ニクソン大統領にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「チェッカーズスピーチ大成功!ホテルに電話が殺到」
チェッカーズスピーチとは、ニクソンが政治資金の私的流用疑惑を否定した有名なスピーチです。ニクソンは副大統領候補となる前から、地元の支持者たちからの資金援助を受けていました。民主党の大統領候補も同様の資金援助を受けていたにも関わらず、反共和党のニューヨーク・ポスト紙がこれを批判し、脱税、収賄、などの不正が関連していると疑いをかけました。
副大統領候補の指名を失うかもしれない状況に陥ったニクソンは、テレビで保険や借金の額など個人資産の詳細をさらけ出して身の潔白を訴えます。さらに、かつてトルーマン政権閣僚の妻たちが高価な毛皮のコートを受け取っていたことを皮肉った一方、「妻のパットはミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」とアピールしました。
スピーチの最後に、「物品の提供を受けたことはないが、子供たちが犬を飼いたいと言っていることを耳にしたテキサス州の支援者から貰ったコッカースパニエルは、娘が『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはない」と述べ、このスピーチはアメリカ国民の心を掴み、大成功をおさめました。宿泊先のホテルには激励の電話が殺到したといいます。
都市伝説・武勇伝2「辞任後も、実は政界で活躍していた」
ニクソン政権で最も高く評価されていたのは、ニクソンの積極的な外交手腕でした。そのためニクソンは大統領辞任後も、「任期途中の辞任」「ウォーターゲート事件」という負のイメージを払拭するため、積極的に海外を訪れます。
ニクソンは世界の指導者たちと会談し、現職大統領へのアドバイスもおこなっていました。実際に、中国との国交正常化に関してカーター大統領へ助言をおこなったといいます。その後も、レーガン大統領、ブッシュ大統領などの共和党大統領の相談だけでなく、民主党のクリントン大統領でさえもロシア政策に関してニクソンにアドバイスを求めたといわれています。
ニクソン大統領の簡単年表
1913年、カリフォルニア州ロスアンジェルス郊外にて生まれました。アイルランド系の家系で、5人兄弟の次男でとして生まれました。両親はクエーカー教徒で、特に母親は保守的な福音主義だったため、厳しい躾の中で育ちました。
父が雑貨屋兼八百屋兼ガソリンスタンドを経営していたことから、ニクソンは10歳の時にはジャガイモの選別、野菜の配達、ガソリンスタンドのポンプ押しなどができるようになり、店の野菜主任そして経理主任をこなせるまでになっていました。
高校時代のニクソンはアメリカン・フットボールの練習に励み、また、弁論大会でも成績優秀であったといいます。クラスで一番に卒業をしました。華やかな高校生活の一方、兄のハロルドと弟のアーサーが小児結核を患い医療費がかかったため、アルバイトをして家計を支えていました。
ニクソンは兄弟の病気のため、地元ウィッティア大学に進学し2番目の成績で卒業しました。卒業後はデューク大学のロースクールに進み、3番目の成績で卒業してカリフォルニア州の司法試験に合格します。
ニクソンは、当初は東部の法律事務所への就職を希望したものの叶わず、地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職しました。1939年に独立し、自らの弁護士事務所を開業します。弁護士としてのキャリアをつんでいく中、演劇サークルで知り合ったセルマ・キャサリン・ライアンと1940年6月11日に結婚しました。
1946年、地元カリフォルニア州の第12下院選挙区から共和党員候補として立候補し、当選しました。 1950年、下院議員選挙に立候補すると、民主党のヘレン・ダグラスを破って当選しました。
議員としての活動が共和党内で高い評価を受けたニクソンは、1952年の大統領選挙でアイゼンハワーの副大統領候補に指名されました。大統領選本選で一般投票の55%、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンとジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となりました。
ニクソンは1960年の大統領選挙に出馬しましたが、得票率差がわずか0.2パーセントという僅差で、対立候補のケネディに敗れました。敗因は、白黒テレビに映える黒っぽいスーツを着て健康的に見えたケネディに対し、グレーのスーツを着た病み上がりのニクソンが、視覚的に不利であったからと言われています。
大統領選落選から2年後の1962年11月に、故郷であるカリフォルニア州知事選挙に出馬しましたが、対立候補のエドムンド・ブラウンに大差で敗れ落選してしまいました。
ニクソンは1968年の大統領選挙に出馬し、民主党のハンフリーを制して1969年1月20日に第37代合衆国大統領に就任します。
1972年6月、民主党全国委員会本部への不法侵入と盗聴事件であるウォーターゲート事件がおきました。1973年3月、ウォーターゲート事件に大統領再選委員会とホワイトハウスのスタッフが関与していることが明らかになったため、政権を揺さぶるスキャンダルに発展します。下院司法委員会が弾劾の発議を可決し、さらに与党共和党の議員からもニクソンへの支持撤回が相次ぎました。
大統領弾劾を回避することが不可能と伝えられたニクソンは辞任を決意し、1974年8月8日、大統領を辞任することをホワイトハウスからテレビを通して全米の国民に伝えました。1974年8月9日、ニクソンはウォーターゲート事件の責任をとる形で正式に辞任し、アメリカ史上唯一、在任期間中に辞任をした大統領となりました。
1994年4月22日、ニューヨーク州ニューヨークシティで脳卒中をおこし、81歳で亡くなりました。故郷のカリフォルニア州のヨーバリンダにあるニクソン記念図書館の敷地内に、妻の墓のそばに一市民とし埋葬されました。
ニクソン大統領の年表
1913年 – 0歳「カリフォルニア州にニクソン誕生」
カリフォルニア州南部にてニクソン生まれる
1913年1月9日、リチャード・ミルハウス・ニクソンはカリフォルニア州南部ヨーバリンダのアイルランド系の家庭に生まれました。ニクソンは5人兄弟の次男で、父フランシス・ニクソンと熱心なクエーカー教徒の母ハンナ・ミルハウスの間に生まれます。
両親共にクエーカー教徒ですが、母ハンナはクエーカー教徒の中でも保守的な福音主義であったため、子供達に対し厳格に躾をおこなったと言われています。父フランシスは地元ウィッティアで、雑貨屋兼八百屋兼ガソリンスタンドを経営し、成功しました。
ニクソンは、ヴァイオリンやピアノを習うなど恵まれた子供時代を過ごしましたが、兄と弟が小児結核にかかると医療費がかさむようになり、家計は厳しくなっていったといいます。ニクソンも父の店を手伝うようになり、10歳の時には、ジャガイモの選別や野菜の配達をこなし、次第の店の野菜主任、経理主任をこなすようになりました。
1934年 – 22歳「デューク大学ロースクールに入学」
ハーバード大学からのオファーを断る
高校時代のニクソンは、アメリカンフットボールの練習に励み、弁論大会で優秀な成績を残すなど優位意義な高校生活を送っていました。小児結核を患う兄と弟の医療費がかさんでいた家計を助けるため、アルバイトにも励んでいたといいます。
ニクソンは高校卒業時、ハーバード大学から奨学金のオファーをうけますが、兄弟の病気のため地元を離れることができず、オファーを断り地元のウィッティア大学に進学します。兄ハロルドと弟アーサーは治療の甲斐なく、亡くなってしまいました。
弁護士になる
ウィッティア大学を2番目の成績で卒業すると、弁護士を目指しデューク大学のロースクールに入学します。ニクソンは成績優秀でロースクールを3番目の成績で卒業すると、カリフォルニア州の司法試験に合格しました。
当初は東部の法律事務所への就職を希望していましたが叶わず、地元ウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職します。1939年には自らの法律事務所を開業するまでになりました。弁護士としてのキャリアを積む中、演劇サークルで知り合ったネバダ州出身の教師セルマ・キャサリン・ライアンと結婚しました。
弁護士になったニクソンですが、就職する前には大学の推薦でFBIの試験を受けていました。しかし、返事がなかったため、諦めてカリフォルニアに戻ったといわれています。
1942年 – 30歳「海軍に入隊する」
海軍に入隊
1941年12月、アメリカ軍は日本軍による真珠湾攻撃で打撃を受けました。さらに、ニクソンの地元カリフォルニア州南部も日本海軍の艦艇による砲撃や日本軍機による爆撃を受けました。これらがきっかけとなり、1942年6月、ニクソンは海軍に入隊します。
入隊後は海軍士官としての訓練を受けたものの、ニクソンは修士号や弁護士資格を持っていることから、一般の戦闘員ではなく補給士官に任命されました。
太平洋へ派遣される
アイオワ州の基地での勤務を経て、1943年5月、日本軍との戦いの舞台となった南太平洋戦線ニューへブリデス諸島に配属されます。その後、フランス領ニューカレドニア、ブーゲンビル島へ配属され、戦線へ軍需物資を補給する補給士官としての業務にあたりました。
アメリカに帰還してからは、カリフォルニア州アラメダの海軍航空基地へ、そして最後はフィラデルフィアの基地で終戦を迎えました。海軍時代に知り合ったウィリアム・P・ロジャーズは、後にニクソン政権の国務長官となります。最終的な階級は少佐でした。
ニクソンよりも先に大統領となるジョン・F・ケネディも海軍時代に南太平洋に派遣されていたことから、ニクソンとケネディは、所属する党は違っても友好的な関係を築きました。
1946年 – 34歳「政治家になる」
下院議員から上院議員へ
1946年、カリフォルニア州の地元有力者からの推薦をうけ、第12下院選挙区から共和党候補として立候補し、当選しました。当選には、妻パットの献身的な支えがあったと言われています。
当選後、下院非米活動委員会のメンバーとなったニクソンは、ウィリアム・P・ロジャーズやジョゼフ・マッカーシーの協力を得て、アルジャー・ヒス事件を担当しました。事実無根と主張するヒスを偽証罪に追い込んだニクソンの名は、「反共の闘士」として全米に知れ渡ります。
1950年に上院議員選挙に立候補すると、民主党の候補ヘレン・ギャーギャン・ダグラスを破り当選しました。
ニクソン大統領について、誤解していました。確かに、ウォーターゲート事件は、大統領として残念な事件であったと思いますが、中国訪問、ベトナム戦争停戦等々、その実績は正当に評価されるべきであると改めて思いました。ニクソン大統領の果たした歴史的な役割に気づかせてもらいました。