍半島南部を割譲。ロシアに対しては、沿海州の領有を認め、ここにロシアにとっては貴重な凍らない港である「ウラジオストク港」が建設されました。

太平天国の乱が沈静化

太平天国の乱

さらに中国本土での実権を握りたい列強諸国は、中国での内乱に目を付けます。アロー戦争と同時期、キリスト教信者の洪秀全は清朝社会への反発により、独立国家「太平天国」を樹立。貧困層の農民などの支持を集めて挙兵した後、南京を占拠して新たに「天京」とするなど、中国の南半分を占めるまでに勢力を拡大していました。

この民族闘争が後々厄介になると考えた列強は、太平天国を制圧するために清軍と協力することにします。西洋式の銃や大砲、外国人の傭兵、さらにはイギリス軍の指揮官が清軍をサポートし、それまで負け続きだった太平天国軍に連勝します。

その最中、洪秀全が病死し、求心力を失った太平天国は陥落。長期に渡った太平天国の乱は鎮圧されたのでした。

清は近代化へ向かう

列強諸国に侵略され、財力も軍力も消費してしまった清ですが、内乱と戦争が収まったことにより、これまで目を背けてきた西洋的な価値観を取り入れることを考え始めました。

西洋的な軍を整備するために、中国各地に大規模な造船場や武器工場を設立し、機械や技師は海外から輸入することで、急速に軍力の西洋化を進めます。また、教育事業にもメスを入れ、外国語学校や留学プログラムの設置などにより、後に財政界・産業界で活躍する多くの人材を育成することに繋がりました。

アロー戦争に関するまとめ

アロー戦争は、列強が中国を侵略していく流れの一部だということがわかりました。アヘン戦争後の条約締結が上手くまとまっていれば、もう少し短い期間で戦争が収まったかもしれませんね。

とはいえ、時代は列強が植民地支配を広げていこうとしている時代。広い領土を持っていた中国は格好の的になってしまいました。

戦争の余波は、その後日本にも及ぶこととなります。アメリカはアロー戦争でのイギリスの動きを日本に説明し、今後侵略される可能性があることを引き合いに出し、日米修好通商条約の締結に繋げます。また、北京条約でロシアが獲得したウラジオストクは、日本がロシアに侵攻する際の上陸地点にもなりました。

過去の出来事が脈々と繋がっていることを、改めて感じさせられる戦争でした。

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