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福沢諭吉とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績、子孫や死因まで解説】

福沢諭吉の功績

功績1「慶應義塾創立」

福沢諭吉が設立した慶應義塾大学

福沢諭吉が慶應義塾の前身となる私塾を設立したのが1858年、当時23歳のことです。この時、江戸に招かれ、小さな蘭学の私塾を創設します。これがのちに慶應義塾となるのです。

1868年に新銭座に場所を移した時に「慶應義塾」と命名しました。この3年後の1871年に三田にキャンパスを移し、現在の三田キャンパスとなります。福沢諭吉が亡くなる頃には学生数も1000人を超え、諭吉の葬式にはたくさんの学生や卒業生が訪れました。

功績2「『学問のすすめ』が300万部以上売れる」

学問のすすめ、300万部以上売れた

当時の日本人は封建社会と儒教思想のもとで暮らしていました。「封建社会」とは土地を持つ領主が農民を支配し、税金を徴収する社会です。「儒教思想」とは孔子の打ち立てた思想のことで、「仁=人を愛すること、他者を思いやること」と「礼=人間の感情を形として表す規則や習慣」を理念とします。

数百年も続いていたこの社会から近代民主主義国家へ日本が変わっているということをこの本の中で訴えました。この本は300万部以上売れ、当時の日本の人口は3000万人でしたので10人に1人がこの本を手にしたことになります。

功績3「一橋大学、伝染病研究所などの創設にも関与 」

福沢諭吉は慶應義塾大学のみならず、一橋大学、専修大学、神戸商業高校、東京医科大学病院研究所、伝染病研究所の創設に関わったとされています。「学問のすすめ」の中で、これからは有識者が国民を引っ張っていかなければならないと説いていたため、学校の創設に尽力したのでしょう。

また、銀行のシステムを作ったのも、保険というシステムを海外から持ち込んだのも福沢諭吉です。ここまでいろいろな方面に影響を与えている福沢諭吉がいなかったら今の日本はどうなっていたのでしょうか。一万円札の肖像画になるのも頷けます。

現代でも活用できる福沢諭吉の思想

「一身独立して国独立す」

福沢諭吉は、国民一人一人が独立することによって国がよくなると説いた思想家です。諭吉の言う独立には2つの要素があります。

1つ目は精神的独立です。

精神的独立とは、なにかを決めるときに判断を他人や世間一般の正しさに委ねるのではなく、学んできたことや考えたことを元に自分の意志で決断することを指しています。簡単に言うと、やりたいことや正しいことを自分で決めることです。

2つ目は経済的自立です。

自分で働いてお金を稼がず、誰かに衣食住を頼っている場合、それを提供してくれる相手の言うことを聞かなければいけません。やりたいことや正しいと思うことを判断するためには、経済的に自立している必要があるのです。

彼は著書『学問のすすめ』で良い国家のために、個人の独立が必要な理由について、以下のように語っています。

独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず
内にいて独立の地位を得ざる者は、外に在って外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶること能わず
独立の気力なき者は、人に依頼して悪事をなすことあり

これらをまとめると1人の人間として精神的にも経済的にも、あらゆる面で独立していなければ心の底から国を思いやることも、外国人と対等に交渉することもままならず、他人に媚びることに慣れて恥を恥と思わなくなる、という意味です。

国と聞くとスケールが大きすぎて想像しにくいですが、人間関係の悩みに置き換えてみるとどうでしょうか。誰かへの依存心や低い自尊心は、ときに相手との関係にヒビをいれるきっかけになります。

もし、自分の価値観に自信を持ち、相手との違いや意見の相違を受け入れられる心の広さがあれば対等な人間関係を築けるのではないでしょうか。

諭吉の、一人一人が独立することで、社会が良くなり国も豊かにしていくという『独立自尊』の思想は、今の現代社会にこそ必要と言えます。

福沢諭吉を支えた『小幡篤次郎』

福沢諭吉の右腕「小幡篤次郎」

福沢諭吉には多くの門下生がいました。小幡篤次郎は、門下生の中でも特に諭吉を支えた人物です。

篤次郎は長年に渡って、諭吉の著作活動や教育活動、社会活動を支えました。また慶應義塾では諭吉と共に運営の中心にいました。諭吉は篤次郎のことを信頼しており、塾を去った小泉の代わりに篤次郎が塾長になると

「此節塾の方は小幡氏の引受けとなり、先ず是れにて安心」

と中津藩士の山口へ手紙を送っています。

篤次郎の方も諭吉を尊敬していました。諭吉が死去したさいに篤次郎が中心となって葬式を執り行っています。また、諭吉の霊前ではその死を悲しみ、寂寞とした心境を句にして捧げたほどです。

福沢諭吉にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「居合道にも精通」

居合刀、諭吉は亡くなるまでずっと居合を続けていた

居合とは突然襲撃された時に応対するための剣道です。「居」ながらにして急襲に「合」するという意味になります。居合道にも朝山一伝流、鏡心明智流、立身流などさまざまな流派がありますが、福沢諭吉は立身流に属していました。

正確には「立身新流」で20歳前後で免許皆伝に至りました。諭吉は亡くなるまでずっと居合を続けていたようです。1日に1000本以上の型を遂行することもあり、医師からは体への負担が懸念されると進言されましたが、居合の習慣はやめなかったそうです。

都市伝説・武勇伝2「3武将の中では豊臣秀吉を高く評価?」

諭吉は豊臣秀吉のように人徳のある人物を評価していた

福沢諭吉は徳川家康を評して「奸計の甚だしきものを言ふがごとし」と言う記録を残しています。意味は「家康の行ったことは悪巧みに過ぎない」ということです。

諭吉の活躍した時代はちょうど明治維新と被っています。今まで長い間続いていた江戸時代が終わるタイミングで、家康の作った制度や文化が根付いている時代です。明治維新はこれまでの江戸のしきたりを壊したいと言う風潮から起こった運動なので、その時代を作った家康には賛同できなかったのでしょう。

福沢諭吉は弱いものの味方であることをよしとしたため、織田信長のように上へ先へというよりも、秀吉のように人徳のある人物を評価していたようです。

都市伝説・武勇伝3「熊や豚の解剖をしていた?」

緒方洪庵の適塾に通っていた頃、熊や豚の解剖をよくしていたそうです。自伝にも「熊の解剖、豚の頭の解剖、散々いじくって煮て食った。」などの記録が残っています。医学の勉強をするうちに動物の体に興味を持つようになったのだと思われます。

自伝には他にも「鯛の味噌漬けと唱してイルカを食わす」、「子育てに関しては衣食を満たして、相応の教育を授けてそれで沢山」などなかなか興味深い文言が載っています。福沢諭吉の自伝「福翁自伝」は「学問のすすめ」よりも平易な言葉でつづっているので読みやすいです。

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