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宮沢賢治とはどんな人?歴史・年表まとめ【人柄や性格、おすすめ作品も紹介】

宮沢賢治は明治時代に生まれ、38年という短い人生でたくさんの美しい童話や詩を書いた童話作家です。「注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」など、国語の教科書で読んだりタイトルだけは聞いたことがあったりする人も多いのではないでしょうか。あるいは、「雨ニモ負ケズ」という詩を暗唱したことがある人もいるかもしれません。

賢治の作品には、人の力を超えた自然を描いたものが多くあります。また、「死」というものがどういうことなのかを童話に描いているのも特徴です。そのため、明治から大正、昭和初期に書かれた賢治の童話は時に難しく「何が書かれているのか分からない…」と言われることもあります。

宮沢賢治

宮沢賢治はどうして自然や死について書き続けたのでしょうか。それは、賢治が「人間全体の幸福」について常に考えていたからです。

岩手県花巻の大きな質屋の長男として生まれた賢治は、あまり自分の家の仕事が好きではありませんでした。そのためこの時代の長男でありながら質屋を継がず、農業を勉強して農学校の先生をしたり、農民を志したりします。

仏教についても学び、熱心な日蓮宗の信者でもありました。科学についても詳しく、さらには「エスペラント語」という世界の共通語として作られた言語を独学で勉強したこともありました。好奇心が強く、グローバルな視点で「人間と自然が本当に幸福になるには?」を考え続けていた人だと言えます。

この記事では、そんな宮沢賢治の生き方や考え方に感銘を受け、大学時代に賢治に関する授業を何度も受けた筆者が彼の魅力や人生についてお伝えします。

宮沢賢治ってどんな人?

名前宮沢 賢治
生年月日1896年8月27日
死没1933年9月21日(37歳没)
代表作注文の多い料理店(1924年)
雨ニモマケズ(1931年)
銀河鉄道の夜(未定稿)
風の又三郎(1934年)
出身地岩手県稗貫郡里川口村(現・花巻市)
出身地図

宮沢賢治の代表作品は?

銀河鉄道の夜、初版

宮沢賢治の作品は短編集もあわせると、250作品を超えてきます。その中でも代表作品とされているのが、下記の10作品です。

  • 『銀河鉄道の夜』
  • 『雨ニモマケズ』
  • 『グスコーブドリの伝記』
  • 『春と修羅』
  • 『よだかの星』
  • 『どんぐりと山猫』
  • 『やまなし』
  • 『ふたごの星』
  • 『オツベルと象』
  • 『風の又三郎』
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宮沢賢治に子孫はいたの?

左が宮沢賢治の弟、宮沢清六

宮沢賢治は生涯を独身で通し、子どもをもちませんでした。そういうわけで賢治の直系の子孫はいないのですが、弟さんの子孫を辿ることができます。

宮沢賢治は5人兄弟の長男で、弟が1人と妹が3人います。宮沢清六さんは賢治より8つ年下の弟で、賢治作品の出版に大きく貢献しました。賢治が亡くなるとき、そばにいて未出版の原稿を託されたのが清六さんです。

清六さんは2001年に亡くなりましたが娘さんがいて、さらにお孫さんもいます。お孫さんは宮沢和樹さんといい、JR花巻駅近くで「林風舎」というカフェを開いています。賢治の名作「注文の多い料理店」に出てくる「山猫軒」をイメージしたカフェで、賢治作品にまつわるメニューのほかグッズも販売しています。

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宮沢賢治は鉱物が大好き?

鉱物が大好きだった宮沢賢治

花巻の自然は賢治が物心つくと初めに関心をもつ存在でした。石を拾ってきては綺麗に磨き周りの大人たちに見せて「石っこ賢さん」とあだ名をつけられるほどでした。

それがのちに研究生時代の地質調査、農学校教師生活、羅須地人協会の活動へとつながっていきます。またそれらは賢治の文学にも影響を与えました。

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宮沢賢治の妹トシの存在

宮沢トシ

妹トシと賢治は幼い頃から仲が良かったとされています。トシが20歳のときに病気で倒れたときには熱心に看病をしていました。あまりの親しさから、賢治がトシに恋心を持っていたという解釈が持たれています。

トシが24歳の若さで亡くなったとき、賢治は最愛の妹が亡くなった想いを詩にします。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」などの挽歌です。心象スケッチ『春と修羅』として自費出版されます。

宮沢賢治の死因は?

当時は不治の病だった「肺炎」

元々肺結核で肺が弱っていた賢治は、急性肺炎で病に伏せていました。そのような状態でも周囲の反対を押し切って、肥料相談の応対をし病状が悪化し亡くなります。

最後の最後まで、農民に寄り添う生き方を全うしました。遺言では父政次郎に『国訳妙法蓮華経』を千部刊行領布することを伝え、政次郎は賢治の死後それを実行します。

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宮沢賢治の宗教観は?

『漢和対照法蓮華経』

父政次郎は熱心な浄土真宗の信者で、宗教家を花巻に呼び勉強会を開いていました。その中の一人に賢治が法華経にはまるきっかけとなる『漢和対照法蓮華経』の著者、島地大等がいました。

賢治の文学には法華経の影響が強く、人のために身を投げうつような作品があります。代表作としては『銀河鉄道の夜』『グスコーブドリの伝記』などですね。

宮沢賢治はオノマトペの達人?

宮沢賢治はオノマトペの達人

「オノマトペの達人」と名高い、宮沢賢治。私たちが日常で使うような「さらさら」「キラキラ」などのオノマトペも、賢治の手にかかれば予想もしなかったシーンで使われ、またそれが文章世界を豊かで鮮やかなものにしています。

また、賢治が地元の岩手弁や勉強していたエスペラント語などをもとに作ったといわれる独自のオノマトペも愉快です。

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宮沢賢治の名言は?

「いまやわれらは新たに正しき道を行き  われらの美を創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある 都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」

農民芸術概論綱要

「なんべんさびしくないと云つたとこで
またさびしくなるのはきまつてゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ」

春と修羅

「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺さ れる。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。」

よだかの星

「みんなひどく傷を受けてゐる。それはおまえたちが自分で自分を傷つけたのだぞ。けれどもそれも何でもない、」(中略)「こゝは地面 が剣でできてゐる。お前たちはそれで足やからだをやぶる。さうお前たちは思ってゐる、けれどもこの地面はまるっきり平らなの だ。さあご覧。」

ひかりの素足

宮沢賢治の功績は?

すごさ1「独特の言語感覚が読者を魅了」

清流を舞台にした童話『やまなし』

「やまなし」という作品に「かぷかぷ」というオノマトペが出てきます。この言葉だけ見るといったい何を表現しているか分かりませんが、実は「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」という一文に登場するオノマトペなんです。「クラムボン」が何かも明かされないまま話は進むのですが、かぷかぷという笑い声はどことなく朗らかで、賢治作品に出てくるのにふさわしいと思えてきます。

このように、宮沢賢治の作品には独特の言語感覚で綴られた言葉がいくつも出てきます。オノマトペや登場人物の名前も聞きなれないし、言葉と言葉のつながりも個性的なことがあります。読み始めたときには少し驚きますし、読みにくさを感じることもありますが、気づくと夢中になっているというのが賢治作品の特徴です。

すごさ2.「好奇心が強くてさまざまなことに詳しい」

鉱物採集に打ち込んでいた

宮沢賢治は新奇なものが好きで、好奇心旺盛な人でした。石を集めるのが趣味だった賢治少年は、盛岡中学校時代には鉱物や植物を採集するのに明け暮れます。盛岡高等農林学校に入学するとさらにその熱は増し、鉱物研究に没頭するようになります。

中学生のころまでは学業にあまり熱心ではなく、それよりも文学や自分の採集の方が大事だったのですが高等学校に入ると様子が一変、勉強に打ち込むようになりついには特待生となり授業料が免除されます。卒業後も研究生として2年ほど地域の土性調査をしています。大人になれば仏教、エスペラント語、セロ(チェロ)やオルガンの演奏、そして童話の執筆に取り組みました。

すごさ3.「〈世界全体の幸福〉を常に考えていた」

賢治の弾いていたセロ()

宮沢賢治の遺した文書に「農民芸術概論綱要」というものがあります。羅須地人協会の活動の一環として農民に芸術を教えるときに使われていたものだと考えられているのですが、そのなかに「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という言葉が出てきます。

「グスコーブドリの伝記」など、賢治の童話には1人が自分を犠牲に世界に幸福をもたらす、という筋の物語が多いです。そしてそれは、上に引用した言葉に端的に表されています。賢治の手帳に書かれていた「雨ニモ負ケズ」のように人のために尽くし、世界を幸福にしなければ1人1人が本当に幸福にはなれないという思想を常に胸に抱いて行動していた人なのだと思います。

宮沢賢治にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「生涯童貞を貫いた?」

宮沢賢治の恋愛観

宮沢賢治は生涯独身を貫き、子どもも残しませんでした。結婚話もいくつか浮上していたのですが、そのどれも賢治は断ってしまいます。それどころか、賢治は女性と交わったことがなく生涯童貞のままだったという説まであります。

これには異論もあり、盛岡高等農林学校時代の友人からは「遊郭に行って遊んできた、と賢治がニコニコ言うのを聞いた」という証言も出ています。けれども確かに女性との交わりを節制し、「いい仕事をするため」に禁欲主義でいた時期があったようです。晩年に友人にその時期について問われたとき、賢治は「何もならなかった」と答えたといわれています。

都市伝説・武勇伝2「ジョバンニとカムパネルラのモデルは賢治自身と親友」

賢治の親友・保坂嘉内

宮沢賢治の高等農林時代の1年後輩にあたる保坂嘉内は賢治の親友で、一時期はお互いを「恋人」と呼び合う仲でした。賢治の「銀河鉄道の夜」に登場するジョバンニとカムパネルラは、賢治と嘉内がモデルになっているという説があります。

嘉内は賢治が出した文芸雑誌「アザリア」の同人だったのですが、この雑誌に書いた文章がきっかけで高等農林を除籍になってしまいます。その後東京に行った嘉内とは手紙のやりとりが増え、文面には親愛の情が溢れる表現が多くみられます。深い絆でつながっていたジョバンニとカムパネルラのように、賢治と嘉内もお互いを信頼しあっていたのでしょう。

宮沢賢治の年表

宮沢賢治の生涯年表を簡単解説!作品も時系列で紹介

1896年 – 0歳「花巻に生まれる」

幼少期の賢治と妹・トシ

質屋の長男として誕生

1896年8月27日、宮沢賢治は岩手県花巻の質屋「宮沢商会」の長男として生まれます。賢治は5人兄弟で、弟が1人と妹が3人いました。兄弟仲がとてもよく、賢治は弟妹のことを幼いころから大切にしていたといわれています。

賢治の生まれた1896年は、東北地方に三陸大津波や陸羽大地震が起こった年です。なかでも陸羽大地震は賢治が生後4日のときに起こり、母・イチは生まれたての賢治の上にかぶさって必死で念仏を唱えていたといいます。

「石コ賢さん」と呼ばれた少年時代

小さい頃、賢治は礼儀正しくおとなしい子どもだったといいます。また裕福な家の息子だったため、周りの家の子とも遊ばせてもらえなかったようです。ひとりで遊んだり、弟妹の面倒をみたりしていたのでしょうか。

小学校では成績優秀な優等生でした。3・4年生のときには、担任だった八木英三が話してくれた童話や民話に興味をもち、大人になって八木に再会したとき「このとき聞いたお話が自分の童話のもととなっている」と語っています。鉱石や昆虫・植物の標本作りを始めたのもこのころで、あまりに熱中する賢治を家族は「石コ賢さん」と呼んでいました。

1915年 – 19歳「盛岡高等農林学校に入学」

右上が宮沢賢治

恩師・関豊太郎と出会う

19歳のとき、現在の岩手大学農学部にあたる盛岡高等農林学校に入学します。実は、中学時代の賢治はあまり熱心ではない生徒でした。卒業したときの成績は88人中60番、よく不平や不満をこぼすタイプの青年だったのです。
けれども、高等農林で農学博士の関豊太郎と出会ったことで賢治は人が変わったかのように勉学に夢中になります。入学した年の終わりには特待生となり、主任教授の関は賢治を将来的に助教授に推す準備をするほどでした。

同人誌『アザリア』創刊

農林学校3年生のときに、宮沢賢治は親友の保坂嘉内、小菅健吉、河本義行らと中心となって同人誌「アザリア」を創刊します。この文芸雑誌は短歌や詩、短編小説など何でもOKの自由な同人誌でした。1917年7月から翌年の6月まで、1年間のみの活動だったのですが全部で6号を発行しています。

賢治は短歌を寄稿しています。このころはまだ童話を書いていませんでした。賢治は旅に出るたびに短歌を作り、「アザリア」で発表しました。

1921年 – 25歳「家出同然の上京」

当時の東京

国注会に入会

高等農林時代、法華経に傾倒した賢治は、父の政次郎とたびたび宗教上の問題で揉めていました。当時、宮沢家は浄土真宗を信仰していました。父に改宗するよう求めていたのですがうまくいかず、賢治は1921年にまるで家出のように上京します。

上京した賢治はそのまま国注会館を尋ねました。国注会は日蓮主義の教団で、賢治は出版社で校正の仕事をしながら街での布教活動に励みます。童話を一心不乱に書きはじめたのもこのころです。

妹・トシの病、帰郷

宮沢賢治の妹・トシは1915年に日本女子大学校に入学するため上京していたのですが、3年生のときに肺湿潤で入院しました。2ヶ月の入院後、賢治や母・イチなどに花巻に帰郷しています。

その後、トシは母校である花巻高等女学校の教員となったのですが完全には病気が治っていませんでした。賢治は上京した年の8月に、トシの病の電報を受け取って帰郷することになります。

1922年 – 26歳「稗貫農学校教諭となる」

教員時代に撮った肖像

授業について

1921年12月、賢治は稗貫農学校の先生になりました。風変わりな授業をする先生として評判で、学校の精神歌や応援歌を作ったり、自作のオペレッタを上演したりもしています。最初は乗り気ではなかった教職でしたが、生徒と一緒になって楽しみながら教育を実践していたようです。

童話も引き続き書いていて、この年に『愛国婦人』という雑誌に「雪渡り」という童話を発表しています。掲載時にもらった5円が、賢治が生前に得た唯一の原稿料です。

最愛の妹・トシの死

1922年11月27日、1年ほど前から闘病していたトシが24歳の若さで亡くなります。最愛の妹を失ってしまった賢治は深く悲しみ、その気持ちを「永訣の朝」「無声慟哭」などの詩に残しました。

宮沢家は浄土真宗だったため、日蓮宗の賢治はトシの葬儀には参列しませんでした。しかし火葬するときにふらりと現れ、朗々とした声で法華経を読み上げていたそうです。それから半年間、賢治はまったく詩を書きませんでした。

1924年 – 28歳「初めての出版」

『注文の多い料理店』初版

生前唯一出版された2冊

1924年、28歳のときに宮沢賢治は『心象スケッチ 春と修羅』を出版します。発行は東京の関根書店となっていますが、実際は賢治の自費出版でした。北原白秋や高村光太郎などに献呈したのですが何の反応もなく、批評紹介もされなかったようです。

さらに12月には童話集『注文の多い料理店』が出版されました。発行は東京光原社という出版社だったのですが、印税は現金ではなく100部もらったのみでした。こちらも売れなかったので、賢治は父からお金を借りてさらに200部買い取りました。

1926年 – 30歳「退職、羅須地人協会の設立」

復元された羅須地人協会

農民団体「羅須地人協会」

1926年、宮沢賢治は4年間勤めた農学校を退職し、宮沢家の別宅に1人暮らしを始めました。野菜や花を育て、執筆をし、晴耕雨読の日々を送ります。そして8月に設立したのが「羅須地人協会」です。

この協会は「新しい農村の設立」を目指して作られたもので、賢治は農民に土壌学や植物生理科学などの講習をしたり、農民オーケストラをしようとチェロなどを練習したりしていました。講義にはエスペラント語もあったというから驚きです。

1928年 – 32歳「病に倒れる、協会の解散」

協会の玄関には賢治の伝言が

羅須地人協会の解散

農民のために東奔西走していた宮沢賢治でしたが、1928年の8月に発熱、両側肺湿潤の診断を受けます。実家に戻って静養することになり、羅須地人協会の活動も終わります。

活動終了の引き金となったのは賢治の病気発症だったのですが、協会はそれまでにも社会主義運動を疑われて警察の取調べを受けるなど社会と相容れないことが多々ありました。何よりも、賢治が農民のことを思ってしていた活動が当の農民たちにあまり受け入れられなかったということもあります。農民たちから見たら賢治の活動は「花巻の変わり者のお坊ちゃんがしている農作業ごっこ」だったのです。

賢治は失意のなか花巻に帰ることになります。

1931年 – 35歳「石灰を売るセールスマンになる」

旧東北砕石工場

病状が回復し、東北砕石工場の技師として働く

静養生活を送るなかでも、賢治は肥料の相談に応じたり、詩を書いたりしていました。1931年、病状が軽快した賢治はかねてより肥料相談に来ていた鈴木東蔵が工場主を務める東北砕石工場の技師になります。石灰を売るセールスマンとなり、ここでもまた奔走します。

しかし頑張りすぎたのか、石灰の宣伝のため訪れていた東京で再び発病してしまいます。このときは両親に遺書を書き、東京から父の政次郎に「最後に声が聞きたい」と電話をかけています。驚いた政次郎は迎えを手配し、花巻に連れ戻された賢治は再び療養生活を送ることになります。

1933年 – 38歳「自宅で亡くなる」

宮沢賢治の墓

死の前日まで農民の相談に乗る

宮沢賢治は病床でも農民の相談に応じていました。また、詩や童話の推敲をしたり、短歌を書いたりもしています。1932年には『児童文学』という雑誌に「グスコーブドリの伝記」を発表しました。

しかしその翌年の9月、花巻のお祭りを軒先から見物した後に病状が急変します。肺炎と診断され、一時は持ち直し肥料相談に応じたものの、21時の午前11時30分ごろ血を吐きます。父に「国訳妙法蓮華経」を1000部刷って知人に分け与えてほしいと遺言を残し、午後1時30分に永眠しました。

「遺言を伝えたとき、父の政次郎から「お前もなかなか偉い」と言われた賢治は弟の清六に「俺もやっと父に褒められることができた」というようなことを言ったといわれています。葬儀には2000人以上の人が来て、賢治の死を悼んだそうです。

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新編 銀河鉄道の夜

表題作「銀河鉄道の夜」をはじめ、「よだかの星」「セロ弾きのゴーシュ」など全部で14篇の童話が収録されている文庫本です。巻末に難しい単語の解説が載っているので、初めて賢治作品に触れる人にも読みやすいでしょう。星空を舞台にしたお話が多く、美しい夜空に思いを馳せることができます。

春と修羅

宮沢賢治が生きているころに唯一刊行された「心象スケッチ 春と修羅」です。妹のトシが亡くなったときに書かれた「永訣の朝」のほか、岩手の大自然を描いた美しい詩がたくさん収録されています。賢治の思想がよりはっきり現れているので、この本を読んだ後にまた童話を読むとそれまでとは違った感じを受けるでしょう。

風の又三郎(ますむら・ひろし賢治シリーズ)

ますむらひろしは宮沢賢治の童話をネコのキャラクターを使って描く漫画家で、この作品には表題作をはじめ「雪渡り」「十力の金剛石」が収録されています。「登場人物がネコに…?」と思うかもしれませんが、このキャラクターが本当に賢治童話の世界観にぴったりなんです。ますむらひろしの漫画は「銀河鉄道の夜」「グスコーブドリの伝記」がアニメ映画化されています。

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知の回廊 第11回『宮沢賢治の故郷を訪ねて』

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BUNGO ささやかな欲望 注文の多い料理店

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関連外部リンク

  • 宮沢賢治 Wikipedia

宮沢賢治についてのまとめ

宮沢賢治の魅力や生涯、おすすめの作品についてご紹介してきました。筆者はこの記事を書くにあたって改めて賢治の人生について調べ、さまざまなことを考えたのですが、最大の凄さは「諦めなかったこと」だったのではないか、と感じました。

作品が売れなくても童話を書き続け、助けたかった農民たちからよく思われなくても肥料相談に応じることを最後までやめなかった宮沢賢治。彼を突き動かし続けていたものは何だったのか、その答えをこれからも考えていこうと思います。みなさんにも少しの間だけ、宮沢賢治の生涯について思いを馳せていただければ幸いです。

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