【年表付】俳人「水原秋桜子」とはどんな人?生涯や代表作、名言まとめ

水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)は日本を代表する俳人の1人で、1892年に東京市神田区で生まれました。「秋桜子」は俳号(俳句を詠むときに用いるペンネームのようなもの)で、本名は豊(ゆたか)といいます。

彼の最大の功績は、新興俳句運動の旗手として、現代俳句の基礎を築いたことです。定型や季語といったルールは守りつつ、短歌で学んだ抒情性のある俳句を多く残しました。1981(昭和56)年に亡くなるまで23冊もの句集を発表し、88年にわたる俳句人生を全うしています。

若き日の水原秋桜子

東京帝国大学医学部出身者の俳句の会「木の芽会」で俳句に親しみ、はじめは松根東洋城に、次いで「ホトトギス」の高浜虚子に師事しました。その後、新しい俳句像を求めて「ホトトギス」を離脱、反ホトトギスをモットーに俳句を詠んでいきました。

今回は、そんな水原秋桜子の俳句に深い魅力を感じている筆者が、その生涯や人物像、名言、代表的な俳句などについて簡単な年表も添えてご紹介していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

水原秋桜子とはどんな人物か

名前水原豊
俳号水原秋桜子、喜雨亭
誕生日1892(明治25)年10月9日
没日1981(昭和56)年7月17日
生地東京市神田区
没地東京都杉並区
配偶者吉田しづ
埋葬場所都営染井霊園(東京都豊島区)

水原秋桜子の生涯をハイライト

東京・神田猿楽町の生まれ(画像は男坂)

1892年10月9日、水原秋桜子は東京・神田猿楽町に生まれました。本名は水原豊といい、代々産婦人科を経営している家の生まれです。獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高校)を卒業後、第一高等学校に入学しました。

1914年、東京帝国大学医学部に進学して医師となる道を歩み始めました。卒業の年である1918年に高浜虚子の『進むべき俳句の道』を読み、俳句に興味をもちます。翌年に吉田しずと結婚、句作を始めました。

28歳ごろから短歌と俳句の活動を本格化しています。短歌は窪田空穂に師事、俳句は高浜虚子に師事しながら別の句誌『破魔弓』の同人になりました。虚子の主催する『ホトトギス』にも参加していて、1928年ごろには「ホトトギスの4S」として紹介されています。

水原秋桜子

けれども秋桜子は1931年に『ホトトギス』を離脱、『馬酔木(あしび:「破魔弓」が改名したもの)』で「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表します。この文章がきっかけで「新興俳句運動」が起こり、秋桜子はその先導者となりました。1955年、63歳のときには医業を引退、俳句に専念しています。

その後は俳人協会の会長に就任したり、勲三等瑞宝章を受勲したりするなど、俳句界を率いる存在として生きました。1981年7月17日、水原秋桜子は急性心不全のため88歳で亡くなりました。

産婦人科を営む家に生まれる

東京大学に建立された水原秋桜子の句碑
「胸像をぬらす日本の花の雨」

水原秋桜子は、東京市神田区猿楽町で代々産婦人科医院を経営する一家の長男として誕生しました。

父は水原漸、母は治子。生まれながらにして医業を営むことが定められたような生い立ちです。秋桜子の人生は、そうした周囲の期待に応えるかたちで進んでいきました。

なお、秋桜子の長男・水原春郎は、後の聖マリアンナ医科大学名誉教授となり、秋桜子はきちんと次代にバトンをひきついでいます。

秋桜子の故郷・神田猿楽町

猿楽町の旧交番(現在は、神田猿楽町町会詰所)

水原秋桜子は、東京市神田区猿楽町の出身です。1889(明治22)年から1943(昭和18)年まで、東京都は「東京府」と呼ばれ、さらに府の中に「東京市」が置かれていました。この東京市(15区)と周辺の郡町村が、のちの東京23区となります。

猿楽町という地名の由来は、慶長(1596-1615年)頃、猿楽や能楽関係者の屋敷が並んでいたことに由来しています。俳句にもゆかりのある地で、例えば正岡子規が学生時代に下宿し、高浜虚子が一時住まいを構えた町としても知られています。

現代俳句の基礎を作った「新興俳句運動」

『馬酔木』2020年11月号

1931年、水原秋桜子は自身が主催する句誌『馬酔木(あしび)』で「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表しました。この文章では、それまで自分が所属していた句誌『ホトトギス』の代表者・高浜虚子の伝統にのっとった方針が些末な俳句を生み出しているとし、自然という「素材」を自らのうちに溶かしこみ、精錬した「文芸上の真」を生み出す俳句がこれからの俳句だ、と主張しました。

この秋桜子の主張は若い俳人の共感を呼び、『馬酔木』以外の句誌も「俳句の近代化」を推し進めるきっかけになりました。『馬酔木』には秋桜子と同じように「ホトトギスの4S」だった山口誓子も加入し、秋桜子とともに近代俳句を切り開いていきました。

この運動は連作俳句なども積極的に詠んでいったのですが、連作の中の1つの句と全体、また季語の有無などがだんだんと問題になってきました。季節にこだわらない俳句まで作られてくるようになると、秋桜子と誓子は運動を離脱しました。1936年ごろのことで、これ以降を新興俳句運動の後期と呼んでいます。

自分の視点から自然を詠んだ秋桜子の俳句

秋桜子が詠むまで
野鳥はあまり俳句にされてこなかった

水原秋桜子は、高浜虚子らの自然を模写する俳句を批判し、「個性を通して自然を把握する」俳句を打ち出しました。ただ単に自然の美しさをうたうのではなく、自らの視点を通すことが大切と唱えたのです。このことは、俳句においての「感情の主体性」を確立し、近代俳句に新しい側面を与えました。

秋桜子自身は、豊かな感受性と想像力によって自然を唱えるみずみずしい俳句を詠みました。従来の俳句にはなかった明るさは「印象派風」とも呼ばれています。また、古語をいかした句を作ったことでも知られ、近代俳句に万葉の風を吹き込みました。

水原秋桜子の性格

清廉すぎた性格の秋桜子

水原秋桜子の性格は、ひとことでいうと好き嫌いの激しい激情家でした。

弟子の能村登四郎が、秋桜子の人柄を書き残しています。嫌いな相手と一応の交流をもつ、ということは社会人であればだれしも経験するはずですが、秋桜子はそういうことが一切できない人だったという趣旨のことを書いています。

反面、好む人物とはとことん付き合うというタイプだったようです。いわば「清廉すぎる」性格は、秋桜子の俳句人生に如実に現れています。

医師としての顔をもっていた

医師でありながら近代俳句を先導していた

水原秋桜子は東京帝国大学を卒業後、63歳まで産婦人科の医師として働いていました。実家の産婦人科を継いだほか、宮内省侍医寮御用掛として多くの皇族の出産に関わっています。

また、1928年からは昭和医学専門学校(現在の昭和大学)で産婦人科学の初代教授として教えていました。そのため1978年には昭和大学から特別功労者として表彰されています。このとき秋桜子は「すすき野に大学舎成りぬああ五十年」の句を詠み、この句は昭和大学のキャンパスに句碑として設置されました。

水原秋桜子の死因

辞世の句で「紫陽花」を詠った秋桜子

水原秋桜子の死因は、急性心不全です。1981(昭和56)年7月に亡くなりました。

秋桜子の遺作とされる三つの俳句は、その年の「馬酔木」8月号に掲載されています。

紫陽花や水辺の夕餉早きかな

紫陽花や鱸用意の生簀得て

飛魚の翔けて人よふ伊豆の船

水原秋桜子の名言

俳句を論ずるに当たつて、まづ第一に明らかにして置くべきことは、「俳句は抒情詩である」といふことであります。抒情詩とは、自己の感情を詠嘆する詩で、その感情が強ければ強いほどこれを端的にあらはしますから、従つて形は短いものになります。さうしてその短い詩句の中に、作者の感情のあふれてゐるものを尊しとするのであります。

出典:『俳句の本質』(交蘭社、1937(昭和12)年刊)

水原秋桜子の代表的な句集

  • 『葛飾』-(馬酔木発行所、1930年)
  • 『秋櫻子句集』-(素人社、1931年)
  • 『新樹』-(香蘭社、1933年)
  • 『秋苑』-(龍星閣、1935年)
  • 『岩礁』-(沙羅書店、1937年)
  • 『蘆刈』-(河出書房、1939年)
  • 『古鏡』-(甲鳥書林、1942年)
  • 『雪蘆抄』-(石原求龍堂、1942年)
  • 『磐梯』-(甲鳥書林、1943年)
  • 『重陽』-(細川書店、1948年)
  • 『梅下抄』-(武蔵野書店、1948年)
  • 『霜林』-(目黒書店、1950年)
  • 『残鐘』-(竹頭社、1952年)
  • 『帰心』-(琅玕洞、1954年)
  • 『玄魚』-(近藤書店、1957年)
  • 『蓬壺』-(近藤書店、1959年)
  • 『旅愁』-(琅玕洞、1961年)
  • 『晩華』-(角川書店、1964年)
  • 『殉教』-(求龍堂、1969年)
  • 『緑雲』-(東京美術、1971年)
  • 『餘生』-(求龍堂、1977年)
  • 『蘆雁』-(東京美術、1979年)
  • 『水原秋桜子全句集』-(全21巻、講談社、1977年)
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1 COMMENT

堀江栄一

旅先で、水原秋櫻子の句碑を見つけました。
簗のうえ峠の里の・・・ 下五が読めませんでした。
どの句集に載っているか知っている方は教えて下さい。

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