小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

宮沢賢治とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や死因、代表作品も紹介】

1922年 – 26歳「稗貫農学校教諭となる」

教員時代に撮った肖像

授業について

1921年12月、賢治は稗貫農学校の先生になりました。風変わりな授業をする先生として評判で、学校の精神歌や応援歌を作ったり、自作のオペレッタを上演したりもしています。最初は乗り気ではなかった教職でしたが、生徒と一緒になって楽しみながら教育を実践していたようです。

童話も引き続き書いていて、この年に『愛国婦人』という雑誌に「雪渡り」という童話を発表しています。掲載時にもらった5円が、賢治が生前に得た唯一の原稿料です。

最愛の妹・トシの死

1922年11月27日、1年ほど前から闘病していたトシが24歳の若さで亡くなります。最愛の妹を失ってしまった賢治は深く悲しみ、その気持ちを「永訣の朝」「無声慟哭」などの詩に残しました。

宮沢家は浄土真宗だったため、日蓮宗の賢治はトシの葬儀には参列しませんでした。しかし火葬するときにふらりと現れ、朗々とした声で法華経を読み上げていたそうです。それから半年間、賢治はまったく詩を書きませんでした。

1924年 – 28歳「初めての出版」

『注文の多い料理店』初版

生前唯一出版された2冊

1924年、28歳のときに宮沢賢治は『心象スケッチ 春と修羅』を出版します。発行は東京の関根書店となっていますが、実際は賢治の自費出版でした。北原白秋や高村光太郎などに献呈したのですが何の反応もなく、批評紹介もされなかったようです。

さらに12月には童話集『注文の多い料理店』が出版されました。発行は東京光原社という出版社だったのですが、印税は現金ではなく100部もらったのみでした。こちらも売れなかったので、賢治は父からお金を借りてさらに200部買い取りました。

1926年 – 30歳「退職、羅須地人協会の設立」

復元された羅須地人協会

農民団体「羅須地人協会」

1926年、宮沢賢治は4年間勤めた農学校を退職し、宮沢家の別宅に1人暮らしを始めました。野菜や花を育て、執筆をし、晴耕雨読の日々を送ります。そして8月に設立したのが「羅須地人協会」です。

この協会は「新しい農村の設立」を目指して作られたもので、賢治は農民に土壌学や植物生理科学などの講習をしたり、農民オーケストラをしようとチェロなどを練習したりしていました。講義にはエスペラント語もあったというから驚きです。

1928年 – 32歳「病に倒れる、協会の解散」

協会の玄関には賢治の伝言が

羅須地人協会の解散

農民のために東奔西走していた宮沢賢治でしたが、1928年の8月に発熱、両側肺湿潤の診断を受けます。実家に戻って静養することになり、羅須地人協会の活動も終わります。

活動終了の引き金となったのは賢治の病気発症だったのですが、協会はそれまでにも社会主義運動を疑われて警察の取調べを受けるなど社会と相容れないことが多々ありました。何よりも、賢治が農民のことを思ってしていた活動が当の農民たちにあまり受け入れられなかったということもあります。農民たちから見たら賢治の活動は「花巻の変わり者のお坊ちゃんがしている農作業ごっこ」だったのです。

賢治は失意のなか花巻に帰ることになります。

1931年 – 35歳「石灰を売るセールスマンになる」

旧東北砕石工場

病状が回復し、東北砕石工場の技師として働く

静養生活を送るなかでも、賢治は肥料の相談に応じたり、詩を書いたりしていました。1931年、病状が軽快した賢治はかねてより肥料相談に来ていた鈴木東蔵が工場主を務める東北砕石工場の技師になります。石灰を売るセールスマンとなり、ここでもまた奔走します。

しかし頑張りすぎたのか、石灰の宣伝のため訪れていた東京で再び発病してしまいます。このときは両親に遺書を書き、東京から父の政次郎に「最後に声が聞きたい」と電話をかけています。驚いた政次郎は迎えを手配し、花巻に連れ戻された賢治は再び療養生活を送ることになります。

1933年 – 38歳「自宅で亡くなる」

宮沢賢治の墓

死の前日まで農民の相談に乗る

宮沢賢治は病床でも農民の相談に応じていました。また、詩や童話の推敲をしたり、短歌を書いたりもしています。1932年には『児童文学』という雑誌に「グスコーブドリの伝記」を発表しました。

しかしその翌年の9月、花巻のお祭りを軒先から見物した後に病状が急変します。肺炎と診断され、一時は持ち直し肥料相談に応じたものの、21時の午前11時30分ごろ血を吐きます。父に「国訳妙法蓮華経」を1000部刷って知人に分け与えてほしいと遺言を残し、午後1時30分に永眠しました。

「遺言を伝えたとき、父の政次郎から「お前もなかなか偉い」と言われた賢治は弟の清六に「俺もやっと父に褒められることができた」というようなことを言ったといわれています。葬儀には2000人以上の人が来て、賢治の死を悼んだそうです。

宮沢賢治の関連作品

おすすめ作品

新編 銀河鉄道の夜

表題作「銀河鉄道の夜」をはじめ、「よだかの星」「セロ弾きのゴーシュ」など全部で14篇の童話が収録されている文庫本です。巻末に難しい単語の解説が載っているので、初めて賢治作品に触れる人にも読みやすいでしょう。星空を舞台にしたお話が多く、美しい夜空に思いを馳せることができます。

春と修羅

宮沢賢治が生きているころに唯一刊行された「心象スケッチ 春と修羅」です。妹のトシが亡くなったときに書かれた「永訣の朝」のほか、岩手の大自然を描いた美しい詩がたくさん収録されています。賢治の思想がよりはっきり現れているので、この本を読んだ後にまた童話を読むとそれまでとは違った感じを受けるでしょう。

風の又三郎(ますむら・ひろし賢治シリーズ)

ますむらひろしは宮沢賢治の童話をネコのキャラクターを使って描く漫画家で、この作品には表題作をはじめ「雪渡り」「十力の金剛石」が収録されています。「登場人物がネコに…?」と思うかもしれませんが、このキャラクターが本当に賢治童話の世界観にぴったりなんです。ますむらひろしの漫画は「銀河鉄道の夜」「グスコーブドリの伝記」がアニメ映画化されています。

おすすめ動画

【文学】宮沢賢治「銀河鉄道の夜」ストーリー前編

オリエンタルラジオの中田敦彦さんが「銀河鉄道の夜」を情熱的に解説する動画です。臨場感の伝わるお喋りで、また作品が書かれた当時の時代背景や事物についても詳しく説明してくれます。思わず引き込まれて「完結編」まで通して見てしまう動画です。

知の回廊 第11回『宮沢賢治の故郷を訪ねて』

中央大学が制作した、宮沢賢治の作品の舞台を見て回る動画です。岩手山が語りかけてくる冒頭から心をつかまれます。この動画では「狼森と笊森、盗森」「かしわばやしの夜」「なめとこ山の熊」の舞台を見るのですが、どの作品も岩手の地形や風土に基盤があることを実感できますよ。

おすすめ映画

グスコーブドリの伝記

先ほどご紹介したますむらひろしの作品をアニメ映画化したものです。主人公のブドリの声を俳優の小栗旬が務めています。世界観に馴染むのに少し時間がかかるかもしれませんが、1度慣れると心を奪われます。

BUNGO ささやかな欲望 注文の多い料理店

「愛と欲望」をテーマに文豪の作品を大胆にアレンジした短編オムニバス映画です。「注文の多い料理店」主人公の2人の紳士が不倫関係にあるカップルに置き換えられているのを知ったときの衝撃は忘れられません。好みが分かれますが、気づいたら引き込まれている面白い作品です。

おすすめドラマ

宮沢賢治の食卓

魚乃目三太原作の漫画をドラマ化した作品です。全5話で、稗貫農学校教員時代の賢治の姿が描かれています。賢治役を鈴木亮平が務めているのですが、はまり役で「賢治はこんな人だっただろうな」と思わせます。

関連外部リンク

宮沢賢治のクイズ!全30問

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Q1/Q30
Question Image

宮沢賢治の出身地はどこでしょう?

Q2/Q30

宮沢賢治が故郷である岩手県をモチーフにした架空の理想郷と言えばどこでしょう?

Q3/Q30

宮沢賢治が通っていた学校「盛岡高等農林学校」は現在は何大学になっているでしょうか?

Q4/Q30

宮沢賢治は作家になる前にやっていた職業は次のうちどれでしょう?

Q5/Q30
Question Image

宮沢賢治が影響を受けた下記の同郷の歌人は次のうち誰でしょう?

Q6/Q30
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宮沢賢治に影響を与えたとされる詩集「月に吠える」を出版した下記の詩人は誰でしょう?

Q7/Q30
Question Image

宮沢賢治の妹であり、理解者であったこの人物の名前は次のうちどれでしょう?

Q8/Q30

宮沢賢治は農学校教諭時代にある物を集めていました。さて、それは何でしょう?

Q9/Q30

1924年に作家として初出版された宮沢賢治の詩集のタイトルは次のうちどれ?

Q10/Q30
Question Image

この「春と修羅」を読み、詩誌にて高評価のコメントを出した下記の詩人は次のうち誰でしょう?

Check Answers

クイズの続きはこちらをご覧ください!

【宮沢賢治クイズ#2】自然と死について書き続けた作家。 【宮沢賢治クイズ#3】自然と死について書き続けた作家。

宮沢賢治についてのまとめ

今回は、宮沢賢治の生涯を解説しました。筆者はこの記事を書くにあたって改めて賢治の人生について調べ、さまざまなことを考えたのですが、最大の凄さは「諦めなかったこと」だったのではないか、と感じました。

作品が売れなくても童話を書き続け、助けたかった農民たちからよく思われなくても肥料相談に応じることを最後までやめなかった宮沢賢治。彼を突き動かし続けていたものは何だったのか、その答えをこれからも考えていこうと思います。みなさんにも少しの間だけ、宮沢賢治の生涯について思いを馳せていただければ幸いです。

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