小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

宮沢賢治とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や死因、代表作品も紹介】

宮沢賢治の功績

功績1「独特の言語感覚が読者を魅了」

清流を舞台にした童話『やまなし』

「やまなし」という作品に「かぷかぷ」というオノマトペが出てきます。この言葉だけ見るといったい何を表現しているか分かりませんが、実は「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」という一文に登場するオノマトペなんです。「クラムボン」が何かも明かされないまま話は進むのですが、かぷかぷという笑い声はどことなく朗らかで、賢治作品に出てくるのにふさわしいと思えてきます。

このように、宮沢賢治の作品には独特の言語感覚で綴られた言葉がいくつも出てきます。オノマトペや登場人物の名前も聞きなれないし、言葉と言葉のつながりも個性的なことがあります。読み始めたときには少し驚きますし、読みにくさを感じることもありますが、気づくと夢中になっているというのが賢治作品の特徴です。

功績2「好奇心が強くてさまざまなことに詳しい」

鉱物採集に打ち込んでいた

宮沢賢治は新奇なものが好きで、好奇心旺盛な人でした。石を集めるのが趣味だった賢治少年は、盛岡中学校時代には鉱物や植物を採集するのに明け暮れます。盛岡高等農林学校に入学するとさらにその熱は増し、鉱物研究に没頭するようになります。

中学生のころまでは学業にあまり熱心ではなく、それよりも文学や自分の採集の方が大事だったのですが高等学校に入ると様子が一変、勉強に打ち込むようになりついには特待生となり授業料が免除されます。卒業後も研究生として2年ほど地域の土性調査をしています。大人になれば仏教、エスペラント語、セロ(チェロ)やオルガンの演奏、そして童話の執筆に取り組みました。

功績3「世界全体の幸福を常に模索」

賢治の弾いていたセロ()

宮沢賢治の遺した文書に「農民芸術概論綱要」というものがあります。羅須地人協会の活動の一環として農民に芸術を教えるときに使われていたものだと考えられているのですが、そのなかに「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という言葉が出てきます。

「グスコーブドリの伝記」など、賢治の童話には1人が自分を犠牲に世界に幸福をもたらす、という筋の物語が多いです。そしてそれは、上に引用した言葉に端的に表されています。賢治の手帳に書かれていた「雨ニモ負ケズ」のように人のために尽くし、世界を幸福にしなければ1人1人が本当に幸福にはなれないという思想を常に胸に抱いて行動していた人なのだと思います。

宮沢賢治にまつわる逸話

逸話1「性行為のない生涯だった?」

宮沢賢治の恋愛観

宮沢賢治は生涯独身を貫き、子どもも残しませんでした。結婚話もいくつか浮上していたのですが、そのどれも賢治は断ってしまいます。それどころか、賢治は女性と交わったことがなく生涯童貞のままだったという説まであります。

これには異論もあり、盛岡高等農林学校時代の友人からは「遊郭に行って遊んできた、と賢治がニコニコ言うのを聞いた」という証言も出ています。けれども確かに女性との交わりを節制し、「いい仕事をするため」に禁欲主義でいた時期があったようです。晩年に友人にその時期について問われたとき、賢治は「何もならなかった」と答えたといわれています。

逸話2「ジョバンニとカムパネルラのモデルは賢治自身と親友」

賢治の親友・保坂嘉内

宮沢賢治の高等農林時代の1年後輩にあたる保坂嘉内は賢治の親友で、一時期はお互いを「恋人」と呼び合う仲でした。賢治の「銀河鉄道の夜」に登場するジョバンニとカムパネルラは、賢治と嘉内がモデルになっているという説があります。

嘉内は賢治が出した文芸雑誌「アザリア」の同人だったのですが、この雑誌に書いた文章がきっかけで高等農林を除籍になってしまいます。その後東京に行った嘉内とは手紙のやりとりが増え、文面には親愛の情が溢れる表現が多くみられます。深い絆でつながっていたジョバンニとカムパネルラのように、賢治と嘉内もお互いを信頼しあっていたのでしょう。

宮沢賢治の作品年表

1922年 ‐ 26歳
『雪渡り』

雪渡り

雑誌『愛国婦人』に発表された「雪渡り」は宮沢賢治のデビュー作です。子ぎつねの紺三郎に「幻燈会」に招待された兄妹のお話で、動物たちと幼い兄妹の交流が可愛らしく描かれています。

1924年 ‐ 27歳
『心象スケッチ 春と修羅』

春と修羅

「おれはひとりの修羅なのだ」という部分に表されているように、「おれ」が何者であるかを宣言する口語詩です。段組みが1行ずつずらされていることでうねりのようなデザインになっていて、「おれ」の心の中の動きが表されているかのようです。この詩が書名になっていることからも、『心象スケッチ 春と修羅』は賢治が何者であるかを世に宣言した1冊であるといえるでしょう。

永訣の朝

賢治の妹・トシの臨終の場面を描いた詩です。「(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)」「(Ora Orade Shitori egumo)」など、素朴な東北弁のつぶやきが各所に挿入されています。まるでトシが呟いているようで、そのトシを看取る賢治の悲しみに胸を打たれる作品です。

1924年 ‐ 28歳
『注文の多い料理店』

注文の多い料理店

森に狩猟にやってきた2人の紳士が、道に迷ってしまって西洋料理店「山猫軒」に入っていくというお話です。小学生のころ、国語の教科書に載っていたという人も多いのではないでしょうか?動物の命を顧みない紳士たちが山猫に化かされる姿は、私たちに日ごろの心の持ちようを振り返らせます。

どんぐりと山猫

ある秋の日に一郎少年のもとに下手な字で書かれたはがきが届きます。面倒な裁判に出席してほしい、というそのはがきの差出人は山猫で、一郎は山猫が裁判長を務めるどんぐりの裁判に出席するのですが…。判決を下せずに困っていた山猫に一郎が耳打ちする解決策に、私たちもちょっぴり考えさせられます。

1931年 ‐ 35歳
雨ニモ負ケズ

雨ニモ負ケズ

「雨ニモ負ケズ」は、賢治が亡くなった後に手帳に残されていたメモ書きのようなものです。「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ…」と対句のように続いていく詩は、日本人なら誰もが聞いたことがあることでしょう。落ち込んだときなど、賢治も見返していたのでしょうか。

1932年 ‐ 36歳
グスコーブドリの伝記

グスコーブドリの伝記

『グスコーブドリの伝記』は1932年4月の『児童文学』という雑誌に掲載されました。イーハトーブに生きるグスコーブドリの生涯を描いた作品ですが、第二次世界大戦後には「自己犠牲を美しく描きすぎている」として批判されるようにもなりました。あなたはこの物語をどう見るでしょうか?

1934年 ‐ 没後
銀河鉄道の夜

銀河鉄道の夜

賢治が亡くなる直前まで推敲を重ねていた『銀河鉄道の夜』は、没後の「宮沢賢治全集」で初めて発表されました。夜空を駆ける銀河鉄道を舞台に、ジョバンニとカンパネルラの友情を儚く美しく描いた作品です。本当の幸せとは何だろう?というジョバンニ少年の呟きは、私たちも立ち止まって考えてみるべき問いです。

宮沢賢治の生涯年表

1896年 – 0歳「花巻に生まれる」

幼少期の賢治と妹・トシ

質屋の長男として誕生

1896年8月27日、宮沢賢治は岩手県花巻の質屋「宮沢商会」の長男として生まれます。賢治は5人兄弟で、弟が1人と妹が3人いました。兄弟仲がとてもよく、賢治は弟妹のことを幼いころから大切にしていたといわれています。

賢治の生まれた1896年は、東北地方に三陸大津波や陸羽大地震が起こった年です。なかでも陸羽大地震は賢治が生後4日のときに起こり、母・イチは生まれたての賢治の上にかぶさって必死で念仏を唱えていたといいます。

「石コ賢さん」と呼ばれた少年時代

小さい頃、賢治は礼儀正しくおとなしい子どもだったといいます。また裕福な家の息子だったため、周りの家の子とも遊ばせてもらえなかったようです。ひとりで遊んだり、弟妹の面倒をみたりしていたのでしょうか。

小学校では成績優秀な優等生でした。3・4年生のときには、担任だった八木英三が話してくれた童話や民話に興味をもち、大人になって八木に再会したとき「このとき聞いたお話が自分の童話のもととなっている」と語っています。鉱石や昆虫・植物の標本作りを始めたのもこのころで、あまりに熱中する賢治を家族は「石コ賢さん」と呼んでいました。

1915年 – 19歳「盛岡高等農林学校に入学」

右上が宮沢賢治

恩師・関豊太郎と出会う

19歳のとき、現在の岩手大学農学部にあたる盛岡高等農林学校に入学します。実は、中学時代の賢治はあまり熱心ではない生徒でした。卒業したときの成績は88人中60番、よく不平や不満をこぼすタイプの青年だったのです。
けれども、高等農林で農学博士の関豊太郎と出会ったことで賢治は人が変わったかのように勉学に夢中になります。入学した年の終わりには特待生となり、主任教授の関は賢治を将来的に助教授に推す準備をするほどでした。

同人誌『アザリア』創刊

農林学校3年生のときに、宮沢賢治は親友の保坂嘉内、小菅健吉、河本義行らと中心となって同人誌「アザリア」を創刊します。この文芸雑誌は短歌や詩、短編小説など何でもOKの自由な同人誌でした。1917年7月から翌年の6月まで、1年間のみの活動だったのですが全部で6号を発行しています。

賢治は短歌を寄稿しています。このころはまだ童話を書いていませんでした。賢治は旅に出るたびに短歌を作り、「アザリア」で発表しました。

1921年 – 25歳「家出同然の上京」

当時の東京

国注会に入会

高等農林時代、法華経に傾倒した賢治は、父の政次郎とたびたび宗教上の問題で揉めていました。当時、宮沢家は浄土真宗を信仰していました。父に改宗するよう求めていたのですがうまくいかず、賢治は1921年にまるで家出のように上京します。

上京した賢治はそのまま国注会館を尋ねました。国注会は日蓮主義の教団で、賢治は出版社で校正の仕事をしながら街での布教活動に励みます。童話を一心不乱に書きはじめたのもこのころです。

妹・トシの病、帰郷

宮沢賢治の妹・トシは1915年に日本女子大学校に入学するため上京していたのですが、3年生のときに肺湿潤で入院しました。2ヶ月の入院後、賢治や母・イチなどに花巻に帰郷しています。

その後、トシは母校である花巻高等女学校の教員となったのですが完全には病気が治っていませんでした。賢治は上京した年の8月に、トシの病の電報を受け取って帰郷することになります。

1 2 3

コメントを残す