ニクソン大統領の生涯・年表まとめ【名言やケネディ大統領との争いも解説】

1953年 – 39歳「副大統領になる」

アイゼンハワー

アイゼンハワー政権で副大統領になる

アイゼンハワーとニクソンは大統領選本選で一般投票の55%、48州中39州を制しました。ニクソンは、1953年1月20日、アイゼンハワー政権の副大統領となります。

副大統領に就任後は、キューバやベネズエラなど南米諸国を公式訪問しました。中でも、ベネズエラの首都のカラカスで反米デモが起こった際の、暴徒化したデモ隊に対する沈着冷静で毅然とした態度は高く評価されました。

他にも、アフリカ諸国や日本をはじめとする東アジア、東南アジア、オセアニア、など積極的に外遊をおこないました。日本には戦後初の国賓として来日しています。

チェッカーズ・スピーチ

ニクソンが副大統領候補に指名されて大統領選挙の本選に入った際、ニューヨーク・ポスト紙がニクソンの地元有志たちから政治活動資金の援助を受けていることを批判したことに対し、ニクソンは身の潔白を訴えるためにスピーチをおこないました。

1952年9月23日夜、ニクソンはテレビ中継でスピーチをおこない、国民に向けてニクソン家の生命保険や借金などの私財リストをさらけ出し、いかに質素な生活をしているかをアピールしました。この放送は大きな反響を呼び、批判を払拭しただけでなくニクソンに対する同情と支持を集めることとなりました。

1960年 – 46歳「大統領選挙に敗れる」

リチャード・ニクソン

ケネディに敗れる

ニクソンは1960年の大統領選挙に立候補しますが、選挙の本選に入る際体調を崩し、治療のため2週間入院したことで選挙日程が大幅に狂ってしまいます。退院後おこなわれたテレビ討論会では、病み上がりで顔色が悪かった上、グレーのスーツを着ていたことが視覚的に不利となってしまいました。

また、ニクソンは50州全てを遊説すると述べていましたが、入院したため選挙日程が狂ってしまい、選挙人の多い重要な接戦州を回れませんでした。最終的に、ニクソン49.5%で34108157票、ケネディ49.7%で34220984票という僅差で敗れてしまいました。

弁護士活動をスタート

大統領選挙に落選後、ニクソンは一時的に政治活動から離れ、ニューヨーク州に移りました。ペプシコーラをはじめとする大企業の弁護士として活動しました。この頃、ニクソンの友人である元総理大臣岸信介は、ニクソンに顧問先を紹介したり、日本に招いてもてなしをしています。

カリフォルニア州知事選挙に落選後も、弁護士として世界各国を訪れ、1964年の来日の際には池田首相と会談するなど、政界への復帰のため活動しました。

カリフォルニア州知事選挙に敗れる

大統領選挙に落選後、しばらく政界から離れていたニクソンは、1962年故郷カリフォルニアで州知事選挙に出馬します。しかし、対立候補のエドムンド・ブラウンに敗れ落選してしまいまいた。

選挙翌日のビバリー・ヒルトンホテルでおこなわれた敗北記者会見では、詰め掛けたマスコミに対し、「これが私の最後の会見だ」と語ったため、国民の多くがニクソンが再び政界に戻ることはないだろうと思ったようです。

1969年 – 55歳「第37代大統領に就任」

NY上流に徹底して嫌われたリチャード・ニクソン元大統領

1968年の大統領選挙

1968年の大統領選挙に立候補したニクソンは、早い時期から選挙運動を開始して「法と秩序の回復」「ベトナム戦争からの名誉ある撤退」を主張しました。対する民主党の候補ハンフリーを破り大統領選挙に勝利すると、1969年1月、第37代アメリカ合衆国大統領に就任しました。

ニクソン政権では、それまでの大統領よりもホワイトハウスに権力を集中させ、閣僚の権限を抑え込みます。特に、国務省を遠ざけ、ホワイトハウスが中心となって積極的な外交を行いました。

名誉ある撤退

「ベトナムからの名誉ある撤退」を選挙公約に掲げていたニクソンは、大統領に就任すると南ベトナムを訪問し、大統領グエン・バン・チューやアメリカ軍司令官と会談を行い、ベトナム戦争の終結に向けて北ベトナム政府とも和平交渉を再開しました。

1973年1月23日、北ベトナム特別顧問のレ・ドク・トとの間で和平協定案の仮調印にこぎつけ、1月27日にはパリ協定が交わされました。このパリ協定に基づきベトナムからのアメリカ軍の撤退が始まり、1973年3月29日、全てのアメリカ軍の撤退が完了したことで、アメリカのベトナム戦争は終結しました。

中国訪問

朝鮮戦争後より対立関係にあったアメリカと中国ですが、ニクソンは中国との関係を正常化することでソ連を牽制し、さらに北ベトナムも牽制することができると考えました。特に、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進めるために中国訪問が必要だと考えたニクソンは、1971年、キッシンジャー大統領補佐官を極秘に中国に派遣します。

翌年1972年2月21日、エアフォース・ワンで北京に到着したニクソンは周恩来首相に出迎えられ、中国共産党主席の毛沢東との会談もおこないました。その後も周恩来首相との会談を重ね、中華人民共和国との関係は改善していきました。

デタント推進

ニクソンは、ケネディ時代から始まっていた米ソのデタント政策をさらに推進しました。1969年にソ連との第一次戦略兵器制限交渉(SALT-Ⅰ)がフィンランドのヘルシンキでスタートします。1972年5月には、ニクソンがソ連を訪問し、モスクワで調印が行われ、さらに弾道弾迎撃ミサイル制限条約も締結するなど、米ソ両国の核軍縮と政治的緊張の緩和がより一層進みました。

1974年 – 60歳「大統領を辞任する」

両手を上げるニクソン

1972年の大統領選挙と再選

1期目の政権運営を高く評価されたニクソンは、2期目に向けて1972年の大統領選挙に立候補しました。1972年11月7日に行われた投票でニクソン陣営は一般投票の60%以上を得て、対立候補マクガヴァン陣営を破ります。

ニクソンは全米50州のうち敗れたのはマサチューセッツ州のみという快挙を成し遂げ、2期目の大統領に就任しました。しかしこの選挙中にニクソンの大統領再選委員会のスタッフが、ニクソンを辞任に追い込むこととなった大事件「ウォーターゲート事件」を起こしてしまいました。

ウォーターゲート事件

1972年、2期目の大統領に就任した直後の3月、ニクソンを辞任に追い込むこととなったウォーターゲート事件が起きました。この事件は、ニクソンの大統領再選委員会が起こした、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会本部オフィスへの不法侵入および盗聴事件です。

当初ニクソンは「事件と政権は無関係」と主張しましたが、1973年3月、大統領再選委員会とホワイトハウスのスタッフが関与していることが明らかになります。さらに、早い段階でニクソンが知っていたことから、ニクソンが「もみ消し」に関わっていたのではないかという疑惑が広まりました。

議会が大統領弾劾に動き始めたため、ニクソンはついに辞任を決意することとなりました。

大統領を辞任する

そして1974年8月8日夜、ホワイトハウスからテレビで全米の国民に大統領を辞任することを表明し、ウォーターゲート事件の責任をとる形で翌日9日に正式に辞任しました。

1993年 – 81歳「ニクソン亡くなる」

リチャード・ニクソン図書館&博物館

ニクソン亡くなる

ニクソンは、1994年4月22日にニューヨーク州ニューヨークシティで、脳卒中のため亡くなりました。81歳でした。

大統領経験者が亡くなると国葬が行われるのが一般的ですが、任期途中で辞任したことや本人の意志から、故郷カリフォルニア州のヨーバリンダにある「ニクソン記念図書館」の敷地内で、妻の墓のそばに一市民として埋葬されました。

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ニクソン わが生涯の戦い

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Richard Nixon – U.S. President | Mini Bio | BIO

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ニクソン大統領についてのまとめ

ニクソン大統領について、いくつかのトピックとともにその生涯についご紹介しました。

ニクソンは、大統領就任時、ベトナム戦争の終結や対中国外交など素晴らしい実績を残しました。さらに、EPAやDEAを設立しするなど内政にも力を注ぎました。ウォーターゲート事件が原因で大統領辞任したことにより、その功績は評価されず、長い間「最低な大統領」という負のレッテルをはられていました。

しかし、ニクソンの大統領としての実績を見ると、東西冷戦、泥沼化したベトナム戦争という困難を見事打開し、国内では環境問題や麻薬取り締まりに力を注ぐなど、その実務能力はとても高かったことが分かります。近年、ニクソンの功績が見直されてきていますが、この記事がきっかけで、ニクソンの魅力に気づいてくれる人が増えたら嬉しいです。

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1 COMMENT

beatle/

 ニクソン大統領について、誤解していました。確かに、ウォーターゲート事件は、大統領として残念な事件であったと思いますが、中国訪問、ベトナム戦争停戦等々、その実績は正当に評価されるべきであると改めて思いました。ニクソン大統領の果たした歴史的な役割に気づかせてもらいました。

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