「目には目を、歯には歯を」
多くの方がこの言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか?これはハンムラビ法典の代名詞ともいえる一説で、「やられたら、やられた分だけやり返す」ということを意味しています。ハンムラビ法典が復讐法と呼ばれる所以です。
しかしハンムラビ法典はただの復讐法ではありません。その奥に隠された意味があるのです。
この記事では、そんなハンムラビ法典がどのような経緯があって、いつ、誰に作られたのかを解説しつつ、ハンムラビ法典の内容やおすすめの書籍も合わせてお伝えしていきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ハンムラビ法典とは?
ハンムラビ法典の意味や成り立ちを簡単に解説
ハンムラビ法典は紀元前1750年頃に古代バビロニアの王であったハンムラビ王によって作られました。現在判明している法律の中では二番目に古い法律とされています(一番古い法律は紀元前2100年頃に発布されたウル・ナンム法典)。
ハンムラビ法典では国民が守るべき規範を示し、この規範を破ったものを処罰するというルールを明確にしました。この法律ができたことで、多くの独裁的な支配者が好き勝手できなくなり、法治国家としての基礎を作り上げました。
ただし法律の内容としては非常に残酷でした。些細な法律違反でさえも死刑と定めており、例えば居酒屋に入った女性や逃亡した奴隷を匿った者などもすべて死刑の対象でした。
また年齢や身分に応じて扱いが変わる法律で、特に親に対して子どもは絶対に逆らうことができなかったとされています。
ハンムラビ法典は誰が作ったのか
ハンムラビ法典はその名の通り、古代バビロニア帝国の初代王であるハンムラビによって作られました。ここでハンムラビ王の生涯を簡潔にご紹介します。
ハンムラビは紀元前1810年頃、古代バビロンにて誕生しました。父シン・ムバリトは古代バビロンの王で、紀元前1792年父の死去後、ハンムラビはバビロン第一王朝6代目の王となりました。
当時のバビロンは両隣をイシン、ラルサ、マリといった大国に囲まれており、弱小国としての立ち位置でしたが、北方にあるアッシリアと手を組み、次第に頭角を現していきました。
紀元前1784年頃にはイシンを奪い、ティグリス川を超えてマルグムやユーフラテス川流域にあるラピクムなども占領します。紀元前1764年にはラルサを併合し、バビロンを拡張していきます。
そして紀元前1759年にマリを制圧、紀元前1757年には手を組んでいたアッシリアも征服し、メソポタミア地方を統一しました。小国バビロンによって統一されたこの地域のことを「バビロニア」と呼んでいます。
ハンムラビは古代バビロニア帝国の初代王として、灌漑用水路の改良への援助や駅伝整備を行い、帝国内の発展に努めます。ハンムラビ法典が作られたのはこの頃です。
紀元前1750年にハンムラビは亡くなりましたが、その後侵略や征服を繰り返しながら、多くの文化を後世に伝えていきました。
ハンムラビ法典はいつ、どこで作られたのか
ハンムラビ法典はバビロニア帝国成立以降作られたとされていますが、正確な年は判明していません。法典は全282条から成り、正義の神である太陽神シャムシュの町シッパルに記念碑として作製されました。
記念碑は楔形文字で彫られました。多くの権力者の手を渡って、現在はパリのルーヴル美術館に保管されています。
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ハンムラビ法典を作った目的とは
ハンムラビ王はハンムラビ法典を作った意図を法典の前文に記しています。
そのとき、アヌムとエンリルは、ハンムラビ、・・・わたしを、国土に正義を顕すために、悪しきもの邪なるもの滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために、太陽のごとく人々の上に輝き出て国土を照らすために、人々の膚(の色つや)を良くするために、召し出された
ハンムラビは王権の責務として、社会主義の確立と維持をする必要があり、この実現のためには法による統治が必要だと考えていたのです。
そのためハンムラビ法典を制定し、バビロニア帝国を法治国家として推し進めていきました。