【年表付】俳人「水原秋桜子」とはどんな人?生涯や代表作、名言まとめ

水原秋桜子の功績

功績1「ホトトギス派の代表歌人」

明治30年から続いている
『ホトトギス』

『ホトトギス』は明治30年から続いている句誌です。明治時代には総合文芸誌として、大正・昭和期には伝統的な俳句を重視する俳壇のなかでも有力な句誌として多くの人に読まれました。夏目漱石が『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』を連載した雑誌としても知られています。

水原秋桜子は1921年ごろから『ホトトギス』の例会に出席し、編者の高浜虚子から指導を受けていました。1929年に『ホトトギス』の同人になり、山口誓子・阿波野青畝・高野素十とともに「ホトトギスの4S」として知られるようになりました。

功績2「新興俳句運動のきっかけとなった」

「アシビ」はツツジ科の常緑樹

1931年、水原秋桜子は主催する句誌『馬酔木(あしび)』で「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表しました。この文章で秋桜子は『ホトトギス』同人で1番のライバルだった高野素十の俳句と師である高浜虚子の句論を否定しました。高野素十と高浜虚子の俳句は客観的に自然を写生することを目指す伝統的なもので、秋桜子はそれを「自然模倣主義」と批判したのです。

そして秋桜子は「主観性」を重んじた俳句を目指すと宣言し、『ホトトギス』から離れました。この文章は若い俳人たちの共感を呼び、ここから「新興俳句運動」が起こっていきます。

功績3「俳人の個性が輝くような俳句を目指した」

その人だからこそ詠める俳句を目指した

秋桜子は自分の「個性」を通して自然を見た俳句を重要視しました。このことは、『ホトトギス』や高浜虚子が推し進めてきた「俳句」に新たな一面を与えるものでした。「俳句の近代化」とも呼べるものです。

現代の俳句でももちろん自然の美しさをそのままうたったものは多いですが、秋桜子が「主観性」を唱え始めたころよりも明らかに個性の強い句が増えています。秋桜子の主張が実を結んだといえるでしょう。気になる方はぜひ現代の俳人の句も詠んでみてください。

水原秋桜子の代表的な俳句

水原秋桜子×春の俳句

明るく澄んだ印象の春の句

紅梅や佳き墨おろす墨の香と

蕪村「白梅や墨芳しき鴻鸕館」を彷彿する句です。「佳き墨おろす」という言いまわしから、硯の上で墨を擦る様子が感じられます。梅の香と墨の香。むろん強いのは墨の香ですが、それは墨を用いている間のことで、やがては梅の香が優勢になります。しかし梅の香とて歳月のなかではほんのひと時にすぎません。

天わたる日のあり雪解しきりなる

春の日差しに溶けてゆく雪を詠んだ句です。「天わたる」日、「しきりなる」雪解という対比が面白いですし、「あり」「なる」というリズムも印象深いです。単調といえばあまりに単調な風景を、こうも楽しく詠めるものなのかと感心させられる句です。

谷深くうぐひす鳴けり夕霞

「谷深く」からは切り立った崖に挟まれた峡谷を連想します。夕霞ですから、あまり視界のよくない中でウグイスの鳴き声が聞こえてるという情景です。春という、ポジティブな中にもやや憂いのある独特な季節感が、ウグイスの声をいっそう印象強いものとしています。

水原秋桜子×夏の俳句

熱い季節も秋桜子が詠めば涼やかに

ふるさとの沼のにほひや蛇苺

いわゆる取り合わせの句だと思われますが、沼と蛇苺という両者の関係性は今一つはっきりしません。ただ、経験則として、何かを見たときに、ふとその記憶に紐づいた匂いを思い出すことがあると思います。この句はそういう読み手の連想を惹起することに成功している句だと思います。

滝落ちて群青世界とどろけり

滝が落ちてくる様子を詠んだ句ですが、出色なのは「群青世界」の四文字です。凡人が詠めば「滝の音が空に響いた」とでもいうべきところです。そこを「群青世界とどろけり」と詠んだことで、滝は平凡な滝から勇壮な瀑布へと変貌しています。巧みな計算がある句だと感じられます。

日焼け顔見合ひてうまし氷水

教科書に掲載された句です。「日焼」も「氷水」も季語です。秋桜子の傾向として、季語を複数用いた句が多いことがあげられます。これは句が破綻しなければ別段禁忌とされるものではありません。とはいえ、並みの俳人にはなかなか真似はできません。秋桜子ゆえの名人芸とみることができそうです。

水原秋桜子×秋の俳句

どっしりと地に足のついた秋の句

竜胆や月雲海をのぼり来る

竜胆(りんどう)の青い花が月の光に照らされ、浮かび上がってくるような句です。「竜胆」「月」ともに秋の季語ですが、情景としてイメージしたばあい、両者は支えあうような恰好になり、ここでも一句を成り立たせています。主役は竜胆ですが、「雲海をのぼり来る」と描写したことで微妙な均衡を保っているように感じられます。

大野分すぎて法堂ゆるぎなし

野分は、主として台風によっておこる秋の強い風です。法堂は僧侶が仏教を講義する禅宗寺院の建物です。大野分というほどですから、猛烈な風だったことでしょう。しかし法堂はゆるぎもしません。台風一過の朝、晴れ渡る空のもと、微動だにしなかった法堂の太くたくましい柱までもが目に浮かんでくるような句です。

啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々

教科書に掲載された句です。「啄木鳥」は秋、「落葉」は冬の季語です。「啄木鳥や」と切っているので軸足はあくまで啄木鳥にあります。「落葉をいそぐ」とは牧の木々についての描写ですが、急かしているのは啄木鳥です。文理上の因果関係ではなく、連想上の関係から読ませる、秋桜子らしい俳句です。

水原秋桜子×冬の俳句

幻想的なイメージの冬の句

紅葉散る水は瀬となり瀧と落つ

「紅葉散る」は冬、「瀧」は夏の季語です。散り積もった紅葉、いままさに舞い散る紅葉。それに合わせるように水はひとすじの瀬となり、やがて瀧となって落ちてゆく。一幅の日本画のような、静謐な光景が浮かんできます。「散る」「なり」「落つ」というリズム感にも優れた一句です。

冬菊やまとふはおのがひかりのみ

教科書に掲載された句です。冬菊の凛とした姿が、まず浮かんできます。そして「ひかりのみ」と読んだ瞬間、ぱっと冬菊がかがやくのです。そのかがやきは、ほかのどこかから投じられた光ではなく、「おのがひかり」なのです。冬菊のけなげさ、はかなさに裏打ちされた美しさを端的に詠むことに成功した句だと感じます。

月いでて遠き落葉のかがやきぬ

これも「月」「落葉」と季語が重なっていますが、ここでの軸は「落葉」です。月光によって遠くの落葉がかがやいた、という意味です。ポイントは「遠き」。それまで意に介さなかった存在が、ふいに脚光をあびたのです。しかも落葉という、ともすればぞんざいに扱われがちな素材を主演に抜擢した句だと考えられます。

水原秋桜子にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「師への反発から『ホトトギス』を飛び出す」

水原秋桜子の師であった高浜虚子

水原秋桜子といえば、かならず語られるのが、「ホトトギス」に対する造反・離脱です。いったいなぜ、秋桜子は「ホトトギス」をやめなければならなかったのでしょうか。

大きな要因は、俳句に対する考え方の相違です。当時の「ホトトギス」は、高浜虚子による客観写生を絶対視していました。

「ホトトギスの4S」の一人・高野素十は純客観の名手と讃えられました。一方、秋桜子は、詠み手の主観すなわち詩がなければ文芸ではないとの考え方をとっていました。

昭和6年に事件は起こります。『まほぎ』という俳誌に掲載された中田みづほと浜口今夜の対談記事において、秋桜子と高野素十をとりあげ、高野素十を評価する内容が掲載されたのです。しかも、この記事は『ホトトギス』にも転載されました。

高浜虚子もこれを了とした──と受けとった秋桜子は、離脱の直前、『馬酔木』に「自然の真と文芸上の真」と題する文章を発表します。その中で素十の、つまり虚子の「客観写生」を「自然模倣主義」として批判し、作者の個性輝く俳句こそめざすべきものである、と述べています。

都市伝説・武勇伝2「清廉すぎた秋桜子」

秋桜子のライバル・高野素十

「大事をなすには、清濁併せ呑むことも必要だ」「濁を呑むくらいなら、大事をなさずともよい」

高野素十と秋桜子とのやりとりで、このような会話がありました。後者は秋桜子のことばです。秋桜子は、その好き嫌いの激しさから「濁を呑む」ことができない人でした。このことは、秋桜子が「ホトトギス」を去ることとなった経緯において如実に現れました。

秋桜子は人付き合いが苦手だったのだろうことが容易に想像できますが、その反面弟子たちに対しては惜しみなく支援をする人でもありました。例えば、石田波郷や加藤楸邨など経済的に苦しい時期がありましたが、秋桜子は両者に経済的な援助をしています。

秋桜子のこうした人柄は、秋桜子自身の人生にさまざまな面をともなって表れたに違いありませんが、秋桜子の存在があったからこそ、現代俳句の受け皿がつくられたのだとみることができます。

水原秋桜子の簡単年表

1892年 – 0歳
秋桜子、東京神田に生まれる

1892(明治25)年、10月9日に水原秋桜子は誕生しました。

その後、獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・獨協高等学校)に学んでいます。その後、第一高等学校へ入学します。

1914年 – 22歳
東京帝国大学医学部に入学、俳句と出会う

1914(大正3)年、秋桜子は東京帝国大学医学部に進学します。血清学研究室に所属しました。

1918(大正7)年、秋桜子は高浜虚子の『進むべき俳句の道』を読み、俳句に興味を持つようになりました。同年、東京帝国大学医学部を卒業します。

1919(大正8)年、医学部関係者の俳句会「木の芽会」に参加し、次いで「渋柿」の松根東洋城に師事します。同年、吉田しづと結婚しています。

1920年 – 28歳
短歌、俳句と活動を本格化

1920(大正9)年、秋桜子は短歌と俳句の正面で活動を本格化しています。まず短歌を窪田空穂に師事するようになりました。

1921(大正10)年、「ホトトギス」の例会に出席し、以後高浜虚子に師事します。翌年、帝大俳句会の仲間が多かった「破魔弓」(主宰は佐々木綾華)の同人となります。

1924(大正13)年には、ホトトギスの課題選者に抜擢されました。


1928年 – 36歳
「ホトトギス」の主要俳人となる

1928(昭和3)年、秋桜子により「破魔弓」が「馬酔木」と改題(7月号以降)されました。

同年、山口青邨の講演の中で、「ホトトギスの四S」の一人として紹介されました。また、この年には本業である医業において、昭和医学専門学校(現在の昭和大学)教授(産科学)となります。

1929(昭和4)年には、秋桜子は「ホトトギス」同人となります。

1931(昭和6)年、『まほぎ』誌上で中田みづほ、浜口今夜による対談記事が掲載されました。素十俳句を称揚した同記事は「ホトトギス」誌上にも転載され、秋桜子は態度を硬化させます。

1931年 – 39歳
ホトトギスを離脱

1931(昭和6)年、秋桜子は、『馬酔木』誌上において「『自然の真』と『文芸上の真』」と題する論文を発表し「ホトトギス」を去りました。

1935(昭和10)年、「ホトトギスの四S」の一人であった山口誓子、橋本多佳子が「ホトトギス」を離れ「馬酔木」に合流します。

1955年 – 63歳
医業を引退し俳句に専念

1955(昭和30)年、秋桜子は医業から引退し、以後は俳句に専念するようになりました。

1962(昭和37)年に、秋桜子は、俳人協会の会長に就任しました。2年後の1964(昭和39)年には日本芸術院賞、さらに2年後の1966年(昭和41年)に日本芸術院会員になります。

1967(昭和42)年、勲三等瑞宝章を受賞しました。

1978(昭和53)年、秋桜子は、昭和大学創立50周年記念式典で特別功労者として表彰されまています。


1981年 – 89歳
水原秋桜子、逝く

1981(昭和56)年7月17日、水原秋桜子は急性心不全のため息を引き取りました。俳句にささげ、現代俳句の一大潮流を生みだした88年の生涯でした。

なお、水原秋桜子の墓地は、都営染井霊園(東京都豊島区)にあります。

水原秋桜子の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

近代の秀句―新修三代俳句鑑賞 (朝日選書)

明治・大正・昭和と秋桜子の生きた時代をとおして詠まれた秀句を紹介し、鑑賞・批評を加える本です。秋桜子の俳句に対する考え方や、俳句へのさわり方などが実例をとおして読むことができます。その点だけ考えても貴重な一冊です。

俳句の本質

俳句を「抒景詩」ではなく「抒情詩」だと言い切る水原秋桜子。その俳句に対する考え抜かれた思考のエッセンスを読みとれる名著です。特筆すべきは「調べ」を重視している点。音韻に対する敏感さ、きめ細かさには驚くばかりです。

おすすめの動画

 7月17日。水原秋櫻子の命日。(俳句&カレンダー)

水原秋桜子の生涯を完結に紹介しつつ、代表句が表示されています。どの句も、あらためて読んでも非常に奥ゆきの深い句ばかりです。景を俳句であらわしつつ、しずかに、詠み手である秋桜子の拍動や息づかいまでもが感じとれるようです。

水原秋桜子の俳句。春

水原秋桜子の俳句の中でも、春の季節に属するものをとりあげ、紹介している動画です。BGMのほかは特段の解説もありませんが、それだけに句が印象に残るものばかりです。おなじ作者の動画で、夏、秋、冬、新年の動画も揃っています。

関連外部リンク

水原秋桜子についてのまとめ

この記事では、水原秋桜子の人生を、俳句とともに振り返りました。

好き嫌いの激しい性格だった水原秋桜子ですが、ユーモアや情もしっかり持ち合わせていました。それは、主宰した「馬酔木」がつづいていったことや愛弟子であった石田波郷や加藤楸邨のその後の活躍からも伺うことができます。

客観写生一辺倒の俳句界に一石を投じることは、よほどの覚悟がなければ成しえなかったことでしょう。その点からも、秋桜子の胆力を感じます。

水原秋桜子が現代俳句に与えた影響を、一人でも多くの方に知っていただけたら幸いです!

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1 COMMENT

堀江栄一

旅先で、水原秋櫻子の句碑を見つけました。
簗のうえ峠の里の・・・ 下五が読めませんでした。
どの句集に載っているか知っている方は教えて下さい。

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