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ニクソン大統領の生涯・年表まとめ【名言やケネディ大統領との争いも解説】

ニクソンは、アメリカの第37代大統領です。ニクソンはベトナム戦争を終わらせ、外交に力を注ぎ、強いリーダーシップを発揮します。しかし、ウォーターゲート事件が起きたことで、任期の途中で辞任することとなってしまいました。

リチャード・ニクソン

1969年、ニクソンはアメリカ合衆国大統領に就任し、数々の偉業を成し遂げました。特に当時のアメリカが抱えていた一番の問題「ベトナム戦争をいかに終わらせるか」という難題も見事に解決します。また、アメリカ環境保護局(EPA)や麻薬取締局 (DEA)を設置したのもニクソンで、環境大作や麻薬対策にも力を注ぎました。

しかし2期目の大統領就任後、ニクソンの大統領再選委員会が起こしたウォーターゲート事件によって、大統領を辞任することになりました。このことで「歴史上、任期半ばで辞任した唯一の大統領」「最低の大統領」など、負のイメージがニクソンに付きまといました。

しかし近年、ニクソンに関する評価が見直されています。特に、ニクソンの外交手腕は高く評価され、その功績が認められるようになりました。そんなニクソンについてあらゆる書籍を読み漁ってきた著者が、ニクソンとはどのような人物だったのか、その魅力を解説します。

ニクソン大統領とはどんな人物か

名前リチャード・ミルハウス・ニクソン
誕生日1913年1月9日
没日1994年4月22日
生地カリフォルニア州オレンジカウンティ
没日ニューヨーク州ニューヨークシティ
配偶者セルマ・キャサリン・ライアン
(愛称パット)
埋葬場所カリフォルニア州ヨーバリンダにある
「ニクソン記念図書館」の敷地内

ニクソン大統領の生涯をハイライト

リチャード・ニクソン

ニクソンは、1946年に下院議員、1950年に上院議員と着実に議員としてのキャリアを積み、1952年にはアイゼンハワー政権の副大統領に昇りつめます。39歳という若さで副大統領に就任したニクソンは、南米から始まりアフリカ、アジア、オセアニアと積極的に外遊をおこないました。

副大統領としてのキャリアと国民からの支持を得て、1960年の大統領選挙に立候補しました。しかし、数々の要因が重なり、対立候補ケネディに敗れてしまいます。大統領戦に敗れたニクソンは、故郷カリフォルニアでの州知事選挙でも敗れ、失意のどん底に落ちてしまいます。

しかし、1968年の大統領選挙では見事に勝利し、大統領に就任し、その優れた外交手腕によって、ベトナム戦争の終結・ソ連との緊張緩和_中国訪問など世界を驚かせます。アポロ11号の打ち上げと月面着陸も成功させました。しかし、国民からの熱い支持の中2期目の大統領に就任した矢先、ウォーターゲート事件で失脚します。

「史上唯一の任期中に辞任した大統領」という不名誉な形で名前を残したニクソンですが、辞任後も積極的に海外を訪問し、世界の指導者と会談するなどイメージの回復に励みました。また自伝をはじめ数多くの著書を残し、その文才も高く評価されています。

81歳で亡くなり、地元カリフォルニアのニクソン記念図書館の敷地内に愛する妻の横に埋葬されました。

ニクソン大統領の辞任のきっかけとなった「ウォーターゲート事件」

当時の大統領であったニクソンが辞任に追い込まれた

ニクソンを大統領辞任に追い込んだ大きな政治スキャンダルが、1972年に起きたウォーターゲート事件です。2期目の大統領選挙中の1972年6月17日、ワシントンDCのウォータゲート・ビルの民主党本部に5人の男が侵入し、逮捕されました。

後に、この5人はニクソン大統領再選委員会の関係者であることが明らかになりますが、当初ニクソンサイドは「事件と政権は無関係である」と主張します。しかし、ニクソンは早い段階でこの事件を知っていたこと、もみ消しに関与したこと、それらを示す大統領執務室での会話が録音されたテープが存在することを上院調査特別委員会が明らかにしました。

議会による大統領弾劾は不可避であると判断したニクソンは、自ら大統領を辞任する決意。こうしてウォーターゲート事件は、ニクソンを大統領辞任へと追い込むスキャンダルとなり、ニクソンはアメリカ合衆国で史上初そして唯一の「任期途中で辞任した大統領」という不名誉を背負うこととなりました。

大統領選挙でケネディに負けた理由

ケネディ、ニクソンから学ぶイメージ戦略

1960年の大統領選挙でケネディと争ったニクソンは、当初優勢であったにも関わらずケネディに敗れてしまいました。アイゼンハワーの副大統領であったニクソンがケネディに敗れた敗因は、イメージ戦略に負けたからといわれています。

1960年の大統領選挙から初めて取り入れられたテレビ討論会で、ケネディは濃紺の背広に赤と青のネクタイとライトブルーのシャツ、一方ニクソンは、ブラウンのグラデーションのスーツで、さらに病み上がりでした。当時アメリカのテレビは白黒でしたので、濃紺の背広を着たケネディは健康的でエネルギッシュにうつり、ニクソンのブラウンのスーツは背景に溶け込んでしまい、弱くボヤけた印象を与えてしまいます。

その結果、討論の内容ではなく、見た目が「情熱的で頼れるリーダー」という印象を与えることに成功したケネディがアメリカの大統領に選ばれたのでした。

ニクソン大統領の功績

功績1「中国訪問で世界を驚かせる」

ニクソン大統領の中国訪問

ニクソンが最も力を注ぎ、また得意としたのが外交でした。その中でも特に世界を驚かせたのが、1972年の中国訪問です。最初に大統領補佐官であるキッシンジャーを密かに中国に送り込み、周恩来と会談させ、ニクソンの訪中の段取りをしました。

ベトナム戦争終結の糸口を探していたニクソンは、当時ベトナムを支援していた中国に接近することが戦争終結へとつながり、同時に中国と対立しているソ連を牽制するというメリットもあると考えました。そして1972年2月、ニクソンの中国訪問が実現します。ニクソンは、中国共産党主席である毛沢東と握手をした初めての大統領となり、長年の敵対関係を転換させることの約束として、米中共同宣言を発表しました。

功績2「ベトナム戦争からの名誉ある撤退」

ベトナム戦争

ニクソンは大統領選挙の際、「ベトナムからの名誉ある撤退」を公約に掲げていました。1965年のベトナム北爆の開始とともにアメリカが本格的に介入したベトナム戦争は泥沼化し、54万人もの若いアメリカ兵がベトナムに送り込まれていました。ニクソンは大統領就任後、ベトナム戦争からのアメリカ軍撤退のため、大統領補佐官のキッシンジャーとともに、中国訪問、米ソ貿易の拡大などに力を注ぎます。

自らも南ベトナムを訪問し、大統領グエン・バン・チューやアメリカ軍司令官と会談を行い、北ベトナム政府とも和平交渉をおこないました。 1973年1月23日、ニクソンは北ベトナム特別顧問のレ・ドク・トとの間で和平協定案の仮調印、1月27日にはパリ協定を交わします。このパリ協定に基づきベトナムからのアメリカ軍の撤退が始まり、1973年3月29日、アメリカ軍の撤退は完了しました。

功績3「沖縄返還が実現する 」

沖縄返還

ニクソンの功績で日本に大きな影響を与えたものは沖縄返還です。1969年、ニクソンは佐藤栄作首相と会談し、沖縄を日本に返還するという合意を結びました(ただし米軍の駐留は継続)。そして1971年、両国は「沖縄返還協定」に調印し、1972年5月15日、ついに沖縄はアメリカから日本へ正式に返還されました。

ニクソンは、ケネディとの大統領選に敗れて政治から身を引いていた「不遇の時代」に、度々日本に来日していました。その際、岸信介や佐藤栄作が、弁護士として活動していたニクソンに顧問先を紹介し、もてなすなど親密な関係を築いていたことが良い影響を残し、「沖縄返還」が実現したといわれています。

ニクソン大統領の名言

人間は負けたら終わりなのではない。辞めたら終わりなのだ。

ケネディとの大統領選挙に敗れ、カリフォルニア州知事選挙にも敗れたどん底から、見事に大統領の座を手に入れたニクソンならではの言葉です。

偉大な指導者は、必ずしも善良な人ではない。

ニクソンの著書「指導者とは」の中で、指導者について語った言葉です。

才能や能力などではなく、その精神によって、それぞれの人生には大きな差ができる。

ニクソンはスポーツ好きとしても有名でした。スポーツにまつわるいくつかの名言のうちの一つです。

ニクソン大統領にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「チェッカーズスピーチ大成功!ホテルに電話が殺到」

ニクソンと犬のチェッカーズ

チェッカーズスピーチとは、ニクソンが政治資金の私的流用疑惑を否定した有名なスピーチです。ニクソンは副大統領候補となる前から、地元の支持者たちからの資金援助を受けていました。民主党の大統領候補も同様の資金援助を受けていたにも関わらず、反共和党のニューヨーク・ポスト紙がこれを批判し、脱税、収賄、などの不正が関連していると疑いをかけました。

副大統領候補の指名を失うかもしれない状況に陥ったニクソンは、テレビで保険や借金の額など個人資産の詳細をさらけ出して身の潔白を訴えます。さらに、かつてトルーマン政権閣僚の妻たちが高価な毛皮のコートを受け取っていたことを皮肉った一方、「妻のパットはミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」とアピールしました。

スピーチの最後に、「物品の提供を受けたことはないが、子供たちが犬を飼いたいと言っていることを耳にしたテキサス州の支援者から貰ったコッカースパニエルは、娘が『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはない」と述べ、このスピーチはアメリカ国民の心を掴み、大成功をおさめました。宿泊先のホテルには激励の電話が殺到したといいます。

都市伝説・武勇伝2「辞任後も、実は政界で活躍していた」

大統領辞任後

ニクソン政権で最も高く評価されていたのは、ニクソンの積極的な外交手腕でした。そのためニクソンは大統領辞任後も、「任期途中の辞任」「ウォーターゲート事件」という負のイメージを払拭するため、積極的に海外を訪れます。

ニクソンは世界の指導者たちと会談し、現職大統領へのアドバイスもおこなっていました。実際に、中国との国交正常化に関してカーター大統領へ助言をおこなったといいます。その後も、レーガン大統領、ブッシュ大統領などの共和党大統領の相談だけでなく、民主党のクリントン大統領でさえもロシア政策に関してニクソンにアドバイスを求めたといわれています。

ニクソン大統領の簡単年表

1913年
リチャード・ニクソン誕生

1913年、カリフォルニア州ロスアンジェルス郊外にて生まれました。アイルランド系の家系で、5人兄弟の次男でとして生まれました。両親はクエーカー教徒で、特に母親は保守的な福音主義だったため、厳しい躾の中で育ちました。

1923年
父が経営する店の主任になる

父が雑貨屋兼八百屋兼ガソリンスタンドを経営していたことから、ニクソンは10歳の時にはジャガイモの選別、野菜の配達、ガソリンスタンドのポンプ押しなどができるようになり、店の野菜主任そして経理主任をこなせるまでになっていました。

1930年 - 17歳
高校を卒業

高校時代のニクソンはアメリカン・フットボールの練習に励み、また、弁論大会でも成績優秀であったといいます。クラスで一番に卒業をしました。華やかな高校生活の一方、兄のハロルドと弟のアーサーが小児結核を患い医療費がかかったため、アルバイトをして家計を支えていました。

1934年 -21 歳
大学院に入学

ニクソンは兄弟の病気のため、地元ウィッティア大学に進学し2番目の成績で卒業しました。卒業後はデューク大学のロースクールに進み、3番目の成績で卒業してカリフォルニア州の司法試験に合格します。

1939年
弁護士事務所を開く

ニクソンは、当初は東部の法律事務所への就職を希望したものの叶わず、地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職しました。1939年に独立し、自らの弁護士事務所を開業します。弁護士としてのキャリアをつんでいく中、演劇サークルで知り合ったセルマ・キャサリン・ライアンと1940年6月11日に結婚しました。

1942年
海軍に入隊する
  1942年に士官募集に応募し、海軍に入隊しました。海軍に入隊後は補給士官に任命され、1943年からは南太平洋戦線のニューヘブリデス諸島や、フランス領ニューカレドニア、ブーゲンビル島など前線に近い場所で、軍需物資を補給する補給士官として兵站業務に就きました。その後1945にフィラデルフィアの基地への移転を命じられ、そこで終戦を迎えます。

1946年
政治家へ

1946年、地元カリフォルニア州の第12下院選挙区から共和党員候補として立候補し、当選しました。 1950年、下院議員選挙に立候補すると、民主党のヘレン・ダグラスを破って当選しました。

1953年
副大統領になる

議員としての活動が共和党内で高い評価を受けたニクソンは、1952年の大統領選挙でアイゼンハワーの副大統領候補に指名されました。大統領選本選で一般投票の55%、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンとジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となりました。

1960年
大統領選に敗れる

ニクソンは1960年の大統領選挙に出馬しましたが、得票率差がわずか0.2パーセントという僅差で、対立候補のケネディに敗れました。敗因は、白黒テレビに映える黒っぽいスーツを着て健康的に見えたケネディに対し、グレーのスーツを着た病み上がりのニクソンが、視覚的に不利であったからと言われています。

1962年
州知事選に敗れる

大統領選落選から2年後の1962年11月に、故郷であるカリフォルニア州知事選挙に出馬しましたが、対立候補のエドムンド・ブラウンに大差で敗れ落選してしまいました。

1969年
大統領になる

ニクソンは1968年の大統領選挙に出馬し、民主党のハンフリーを制して1969年1月20日に第37代合衆国大統領に就任します。

1972年
ウォーターゲート事件起こる

1972年6月、民主党全国委員会本部への不法侵入と盗聴事件であるウォーターゲート事件がおきました。1973年3月、ウォーターゲート事件に大統領再選委員会とホワイトハウスのスタッフが関与していることが明らかになったため、政権を揺さぶるスキャンダルに発展します。下院司法委員会が弾劾の発議を可決し、さらに与党共和党の議員からもニクソンへの支持撤回が相次ぎました。

1974年
大統領を辞任する

大統領弾劾を回避することが不可能と伝えられたニクソンは辞任を決意し、1974年8月8日、大統領を辞任することをホワイトハウスからテレビを通して全米の国民に伝えました。1974年8月9日、ニクソンはウォーターゲート事件の責任をとる形で正式に辞任し、アメリカ史上唯一、在任期間中に辞任をした大統領となりました。

1994年
死去

1994年4月22日、ニューヨーク州ニューヨークシティで脳卒中をおこし、81歳で亡くなりました。故郷のカリフォルニア州のヨーバリンダにあるニクソン記念図書館の敷地内に、妻の墓のそばに一市民とし埋葬されました。

ニクソン大統領の年表

1913年 – 0歳「カリフォルニア州にニクソン誕生」

リチャード・ニクソン

カリフォルニア州南部にてニクソン生まれる

1913年1月9日、リチャード・ミルハウス・ニクソンはカリフォルニア州南部ヨーバリンダのアイルランド系の家庭に生まれました。ニクソンは5人兄弟の次男で、父フランシス・ニクソンと熱心なクエーカー教徒の母ハンナ・ミルハウスの間に生まれます。

両親共にクエーカー教徒ですが、母ハンナはクエーカー教徒の中でも保守的な福音主義であったため、子供達に対し厳格に躾をおこなったと言われています。父フランシスは地元ウィッティアで、雑貨屋兼八百屋兼ガソリンスタンドを経営し、成功しました。

ニクソンは、ヴァイオリンやピアノを習うなど恵まれた子供時代を過ごしましたが、兄と弟が小児結核にかかると医療費がかさむようになり、家計は厳しくなっていったといいます。ニクソンも父の店を手伝うようになり、10歳の時には、ジャガイモの選別や野菜の配達をこなし、次第の店の野菜主任、経理主任をこなすようになりました。

1934年 – 22歳「デューク大学ロースクールに入学」

リチャード・ニクソン

ハーバード大学からのオファーを断る

高校時代のニクソンは、アメリカンフットボールの練習に励み、弁論大会で優秀な成績を残すなど優位意義な高校生活を送っていました。小児結核を患う兄と弟の医療費がかさんでいた家計を助けるため、アルバイトにも励んでいたといいます。

ニクソンは高校卒業時、ハーバード大学から奨学金のオファーをうけますが、兄弟の病気のため地元を離れることができず、オファーを断り地元のウィッティア大学に進学します。兄ハロルドと弟アーサーは治療の甲斐なく、亡くなってしまいました。

弁護士になる

ウィッティア大学を2番目の成績で卒業すると、弁護士を目指しデューク大学のロースクールに入学します。ニクソンは成績優秀でロースクールを3番目の成績で卒業すると、カリフォルニア州の司法試験に合格しました。

当初は東部の法律事務所への就職を希望していましたが叶わず、地元ウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職します。1939年には自らの法律事務所を開業するまでになりました。弁護士としてのキャリアを積む中、演劇サークルで知り合ったネバダ州出身の教師セルマ・キャサリン・ライアンと結婚しました。

弁護士になったニクソンですが、就職する前には大学の推薦でFBIの試験を受けていました。しかし、返事がなかったため、諦めてカリフォルニアに戻ったといわれています。

1942年 – 30歳「海軍に入隊する」

リチャード・ニクソン

海軍に入隊

1941年12月、アメリカ軍は日本軍による真珠湾攻撃で打撃を受けました。さらに、ニクソンの地元カリフォルニア州南部も日本海軍の艦艇による砲撃や日本軍機による爆撃を受けました。これらがきっかけとなり、1942年6月、ニクソンは海軍に入隊します。

入隊後は海軍士官としての訓練を受けたものの、ニクソンは修士号や弁護士資格を持っていることから、一般の戦闘員ではなく補給士官に任命されました。

太平洋へ派遣される

アイオワ州の基地での勤務を経て、1943年5月、日本軍との戦いの舞台となった南太平洋戦線ニューへブリデス諸島に配属されます。その後、フランス領ニューカレドニア、ブーゲンビル島へ配属され、戦線へ軍需物資を補給する補給士官としての業務にあたりました。

アメリカに帰還してからは、カリフォルニア州アラメダの海軍航空基地へ、そして最後はフィラデルフィアの基地で終戦を迎えました。海軍時代に知り合ったウィリアム・P・ロジャーズは、後にニクソン政権の国務長官となります。最終的な階級は少佐でした。

ニクソンよりも先に大統領となるジョン・F・ケネディも海軍時代に南太平洋に派遣されていたことから、ニクソンとケネディは、所属する党は違っても友好的な関係を築きました。

1946年 – 34歳「政治家になる」

リチャード・ニクソン

下院議員から上院議員へ

1946年、カリフォルニア州の地元有力者からの推薦をうけ、第12下院選挙区から共和党候補として立候補し、当選しました。当選には、妻パットの献身的な支えがあったと言われています。

当選後、下院非米活動委員会のメンバーとなったニクソンは、ウィリアム・P・ロジャーズやジョゼフ・マッカーシーの協力を得て、アルジャー・ヒス事件を担当しました。事実無根と主張するヒスを偽証罪に追い込んだニクソンの名は、「反共の闘士」として全米に知れ渡ります。

1950年に上院議員選挙に立候補すると、民主党の候補ヘレン・ギャーギャン・ダグラスを破り当選しました。

1953年 – 39歳「副大統領になる」

1956年アイゼンハワー、リチャード・ニクソン政治群衆WAキャンペーン写真

アイゼンハワー政権で副大統領になる

アイゼンハワーとニクソンは大統領選本選で一般投票の55%、48州中39州を制しました。ニクソンは、1953年1月20日、アイゼンハワー政権の副大統領となります。

副大統領に就任後は、キューバやベネズエラなど南米諸国を公式訪問しました。中でも、ベネズエラの首都のカラカスで反米デモが起こった際の、暴徒化したデモ隊に対する沈着冷静で毅然とした態度は高く評価されました。

他にも、アフリカ諸国や日本をはじめとする東アジア、東南アジア、オセアニア、など積極的に外遊をおこないました。日本には戦後初の国賓として来日しています。

チェッカーズ・スピーチ

ニクソンが副大統領候補に指名されて大統領選挙の本選に入った際、ニューヨーク・ポスト紙がニクソンの地元有志たちから政治活動資金の援助を受けていることを批判したことに対し、ニクソンは身の潔白を訴えるためにスピーチをおこないました。

1952年9月23日夜、ニクソンはテレビ中継でスピーチをおこない、国民に向けてニクソン家の生命保険や借金などの私財リストをさらけ出し、いかに質素な生活をしているかをアピールしました。この放送は大きな反響を呼び、批判を払拭しただけでなくニクソンに対する同情と支持を集めることとなりました。

1960年 – 46歳「大統領選挙に敗れる」

リチャード・ニクソン

ケネディに敗れる

ニクソンは1960年の大統領選挙に立候補しますが、選挙の本選に入る際体調を崩し、治療のため2週間入院したことで選挙日程が大幅に狂ってしまいます。退院後おこなわれたテレビ討論会では、病み上がりで顔色が悪かった上、グレーのスーツを着ていたことが視覚的に不利となってしまいました。

また、ニクソンは50州全てを遊説すると述べていましたが、入院したため選挙日程が狂ってしまい、選挙人の多い重要な接戦州を回れませんでした。最終的に、ニクソン49.5%で34108157票、ケネディ49.7%で34220984票という僅差で敗れてしまいました。

弁護士活動をスタート

大統領選挙に落選後、ニクソンは一時的に政治活動から離れ、ニューヨーク州に移りました。ペプシコーラをはじめとする大企業の弁護士として活動しました。この頃、ニクソンの友人である元総理大臣岸信介は、ニクソンに顧問先を紹介したり、日本に招いてもてなしをしています。

カリフォルニア州知事選挙に落選後も、弁護士として世界各国を訪れ、1964年の来日の際には池田首相と会談するなど、政界への復帰のため活動しました。

カリフォルニア州知事選挙に敗れる

大統領選挙に落選後、しばらく政界から離れていたニクソンは、1962年故郷カリフォルニアで州知事選挙に出馬します。しかし、対立候補のエドムンド・ブラウンに敗れ落選してしまいまいた。

選挙翌日のビバリー・ヒルトンホテルでおこなわれた敗北記者会見では、詰め掛けたマスコミに対し、「これが私の最後の会見だ」と語ったため、国民の多くがニクソンが再び政界に戻ることはないだろうと思ったようです。

1969年 – 55歳「第37代大統領に就任」

NY上流に徹底して嫌われたリチャード・ニクソン元大統領

1968年の大統領選挙

1968年の大統領選挙に立候補したニクソンは、早い時期から選挙運動を開始して「法と秩序の回復」「ベトナム戦争からの名誉ある撤退」を主張しました。対する民主党の候補ハンフリーを破り大統領選挙に勝利すると、1969年1月、第37代アメリカ合衆国大統領に就任しました。

ニクソン政権では、それまでの大統領よりもホワイトハウスに権力を集中させ、閣僚の権限を抑え込みます。特に、国務省を遠ざけ、ホワイトハウスが中心となって積極的な外交を行いました。

名誉ある撤退

「ベトナムからの名誉ある撤退」を選挙公約に掲げていたニクソンは、大統領に就任すると南ベトナムを訪問し、大統領グエン・バン・チューやアメリカ軍司令官と会談を行い、ベトナム戦争の終結に向けて北ベトナム政府とも和平交渉を再開しました。

1973年1月23日、北ベトナム特別顧問のレ・ドク・トとの間で和平協定案の仮調印にこぎつけ、1月27日にはパリ協定が交わされました。このパリ協定に基づきベトナムからのアメリカ軍の撤退が始まり、1973年3月29日、全てのアメリカ軍の撤退が完了したことで、アメリカのベトナム戦争は終結しました。

中国訪問

朝鮮戦争後より対立関係にあったアメリカと中国ですが、ニクソンは中国との関係を正常化することでソ連を牽制し、さらに北ベトナムも牽制することができると考えました。特に、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進めるために中国訪問が必要だと考えたニクソンは、1971年、キッシンジャー大統領補佐官を極秘に中国に派遣します。

翌年1972年2月21日、エアフォース・ワンで北京に到着したニクソンは周恩来首相に出迎えられ、中国共産党主席の毛沢東との会談もおこないました。その後も周恩来首相との会談を重ね、中華人民共和国との関係は改善していきました。

デタント推進

ニクソンは、ケネディ時代から始まっていた米ソのデタント政策をさらに推進しました。1969年にソ連との第一次戦略兵器制限交渉(SALT-Ⅰ)がフィンランドのヘルシンキでスタートします。1972年5月には、ニクソンがソ連を訪問し、モスクワで調印が行われ、さらに弾道弾迎撃ミサイル制限条約も締結するなど、米ソ両国の核軍縮と政治的緊張の緩和がより一層進みました。

1974年 – 60歳「大統領を辞任する」

両手を上げるニクソン

1972年の大統領選挙と再選

1期目の政権運営を高く評価されたニクソンは、2期目に向けて1972年の大統領選挙に立候補しました。1972年11月7日に行われた投票でニクソン陣営は一般投票の60%以上を得て、対立候補マクガヴァン陣営を破ります。

ニクソンは全米50州のうち敗れたのはマサチューセッツ州のみという快挙を成し遂げ、2期目の大統領に就任しました。しかしこの選挙中にニクソンの大統領再選委員会のスタッフが、ニクソンを辞任に追い込むこととなった大事件「ウォーターゲート事件」を起こしてしまいました。

ウォーターゲート事件

1972年、2期目の大統領に就任した直後の3月、ニクソンを辞任に追い込むこととなったウォーターゲート事件が起きました。この事件は、ニクソンの大統領再選委員会が起こした、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会本部オフィスへの不法侵入および盗聴事件です。

当初ニクソンは「事件と政権は無関係」と主張しましたが、1973年3月、大統領再選委員会とホワイトハウスのスタッフが関与していることが明らかになります。さらに、早い段階でニクソンが知っていたことから、ニクソンが「もみ消し」に関わっていたのではないかという疑惑が広まりました。

議会が大統領弾劾に動き始めたため、ニクソンはついに辞任を決意することとなりました。

大統領を辞任する

そして1974年8月8日夜、ホワイトハウスからテレビで全米の国民に大統領を辞任することを表明し、ウォーターゲート事件の責任をとる形で翌日9日に正式に辞任しました。

1993年 – 81歳「ニクソン亡くなる」

リチャード・ニクソン図書館&博物館

ニクソン亡くなる

ニクソンは、1994年4月22日にニューヨーク州ニューヨークシティで、脳卒中のため亡くなりました。81歳でした。

大統領経験者が亡くなると国葬が行われるのが一般的ですが、任期途中で辞任したことや本人の意志から、故郷カリフォルニア州のヨーバリンダにある「ニクソン記念図書館」の敷地内で、妻の墓のそばに一市民として埋葬されました。

ニクソン大統領の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

指導者とは (文春学藝ライブラリー)

ニクソンが実際に関わった各国のリーダー達について、それぞれどのような人物で、指導者としどのくらい実力があるのか辛辣に書いてありあます。マスコミが作り上げたイメージではなく、彼らを直接知るニクソンならではの視点が素晴らしい一冊です。

ニクソンとキッシンジャー 現実主義外交とは何か

ニクソン政権における大統領ニクソンと腹心キッシンジャーが、ソ連、中国とどのような外交を展開し、ベトナム戦争を終わらせたか、その手腕を振り返ります。東西冷戦の激動の時代、ニクソンが成し遂げた業績を正しく評価するきっかけになる一冊です。

ニクソン わが生涯の戦い

ニクソンが自らの人生を振り返ってまとめた一冊です。政治家としての側面より、人間ニクソンとしての側面が多く描かれています。大統領就任という人生の頂点から、辞任というどん底までを経験したニクソンならではの、名言がたくさん詰まっています。

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Richard Nixon – U.S. President | Mini Bio | BIO

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おすすめの映画

NIXON

オリバー・ストーン監督の映画で、ニクソンの半生を描いています。特に、ウォーターゲート事件と、事件に追い込まれ苦悩する様子がよく分かります。政治家、大統領時代のニクソンを知りたい方におすすめの映画です。

リチャード・ニクソン暗殺を企てた男

この映画は、ニクソンを暗殺しようとした男を描いた社会派映画です。社会の不平等さに憤る主人公が、実際にニクソンの暗殺未遂をおこしたという実話をもとに作られています。主役のショーン・ペンの演技が見事でおすすめです。

関連外部リンク

ニクソン大統領についてのまとめ

ニクソン大統領について、いくつかのトピックとともにその生涯についご紹介しました。

ニクソンは、大統領就任時、ベトナム戦争の終結や対中国外交など素晴らしい実績を残しました。さらに、EPAやDEAを設立しするなど内政にも力を注ぎました。ウォーターゲート事件が原因で大統領辞任したことにより、その功績は評価されず、長い間「最低な大統領」という負のレッテルをはられていました。

しかし、ニクソンの大統領としての実績を見ると、東西冷戦、泥沼化したベトナム戦争という困難を見事打開し、国内では環境問題や麻薬取り締まりに力を注ぐなど、その実務能力はとても高かったことが分かります。近年、ニクソンの功績が見直されてきていますが、この記事がきっかけで、ニクソンの魅力に気づいてくれる人が増えたら嬉しいです。

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