アイルトンセナにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「週刊少年ジャンプで漫画になる」
アイルトンセナはホンダのマクラーレンに乗っていたことから、日本にも近しい存在として認識されています。当時、マクラーレンが週刊少年ジャンプのスポンサーとなっており、10号以上に渡って「Fの閃光ーアイルトン・セナの挑戦!!」が連載されました。
この漫画はセナを主人公としてレースの模様などを描いた作品です。また、アイルトンセナは「笑っていいとも」にも出演したことがあり、駆けつけたファンでスタジオ周辺が騒然としたという逸話もあります。
都市伝説・武勇伝2「ブラジル人なのにコーヒーが苦手」
アイルトンセナはブラジルのサンパウロ州出身ですが、コーヒーが苦手という一面があります。ブラジルはコーヒーの生産量世界一の国で、2位のベトナムを2倍以上も引き離しているのです。当然、ブラジル国民もコーヒーに慣れ親しんでいる人が多いのですが、セナは飲めなかったそうです。
自身でも「ブラジル人ながらコーヒーが苦手なのは僕くらいかもしれない」と言っています。
都市伝説・武勇伝3「F1のあらゆるランキングでトップ」
F1の勝利数、ポールポジションの獲得数、GPの連勝数でも歴代上位に位置していますが、セナは記録だけでなく、記憶にも残る名選手であったため、様々なランキングでトップを占めています。
F1の有識者が投票する「史上最速のF1ドライバー」、「史上最高のF1ドライバー」、「F1で最も偉大なドライバー」などの称号を総なめにしています。活躍がまだ記憶に新しいミハエル・シューマッハやセナの前時代に活躍したドライバー、ジム・クラークを抑えてのトップです。
アイルトンセナの簡単年表
アイルトンセナは父・ミルトン・ダ・シルバと母・ネイジ・セナ・ダ・シルバの長男としてサンパウロに生を受けます。アイルトンセナには姉と弟がおり、セナは真ん中の子供ということになります。
アイルトンセナは幼少期から運動神経が抜群で、何でもスポーツをこなしました。そして4歳の頃から自動車に興味を持ち始め、モータースポーツという競技があることを知ります。
自宅の土地である農場内で、ジープの運転をします。運転技術のセンスが優れており、クラッチを使用せずにギアチェンジすることまで覚えてしまうのでした。
アイルトンセナが13歳の時にインテルラゴス・サーキットで初のカートレースに出場します。この時に使用したカートは芝刈り機用のエンジンを搭載した自作のレーシングカートでした。結果は接触を受けてのリタイアでしたが、途中は後続を引き離す場面もあったようです。
17歳の時には南アメリカ・カート選手権で優勝を果たします。その後も世界カート選手権には1982年まで6年連続で出場し、シリーズランキングで2位を占めるほどの選手に成長しました。
1980年のシーズンオフには小さい頃から仲の良かったリリアンと結婚します。
イギリスで行われたフォーミュラカーレース、フォーミュラ・フォード1600の2つの
シリーズに参戦し、両方とも優勝を収めました。
両親からは農業を手伝うように強く言われましたが、セナはカーレースへの夢が捨てられずにイギリスへと再度旅立つことを決意します。ブラジルに残ることを希望した妻・リリアンとは離婚をすることになってしまうのでした。
セナはフォーミュラフォード2000に階級を転向し、イギリスの選手権で優勝後、ヨーロッパの選手権でも優勝してしまいます。
1983年シーズンからF3選手権に参戦します。シーズンの成績は20戦12勝でチャンピオンを獲得することとなりました。
トールマンというチームに所属することとなり、本格的にF1へ参戦することとなりました。第2戦の南アフリカGPで6位入賞をすると、第6戦モナコGPでは2位、第10戦イギリスGP・最終戦ポルトガルGPで3位に入るなど初年度から大活躍します。
1985年シーズン第2戦ポルトガルGPでポールポジションを獲得します。アイルトンセナ自身初の出来事でした。そして、このレースで3位以下を紹介遅れにするほどのぶっちぎりでF1初優勝を果たします。最終的なシーズンランキングは4位となりました。
1986年シーズンは第2戦スペインGPと第7戦デトロイトGPで優勝を果たしますが、この年はマシントラブルが多く、シーズンランキングを伸ばせずに終わりました。最終的には16戦中8度ものポールポジションを獲得しましたが、個人成績自体は芳しくないまま終わってしまいます。
前年に活躍が目覚しかったホンダ勢を見て、セナはホンダエンジンの搭載を希望します。しかし、まだ開発途上のエンジンだったためにトラブルが多く、F1での成績も低迷しました。第4戦モナコGP、第5戦デトロイトGPでは優勝を果たしましたが、シーズン後半は伸び悩みます。それでも入賞の回数が多かったため、シーズンランキングでは初の3位を占めることとなりました。
セナはこのシーズン、マクラーレンへと移籍を果たします。そして、シーズン16戦中8回の優勝、13回のポールポジションを獲得し、晴れてワールドチャンピオンとなりました。
1989年シーズン、セナは第2戦から第4戦まで3連勝を果たし、幸先の良いスタートを切りますが、そのあとに4連続でリタイアがあるなど結果が安定しません。ライバルのプロストは優勝こそ少ないですが、安定して入賞を重ね、最後までもつれた2人の優勝争いはプロストに軍配が上がるのでした。
1990年シーズンもプロストとの勝負となりましたが、10度のポールポジション獲得、6度の優勝、入賞11回と安定した活躍を見せ、見事2度目のシーズンチャンピオンに輝きます。特に開幕戦のアメリカGPでは大幅な遅れを取り戻しての優勝で、競ったジャンアレジとの勝負は歴史に残る一戦となりました。
この年のセナは非常に冴えており、16戦中、優勝7回、入賞14回という成績を残し、シーズン序盤から一度もトップを譲らずにシーズンチャンピオンの座をほしいままにします。
1992年シーズンは開幕戦からライバルチームの優勝が続き、苦戦を強いられます。第6戦のモナコGPでは優勝を果たし、この大会での4連勝を記録しますが、シーズン後半戦も伸び悩み、優勝3回、リタイア7回となり、一度もランキング争いができずに終わってしまいました。
所属チームとのいざこざがありましたが、このシーズンも全戦に参加します。前半はブラジルGPでの母国勝利、モナコGP5連覇など輝かしい成績を収めますが、後半には表彰台に8連続で登れない事態となり、ランキングを落としてしまいます。結局、第14戦で早々にプロストの勝利が決定しました。
今シーズンの開幕2戦は不調に終わり、第3戦のサンマリノGPがシーズン初戦をみなそうと意気込んでいたセナですが、7週目のコーナー「タンブレロ」にてバランスを崩し、壁に激突してしまいます。意識不明の状態で病院へ運ばれましたが、事故の4時間後に息を引き取りました。
アイルトンセナの年表
1960年 – 0歳「アイルトン・セナ・ダ・シルバの誕生」
サンパウロにてアイルトンセナの誕生
ブラジルのサンパウロにあるプロマトレ参加病院にてアイルトンセナが誕生します。父親は工場経営者かつ資産家であるミルトン・ダ・シルバ、母親はネイジ・セナ・ダ・シルバです。セナは父、母、姉のヴィヴィアーニ、弟のレオナルドと5人家族でした。
もともと運動神経のよかったセナは4歳になると自動車に興味を持ち始め、モータースポーツというものがあるということを認識します。7歳の時には自宅の土地でジープを運転させてもらい、基本的な操縦を覚えました。
レーシングカーの競技に参加
セナが13歳の時にインテルラゴス・サーキットで行われたレーシングカーの競技会に参加します。この時に乗ったカートは父親のミルトンが芝刈り機用のエンジンを改良して搭載した車でした。参加者はセナよりも年上の子も多かったのですが、途中は先頭を走ることができたのです。
結果は接触により棄権となってしまいましたが、才能の片鱗を見せる出来事となりました。1977年、セナが17歳の時には南アメリカ・カート選手権で優勝します。その後6年間カート選手権への参加をしますが、シーズンランキング最高位は2位でした。
1981年 – 21歳「フォーミュラカーレースでの活躍、リリアンとの結婚、そして離婚」
フォーミュラレースに参加
1981年シーズンはフォーミュラレースに参戦します。イギリスへと飛び立ち、フォーミュラフォード1600の2シリーズを優勝してしまうのでした。その次の年もフォーミュラフォード2000に階級をあげて参戦し、イギリス選手権、ヨーロッパ選手権でのチャンピオンに輝きます。
フォーミュラフォード2000はF1に参加する前の前段階としてとらえられることが多く、このレースで優勝したセナはF1への参加に意欲を燃やし始めます。
1980年にリリアンと結婚、1982年に離婚
1980年のオフシーズンに昔からの知り合いであったリリアンと結婚します。リリアンはセナがフォーミュラレースに参加する際にイギリスまで一緒について行きました。しかしその直後、セナが両親から農場を継ぐように迫られます。
セナはレースへの執着から再度イギリスへと飛び立つことを決心しますが、リリアンは同伴を拒否します。セナはイギリスへ向かうことを決め、彼女はブラジルに残ることを決意したため、2人の希望が食い違い、離婚へと発展してしまうのでした。
1983年 – 23歳「F3への参加からのF1への挑戦」
F3への参戦
1983年にはイギリスのF3選手権へと出場します。シーズンの前半は好調な滑り出しで、2位に大差をつけてのランキングトップを独走し続けます。後半は少し調子を落としましたが、前半の貯金が生き、僅差でシーズンのチャンピオンを獲得することとなりました。
最終的な成績は20戦12勝と、当時としては最高記録でした。この他にもマカオGPでは7年も破られない記録を打ち立てるなど鮮烈すぎるデビューとなりました。
F1への挑戦
1984年シーズンからはF1へと参戦します。第2戦の南アフリカGPで6位入賞を果たしたのを皮切りにモナコGPでの2位、イギリスGP・ポルトガルGPでの3位など初年度から華々しい成績を残しました。
それでもまだ技術の未熟さは拭えず、サンマリノGPでは生涯で唯一となる予選落ち、リタイヤはシーズン中8回など安定感を欠き、シーズンランキングでは9位に終わります。