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宮沢賢治とはどんな人?人生・生涯年表まとめ【名言や死因、作品の特徴も紹介】

宮沢賢治は、明治時代に活躍した童話作家です。38年という短い生涯で「注文の多い料理店」や「銀河鉄道の夜」、「雨ニモ負ケズ」など数多くの有名作品を世に残しました。

宮沢賢治

そんな宮沢賢治ですが、現代まで語り継がれるほどの名声がある一方、彼自身の人柄や性格は詳しく知らなかったりしますよね。また、どれが宮沢賢治の作品なのかあいまいな方も多いはず。

そこで今回は日本の歴史に名を残す童話作家・宮沢賢治の生涯を年表にまとめつつ、彼の性格や死因・代表作品とその特徴までご紹介します。

この記事を読めば、宮沢賢治が現代にまで語り継がれたるようになった理由が理解できるでしょう。宮沢賢治をこよなく愛する筆者とともに彼の魅力に迫っていきましょう。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

宮沢賢治とはどんな人物か

名前宮沢 賢治
生年月日1896年8月27日
死没1933年9月21日(37歳没)
代表作注文の多い料理店(1924年)
雨ニモマケズ(1931年)
銀河鉄道の夜(未定稿)
風の又三郎(1934年)
出身地岩手県稗貫郡里川口村(現・花巻市)
出身地図

宮沢賢治の生涯をハイライト

宮沢賢治

宮沢賢治は1896年8月27日、現在の岩手県花巻市に生まれました。実家は花巻で質屋を営む「宮沢商会」で、賢治は5人兄弟の長男です。19歳のときに盛岡高等農林学校に入学し、鉱物学や農業について学びました。

25歳の時、宗教上の問題から父親と揉め、家出のように上京したのですが最愛の妹・トシが病に冒され、1年も経たずに帰郷しています。稗貫農学校の教師をしながら看病をしていたのですが、トシは24歳の若さで亡くなってしまいました。この悲しみを描いた詩が「永訣の朝」「無声慟哭」などです。

代表作『注文の多い料理店』
青空文庫で無料で読めます

28歳の時に『春と修羅』『注文の多い料理店』を出版しています。生前出版されたのはこの2冊だけなのですが、あまり売れませんでした。賢治の評価が今のように高くなったのは没後のことです。

30歳の時に教師を辞め、羅須地人協会を設立します。農民に土壌学の講習をしたり、チェロやエスペラント語などを教えたりしたのですが、賢治の病によって解散を余儀なくされました。農民のために東奔西走し、まさに代表作「雨ニモ負ケズ」のように生きた賢治でしたが、38歳で亡くなりました。

無類の鉱物好き

鉱物が大好きだった宮沢賢治

花巻の自然は賢治が物心つくと初めに関心をもつ存在でした。石を拾ってきては綺麗に磨き周りの大人たちに見せて「石っこ賢さん」とあだ名をつけられるほどでした。

それがのちに研究生時代の地質調査、農学校教師生活、羅須地人協会の活動へとつながっていきます。またそれらは賢治の文学にも影響を与えました。

宮沢賢治作品に出てくる鉱物・鉱石・宝石まとめ【名作から詩・短歌まで】

名高いオノマトペの達人

宮沢賢治はオノマトペの達人

「オノマトペの達人」と名高い、宮沢賢治。私たちが日常で使うような「さらさら」「キラキラ」などのオノマトペも、賢治の手にかかれば予想もしなかったシーンで使われ、またそれが文章世界を豊かで鮮やかなものにしています。

また、賢治が地元の岩手弁や勉強していたエスペラント語などをもとに作ったといわれる独自のオノマトペも愉快です。

【最高】宮沢賢治はオノマトペの達人!魅力が伝わる珠玉の作品5選

溺愛した妹の存在

宮沢トシ

妹トシと賢治は幼い頃から仲が良かったとされています。トシが20歳のときに病気で倒れたときには熱心に看病をしていました。あまりの親しさから、賢治がトシに恋心を持っていたという解釈が持たれています。

トシが24歳の若さで亡くなったとき、賢治は最愛の妹が亡くなった想いを詩にします。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」などの挽歌です。心象スケッチ『春と修羅』として自費出版されます。

「人類愛に満ちた童話」を描く

『春と修羅』初版

宮沢賢治の作品は詩と童話の2種類があります。詩には自らの心の動きが厳密に書き留められていて、また気象学や鉱物学の用語が使われているのも特徴です。賢治は自分の詩を「心象スケッチ」と呼ばれることを好んでいました。

童話は幻想的で、人類愛に溢れているといわれることが多いです。自然科学についての深い知識を背景にした独自の宇宙観をもとに、人間全体の幸せを願った作品がたくさんあります。また「よだかの星」「なめとこ山の熊」などには、命の在り方について私たちが忘れてはいけないメッセージが描かれています。

賢治は29歳の時には高村光太郎と出会い、草野心平の詩誌『銅鑼』の同人として活動していました。草野が亡くなるまで無名だった賢治の作品群を世に紹介したことで、文学史上の宮沢賢治の評価が高まったといわれています。

法華経に強い影響を受けていた

『漢和対照法蓮華経』

父政次郎は熱心な浄土真宗の信者で、宗教家を花巻に呼び勉強会を開いていました。その中の一人に賢治が法華経にはまるきっかけとなる『漢和対照法蓮華経』の著者、島地大等がいました。

賢治の文学には法華経の影響が強く、人のために身を投げうつような作品があります。代表作としては『銀河鉄道の夜』『グスコーブドリの伝記』などですね。

生涯独身を貫いた賢治

生涯独身だった

宮沢賢治は生涯を独身で通し、子どもをもちませんでした。そういうわけで賢治の直系の子孫はいないのですが、弟さんの子孫を辿ることができます。

宮沢賢治は5人兄弟の長男で、弟が1人と妹が3人います。宮沢清六さんは賢治より8つ年下の弟で、賢治作品の出版に大きく貢献しました。賢治が亡くなるとき、そばにいて未出版の原稿を託されたのが清六さんです。

清六さんは2001年に亡くなりましたが娘さんがいて、さらにお孫さんもいます。お孫さんは宮沢和樹さんといい、JR花巻駅近くで「林風舎」というカフェを開いています。賢治の名作「注文の多い料理店」に出てくる「山猫軒」をイメージしたカフェで、賢治作品にまつわるメニューのほかグッズも販売しています。

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賢治の死因は「肺炎」

元々肺結核で肺が弱っていた賢治は、急性肺炎で病に伏せていました。そのような状態でも周囲の反対を押し切って、肥料相談の応対をし病状が悪化し亡くなります。

当時は不治の病だった「肺炎」

最後の最後まで、農民に寄り添う生き方を全うしました。遺言では父政次郎に『国訳妙法蓮華経』を千部刊行領布することを伝え、政次郎は賢治の死後それを実行します。

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宮沢賢治の代表作品

宮沢賢治の作品は短編集もあわせると、250作品を超えてきます。その中でも代表作品とされているのが、下記の10作品です。

  • 『銀河鉄道の夜』
  • 『雨ニモマケズ』
  • 『グスコーブドリの伝記』
  • 『春と修羅』
  • 『よだかの星』
  • 『どんぐりと山猫』
  • 『やまなし』
  • 『ふたごの星』
  • 『オツベルと象』
  • 『風の又三郎』

今回は代表作を一覧で紹介しましたが、一つひとつの作品をより詳しく知りたい方は、下の記事を参考にしてみてください。

宮沢賢治作品が詰まったおすすめ本10選【文庫、童話や詩集・絵本も紹介】

宮沢賢治の名言

「いまやわれらは新たに正しき道を行き  われらの美を創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある 都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」

農民芸術概論綱要

「なんべんさびしくないと云つたとこで
またさびしくなるのはきまつてゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ」

春と修羅

「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺さ れる。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。」

よだかの星

「みんなひどく傷を受けてゐる。それはおまえたちが自分で自分を傷つけたのだぞ。けれどもそれも何でもない、」(中略)「こゝは地面 が剣でできてゐる。お前たちはそれで足やからだをやぶる。さうお前たちは思ってゐる、けれどもこの地面はまるっきり平らなの だ。さあご覧。」

ひかりの素足
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