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福沢諭吉とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績、子孫や死因まで解説】

福沢諭吉は一万円札の肖像画の人物として有名で、1984年から2024年に渋沢栄一に変わるまでの40年もの間、一万円の顔となった人物です。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉を『学問のすすめ』という本に記した有名な教育家で、慶應義塾大学の創設者でもあります。

また、現在日本で機能する銀行や、保険の制度、新聞を発行するなど、現在の日本社会にも通ずる様々な功績を生涯の中でいくつも残しています。

福沢諭吉

明治維新の偉人は多いですが、その中でもなぜ福沢諭吉は脚光を浴びることが多いのでしょうか。もちろん彼の行ったことが数多いこと、そしてそのどれもが現在の日本にとっても重要であることなどもありますが、そのほかにも様々な魅力があります。

現在、福沢諭吉の肖像画が描いてある紙幣を集めることに必死になっている筆者が、諭吉の魅力を皆さんへお伝えするために、彼の生涯、名言、年表をわかりやすく解説していきます。

福沢諭吉とはどんな人物か

名前福沢諭吉
誕生日1835年1月10日
没日1901年2月3日
生地摂津国大坂堂島浜
没地東京市芝区三田二丁目
配偶者福沢錦
埋葬場所品川区大崎の常光寺→麻布の善福寺

福沢諭吉の生涯をハイライト

若い頃の諭吉

1835年1月、福沢諭吉は大阪で父・百助と母・於順の間に次男(末っ子)として生まれます。一年後、父が病死し、母と子供5人で大分県中津へと戻ることに。5歳の頃から漢学を学び始め、15歳頃には漢書を片っ端から読むようになります。

兄に蘭学を学ぶことを勧められ、19歳の時に長崎へ発ち、書生として下宿生活を開始。一度長崎を離れ、大阪へと戻った際に再び兄からの勧めで緒方洪庵の適塾に入門することとなりました。

22歳の時には緒方塾の塾長となり、医学や物理学などの勉強にも勤しんでいましたが、1858年23歳で江戸への召集がかかり、小さな蘭学の私塾を創設します。これがのちの慶應義塾です。その後、英語も学ぶようになり、1860年には咸臨丸で渡米。ここから1867年までフランス・イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国とアメリカを行き来するようになります。

福沢諭吉の妻・錦

1861年には妻の福沢錦と結婚し、生涯で4男5女をもうけました。

1868年江戸の私塾を新銭座に移し、慶應義塾と名付けました。さらに3年後には三田に場所を移し、これが現在の三田キャンパスの前身となります。翌年の1872年「学問のすすめ」を執筆・刊行し、ベストセラーに。

諭吉はこの先の人生の間に一橋大学、伝染病研究所、神戸商業高校などの創設にも関与しています。1882年には日刊新聞である「時事新報」を発刊し、1886年には婦人論を執筆、その中で男女平等を訴えました。

1901年2月3日、一週間前に再発した脳溢血により状態が回復せず、そのまま帰らぬ人となりました。

福沢諭吉ゆかりの地『中津』

大分県の中津市にある福沢諭吉旧居

福沢諭吉は子ども時代を大分県の中津市で過ごしました。そのため、諭吉ゆかりの地として、彼の史跡が残っています。

特に有名なのが福沢諭吉旧居・記念館でしょう。

旧居は、諭吉を含む家族6人が過ごした家です。茅葺き屋根で、二階建ての家です。部屋は全部で4室あり、当時の台所や諭吉が勉強している様子などが見られます。また、刺客に殺されかけた話など、諭吉に関する逸話が立て札に書かれています。

記念館では諭吉の生涯年表や資料が展示されており、ファンにはたまらない充実度です。季節ごとのイベントや期間限定の特別展示なども行われているので、行く場合は公式サイトのチェックも忘れずにしてくださいね。

福沢諭吉の性格は大胆で慎重だった

アメリカの少女と福沢諭吉の写真

福沢諭吉は大胆さと慎重さを兼ねそろえた、バランスのいい性格の人でした。

学問のためにアメリカやフランス、イギリスと海外を飛び回り、各国の文化を吸収し糧にしました。さらに自分が見聞きしたことを積極的に世に広めたのです。諭吉が後世にまで伝えられる偉人の1人に数えられるのは、積極的な姿勢だったからこそでしょう。

また、諭吉は大胆なだけでなく、用心深い面もありました。

諭吉は2度アメリカに渡り、アメリカを評価していました。しかし著書の中では「アメリカはいい国だ」と明言するのを避けています。なぜならアメリカをひいきすると、その国の政治に肯定的だととらえられてしまうからです。

共和制だからいい、大統領制度だからいい、と勘ぐられるのを避けて非常に遠回しに、諭吉はアメリカを評価しました。言いたいことを言い、やりたいことをやる大胆で自由な性格をしていましたが、こういった慎重さも諭吉は持っていたのです。

福沢諭吉の家族や子孫の現在は?

演出家・TVディレクター 福澤克雄

福沢諭吉は4男5女の子宝に恵まれました。子孫の皆さんの現在をご紹介します。

  • 息子:時事新報の元代表取締役社長 福沢捨次郎
  • ひ孫:三菱地所の元代表取締役社長 福沢武
  • ひ孫:カーレーサー 福沢幸雄
  • ひ孫:アーティスト 福沢エミ
  • 玄孫(孫の孫):演出家(金八先生、華麗なる一族など) 福澤克雄
  • 玄孫(孫の孫):NHKアナウンサー 片山千恵子

やはり活躍されている方はたくさんいますね。カーレーサーの福澤幸雄さんは事故によって25歳という若さで亡くなってしまったそうです。

福沢諭吉に影響を与えた人は?

兄・福沢三之助の筆跡

福沢諭吉に影響を与えた人物の1人目が兄の三之助で、諭吉を勉学へと促しました。諭吉が学業の上達に優れていることに目をつけ、蘭学を学ぶことも勧め、緒方洪庵の塾へ入ることも奨励しました。しかし、三之助は諭吉が21歳の時に病死してしまいます。

2人目の人物が勝海舟です。1860年咸臨丸に乗船した際に、勝海舟も同じ船に乗り込んでいました。当時から2人の仲はあまり良くなく、薩長戦争の際に諭吉は勝海舟宛に「痩我慢の説」という文書を送ります。内容は「勝算のない勝負で抵抗することも痩我慢の賜物だ」というものでした。

勝海舟はこれに反発し、抗戦は社会の平和を損なうとして江戸城を明け渡すことを決心したのでした。諭吉は「勝海舟も人命を救った点では人傑だが、政権を明け渡した敵と一緒になって名利をむさぼっている」と批判しています。

この争いは新聞にも掲げられ、賛成も反対もありましたが、その直後に諭吉が亡くなってしまったので、そこで終息したのでした。生涯を通じて犬猿の仲の2人ですが、どちらも日本社会には欠かせない重要な人物としてお互いに影響を与えつつ、その人生を全うしたのです。

福沢諭吉の死因は脳溢血

晩年の福沢諭吉

福沢諭吉の晩年は一日数時間の勉強と居合の練習などをしながら、自分でお米も炊いて悠々と過ごしていたようです。1898年9月、諭吉が亡くなる2年半前に脳溢血で倒れ、危篤となりましたが、この時は回復に至りました。

その後も、有識者としての活動をしたり、慶應義塾の「修身要領」を編集したり、精力的に時間を過ごしていました。しかし、1901年の1月25日に脳溢血が再燃し、一週間の病床生活を送って、2月3日に亡くなりました。享年68歳でした。

諭吉の葬儀には15000人もの参列者が訪れたと言います。この頃には慶應義塾も学生数1000人を超える学校となり、また、時事新報も大きな新聞社となっていました。

福沢諭吉の名言

「進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む」

世の中でその場に何もしないで止まっている人や事柄はないということです。進もうとしなければ、周りがどんどん進んでいくので現在の地点からは必ず下がり、その地点に留まろう、あるいはもっと先に進もうと思えば必ず上がっていくという、向上心の大切さを伝えてくれる言葉です。

「人間は、負けるとわかっていても、戦わねばならない時がある」

こちらは薩長戦争時に勝海舟へ向けた書簡に書かれていた言葉です。「痩我慢の説」という手紙の中に書かれていました。必ずしも戦争だけに当てはまる言葉ではなく、仕事やスポーツなどいろいろな事柄に当てはめることができそうです。

「農たらば大農となれ、商ならば大商となれ」

適材適所という言葉に置き換えることができるでしょう。ちなみにこの前には「学問に入らば大いに学問すべし」という言葉が入ります。学問で生計を立てる人は学問、農業ならば農業、商業ならば商業を極めなさいという教訓です。

「人生は芝居のごとし。上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一身になすべし。」

大根役者の人の方がたくさんの人の気持ちを汲めるので最終的にはうまくいく可能性もあるということを説いています。人生は才能だけに左右されるわけではないから、とにかく一生懸命に生きなさいと言われているようで勇気を与えられます。

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