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アイルトンセナとは?生涯・年表まとめ【性格や名言、死亡事故なども紹介】

アイルトン・セナ・ダ・シルバ(アイルトンセナ)は、1980年代から1990年代の前半にかけてカーレースで活躍し、数々の記録を打ち立てた記録にも記憶にも残る名レーサーです。ニックネームとして「音速の貴公子」とも呼ばれています。

F1優勝41回、ポールポジション65回獲得(予選で最速タイムのドライバーが決勝で先頭のスタート位置に立つこと)、モナコGP5連勝などは現在でも歴代上位の記録。

「音速の貴公子」と呼ばれたアイルトンセナ

しかし、1994年5月1日、イタリアのサンマリノGPでトップを走っている時に壁に衝突し、そのまま帰らぬ人となってしまうのです。

カーレーサーは、セナの前にもセナの没後にも数多く輩出されていますが、いまだにセナが「F1史上最高の選手」と謳われているのはなぜでしょうか。もちろん彼の記録や人柄が魅力的であることは間違いありませんが、それ以外にも要因はあります。

アイルトンセナのミニ四駆で遊んでいた筆者が、後年になってその偉大さに気づき、セナについて調べていくうちにその魅力に引き込まれていった経験を生かし、彼の生涯や名言、事故の経緯などを解説していきます。

アイルトンセナとはどんな人物か

名前アイルトン・セナ・ダ・シルバ
誕生日1960年3月21日
没日1994年5月1日
生地ブラジル サンパウロ州サンパウロ
没地イタリア ボローニャ
配偶者リリアン(1980-1982)
埋葬場所ブラジル サンパウロ州サンパウロ

アイルトンセナの生涯をハイライト

アイルトンセナは通算勝利数41勝、モナコGP5連勝などの成績を誇る

アイルトンセナはブラジルのサンパウロ州で生まれます。幼少時から優れた運動神経を持ち合わせ、4歳の頃にはモータースポーツに興味を示し始めます。13歳にして初めてのカートレースに出場すると、その才能を遺憾無く発揮し、年上のライバル相手にトップを走る場面もありました。

17歳からは本格的にカートレースに出場し、試合経験を重ねていきます。1981年にイギリスで行われたフォーミュラカーレースでは2つの大会で優勝を収めるなど、そのハンドルさばきは見事なものでした。

1983年にはF3選手権へ、1984年からはいよいよF1へと参戦していきます。F1への参加初年度から表彰台へ登るなど目覚ましい活躍を見せましたが、F1初優勝を飾るのはその翌年の1985年、シーズンチャンピオンとなるのは1988年のことでした。

その後もカーレースでの活躍は他の追随を許さず、通算勝利数41勝(当時歴代2位)、ポールポジション獲得数(当時歴代1位)、モナコGP5連勝(前人未到)など数々の記録を打ち立てます。

しかし、1994年の第3戦サンマリノGPにてトップを走行中に時速300kmのスピードで体勢を崩し、そのまま壁へと衝突してしまいます。意識不明の重体となり、すぐに病院へと運ばれましたが、治療の甲斐も虚しく、帰らぬ人となってしまうのでした。

アイルトンセナのライバルはだれ?

セナの一番のライバル アラン・プロスト

セナの一番のライバルはやはりアラン・プロストでしょう。1988年には2人ともマクラーレン・ホンダに所属し、カナダGP、フランスGPなどで2台のマクラーレンの一騎打ちが見られました。

その後も2人は再三優勝争いをし、1988年はセナ、1989年はプロスト、1990年はセナ、1991年もセナ、1993年はプロストというデッドヒートを繰り広げています。

プロストの他にはナイジェル・マンセルもライバルの1人と言えます。1992年はマンセルが開幕から5連勝を達成するなど好調な仕上がりを見せ、最終的にワールドチャンピオンに輝きます。つまり、1988年から1993年の6年間はこの3人でチャンピオンが争われたのです。

アイルトンセナの死亡事故の経緯

アイルトンセナの事故、この時34歳だった

1994年シーズンは開幕してから2戦が経過した時点でセナの成績はあまりよくありませんでした。そのため、第3戦、サンマリノで行われる大会をシーズン初戦と思い込むように自分を奮い立たせていました。

しかし、この大会では予選でセナのチームメイトやライバルが亡くなるなど、不吉な予感を漂わせていたのです。F1での死亡事故は12年ぶりのことでした。

サンマリノGP決勝、予選でポールポジションを獲得したセナはトップをひた走ります。7週目の「タンブレロ」と呼ばれるカーブに差し掛かった途端、車体がバランスを崩し、時速300kmのスピードが出たまま壁へと突っ込んでしまいます。

セナは意識不明のまま病院へ運ばれ、懸命の治療を受けますが、一度脳死状態を経て、息を引き取ってしまうのです。享年34歳でした。セナの遺体がブラジルへ帰った際には100万人以上のブラジル国民が出迎えたそうです。

アイルトン・セナの死因となった事故はなぜ起きたのか?真相や影響も解説

アイルトンセナの功績

功績1「F1での優勝回数41回(当時歴代2位)」

優勝回数41回は当時歴代2位の記録だった

アイルトンセナはF1で41度の優勝を誇っています。セナの活躍していた時代ではジャッキー・スチュワートの持っていた通算27勝が記録として残っていました。1991年の母国ブラジルで行われたグランプリでこの記録を抜かします。

その後も優勝回数を重ね続け、生涯では41度の優勝を積み上げるのでした。これは当時としては歴代2位の記録で、セナが現役であと数年残っていればどのくらいまで伸びたかと思うと非常に残念です。

功績2「65回もポールポジションを獲得(当時歴代1位)」

ポールポジション(予選トップ通過)が65回

セナは予選のタイムが速いことで知られています。ポールポジションを獲得することはつまり、予選をトップタイムで通過したと同じことになるので、トップ通過の通算が65回ということになります。

セナが記録を更新する前はジム・クラークの33回が最高でした。これを1989年のアメリカGPで更新すると、1994年までに65回に到達します。前記録の約2倍ということになります。この記録はミハエル・シューマッハが2006年のサンマリノGPで更新するまで残り続けることになりました。

功績3「モナコGPで5連勝(歴代1位)」

モナコGPで5連勝は前人未到

セナはモナコGPで無類の強さを発揮しています。1984年のF1参戦初年度に予選13位で終わったものの、決勝では出場選手中最も速いタイムを表すファステストラップを何度も記録します。最終的に2位まで追い上げたものの、レースの中断が伝えられ、初優勝はお預けとなるのです。

1987年にモナコGP初優勝を飾ると、1989年から1993年まで5連覇を成し遂げます。これはいまだに破られていない記録です。1988年に勝っていれば7連勝だったのですが、これはたられば話になってしまいます。

特に1992年はマンセルの調子が良く、モナコGPまでの開幕5戦を全て優勝していました。そしてポールポジションもマンセルに奪われていた決勝で、セナは見事に逆転し、モナコでの優勝を奪い取るのでした。

アイルトンセナの名言

「私は2位や3位になるために作られていない。勝利するために作られているんだ。」

蓮舫さんの名言ではなく、正真正銘のアイルトンセナの名言です。フォーミュラレースの優勝から始まり、F3でのチャンピオン、F1での41勝、65度のポールポジション獲得など、カーレーサーの1位と呼ぶにふさわしい記録を残してきたセナだからこそ発することのできる言葉です。

「もし中途半端に生きるのなら人生は台無しになる。」

宿敵プロストとのチャンピオン争いには手に汗を握ったファンの方も多いと思います。勝利にこだわるあまり、2人の間には亀裂ができてしまうこともありましたが、それは両人ともに中途半端なレースをしていなかった証でもあるのでしょう。

「サーキットに小さな事故は存在しない。」

生前にこの言葉を残したセナは奇しくも大事故で帰らぬ人となってしまいます。生と死の瀬戸際で勝負をすることを徹底していたから、覚悟を持ってレースに挑んでいたことがわかりますね。

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