ニクソンは、アメリカの第37代大統領です。ニクソンはベトナム戦争を終わらせ、外交に力を注ぎ、強いリーダーシップを発揮します。しかし、ウォーターゲート事件が起きたことで、任期の途中で辞任することとなってしまいました。
1969年、ニクソンはアメリカ合衆国大統領に就任し、数々の偉業を成し遂げました。特に当時のアメリカが抱えていた一番の問題「ベトナム戦争をいかに終わらせるか」という難題も見事に解決します。また、アメリカ環境保護局(EPA)や麻薬取締局 (DEA)を設置したのもニクソンで、環境大作や麻薬対策にも力を注ぎました。
しかし2期目の大統領就任後、ニクソンの大統領再選委員会が起こしたウォーターゲート事件によって、大統領を辞任することになりました。このことで「歴史上、任期半ばで辞任した唯一の大統領」「最低の大統領」など、負のイメージがニクソンに付きまといました。
しかし近年、ニクソンに関する評価が見直されています。特に、ニクソンの外交手腕は高く評価され、その功績が認められるようになりました。そんなニクソンについてあらゆる書籍を読み漁ってきた著者が、ニクソンとはどのような人物だったのか、その魅力を解説します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ニクソン大統領とはどんな人物か
名前 | リチャード・ミルハウス・ニクソン |
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誕生日 | 1913年1月9日 |
没日 | 1994年4月22日 |
生地 | カリフォルニア州オレンジカウンティ |
没日 | ニューヨーク州ニューヨークシティ |
配偶者 | セルマ・キャサリン・ライアン (愛称パット) |
埋葬場所 | カリフォルニア州ヨーバリンダにある 「ニクソン記念図書館」の敷地内 |
ニクソン大統領の生涯をハイライト
ニクソンは、1946年に下院議員、1950年に上院議員と着実に議員としてのキャリアを積み、1952年にはアイゼンハワー政権の副大統領に昇りつめます。39歳という若さで副大統領に就任したニクソンは、南米から始まりアフリカ、アジア、オセアニアと積極的に外遊をおこないました。
副大統領としてのキャリアと国民からの支持を得て、1960年の大統領選挙に立候補しました。しかし、数々の要因が重なり、対立候補ケネディに敗れてしまいます。大統領戦に敗れたニクソンは、故郷カリフォルニアでの州知事選挙でも敗れ、失意のどん底に落ちてしまいます。
しかし、1968年の大統領選挙では見事に勝利し、大統領に就任し、その優れた外交手腕によって、ベトナム戦争の終結・ソ連との緊張緩和_中国訪問など世界を驚かせます。アポロ11号の打ち上げと月面着陸も成功させました。しかし、国民からの熱い支持の中2期目の大統領に就任した矢先、ウォーターゲート事件で失脚します。
「史上唯一の任期中に辞任した大統領」という不名誉な形で名前を残したニクソンですが、辞任後も積極的に海外を訪問し、世界の指導者と会談するなどイメージの回復に励みました。また自伝をはじめ数多くの著書を残し、その文才も高く評価されています。
81歳で亡くなり、地元カリフォルニアのニクソン記念図書館の敷地内に愛する妻の横に埋葬されました。
ニクソン大統領の辞任のきっかけとなった「ウォーターゲート事件」
ニクソンを大統領辞任に追い込んだ大きな政治スキャンダルが、1972年に起きたウォーターゲート事件です。2期目の大統領選挙中の1972年6月17日、ワシントンDCのウォータゲート・ビルの民主党本部に5人の男が侵入し、逮捕されました。
後に、この5人はニクソン大統領再選委員会の関係者であることが明らかになりますが、当初ニクソンサイドは「事件と政権は無関係である」と主張します。しかし、ニクソンは早い段階でこの事件を知っていたこと、もみ消しに関与したこと、それらを示す大統領執務室での会話が録音されたテープが存在することを上院調査特別委員会が明らかにしました。
議会による大統領弾劾は不可避であると判断したニクソンは、自ら大統領を辞任する決意。こうしてウォーターゲート事件は、ニクソンを大統領辞任へと追い込むスキャンダルとなり、ニクソンはアメリカ合衆国で史上初そして唯一の「任期途中で辞任した大統領」という不名誉を背負うこととなりました。
大統領選挙でケネディに負けた理由
1960年の大統領選挙でケネディと争ったニクソンは、当初優勢であったにも関わらずケネディに敗れてしまいました。アイゼンハワーの副大統領であったニクソンがケネディに敗れた敗因は、イメージ戦略に負けたからといわれています。
1960年の大統領選挙から初めて取り入れられたテレビ討論会で、ケネディは濃紺の背広に赤と青のネクタイとライトブルーのシャツ、一方ニクソンは、ブラウンのグラデーションのスーツで、さらに病み上がりでした。当時アメリカのテレビは白黒でしたので、濃紺の背広を着たケネディは健康的でエネルギッシュにうつり、ニクソンのブラウンのスーツは背景に溶け込んでしまい、弱くボヤけた印象を与えてしまいます。
その結果、討論の内容ではなく、見た目が「情熱的で頼れるリーダー」という印象を与えることに成功したケネディがアメリカの大統領に選ばれたのでした。
ニクソン大統領の功績
功績1「中国訪問で世界を驚かせる」
ニクソンが最も力を注ぎ、また得意としたのが外交でした。その中でも特に世界を驚かせたのが、1972年の中国訪問です。最初に大統領補佐官であるキッシンジャーを密かに中国に送り込み、周恩来と会談させ、ニクソンの訪中の段取りをしました。
ベトナム戦争終結の糸口を探していたニクソンは、当時ベトナムを支援していた中国に接近することが戦争終結へとつながり、同時に中国と対立しているソ連を牽制するというメリットもあると考えました。そして1972年2月、ニクソンの中国訪問が実現します。ニクソンは、中国共産党主席である毛沢東と握手をした初めての大統領となり、長年の敵対関係を転換させることの約束として、米中共同宣言を発表しました。
功績2「ベトナム戦争からの名誉ある撤退」
ニクソンは大統領選挙の際、「ベトナムからの名誉ある撤退」を公約に掲げていました。1965年のベトナム北爆の開始とともにアメリカが本格的に介入したベトナム戦争は泥沼化し、54万人もの若いアメリカ兵がベトナムに送り込まれていました。ニクソンは大統領就任後、ベトナム戦争からのアメリカ軍撤退のため、大統領補佐官のキッシンジャーとともに、中国訪問、米ソ貿易の拡大などに力を注ぎます。
自らも南ベトナムを訪問し、大統領グエン・バン・チューやアメリカ軍司令官と会談を行い、北ベトナム政府とも和平交渉をおこないました。 1973年1月23日、ニクソンは北ベトナム特別顧問のレ・ドク・トとの間で和平協定案の仮調印、1月27日にはパリ協定を交わします。このパリ協定に基づきベトナムからのアメリカ軍の撤退が始まり、1973年3月29日、アメリカ軍の撤退は完了しました。
功績3「沖縄返還が実現する 」
ニクソンの功績で日本に大きな影響を与えたものは沖縄返還です。1969年、ニクソンは佐藤栄作首相と会談し、沖縄を日本に返還するという合意を結びました(ただし米軍の駐留は継続)。そして1971年、両国は「沖縄返還協定」に調印し、1972年5月15日、ついに沖縄はアメリカから日本へ正式に返還されました。
ニクソンは、ケネディとの大統領選に敗れて政治から身を引いていた「不遇の時代」に、度々日本に来日していました。その際、岸信介や佐藤栄作が、弁護士として活動していたニクソンに顧問先を紹介し、もてなすなど親密な関係を築いていたことが良い影響を残し、「沖縄返還」が実現したといわれています。
ニクソン大統領の名言
人間は負けたら終わりなのではない。辞めたら終わりなのだ。
ケネディとの大統領選挙に敗れ、カリフォルニア州知事選挙にも敗れたどん底から、見事に大統領の座を手に入れたニクソンならではの言葉です。
偉大な指導者は、必ずしも善良な人ではない。
ニクソンの著書「指導者とは」の中で、指導者について語った言葉です。
才能や能力などではなく、その精神によって、それぞれの人生には大きな差ができる。
ニクソンはスポーツ好きとしても有名でした。スポーツにまつわるいくつかの名言のうちの一つです。
ニクソン大統領について、誤解していました。確かに、ウォーターゲート事件は、大統領として残念な事件であったと思いますが、中国訪問、ベトナム戦争停戦等々、その実績は正当に評価されるべきであると改めて思いました。ニクソン大統領の果たした歴史的な役割に気づかせてもらいました。